Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 41 号 平成 28 年 ( 2016 年 ) 1 月 1 日

洋楽今昔物語
明治・大正の洋楽 その八

佐藤 昌之


 明治も末期になると色々なジャンルの洋楽が日本に輸入され、西洋が古代ギリシャ時代より培った来た音楽が一度に花が咲いたように日本の楽壇を賑わした。大きく分類すると先ず主流となったのは東京音楽学校派、次は宮内省雅楽部派、第三は和洋折衷にして少数派だが貴族とも云うべき楽派、そして大学注1などに出来たクラシック愛好のクラブ組織の団体、また楽器店やデパート注2など宣伝のための音楽隊など歌やピアノなどとオーケストラマガい、のアンサンブルなど続々と誕生して行った。そんな中で政府が中心となって推進したのが文部省の音楽取調掛 ( 後に取調所 ) で、そのため東京音楽学校の建設から教育迄担うこととなった。このことはやがて文部省唱歌として多くの子供達を育て上げることになるが、そのことから先ず東京音楽学校の歩みから検討したい。東京音楽学校は明治二十一年に生徒を募集したが、専修科、師範科、予備科に分かれ、まず予備科に於いて一年間学習せしめ、成績の良好な者をまず専修科に入れ尋常の成績ある者はこれを師範科に進め、卒業の上は各地各種学校の音楽教師に当てらるゝ計画という。
 だから恩学科を育てることより、まず音楽を普及することがねらいだったのだ。
 この頃は洋風文化が巷に流行し鹿鳴館などで洋装をした男女が貴方紳士に成りすまして舞踏会をしたりしていた。
 また東京音楽学校の卒業式には次のような曲が演奏された。

 第一、 唱歌 ( 1 ) 君は神、( 2 ) 帰りゆくとも、( 3 ) 燕
 第二、 バイオリン曲
 第三、 独唱唱歌 ( わが大君 )
 第四、 洋琴曲 ( クネヒト・リュープリスト )
 第五、 二部合唱曲 ( 1 ) ゆめ、( 2 ) さらばよ故郷
 第六、 バイオリン曲 ( ロマンス )
 第七、 本邦楽、筝曲
 第八、 二人連弾洋琴曲 ( 軍人進行曲 )
 第九、 独奏唱歌 (インビテーション、フホア、ワルツ )
 第十、 伊沢校長演出並卒業証書授与
 第十一、唱歌、管弦合奏 ( ふじの山 )

 東京音楽学校になってから初めての証書授与式であったが、」これを聴いた記者の感想は次のようであった。( 原文のまま )

 『 西洋の音楽に比して日本の楽器が不完全なりと云へることは、誰人も異口同音に唱う所なれど、日本の音楽には又自ら特有の長所あるが如しことは、当日の演奏を聴き了りて頻りに胸裏に起こりたる感想なり。されど当日奏されている筝曲の如きも、「 バイオリン 」の妙音を発するに比較しなば如何、誠に反対の音の如くなれど、筝音の妙多きが如し。されど洋琴また俗耳をも感ぜしむるに足れる音無きにあらず。』 ( 明治二十二年十月五日、 「 教育週報 」 第 25 号より )

とある。其後東京音楽学校が様々な洋楽紹介の先駆者となって行く。
 次に幾つかのプログラムを紹介しよう。その前にわが国がすんなり洋楽を取り入れたのではなく、音楽学校の存続論があったり、そのことは前述の音楽会の感想にも表れている。その他に衆議院の国会ですら存続臨があったことを紹介しよう。

 東京音楽学校も新しく新築された。その当時の音楽会の回数や内容を見ていると公的には音楽取調所、私的には鹿鳴館が果たした様子が大きい。

東京音楽学校新築

 東京音楽学校にては、兼て上野桜岡に新築中なりし新校舎落成せしを以て、去る十二日午後二時より其の開業式を挙行せり。当日は初めに欧州吹奏楽あり、次て洋琴聯弾、次に中川文部会計局次長新校工事竣工の報告をなし、終て、辻文部次官、榎本文部大臣の代理として、新校舎を授与する旨の書を、伊沢音楽学校長に交付し、次に辻次官の祝詞、伊沢校長の答辞、開業式祝歌合唱本邦筝曲弦楽合奏等あり、来賓には各侯爵並夫人を始め、各国公使等無慮千余人にて、新校舎内静音嚠亮中々の盛式なりき。弊社よりは田中登作、参校したりき。工事に取掛りてより七閲月ニ万余円■ち、校舎の面積三百八十二坪なりという、辻文部次官の祝詞、伊沢校長の答辞は左の如し。

