Kataro ホームページ 「 河太郎 」 43 号 平成 29 年 ( 2017 年 ) 4 月 1 日

原野の詩人たちの時代
『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』

横澤 一夫


『至上律』『北緯五十度』『大熊座』

 平成 28 年、夏の連続台風は、猛威をふるった。すさまじい強風、記録的な降雨によって、日本列島の農地、河川、森林の被害は、まぎれもなく史上最大、空前絶後の惨事となった。とりわけ北海道では空知・胆振・十勝など全域にわたった。文明に名をかりた自然破壊に対する神の摂理であるのかもしれない。
 摩周山麓に広がる弟子屈原野にもソバ畑が壊滅したのをはじめ、ハウスメロン、マンゴーなど近年脚光を浴びつつある高級果物、造成中のブドウ株なども大きな打撃をうけた。・・・・・、漁港でも、鉄道でも、道路でも、いたるところで自然は凶暴な牙をむいた。そして農地は原野にもどった。

更科 源蔵

 大正末期から昭和に掛けて、時代の風潮はしのびよる暗い足おとがしだいに強くなっていた。 3 ・ 15 事件 ( 昭和 3 年 ) による共産党員の大量検挙、東北、北海道地方大凶作、農家の子女の出稼ぎ、身売り続出 ( 昭和 6 年 ) 小林多喜二虐殺される ( 昭和 8 年 ) 、 2 ・ 26 事件勃発、軍部の反乱 ( 昭和 11 年 ) 。
 こうした時代背景の中で、原野詩人の原型でもあった弟子屈の更科源蔵を中核に若い人たちの糾合、雑誌の発行 ( 『 至上律 』 から 『 北緯五十度 』 へ ) の時代になる。
 更科は長髪、ロシアのルパシカを着用し、異様な風体で注目を浴びた。彼等はしだいに迫りくる時代の非自由な風潮の中で、時に抵抗し、時に漂流し、やがて潜伏しながら " 若き詩人たちの肖像 " ( 伊藤整 ) らしい時代の群像となった。平成のいま、この文学活動を照射しなおすことは、朔北の地に生まれ育った者が担うべきものなのだ。その思いは不遜な老輩の悲嘆であるか。


尾崎喜八の 『 抒情詩 』

 更科源蔵は尾崎喜八の詩風に魅かれ、詩集 『 高層雲の下 』 はカバーがボロボロになるほど愛読、切実に尾崎にあいたい ― という気持ちをたかぶらせていた。
 釧路で兵隊検査。坊主頭の中で、ただ一人長髪であった。蓬髪なびかせての上京だった。麻布獣医学校で学んだ時に識りあった詩人江渡秋嶺を介して上高井戸に移っていた尾崎を訪れた。更科 20 歳。尾崎は山小屋風の住居 「 蒼天居 」 に快くむかえてくれた。

尾崎 喜八

 尾崎喜八が詩誌 『 抒情詩 』 の新人推薦号に更科を推した。審査が行われ、その結果一位金井新作 「 まるけの絵を見て 」 二位真壁仁 「 南 」三位伊藤整 「 葡萄園にて 」 「 雪になる夜 」 そして更科源蔵は 「 栄光の秋 」 で四位。この時の投稿者の中に竹中郁、伊藤信吉、菊田一夫の名もあった。一位の金井新作は慶応大学の学生、二位真壁仁は農民詩人、三位伊藤整は小樽塩谷で中学校教師だった。

     尾崎喜八 ( おざき・きはち )
       大正・昭和期の詩人(明治25年・昭和49年)東京生まれ。
       自然賛美の詩を書き、のち人生派的傾向を深めた。
       ロマン・ロラン、ヴェルハーレンを愛し、大正13年、
       水野葉舟の長女実子と結婚、上高井戸の新居で夫婦で
       鍬をふるった。
       高村光太郎・智恵子夫妻や高田博厚、片山敏彦、そして
       更科源蔵など知人、友人が山小屋風の自宅を訪れた。
       詩集『花咲ける孤独』など 16 冊、
       昭和 3 年 『 東方 』 創刊。


ブロンドのたてがみ

 更科源蔵は尾崎喜八をタテ糸として視野をひろげ、恐らく尾崎を介して、高村光太郎とも知遇を得たにちがいない。生計をたてるため、更科は小学校高等科を出たあと、鐺別に出て、小田切栄三郎の別宅で牛馬など家畜を飼い、さらに製革 ( なめし皮 ) の仕事にも取り組んだ。
 小田切は道庁の植民部技手から御料局札幌支庁川上派出所所長となった。林野を開放、移住民の入植に尽力、主畜農業をすすめた。青森出身、大正 7 年、 23 年勤めた弟子屈を去り、昭和 13 年札幌で 74 歳の生涯を閉じた。
 小田切栄三郎は札幌へ去ったが、鐺別の別宅には更科を寄宿させ、家畜の飼育をまかせた。当時ここへは詩人や画家がしきりに来訪、さながら梁山泊のごよく賑わった。
  「 酒を呑み、文学論、マルクス、アナーキズムを論じ、革命歌も聞えて来た 」 ( 錦織俊介 ) という状況だったという。
 大正 14 年 9 月、釧路で文学活動をしていた渡辺茂は、 『 抒情詩 』 に新進詩人としてデビューした更科と文通をはじめた。 「 ブロンドのたてがみ 」 はまさに渡辺茂が初めて会った更科の印象である。

