Kataro HomePage 「 河太郎 」 第 47 号 平成 31 年 ( 2019 年 ) 4 月 1 日

寄稿日銀釧路支店誘致の舞台裏と
開設当時に模様

島村 高嘉

はじめに

 私と釧路との縁は深い。昭和五十三年から五十五年にかけて、日銀釧路支店長を務めたのが始まりだが、すっかり釧路に魅せられてしまい、離釧後もしばしば当地を訪れている。熟年期に入ってからは、さらに足繁くなり、毎年夏には二 〜 三ヵ月の長期滞在を夫婦で楽しみ、これも既に十五年にもなった。
 私の長年の関心事は、何といっても道東の経済史探訪である。私は一昨年地元の知友の協力を得て 『 釧路随想 』 ( 私家版 ) を出したが、その文集にも 「 まぼろしの釧路銀行 ( 武富銀行 ) 」、「 道東における日銀の源流 ( 開拓時代 ) 」 などを書き込んだ。本稿は、その延長線上にあり、私にとっては、いわば 「 長年の宿題 」 といったものである。


一、日銀釧路支店誘致の舞台裏

( 戦後道東復興期の一大エポック )

 戦後の道東地方にあって、地元各界が 「 復興 」 から開発へと大きく飛躍しようとしたとき、釧路の指導者は、二つの大きな決断を行った。一つは釧路を道東の拠点都市とするための近隣鳥取町との合併 ( 昭和二十四年十月 ) 、もう一つは釧路を道東の金融拠点とするための日銀支店の誘致 ( 決定昭和二十五年六月、開設昭和二十七年十月 ) 、この二つである。これらが実現をみたときによる経済効果には、 「 金融経済圏の拡大 」 、 「 港湾道路などインフラの整備 」 、 「 本州資本の道東進出の促進 」 など目を見張るものがあったとされている。
 本稿は、これら快挙のうち日銀支店誘致問題に的を絞り、後日のため、当時の経緯を出来るだけ詳しく、関係者の話や当局の資料などをもとに再構成しようと試みたものである。

 本論に入る前に、まえもって北海道全域にわたる日本銀行店舗網の歴史的推移を概観しておくこととしたい。
  ○日銀 ( 創立、明治十五年 ) が、最初に拠点を設けたのは、函館 ( 出張所 ) 、札幌 ( 出張所 )
   根室 ( 出張所 ) の三カ所であった。このうち札幌出張所傘下には小樽派出所、根室出張所傘下
   には釧路、帯広、熊牛、紗那に派出所がつくられていた。数年後、札幌傘下の小樽派出所は、出
   張所に格上げとなる。一方、根室傘下の各派出所は廃止 ( 根室銀行に事務委譲 ) となった。
  ○明治後半以降大正、
   昭和前期を通じ、函館、小樽、札幌の三出張所は順次支店に昇格された。
  ○戦後の昭和二十一年現在で通観すると、北海道全域は次のように所掌されていた。
   函館支店  ( 渡島・胆振地方 )
   小樽支店  ( 後志地方 )
   札幌支店  ( 道央・道北・道東地方 ) ― 傘下に旭川事務所と帯広事務所

( 日銀釧路支店誘致の経緯 )
 日銀釧路支店誘致の運動は、実は戦前からあった。釧路商工会議所の日報 ( 昭和三年第三十一号 ) には、当時の商工会議所会頭坂井徳治、市会議長茅野満明、市長佐藤国司の三氏による日銀への陳情書が掲載されている。戦後にあっても、道東地区開発促進とからめて早くから関係者の話題に上がっていたようだが、これを具体的に提起したのは、栗林定四郎商工会議所会頭だったとされている ( 『 道東の金融・その輪郭 』 日銀釧路支店、昭和五十四年参照。当時商工会議所専務だった三原正二氏の証言がある ) 。
 栗林定四郎氏は、昭和二十三年秋、商工会議所の理事会に、重点運動方針の一つとしてこれを取り上げ、副会頭両角克治氏、清水源作氏、市長佐藤宏平氏、市議会山崎鉄三郎氏らとともに誘致運動の中心人物となった。栗林会頭は、当時燃え上がっていた釧路市と鳥取町の合併運動の方でも、中心人物の一人であったが、同合併問題が昭和二十四年十月首尾よく実現をみたことにより、勢いを得て日銀誘致運動に本腰を入れたとされている。 ( 前掲書および 『 釧路商工会議所史 』 昭和五十九年参照 )