( 明治二十三年九月 「 音楽雑誌 」 第一号 )
  音楽会の度数
     年月日       場所       演奏者       曲数

 明治十八年七月二十日   音楽取調所    生徒卒業式演奏   十四曲
                       会ヲ開キ同所教
                       員生徒演奏
   同年八月十日     音楽取調所    音楽改良有志者    九曲
                       数名演奏        
 明治十九年七月十日    鹿鳴館      大日本音楽会員   十二曲
 明治二十年三月十七日   鹿鳴館      同前        十二曲
   同七月九日      音楽取調室    取調所総員     十四曲
   同十月十九日     華族会館     大日本音楽会員   十二曲
   同十二月九日     華族会館     大日本音楽会員   十二曲
 明治廿一年二月十一日   工科大学校    森文部大臣催ニ    四曲
                       テ紀元節祝賀会
                       賀会大日本音
                       楽会員
   同七月七日      東京音楽学校   同校員の演奏    十二曲
              会
   同十一月二十日    鹿鳴館      大日本音楽会員   十二曲
 明治廿二年一月廿六日   鹿鳴館      大日本音楽会員
   同三月廿一日七日   学習院      大日本音楽会員   十二曲
   同五月八日      高等女学校    慈善音楽会     十五曲
   同五月十八日     鹿鳴館      大日本音楽会員    十曲
   同六月十九日     厚生館      「アメーセル     数曲
                        ウェン」の歌
                       劇音楽会
   同七月八日      東京音楽学校   同校生卒業式    十二曲
   同十一月三日     華族会館     天長節立太子式    五曲
                       式祝賀会音楽会
                       員
   同十一月廿日     鹿鳴館      大日本音楽会員   十一曲
   同十二月十一日    鹿鳴館      大日本音楽会員
                       総会
 明治廿三年一月二十七日  鹿鳴館      大日本音楽会員   十二曲
   同三月十一日     鹿鳴館      欧州音楽博士     六曲
                       テルシャック洋
                       琴専門家ルイザ
                       シュレル夫人の
                       臨時大音楽会
   同五月十二日     東京音楽学校   同校新築校開校    七曲
                       校式付校員
   同六月廿一日     東京音楽学校   大日本音楽会員    十二曲

     総計 五年間 八カ所    弐拾三回 二百十五曲

 猶明治十八年九月より十九年よ六月まで同十九年より廿年二月迄の開会数不詳 ( *明治二十二年七月八日は六日の誤り )