   ブロンドのたてがみを
   高原の朝風に波うたせ

  「 私は若い日の更科君を想うとき、いつもこの 『 巧言を越えて 』 という詩の最初の一節を思い出す 」 と書く。更科はその堂々たる体躯にたてがみのような長髪をなびかせる溌剌たる風貌は、まさに駿馬の如く精悍であった。渡辺たちは更科と識り合ってすぐ 『 港街 』 をだした。渡辺茂は宮城県生まれ、釧路市西幣舞の秋田屋旅館の養子となった、大正 14 年 9 月、葛西暢吉らと同人誌 『 銅鑼 』 を発行したが、更科と織り 『 港街 』 と改題、続刊した。以後 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 と更科と歩みをともにした。戦後、詩集 『 泥炭地層 』 ( 楡書房 ) のほか 「 釧路市史 」 を執筆、昭和 30 年北海道文化賞を受賞した。
 再び歴史を引き戻す。高村光太郎が命名した 『 至上律 』 を出した昭和 3 年夏、更科と渡辺は釧路市公会堂大ホールをかりて 「 文芸講演会 」 を開いた。
  『 港街 』 は更科が編集することになり一変した。尾崎喜八、眞壁仁、伊藤整、金井新作、加藤愛夫が加わって、もはや地方的なローカル同人雑誌の性格から、一流の全国に発信できる詩誌となった。そして、更科の上京を機会に、高村光太郎の発案で 『 至上律 』 と改名した。高村のほか、谷内一郎、深沢索一、森脇達夫が加わり、人道的、理想主義を標榜することになった。高村は毎号ヴェルハーランの訳詩を寄稿することを確約した。白樺派の人たちへの敬愛という尾崎喜八と通じるものがある。中央の詩壇、文学的環境が、大正時代と大きく変わり、窮屈になりつつあったことも地方にステージを求めようとする要因であったかもしれない。

                至上律主催文芸講演会 於公会堂
                  文学と政治  戸野原 史郎
                  詩の朗読   渡辺 茂
                  文芸雑感   加藤 盛
                  詩の朗読   更科 源蔵
                  芸術の永遠性 佐々木 金子郎
                           会費 十銭
                          「 釧路新聞 」
                           ( 昭和 3 年 7 月 22 日 )

  『 釧路文学運動史 』 の鳥居省三はこの講演会について次のように記述している。
 時代背景的にいえば、当時、いわゆる 3 ・ 15 事件の内容などが公表されて、広い意味での自由主義、社会主義に対する官憲の弾圧が始まり、正義感に燃えた青年が、美術や文芸の名で抵抗を示すという一般の時代風潮があって、全国でこの種の集会が多く見られた。しかし何よりも釧路のこの講演会の最大の成果は、ここではじめて猪狩満直という異色の詩人を、更科をはじめ釧路の人たちが知ったことである。小森盛が高村光太郎の紹介でたまたま更科を訪れていたときで、彼もこれに参加したことであったろう。当時みな 20 代の年齢である。この勇気は見習っていいように思う。 ( 「 釧路新聞 」 ・昭和 61 年 4 月 8 日 )

 小森盛は高村光太郎、そして大学生戸野原史郎は宮崎丈二の紹介状をもって鐺別の小田切栄三郎の別宅に来て居候していた。文芸講演会の会場にはおよそ 100 人の聴衆が詰めかけたが、特攻警察臨席などもあって、なんとなくこわばった空気がみなぎっていた。最後まで水をうったような静かさのうちに終わった。
 釧路新聞はこのあと 「 地元釧路市の同人誌 『 昿原 』 『 白揚樹 』 が相次いで講演会を開いた、 『 至上律 』に刺激されたのだ 」 と報じている。


  『 移住民 』 猪狩満直の苦闘

 農民詩人の先駆者、猪狩満直に 「 土地が死んでしまった 」 の一篇がある。開拓者の自然との格闘と、悲嘆が胸を衝く。

  土地が痩せ切れ 土地が死んでしまった
  動かない百姓ら 死んだ土地にしがみついている。
  鋤を持って立つが て、体が崩れてしまう
  どの面も、どの面も血の気が無い 眼の光を失ってしまった
  全耕地を蔽うカマドガエシは花咲き カマドを嘗めつくした魔の舌のように
  ペラペラ秋風にゆれていた。

 猪狩は 1925 年 ( 大正 14 ) 阿寒郡舌辛村 25 線に開拓移民として入植した。福島県岩城郡好間村 ( 現いわき市好間 ) に出生。 ( 明治 31 年 ) 大正 3 年、私立磐城青年学校中退、家業の農業に就く。その背景には、当主政一の酒や扶養家族の多さが一家の衰退を招いたことがある。

 猪狩満直 ( いかり みつなお )