( 誘致運動成功の決め手 )
 この間、道中央にあっても、フロンティアに富む道東地方の開発を重視する見地から、新たに日銀支店を設置することが取沙汰されていて、北海道庁や日銀札幌支店でも検討を進めていた ( 当時の日銀札幌支店長三森良二郎氏の自伝による ) 。実は、こうした動静をいち早く察知したのが帯広で ( 前述の如く、帯広には既に日銀事務所があった ) 地元の商工会議所や帯広市などで、支店誘致の動きが出はじめ、釧路と帯広両者の間で綱引きのような様相となり、世論が騒がしくなった ( 昭和二十五年 ) 。
 釧路と帯広の日銀誘致合戦は、結局は昭和二十六年、釧路で決着をみたわけだが、その決め手となったのは何であろうか。道東全域を展望したときの釧路の地政学的優位性、港湾を擁した物流・産業立地上の好条件、水産・酪農・製紙等の将来性などの 「 総合判断 」 で釧路が勝っていたことが挙げられようがやはり地元財界・自治体一体の熱烈な推進力が大きく与ったものと認められよう。
 ところで、私が日銀釧路支店長に着任したのは、当時から既に四半世紀も後であるが、こうした釧路支店開設前後の事情を少しでも詳しく知りたいと思い、在任中、当時存命して居られた関係者の方々による座談会を開いた。その際伺った証言のポイントを、以下摘記しておきたい ( 前掲日銀釧路支店 『 道東の金融・その輪郭 』による ) 。因みに座談会の出席者は、両角克治、三原正二、山本幸造、田島常治氏。

  ○田島常治氏 ( 当時、釧路市総務課長 )
   「 日銀誘致運動の中心人物は、佐熊市長、清水源作、栗林定四郎、両角克治、山崎鉄三郎氏、こ
   ころあたりと思う 」 ( 順不同 )
  ○両角克治氏 ( 当時、商工会議所副会頭 )
   「 栗林さんと私とで釧路に誘致する ( 決定打 ) をつくることができないか、いろいろ知恵を絞
   った。その結果、地元の経済人の世論を表に現そうということで 「 東北海道商工会議所協議会 」
   というものをつくった 」 、「 集まったのは釧路、根室、北見、網走の各商工会議所、これら各
   位の了解を取り付けて、全員に釧路設置の要望書に判を押させることができた 」 、 「 早速そ
   の書面を栗林会頭 ( 故人 ) が一万田総裁のところへ持っていったわけで、一万田総裁が 「 うん 」
   といったというので、「 もう大丈夫だ 」 と聞かされました 」

 さらに私は、当時の日銀サイドのキーマンであった当時の札幌支店長三森良二郎氏の話も聞いてみたいと考えたが、しかし、その機会はなかなか得られなかった。ところが近年になって、同氏の自伝 『 わが九十年の追憶 』 ( 私家版、平成八年 ) のなかにつぎのような機微にふれる証言を見出したので、ここに記述しておきたい。因みに三森良二郎氏は、のちに一万田総裁の秘書役、さらには理事となった人物である。

 「 私は、昭和二十四年六月、札幌支店長に転出した。・・・北海道では以前から道東地区開発のために同地方に日銀の支店を設けることが問題となっていた。それには、釧路と帯広が候補地となっていた。私が着任早々視察して回ったときは、両市の人口はほぼ均等であり、片や農業の中心地、片や炭坑とと漁業の中心地であった。将来性に関しては、私は釧路の方に分があるとひそかに思いながら、情勢の推移を見守っていた。・・・時のたつのにしたがい、釧路の方は人口の増加も多く、街の発展ぶりもはるかに盛んであった。帯広は漸次あきらめるようにみえた。 」

 「 昭和二十六年三月、北海道知事から出された 「 釧路が適当と認められる 」 旨の副申書をつけ、総裁宛に釧路支店開設の申請を出した。これは、月末の政策委員会で決定された。 」

( 残された貴重な日銀所蔵の公文書 )
 日銀の本店内、金融研究所には、歴史的重要公文書を現存しているパブリックなアーカイブ・センターがある。釧路支店誘致・開設にかかわる公文書の原本も勿論ここにあるわけで、私は先年それらの閲覧を申し出て、通読する機会を得た。
 これらの中には、前述の釧路支店開設の正式決裁書類のほか開設にかかわる地元からの陳情書 ( 釧路市長、帯広市長、北海道知事 ) や日銀札幌支店長の意見書なども含まれており資料的価値は極めて高い。本稿執筆に当たっても、これらを参照することが出来た。 ( 地元の関係者、研究所の方々には、今後これらも十分活用されることを望みたい。 )


二、日銀支店開設当時の模様

( 建築着工から竣工まで )

 釧路支店の開設決定 ( 昭和二十五年六月 ) から営業所等の着工そして竣工 ( 昭和二十七年九月 ) までに二年余要した。この間の苦労話についてまず述べておきたい。営業所の用地選定にはいろいろ曲折があったようだが、市や商工会議所等、地元各方面の協力により、市内一等地、幣舞橋畔の敷地に決まった。家族寮や独身寮の用地については、両角家の所有地などを提供していただいた。 ( 前出 『 道東の金融・その輪郭 』 参照 )
 工事の方は、清水建設が請け負い、当初は順調に進んでいたが、工事終盤の昭和二十七年二月突如大地震に遭遇した。十勝沖大地震 ( 震度五 ) は、釧路市内に大きな被害 ( 死傷者四十六人 ) をもたらした。津波も発生した。不幸中の幸い、新築途次の営業所には亀裂が走ったものの補修可能で ( 津波対策は後年練り直し ) 、同年九月には竣工式を迎えることが出来た。