 東京音楽学校では同声会と云う組織を作って度々音楽会を開いていたので、その時のプログラムを紹介しよう。

  音楽学校同声会音楽会
 紅雲靉靉として柳眉は方に浅碧を横ふ四月十八日花は盛りの上野公園音楽学校に於て同声会音楽会は昨年帰朝せられし幸田子の紹介を兼ねて開かれたり同日の演奏曲目左の如し
一、洋琴聯弾 ボアエルデュー氏作
       才女     楽友会々員    内田菊子
                       由比くめ子
二、唱歌 ウェッベ氏作曲、鳥居忱氏作歌
       那須与一            楽友会々員諸氏
三、 バイオリン独奏 メンデルソーン氏作
       コンサル第一部         幸田延子
四、三曲合奏              箏  山勢松韻氏
                    同  今井慶松氏
                    同  千布豊勢子
  吾妻獅子              三絃 萩岡松柯氏
                    胡弓 山室保嘉氏
                    同  山室千代子
五、風琴独奏 バハ氏作
       コンサルト           島崎赤太郎
六、音楽四部合奏 ヘイデン氏作
 第一部          第一バイオリン  幸田延子
              第二バイオリン  山田源一郎氏
              ビオラ      納所辨次郎氏
              セロ       比留間賢八氏
七、クラリネット独奏 モザート氏作
       ラーゲトー        来賓 吉本光蔵氏
八、洋琴独奏 ビートーベン氏作
       ムーンライトソナタ       遠山甲子
九、独唱歌 ( 独逸語 )
       甲 シェーベルト氏作 死と娘  幸田延子
       乙 ブラームス氏作  五月の夜
十、バイオリン合奏 バハ氏作
                       小関得子
                       頼母木駒子
  フ−ゲ ( バイオリンソナタ中抜粋 )     荒井慎子
                       林 蝶子
                       幸田幸子
                       小関ステ子
                       鈴木フク子
十一、唱歌
       甲 シューマン氏作曲 佐藤誠実氏作歌  夢
       乙 ヘイデン氏作曲 旗野十一郎氏作歌  春の夕景
                       楽友会々員諸氏
十二、三曲合奏
                    箏  山勢松十氏
                    同  今井慶松氏
                    同  岡康砧
                    同  千布豊勢子氏
                    三絃 萩岡松柯氏
                    胡弓 山室保嘉氏
                    同  山村千代子


  音楽学校同声会音楽会
 音楽学校出身者より成る同声会は過七月四日上野公園音楽学校奏楽堂に於て彼の惨状を極めたりし三陸海嘯被害者のために義損音楽会を催し収入の金額は挙げて之を三県に寄贈せられたりと云う而して当日の唱歌は殊に過般の惨状を詠じたるものにして頗る聴衆一般の同情を惹起せしめたり今其曲目の全部を左に掲ぐ

第一部

一、唱歌                   楽友会々員諸氏
       甲、流れし家     作曲 ウェブスター氏
                  作歌 大和田 建樹氏
       乙、湖上       作曲 メンデルスゾーン
                  作歌 旗野 十一郎氏
二、 ピヤノ独奏              前田 久八氏
       アンダンテー(ソナタ第十四番第二号中)
                  作曲 ベートーフェン氏
三、唱歌(女声二部合唱)           内田 きく子
                       鈴木 ふく子
                       林 てふ子
                       幸 う子
       甲、なき友      作曲 メンデルスゾーン氏
                  作歌 中村 秋香氏
       乙、帰る雁がね    作曲 メンデルスゾーン氏
                  作歌 中村 秋香氏
四、ヴァイオリン独奏             幸田 のぶ子
       甲、カヴァチナ    作曲 ラッフ氏
       乙、ペルペソウーム モビレ 作曲 ボーム氏
五、唱歌                   楽友会々員諸氏
       甲、慈善       作曲 グローヴァー氏
                  作歌 中村 秋香氏
       乙、義 勇      作曲 メンデルスゾーン氏
                  作歌 旗野 十一郎氏
六、箏曲                   山勢 松韻氏
                       今井 慶松氏
  五段砧


第二部

七、ピヤノ四人聯弾              由比 くめ子
                       上原 つる子
                       塚越 くが子
                       鈴木 おとめ子
  ミニュエット(ヴェンセンゾ、ド、メグリオ氏発刊)
八、唱歌 ヴァイオリン、ピヤノ伴奏
                       林 てふ子
                       幸田 こう子
            ヴァイオリン
                       頼母木 こま子
     廃宅           作曲 グノー氏
                  作歌 中村 秋香氏
十、ヴァイオリン合奏             楽友会々員諸氏
       甲、ノクチュルネ   作曲 フィールド氏
       乙、モーメントミュージカル
                  作曲 シューベルト氏
十一、唱歌                  楽友会々員諸氏
     薩摩潟          作曲 シューマン氏
                  作歌 鳥居 忱氏
十二、箏曲 西行桜              山勢松韻氏
                       今井慶松氏
                       萩岡松柯氏
                       山室保嘉氏