 渡道前の青年期、草野心平、山村暮鳥らと交わり詩誌 『 播種者 』 を発行、前記阿寒村、丹頂台 ( 舌辛村 ) の入植は補助移民という身分であったし、入植地は高位泥炭地という過酷なものだった。開墾のかたわら詩作をつづけ、昭和 3 年より、草野心平の 『 銅鑼 』 坂本七郎全集で木材搬出に苦闘、昭和 4 年 8 月詩集 『 移住民 』 ( 草野心平、三野混沌編集、銅鑼社 ) を出版した。移住の生活記録だったが詩壇に大きな反響を巻きおこした。昭和 4 年、 『 北緯五十度 』 の同人となり、活発に作品を発表した。

更科、渡辺の三人で 「 移住民 」出版記念会 ― 昭和 4 年 8 月
■猪狩満直 ( いかり みつなお )
 福島県生まれ。明 31 ・ 5 ・ 5 〜 昭 13 ・ 4 ・ 7 、山野混沌、草野新平、山村暮鳥と交わり詩誌 「 播種者 」 をつくる。大正 14 年補助移民として阿寒郡舌辛村 25 線 ( 阿寒町丹頂台 ) の高位泥炭地に入植、開墾に打ち込み詩作を続け、昭和 3 年より、草野新平の 「 銅羅 」、坂本七郎の 「 第二 」 詩作を発表した。
 生活にのため冬季は馬橇で木材搬出に苦闘、昭和 4 年 8 月詩集 「 移住民 」 ( 草野新平、三野混沌編集・銅鐸社刊 ) はそのきろくであり、詩壇に大きな反響を巻き起こした。  昭和 4 年 「 北緯五十度 )の同人となり、多くに詩を発表した。昭和 5 年開墾地を売って故郷に引き上げる。長野県千曲川の改修で健康を害し他界。詩集 「 農政調査工事 」 「 秋の通信 」 、死後 「 猪狩満直全集 」でる。
― 『 北海道文学大辞典 』 ・ 更科源蔵

 もう少し細かく、実生活を追うと入植した大正 14 年の 6 月、妻タケオが肋膜炎を発病、翌年、釧路市の病院に入院したが 1 ヶ月で自宅療養に切り替えた。経済的な理由もあった。
 しかし 9 月、タケオ他界、 25 歳だった。
 時代は大正から昭和になった。
 大正 14 年 4 月の移住いらい、第一次引き揚げまでの約 6 年間で、妻を失い、 2 人の子供を抱えて再婚、自らも気管支疾患で苦しみながらも、生活のために馬橇による木材運搬、雄別炭山の洗炭機運転、農政調査委員、山林防火責任者など、不慣れの北海道で、想像を絶する苦闘の日々を送った。
 昭和 5 年 10 月、猪狩は 6 年かかって開墾した農地 8 町歩を家屋、馬と共に 370 円で売却、 12 月、土地の新規購入を断念して、家族を伴い帰京した。
 しかし戻ってからも父との確執はいぜん続いた。おまけに健康状態も不調だった。翌昭和 6 年 8 月、百合子、眞の 2 人の子とともに再渡道、更科を頼り、熊牛の源蔵の兄の牧場で仕事を手伝った。
 当初は屈斜路コタンの学校へ来たが、猪狩の胸中には東北農民生活の解放希求の激しさがあり、社会、経済の不条理に対する激しい怒りがあった。
 牧場や農耕の仕事は屈強の肉体を持つ猪狩にしては格別の苦悩ではなかったが、どういうわけか、その筋では 「 危険人物を連んだ。どうゆうつもりだ 」 と更科の兄を責めた。
 猪狩は、すでに 19 歳でキリスト教会で洗礼をうけていた。更科とは渡辺茂を仲介して急速に親交を深めた。猪狩はゴッホに憧れるクリスチャンで、徹底的な農民詩人、アナキスト詩人という者もいたが、野性的包容力の持ち主だった。たしかに容貌凛々として体躯も逞しい。絵も描き、短歌、ヴァイオリンも弾くという多才なインテリだが、その詩境はむしろ農民詩人真壁仁に近い。再度の帰京は昭和 9 年、詩集 『 私の通信 』 を出版した。
  『 北緯五十度 』の同人としては 『 炭坑長屋物語 』。故郷常磐平に帰ったが、生計のため出かけた長野県千曲川の改修工事で健康を害し、昭和 13 年 4 月 17 日、満開のボタン桜のなかで逝った。享年 40 歳。