( 初代支店長に剛気な中尾寿夫氏 )
 世間が見守るなか、昭和二十七年十月一日、 「 重厚な白亜の殿堂 」 と評された日銀釧路支店が幣舞橋畔にて開店した。日銀は、不思議なことに本店は日本橋、大阪支店は淀屋橋などと橋と縁が深い。釧路ナンバーワンの土地、しかも幣が舞うという、その名前からして日銀との因縁を感じさせる一等地。その初代の支店長には中尾満寿夫氏が任命され、一躍注目の人となった。
 中尾満寿夫氏は、支店長経験者 ( 前任は下関支店長 ) 。終戦時には広島支店次長であって、あの原爆被害の苦難を乗り切った剛気の主。行内では、日銀の 「 北の砦 」 を託するにまさに適任の人事と評判が高かった。勇躍着任し職員六十四名の陣頭に立った。開店前後、なずべき仕事は山を成していた。本店から搬入した事務機器など貨車に二○台。厳重な警備員を配置した上での大量の現金輸送、現地行員の採用、地元金融機関や国庫代理店等との取引締結、傘下に入った帯広事務所との事務調整、地元諸官庁との連携、商工会議所はじめ地元主要企業との諸連絡等々。こうした超繁忙の中で、現地支店長が最も心くだいたのは一体何であったろうか。地震・津波への対策か、慣れない風土での生活をはじめる職員の心身の健康管理か、それとも・・・
 私は、中尾支店長とは二十年も離れた後輩の支店長 ( 十四代 ) だが、支店長の拝命を受けた直後、当時日本不動産銀行副頭取をしていた中尾氏に挨拶に伺ったとき、このことをたずねてみた。中尾氏は、支店長心得を話されたあと私に、次のように語った。
 「 最も気をつかったのは、当時幣舞沖で漁船の拿捕が相次ぎ、根室上空では、米・ソ両機交戦の噂さえあった状況下、万一の事態に備えて、如何にして行員、家族の生命、身体の安全を守るかという、今にして思えば準戦時下のような心配をした。多田喜年次長と支店撤退計画まで相談した 」 と。

( 地元の期待と職員の心意気 )
 地元各界や市民の日銀支店開店へ寄せる程は、開店当時の佐熊市長の談話 ( 要旨 ) によく表れている。
 「 われわれ地元民がこれまで日銀誘致に大奔走してきた意義はあった。金融・財政・産業の諸問題に対し配慮してもらい、今後当地方の原動力となることを期待する 」、 「 日銀の調査網により実情をよく把握し、道東経済に対して総合的な指導力を発揮してもらいたい 」 ( 地元新聞記事 ) 。
 釧路市民の目は、白亜の近代建築の営業所だけでなく、当時としては豪華に映った家族寮や独身寮 ( 地上三階・地下一階、全室完全暖房 ) にも目を見張り、少なからず羨望の念、更には、いささか反撥の念すらいただいたようだった。
 この間、はるばる着任した ( 上野から汽車で三十六時間 ) 日銀職員は、開設要員として特に選ばれたという自覚のもと、遠く道東の地に赴いてきたという共通の感慨から相互の親和力が強く、公私の両面で模範的で派手にならぬよう心がけたようだった。家族の買い物などでは次のようなエピソードが残っている。 「 ハデな種族が来たかと思ったが、何と、シャケは切り身、大根は半分、トウフは半丁という買い方ぢゃないか 」 「 我々の、醤油はタルで、魚は箱で、という大ざっぱなのとは大分ちがうぞ 」 などと。職員は、勤務のかたわら、道東の自然美に魅せられ、道東三白に目をこらし、他では味わえぬ海の幸をよろこんだ。二―三年の勤務を終えたあとこもごも綴った手記には 「 張りあい 」 と 「 愛着 」 と 「 大らかな地元の人情 」 への言及が溢れている ( 行友誌 『 霧笛 』 ) 。これらには、陣頭に立った中尾支店長のみならず、後に続いた歴代支店長の次のような部下への率直な呼び掛けも与って大きかったと思われる。
 「 お互、殻にとじこもらないで、地元のみんなの中に飛び込もう。そして、道東に住むひとびとの哀歓をわがものとして進もうではないか 」 ( 米本礼太郎支店長、後に国庫局長、開銀理事 ) 。

島村 高嘉 氏

追記 ー この 「 小論 」 を取りまとめるに際しては、木村勲氏 ( 釧路商工会議所 ) 、佐藤宥紹氏 ( 釧路短期大学 ) の両名に種々お力添えして頂きました。この旨記して感謝申し上げます。

島村 高嘉 氏 略歴

昭和 7 年 10 月     群馬県前橋市日出生
昭和 30 年 3 月     一橋大学卒業
      4 月     日本銀行入行
昭和 53 年 4 月     日本銀行釧路支店長
昭和 55 年 7 月     日本銀行検査役
昭和 60 年 5 月     日本銀行国庫局長
昭和 62 年 7 月     日本銀行退職
平成 7 年 4 月     中央大学総合政策学部教授
平成 15 年 3 月     中央大学退職

Updated 12 September , 2020