  衆議院における高等中学校、女子高等師範学校、東京音楽学校の存廃論

 曩ニ衆議院ノ予算委員等ガ本題三校ノ経費ヲ全廃セシヨリ其当否ハ漸ク学者教育者間ノ論題トナリ外山文学博士ハ高等中学校ノ廃ス可ラザルヲ痛論シ経費節減ハ講スベキナリ亡国ノ策ハ唱フ可ラザルナリトマテ警戒シ増島法学士ハ之ニ対シテ少シク攻撃ノ色ヲ顕ハシタルニ外山博士ハ第二ノ意見ヲ世ニ公ニシテ大ニ其妄ヲ弁ジタリ又中村文学博士ハ女子高等師範学校ノ廃ス可ラサルヲ懇々説示シ谷田部理学博士ハ音楽ノ利害ヲ切論シテ学校唱歌ノ徳育ニ資スルノ大ナルヲ示シ従来我邦ノ俗曲ノ弊害ヲ指斥シテ仮借スル所ナク優良ナル音楽ヲ普及シテ漸次此弊害ヲ矯ムルハ最モ方法ノ宜キヲ得タルモノナルヲ論シテ東京音楽学校ノ廃ス可ラザルノ理由ヲ明ニセリ井上哲学博士ハ頃ロ衆議院議員中音楽ハ智育カ徳育カ体育カトノ問ヲ発シタルモノアルヲ聞キ慨嘆ノ余リ最モ剴切ナル一文ヲ東京新報記者ニ送リ教育史上ヨリ古今諸名家ノ音楽ニ関スル定論ヲ掲ゲ来リ衆議院議員モ紛雑喧?ノ議論ノ閑暇ヲ以テ少シ音楽校ニテモ徃イテ瀏亮タル音楽デモ聞イタナラバ心モ和ラキ情モ静ニナリテ忽チ音楽ノ効用ヲ領解スベシト諷論シ猶進デ若シ国会ノ議員ニシテ音楽ノ国家ニ必要ナルコトヲ知ラザル者アルトキハ日本文化ノ程度ハ之ニ由リテ其極メテ卑キコトヲ推知スルヲ得ベシ無用ノ費用ハ個ヨリ節減セザル可ラズト雖トモ国家進歩ノ上ニ須要ナルモノマデモ之ガ為ニ併セテ廃スルトキハ大損小益ニシテ夫学無識ノ為ニ国家ヲ誤ルコト多カルベシトノ痛切ナル箴言ヲ与ヘラレタリ其他文学士松軒居士ノ音楽学校ノ必要ノ説中井喜太郎ト云フ人ガ何ノ縁モ無キ魯人ト平氏トヲ論拠トシテ音楽学校廃セザル可ラズトノ説アリ之ニ対シテ第一高等中学唱歌教員鈴木米三郎氏ノ音楽学校存廃ノ説一喙一飲居士ノ敢テ世ノ識者ニ質ス等ノ文アリ何レモ今日教育上ノ一大問題ニ関係アルモノナレバ此ニ之ヲ韻録シテ社員諸君ノ閲読ニ供スルコトヽセリ
  ( 明治二十四年二月 「 国家教育 」第五号 )

 そんな時、音楽学校や師範学校などの存廃論も出ているので、その時の記事を紹介しよう。

   ( 明治二十四年二月 「 国家教育 」 第五号 )