 更科の弟子屈熊牛、猪狩の阿寒村舌辛などは、過酷な農村原野の典型で、大正末期から昭和初期にかけても開墾の困難はさほど変わりない。その中で時代の暗音を背に農民文学、原野詩人たちは孤高の叫びを続けた。当然それは国家権力との対峙、批判、糾明となり、時に緊張を生んだ。先の文芸講演会ばかりではない。あらゆる講演会、研究会、発表会など集りに官憲の鋭い目が光る時代が続く。
 その中で、更科源蔵が 『 港街 』 創刊号に発表した 『 熱土仰望 』 の詩篇などは、タイトルからして 「 格調高い熱血の詩でありこれぞ、彼があの荒莫たる熊牛原野に燃やした希望と情熱の宣言であった 」 ( 渡辺茂 ) 渡辺は更科との交流で兄事から私淑へ、そして崇拝する。だからこの詩はまさに " 詩のバイブル " とまで絶賛、更科は原野詩人としての存在をゆるぎないものとなった。
 高村光太郎の命名による 『 至上律 』 から 『 北緯五十度 』 の背景には、ヨーロッパ文化を日本の北緯五十度線上に咲かせることを夢みた高村の思いがあった ( 更科源蔵 )


  「 釧路市史 」 渡辺茂の青春

 更科と出会った渡辺茂はのちに 「 釧路市史 」 など郷土史を多く執筆、この分野での事跡で、昭和 30 年北海道文化賞を受賞した。そして更科との交流を次のように述懐している。 「 『 北緯五十度 』 の同人の頃、釧路へ出てくる更科と隣の 「 べら安 」 でもっきり焼酎、馬肉の刺身で気焔を上げた仲。東北訛りで酔うと更科の妻の死の詩 「 寂寞譜 」 を朗詠して泣いた 」 。
 戦争中、二度、特高に呼ばれ、アナキズム的詩は書かぬと約束したという。民間会社、道議会事務局に勤めた。昭和 57 年 3 月 19 日、札幌で死去、 76 歳。
 渡辺の葬儀では更科が弔辞を読んだ。
  「 はじめて逢ったのは、昨日のようだが/五十八年は夢のように流れ/青春の炎だけがぼうぼうと/激しい音をたてて燃えているのに/君はもう、今は何を云ってはくれない 」


 眞壁 仁と更科源蔵

 大正 14 年の 『 抒情詩 』 で更科源蔵を知り、やがて 『 港街 』 『 至上律 』 を経て 『 北緯五十度 』 にも加わるなど農民詩人としては猪狩満直より知られる眞壁 仁は山形県出身、農民運動にも加わり、生活綴方事件で検挙された。そして戦後は社会党から参議院選挙に出馬したりしたので著名になった。詩人としても 『 みちのく山河行 』 で毎日出版文化賞も受賞し、昭和 59 年没、 57 歳だった。ふるさと山形蔵王山麓に 「 峠 」 の詩碑があるが、若き日の更科らとの交友が終生の詩魂を支え、 「 峠 」 は美幌峠の詩といわれている。 「 原野歴程 」 が代表作。


 農民詩人 中嶋葉那子

 昭和 4 年という年は釧網線が弟子屈まで開通した年で、更科源蔵は 「 釧路からオホーツク海のアバシリに釧網線という国鉄の一部が私の故郷まで通じた。それに乗って、空知の農家の娘が、私のところにお嫁に来るのである 」 ( 「 青春の原野 」 ) と書く。
 中嶋葉那子は本名花枝、明治 42 年、空知管内角田村 ( 栗山町 ) 字タラツで出生した。村は開拓者泉麟太郎の影響で詩歌が盛んになっていた。葉那子は高等女学校講義録の文芸欄に短歌を投稿、やがて、竹内てるよと交友をもち、詩作をはじめた。

はなゑと道子( 3 才 )と弟子屈印刷所の頃 佐藤翠陽撮す

 大正末期には角田村で小作にまつわる農民運動が起り、葉那子も強い影響を受け、女性としてははな珍らしく論理的な詩を書きあげた。竹内てるよの 「 曙の手紙 」 が特高に差し押さえられるなどの出来事もあった。
 更科の詩集 『 種薯 』 を読んだ葉那子は感激し 「 まだ見知らぬ更科さん、はげしい吹雪の夜、満身の力でささえる林のうなりをききながら、薄暗いランプの灯に照らして、この詩集をよんでいます。前篇に漲る熱と力、鋭い実感の詩、正しい人類の明日への信号を明確に感じさせてくれます 」 。

詩集 「 種薯 」昭和 5 年 12 月刊、復刻版 ( 昭和 47 年 )

 痛烈なラブコールである。気性の激しい葉那子は、家出同然で、狩勝の峠を越えて、更科が代用教員をつとめる屈斜路コタンの学級へ嫁入りした。昭和 6 年春、更科に負けず大柄で健康な 22 歳であった。
 しかし新婚 5 ヶ月、更科は突然解雇の辞令をつきつけられた。更科はこの夏、山形の眞壁仁のもとへ出向き、福島平に帰った猪狩満直のもとで農地を買う相談をしながら猪狩を伴ってコタンの学校へ帰ったが、その矢先に解雇通告をうけた。アナキスト猪狩とのつきあいが原因だと者もいたが、後年更科は友人の森川勇作に 「 ハナコはオレより激しい人だ。空知の頃からマークされていた。ゼンカがあるんだよ 」 と洩らしたという。

 更科源蔵の処女詩集 『 種薯 』 の発行について更科自身は次のように述懐している。 ( 昭和 43 年 9 月、北海タイムス 「 忘られぬ友情 」 )
  「 私の詩集 『 種薯 』 の印刷が山形市小橋町二二五、小松活版所となっている。私は屈斜路コタンの小学校の代用教員をしていた。昭和 5 年の暮れである。 88 ページの小詩集の印刷代が、たしか二十円、私の月給の半分以上の額だった。一部五十銭で山形で二十部も買ってくれたので、私の負担は十何円で助かった。この詩集を読んでくれた空知の一女性と私は結婚した。眞壁が詩集を出してくれなければ、この女性とも知らずに通りすぎたかもしれない 」
 眞壁仁も 「 原野歴程 」 のなかで次のように触れている。
  「 北海道の 『 北緯五十度 』 と山形の 『 さい 』 の二つがぼくらの作品発表の場であった。作品がたまってくると個人詩集を出していこうという気運が高まってきて、まず更科君からということになった。 『 種薯 』 はこうして第一弾となった。翌 6 年、詞葉集 『 北緯五十度詩集 』 は同人 6 名、眞壁仁、中嶋葉那子、渡辺茂、葛西鴨吉、猪狩満直、更科源蔵の作品を集めて出版、更に僕の詩集 『 街の百姓 』 が続く。
 詩集 『 種薯 』は 『 北緯五十度 』 に収められた詩をふくめた 32 篇で、昭和 2 年から昭和 5 年にわたる作品 「 古潭 」 「 焚火 」 「 代用教員の詩 」 「 北緯五十度」と四類されている 」 。

「 北緯五十度 」 創刊号 昭和 5 年 1 月
「 北緯五十度 」 創刊号

 高村光太郎、草野心平の批評

 更科さんの 『 種薯 』のような詩集をよむと、私如き都会に形だけでも市民生活をしている者は ( 私は世に謂う美術で飯を食っている者である ) まづ第一に、心の網目にいつ知らずにたまっている塵埃のようなものを一気に払い落させられる。事実の現実に文句の出ない程やられる。此はかけ値のない所だ。そして寂しくなったり、気が気でなくなったり、心の居場所をずらされたり、いろいろ強い衝動をうける。そのうちに、この事実そのものから発散してくる 「 詩 」 につかまえられる。事実の表層よりも、もっと奥のものの力が動きはじめる。彼も持ち、我も持つ共同の精神が立ち上がる。そうして自分にははっきり帰って、彼の持つ位置との関係が明瞭になる。方々に居て各人のそれぞれの進む真理の道が確かめられる。彼の詩がそのまま物の力となってくる。自分の進む力になる。 ( 高村光太郎 )

 不思議な気がする。人一倍大きな顔に、人より小さな眼があった。あの眼がこんなもの ( 詩集にある ) を見てきた。耐えてきた。そして遂に貫いてきた。にごりのない眼、世の中からとりのこされたと思われるほど澄んだ眼、愛でふるえることのある眼、あれが不正を刺した。 ( 草野心平 ) ― 詩誌 「 犀 」 第 9 号 ―


釧路新聞 『 木曜文芸 』

  『 北緯五十度 』 の同人たちは更科源蔵を媒介として釧路新聞の紙上を縦横に活用した。昭和 2 年 11 月 「 曠野の馬 」同 3 年 4 月 「 月の夜 」 同年 5 月 「 外へ出よう 」 そして昭和 6 年元旦号 「 麦おとし 」 と更科の詩は続く。釧路新聞は 『 木曜文芸 』 欄が地方新聞としてはかなり充実したものとして評価を受けていた。吉田仁麿ら担当記者の努力によるものである。昭和 6 年元旦の文芸欄には草野心平 「 ある時 」 眞壁仁 「 娘達の話 」 猪狩満直 「 船 」 もあり、さながら 「 北緯五十度詩人特集 」 の観があった。
 昭和 9 年には、弟子屈から更科源蔵を追って森川勇作が X 社、のちに 『 大熊座 』 の復刊の動きともつながるが 『 北緯五十度 』 が廃刊したあとの更科ら同人の寄りどころとなったのは、根室の中沢茂による同人誌 『 測量船 』 である。
 根室の作家、中沢 茂と更科源蔵が初めて接触したのは昭和五年のことだ。すでに更科源蔵の名前は広がっていたが、中沢は 「 近寄ったら火傷するもののようで、少し身をうしろに引いた 」 と告白している。
 黒づくめの異様な風体で、詩を第一義に生きている男は二十七歳、中沢は七つ下の二十歳のときである。さらに 「 更科源蔵は、詩とはこういう生態のものが本当だ、という。これまで私たちがもっていたイメージとは縁のない綺麗ごとを打ち消してしまった。机の上で詩は書かない。腹のへらぬ奴は詩を書くな、 」 ( 『 青春 』 ・小さな・・の大きな夜室 )
 昭和 7 年に渡辺茂が出した同人誌 『 測量船 』はのちに 『 北緯五十度 』 を廃刊したあとの更科たちの寄りどころだった。中沢は昭和 10 年、同人誌 『 どろの木を育くむ人々 』 に参加、この両誌を通じて、釧路の更科源蔵、渡辺茂、山形の眞壁仁と交友を持った。戦後は主として 『 札幌文学 』 に作品を発表、 「 鴎の店 」 「 太陽叩き 」 「 画家チヌカルコロ 」 などがある。昭和 44 年北海道文化奨励賞、 「 紙飛行機 」 で 53 年北海道新聞文学賞を受賞した。