  音楽学校論
矢田部良吉
 頃日東京音楽学校を廃止すべしとの説ありと聞く余此事に付少しく意見あれば今之を簡略に開陳して以て識者の教を乞はんと欲す
 音楽は風教上教育上欠く可らず 音楽の風教上必要なるは東洋西洋を問はず先哲の既に論ぜし所にして今又喋々するを要せず輓近我邦に於ては教育家の音楽に注意する事益々多く徳性涵養の為め発生機呼吸機八達の為めに諸学校に唱歌科の設あるに至れり此事たる欧米諸国に於ては多年行はれて好結果を呈したるものにして我邦に於ても亦続々其結果の善良なるを報ずるものあり「君が代」の歌の如き 「 天長節の歌 」 の如き 「 紀元節の歌 」の如き忠君愛国の感情を喚起するもの 「 父子親ありの歌 」 の如き道徳の大本を教訓するもの 「 蛍の光 」 の如き友愛の情を勃興せしむるもの其他勇気を鼓舞するもの審美的感情を発達せしむるもの等学校唱歌中に多し其曲と云う其辞と云い自動が学習の間に於て之を謡ふのみならず遊技の間にも喜で之を謡ひ不知不識の間に徳育の補助を為すこと夥多し唱歌科を学校課程中に設けたるは実に明治教育家のの大功とすべきものなり
 我邦俗曲の卑猥なる事  偖眼を転じて我邦俗歌の如何なるものなるやを尋るに其曲と云ひ其辞と云ひ野鄙猥褻を極め言語道断なるもの比々是なり古の聖賢は音楽の風教上緊要なるを論ぜしと同時亦鄭声の悪むべきを論じたり而して我邦の俗曲如きは其最も甚しきものなり余は之を此に引証するをも嫌忌する所なれども余の言辞の決して不当ならざるを説明せんが為に其一二を此に摘出せん
 古今端唄大全と云ふ一小冊子あり然かも明治十六年九月十七日出版届済の書なり世間比類の書多しと聞く此の如き書の届済になりて居るは余の訝る所なり余を以て之を見れば啻に普通道徳を破壊するのみならず刑法第二百五十九条にも抵触するものとせざるを得ず余此書中の唄一二を掲げんとして掲ぐるに忍びず筆止めたること数回なれども今勇気を振ひて一二を挙ぐれば

一 口説廃して痴話うち消してどふでも主は寝なんすかと云つゝ(以下書くに忍びず)
二 燈火かくして夜着引被て ( 以下書くに忍びず )
三 暮て寝るのになにはゞかろふ ( 以下書くに忍びず )
四 お竹さん・・・・ の毛がながいな・・・・
五 「禿紋日雛形」は遊郭の情況を記し「明烏夢泡雪」(一名浦里時次郎)は娼妓口舌して思はせぶりなにくらしい ( 以下書くに忍びず )
六 まてどくらせど女郎衆はこない ( 以下書くに忍びず )
七 因州因幡の鳥取川の ( 以下書くに忍びず )

 又此に常磐津本数種あり此類は端唄よち一層丁寧反復して長たらしく卑猥の事を述べたるものなり例えば 「 濃楓色三股 」 ( 一名高尾 ) は娼婦となりても情夫に操を立つればよしとの心得違ひを記し 「 倭仮名色七文字 」 は源太に擬して遊郭の状況を記し 「 藪橋誰転寝 」 は娼妓と遊次郎との口説の真況を記しが遊次郎に情を立て何程呵責を受けても改めず遂に出奔する事を記し 「 七条河原新釜煎の段 」 ( 一名石川五右衛門 ) は勧悪の虜あり 「 三世草錦文章 」 ( 一名お園六三 ) は兄殺しの芸妓、放蕩の情夫、強慾の兄、情死の仕損じ、道行き、冥土の道行き迄を記す又此に清元本数種あり其卑猥なる常磐津本に一歩を譲らず例へば 「 袖浦誓中偕 」 ( 一名お駒徳兵衛 ) は或る屋敷に奉行中不義を働き女夫となることを記し 「 其噂桜色時 」 ( 一名おしゆん伝兵衛 ) は義理を立つる為め淫事以て人を誘惑することを記し 「 梅柳中宵月 」 ( 一名清心 ) は娼妓破戒の僧と固く契り其胤を宿し遊郭を出奔し痴情の極遂に情死するを記し 「 其噂吹川風 」 ( 一名玉屋新兵衛 ) は遊次郎と芸妓の情死を記し 「 月友桂川浪 」 ( 一名お半長右衛門 ) は幼き時養育したる女子と伊勢参詣の帰途通じて遂に情死するを記す
 此他皆大同小異なり其記事卑猥なれば其言辞も亦卑猥ならざるを得ず今之を摘出するを要せず
 俗曲は下等社会の教科書なり 上に列挙せる端唄常磐津清元等は下等社会の最も学ぶ所にして其余波上流社会にも亦達せり殊に常磐津清元等の如きは不徳の方法順序を丁寧親切に教導するものなり下等社会の者は之聴き之を習ひ之を暗唱して頭脳に染み込み居れば其感化力実に強大にして学校教育の比に非らず故に余は曰んとす俗曲本は下等社会の終身教科書なり 「 バイブル 」 なりと然るに此教科書たる学校読本の如く面白からざるものに非らずして凡夫の凡情に訴へ卑猥心に訴ふるものゝみならず加ふるに卑猥の音曲を以てするものなれば感化力のみより云へば天下無双教育社会絶無の好教科書なり此の如き無二の教科書を以て薫陶せられたるもの豈卑猥の事を耻辱とするものあらんや宜なる哉日本の都市至る処大道の両側娼家を列せざるもの無きに非ざると日本の婦女は東洋到る処支那に印度に浦鹽斯徳に布哇に澳斯太利亜に淫を売り国辱を海外に晒すことを、我邦の西洋諸国と対峙する事は我等日本人の常に切望する所なれども我邦社会にして欧州人の賤む所とならば仮令条約改正に於て満足なる結果を得るとも安ぞ交際上対等なる事を得べけんや世に廃娼妓論者あり余は其心志を賛成すと雖ども廃娼論を唱ふると同時に我邦下等社会学校外の教育の改良に注意するに非らすんば惜むらくば其計画は水泡に属せん恐くは末を先にして本を後にするに了らん
 俗曲改良の方法  前述の如くなれば俗曲は到底改良せざる可らす然れども此事たる決して容易の業に非らす個より法令を以て之を改良する事態はず仮令端唄常磐津清元等を禁止し得るとするも人は各発声機関あり聴機関あるものなれば何か之れに代へて謡ふべきもの聴くべきものなくんばあるべからず国の開明と草昧とを問わず未だ曾て音楽なきものあらす故に俗曲改良の事は徐々として之を計画するの外なし其方法は左の三条を以て良とするは識者の普く認定する所ならん