父・師の存在 高村光太郎

 更科源蔵や眞壁仁らにとって父とも師とも仰ぐのが、高村光太郎である。詩人、彫刻家、父は高名な高村光雲。

高村光太郎
高村光太郎

 伊藤整の 『 若い詩人の肖像 』 によると更科が初めて高村光太郎を訪ねたのは昭和 3 年 3 月 12 日、友人金井新作の案内で伊藤整も同行した。

     高村光太郎の家は本郷高田の静かな屋敷町の中にあった。古風な屋根の
     尖った洋館である。玄関のドアに下がっている房を引くと小窓があいて、
     色白、丸顔の三十歳位の女の人が顔を出した。智恵子夫人だ。
     アトリエは、20畳敷きほど。石膏の像のようなもの、作りかけの
     粘土の像があった
     (更科はそのころ高村がとりかかっていた黒田清輝の胸像だったという)
     高村光太郎は和風に白い上っぱりをつけていた。身体の大きい人だった。
     その顔は普通の人間の一倍半ほどある長さに見えた。その手も大き
     かった。含み声も軟らかい音で、少し優しすぎると思われる静かな話
     の仕方で、緊張している私の警戒心を解いていった。その時、光太郎
     は 46 歳だった
     (伊藤整『若き詩人の肖像』)

 その後、更科は再び高村を訪ね、釧路の詩誌 『 港街 』の文題について、高村のすすめで 『 至上律 』 と決めた。これはベェルハーランの詩集の題からとった。高村はベェルハーランの訳詩 8 篇を更科に渡した。さらに高村は北の大地がヨーロッパ文化と同じように開花してほしいとの思いをこめて 『 北緯五十度 』 のゴッドファーザーになった。
 高村は終生、北海道移住への思いを持ち、牧場経営を夢みていた明治の末期、札幌へも来ており、北海道への関心は強かった。道の拓殖計画について批判も鋭く、原野のまん中で詩作に取り組む更科源蔵に好感を抱いた。
 草野心平の 『 銅鑼 』 に更科の語った話をそのまま詩に書いて届けた。 「 彼 」 とは 「 更科源蔵 」 に外ならない。

     彼は語る    高村光太郎

     彼は語る
     北見の熊は荒いのですなあ
     釧路の熊は何もせんですなあ
     かまはんけれや何もせんのですなあ
     放牧の馬などを殺すのは、
     大てい北見から来た熊ですなあ

     彼は語る
     地震で東京から逃げて来た人達に
     何も出来ない高原をあてがった者があるのですなあ
     ジャガイモを十貫目まいたら
     草を刈るとあとが生えないという
     薪にする木の一本もない土地で
     幾家族も凍え死んだそうですなあ
     いい加減に開墾させて置いて
     文句をつけて取り上げるようですなあ

     彼は語る
     実にはたらくのは拓殖移住手引きの
     地図で見るより骨なのですなあ
     彼等にひっかかるとやられるのですなあ


詩誌 『 大熊座 』 春季号

 昭和 13 年 6 月、更科源蔵編集による詩誌 『 大熊座 』 春季号が発刊された。発行人は森川勇作。 ( 当時釧路新聞記者 )

詩誌 「 大熊座 」
詩誌 「 大熊座 」

 春、猪狩満直が去り、 4 月 16 日郷里福島で死去、同日、更科はなえ ( 詩人中嶋葉那子・源蔵夫人 ) は、釧路の谷藤病院で次女葉子を出産した。月足らずの嬰児だった。森川は当時釧路新聞の記者で 『 北緯五十度 』 のあと、釧路に雑誌がないのは淋しい。原稿さえ集まれば、自分の力で出したいと、同郷の先輩である更科に促した。森川は文学青年で 「 一つの生命が失われたとき、一つの生命が灯った。更科は次号を猪狩満直追悼号にするとすぐ決めた 」 ( 「 大熊座 」 編集後記・森川 )

  「 高村先生は 『 夢に神農となる 』 、草野心平君は 『 氷雨 』 という詩を書いてくれた。伊藤整君は 『 一葉の日記 』 という単文を書いてくれた 」 と更科は述懐している。更科も表紙と同じ題の 「 大熊座 」 を書いた。
 追悼号の構想を持ちながら 『 大熊座 』 は一号で終った。森川が札幌へ転じたこともあるが、資金が続かなかったのか。
  『 大熊座 』 は 15 円の広告を裏表紙にとり ( 婦人・子供服 コマドリ洋品店・釧路市北大通十字街 ) 、釧路刑務所で印刷した。市中の印刷所より安いからである。 300 部を刷ったが、どう配布領布されたのかは不明である。

 私の座右に 『 大熊座 』 がある。復刻詩誌で、平成 9 年 4 月 1 日 「 更科源蔵資料収集実行委員会 ( 実行委員長 高田 中 ) 」 の発行によるものである。
 文を鳥居省三 ( 北海文学主宰、 「 釧路文学運動史昭和篇 」 執筆者 ) は次のように記述している。

     森川勇作が編集責任で刊行した詩誌 『 大熊座 』 ( 昭和 13 年 6 月 )
     は一号で廃刊となってしまったが、軍国主義の時代に突入した前後
     の社会背景を思えば、更科源蔵らの 「 北緯五十度 」 継承の意味
     も含め、記念碑的であるといってもいい。
     殊に、寺島春雄・小森盛・中澤茂・伊藤整・高村光太郎・眞壁
     仁・土尾麓・加藤愛夫・茂木根原・金井新作・森川勇作・更科
     源蔵・草野心平などという地方出版詩誌としては珍らしく全国
     区的詩人が参加したのには昭和期詩人の所属誌を越えた出入り
     自由交流の背景があったといいながら、圧巻といわねばならない。
     敗戦まで、釧路根室地方に詩誌の刊行は見られなかったのである。
     いまは幻の詩誌よいわれる 『 大熊座 』 復刻の意義は大きい。

 昭和 13 年といえば。国家総動員法が成立し、日本無産党、日本労働組合全国評議会に解散命令が出されるなど、いよいよ戦時色が濃く、近衛内閣は東亜新秩序建設、新体制を声明した。
 ヨーロッパでは、独がオーストリアを合併、翌14年、独伊軍事同盟、独ソ不可侵条約で第 2 次世界大戦が始まった。
 わが国の文壇では、火野葦兵の 「 麦と兵隊 」 がベストセラーとなった。


『 若い詩人の肖像 』 伊藤整

 尾崎喜八の 「 抒情詩 」 による新人発掘の中で、更科源蔵を識った伊藤整は、釧路の北方の弟子屈に更科という詩人がいたことに驚きながらも、手紙を書き、返事をもらった。終生にわたる異質の二人の詩人の出合いだった。昭和 2 年、伊藤整 22 歳、更科源蔵 23 歳。
 小樽で生まれ育ち、商業学校へ進んだ伊藤整は 「 藤村詩集 」 で詩人として目覚めた。小樽高商に入った。二年上に小林多喜二がいたが、接近することはなかった。整は塩谷で中学校の教師になったが、詩作にかける毎日だった。

伊藤整と NHK ラジオ出演のとき ― 昭和 33 年 8 月
伊藤整と NHK ラジオ出演のとき

 大正末期、詩はさかんで、小樽の書店にも詩の雑誌がズラリと揃って いた。
  「 抒情詩 」 「 近代風景 」 「 日本詩人 」などを舞台に、草野心平、伊藤信吉、尾形亀之助、金子光晴、吉田一穂など 20 歳台の詩人がひしめき、詩壇には北原白秋、日夏耿之助、佐藤春夫、尾崎喜八、西条八十、堀口大学、などが妍を競っていた。萩原朔太郎、室生犀星は地位を固めてといえるだろう。
 昭和 3 年、伊藤整は、神田一ツ橋の商科大学への進学を決めた。なんとこの時更科が同行することになった。
 これが 2 人の初対面で更科は、塩谷の伊藤整の実家を訪ねて一泊する。伊藤は中学の教師の座をすて、ほとんど内緒で上京を強行しようとしていたが、更科は大きな声で詩や文学を語り 「 さあ、東京さゆくべ 」 と伊藤を促した。更科は大方の想像に反し、毛皮の外套を着て、登山帽めいた帽子と、後ろに長く垂らした髪という洒落たハイカラのいでたちで、小樽近辺よりも標準語に近かった。
 更科源蔵との出合いと、共に上京して高村光太郎、尾崎喜八を訪ねた。このあたりのいきさつは、伊藤整の自伝小説 「 脇詩人の肖像 」 ( 昭和 33 年新潮社 ) にくわしい。
 伊藤整は詩人、小説家、批評家、翻訳家、教師など多彩な顔を持つ、戦後日本文壇を代表する文学者である。
 詩人として 「 雪明かりの路 」 小説家として 「 生物祭 」 「 馬喰の果て 」 「 得能五郎の生活と意見 」かたわら、ジェイムス・ジョイスの 「 ユリシイ ズ」 、裁判となったロレンスの 「 チャタレイ夫人の恋人 」 で翻訳家として、センセーションをまきおこした。また、小説 「 氾濫 」 がベストセラー ( 昭和 38 年 ) になるなど、文壇では押すに押されもしない存在になった。昭和 44 年 11 月、 63 歳で死去。
 若き日、伊藤整は、更科との交友をもとに 『 至上律 』 『 大熊座 』 『 野性 』 などに詩や評論を寄せた。伊藤整は、いかにも都会人らしい風貌だったが、実に根っからの小樽人で、札幌という土地を嫌っていた ( 更科 ) 。札幌は役人と学者が大きな顔をして、自ら文化都市と銘うっている思いあがりがあるからだという。伊藤整の生まれた小樽は、庶民の街であり、伊藤整が初めて勤めた塩谷は日本海に面した百戸ほどの漁村にすぎなかった。