 第一 学校唱歌を盛にする事
 第二 俗曲中取るべきものは或は之を取り或は修正を加ふる事
 第三 優美高尚なる音曲の嗜好を奨励する事

 右三条の内第一は最も行ひ易くして最も勢力ある者なり如何となれば純良唱歌の発声機関を発達せしめ徳性を涵養するは幼児にありて其功最も著しければなり其行ひ易き一例を挙げれば高等師範学校にては貧民子弟の教育に供する単級教場の設あり初めは此教場に於て児童が休暇時間等に「おやばかちゃんりん」の如き野鄙の歌を謡ひて之を制するも聴かざりしが小学唱歌を教ふるに至り休暇時間と雖も帰宅の後と雖とも野鄙の歌を謡ふものなく皆な音律言辞の端正なる唱歌を謡ふに至り所謂る徳孤ならず必ず隣ありにて近隣の児童も之を謡ふに至りたりと此の如き類例は余が東京のみならず二三の県に於ても親しく見聞せし所なり第二の方法は俗曲中箏曲の如きは見るべきものあれば之を少しく修正し且つ西洋風の楽譜を以て之を記し学習に便ならしめば益々流行するに到るべし第三の方法は音楽会を数々開設する等の手段に依て世人をして優美なる音楽を聴くに慣れしむるにあり斯くして漸次に鄙猥の音楽を廃して純良の音曲の流布せん事を図らざるべからず

 東京音楽学校の事  右の方法を施行するには音楽学校を設立して音楽上の研究と教授とを為さしむる事極めて緊要なり而して東京音楽学校は既に此事に従事して其成績も亦顕著なり蓋し現今全国の小学校に唱歌科の設ありて学齢児童が鄙猥の歌曲を謡ふを止め純良なる者を以て之に代へ加之天長節紀元節等には挙で聖天子の盛徳を頌し皇国の隆盛を祈るの唱歌を合唱するに至りたるは即ち東京音楽学校の力なり其他俗曲修正の事優美なる音楽会開設の事等此学校の目的とする所なり而して此校より出でたる数十名の卒業生は概ね皆地方に於て教員となり唱歌の教授を担当せり斯かる次第なるを以て我邦音楽の為めには東京音楽学校を永存する事極めて緊要なり