 伊藤整は一橋大を中退、川崎昇、河原直一郎らと同人誌 『 信天翁 』 次いで 『 文芸レビュー 』 を創刊。戦後は一時北大予科の講師もつとめたが、 4 ヶ月で上京、やがて日本近代文学館館長となった。芸術院賞、菊池寛賞の 「 日本文壇史 」 18 巻、執筆途中の死去だったが、瀬沼茂樹が引きつぎ、昭和 48 年刊行された。


更科の " 弟 " 森川勇作

 森川勇作の出生は陸別村小利別だったが、幼時一家は弟子屈に移り、森川は高科を出ると、土地の郵便局に勤めた。このとき、屈斜路コタンに居る更科源蔵を知り、更科の詩集 『 種薯 』 や詩誌 『 北緯五十度 』 を読むようになる。文学への開眼といっていい。昭和 9 年釧路新聞へ採用された。 16 歳、記者見習いのような形だったと考えられる。昭和 9 年という年は、野尻瀞 ( きよし ) らの奔走で米町公園に 「 しらしらと氷かがやき・・・・ 」 の石川啄木の歌碑が建ち、人気女流作家の林芙美子が来釧、吉田仁麿の案内で近江ジンに会うなどのエピソードのあった年だった。
 こんな環境の中で詩作するようになり、更科のほか渡辺茂とも知るようになった。だから 『 北緯五十度 』 周辺の詩人だった。すべては更科源蔵の影響は大きかった。したがって、更科との同意のもとに 「 大熊座 」 によって 『 北緯五十度 』 の復活を考えたのは、自然の成り行きだった。
 しかし、この運動をおこした昭和 13 年といえば、日支事変勃発の一年後のことであり、思想強圧が進んでいた。いわば軍国主義の時代に入っていて、原野の詩人更科源蔵はすでに当局の監視下におかれ、マークされる存在だった。したがって、仮に 『 北緯五十度 』 が復刊をを企画しようとしても更科はもちろん、森川でも 『 北緯五十度 』 の誌名では不可能だったと考えられる。
 やがて森川は小樽新聞に転じ釧路を去る、 『 大熊座 』 の挫折の翌、昭和 14 年 6 月のことである。
 森川は戦時中北海道新聞社会部から 18 年 5 月には特派員として北千島に派遣され、同年秋北部軍報道部員とそて北千島幌筵 ( ホロムシロ ) 島柏原に駐留、越冬して翌 19 年 5 月帰った。のち東京、北見、旭川の編集、報道部長をつとめ、戦後は北海道日刊スポーツ新聞の発刊に参画、代表取締役副社長にまで昇りつめた。
 退役後も郷里弟子屈への思いは深く 「 望郷、弟子屈会 35 年記念誌 」 ( 平成 5 年弟子屈会 ) 翌年には 「 原野の中の更科源蔵 」 を弟子屈会から出版した。
 かたわら、 「 更科源蔵文学碑 」 を弟子屈に建立するために奔走、設立発起人となった。若き日から終生、更科源蔵への思慕をつのらせた。まさに 「 更科源蔵の " 弟 " 」と呼ぶにふさわしい生涯だった。


おわりに

 本稿は終始更科源蔵を軸に原野の詩人たちとその時代を書いた。札幌を出て、アイヌ研究家、郷土史家、として大成した更科源蔵については興味は湧かない。ただ更科源蔵は生涯、熊牛原野時代を心のよりどころとして、北海道の文学界や文化人に大きな影響力を持ちつづけた。版画や一刀彫にも多彩な才能を示したが、昭和 21 年、版画家川上澄生の義妹小坂千恵と再婚、道子、葉子の二女と暮らし、長男光、次男が相次いで出生、長い放浪を終え、家庭の幸福をとりもどした安堵があった ( 森川勇作 ) 。
 昭和 52 年 10 月、高倉新一郎の呼びかけで基金が募られ、弟子屈の原野に 「 更科源蔵文学碑 」 が建った。そして昭和 60 年 9 月 25 日、更科源蔵は、脳梗塞のため、札幌厚生病院で 81 歳の生涯を終えた。私の好きな詩一篇を献じて記述を終える。



もうお前は忘れているかもしれないが
あのとき頬かむりをして
開墾地の隅で
泣きじゃくっていたのが
私だよ 雲よ
あのときあかね色だったお前が
見るみる光を失って灰色に沈み
夕べの空にとけてしまったのを
いつまでも見ていたのが
私だよ 雲よ


クロユリ ( 水彩画 )
クロユリ ( 水彩画 )
雪に埋もれた生家 ( 版画 )
 雪に埋もれた生家 ( 版画 )
参考文献

 「 釧路文学運動史・昭和篇 」  鳥居省三
 「 湿原の中の更科源蔵 」    森川勇作
 「 猪狩満直詩集 」       いわき地域学会図書
  復刻詩誌 「 大熊座 」     森川勇作
 「 釧路市総合年表 」       新釧路市史別冊

Updated 9 September , 2019 ,