 結論  然れども或は曰はん音楽学校の設立は緊要なれども之を官立とするの必要なしとされど此の如き学校は教育上大に国家に関係ある者なれば一箇人の勝手に任せ若くは一派の宗教会社の如きものに任せて其執る所の特殊の主義に依らしめんよりは寧ろ日本国が日本の国費を以て不偏不党の学校を設立し永遠の結果を図るに如かず而して現今の東京音楽学校が要する所の金額は一ヶ年僅かに一万二千円なりと聞く此些少の金円を惜みて設立以来数年を経既に好結果を収め尚一層進歩せんとするものを一朝にして廃止せんとするが如きは決して策の得たるものにあらざるなり。

―― 軍楽隊誕生 ――

 わが国に軍楽隊が誕生したことは富国強兵のスローガンを掲げた明治政府としては、文化国家としての目標ではなく西洋の軍楽が従来の邦楽より一層、国民の志気を高め鼓吹するところに注目した為だった。軍隊を作っても琴、三味線と云う日本古来の邦楽よりラッパや太鼓、そして大編成の西洋の軍楽にこそ富国強兵にふさわしい音楽と判断したのだった。
 西洋軍楽の歴史はすでに慶應ケイウ元年に江戸西丸下の定番役出張警備の往復にイギリス歩兵一大隊砲兵一小隊陸軍軍師一行が横浜より行進、軍楽はオランダ式鼓隊であった。
 そして明治二年に薩摩藩より鼓隊二十名が軍楽伝習の目的で上京、イギリス軍楽隊長フェントンより伝習を受けている。このフェントンより伝習されたところが日本吹奏楽発祥の地として今でも横浜に残っている。
 薩摩藩は翌年、イギリスに注文した楽器が到着し、フェントン作曲の天皇への頌歌が演奏 された。明治二十一年陸軍外山学校で初めて軍楽隊生徒募集したが、その時の召募広告は次の通りであった ( 原文のまゝ )

 今般軍楽生徒五十名召募し検査の上官費入学を許す。志願者は来る八月二十日限り府県庁を経て当校へ出願すべし。其召募検査は追て当校に於て施行す。但し年令十六年以上にして体格強健歯列斉密身長五尺に達すべき見込ある者 〜 検査科目 〜
一、 読書、日本略史若くは兵要日本地理小史等
一、 作文、通俗往復文但作文の巧拙をも併せて検査す。
一、 算術、四則雑問及単比例
            明治二十一年六月
            陸軍外山学校

 この様な広告に見られる通り、検査科目に音楽の問題がひとつも無く、体格強健と云うところにその後の日本軍楽隊の将来が暗示されていたと私は思う。太平洋戦争が終戦を迎え、日本各地にアメリカ進駐軍が占領策として駐留した時、私達少年達もアメリカの軍楽隊の演奏を聴く機会があったが、その時のプログラムには声楽、合唱、ピアノ独奏があり、吹奏楽だけでない曲目が沢山演奏された。 「 へえ!軍楽隊ってやっぱり音楽家なんだ 」 。私達は日本の軍楽隊が一糸乱れぬ整列をしてラッパと太鼓で行進する姿を見ていただけに大変なショックを受けたものだ。アメリカの軍楽隊は音楽家の集まりだった。其後上京して私は東京フィルハーモニー交響楽団の一員となったが、団員の中には軍楽隊出身も沢山居て、その教育ぶりや活動の一端を聞くことが出来た。
 先ず陸軍々楽隊はフランス式で海軍々楽隊はイギリス式であったことも初めて知ることが出来た。楽器の名称も陸軍と海軍では違っていた。音名も違っていた。
 何故こうなったかは明治時代まで遡らなければならないが、例えば楽器の名称もフランスとイギリスでは違っている。
 少し楽器名を紹介しよう。

  日本名        英語       仏語
 フルート       Flute       Flute
 オーボエ       Hoboy       Hautbois
 イングリッシュホルン English Horn   Cor Anglaise
 ファゴット      Bassoon
 ホルン        Horn        Corno
 トランペット     Trunpet      Tromptte
 トロンボーン     Tronbon      Tumbon
 チューバ       Tuba        Tuba

 イギリス名とフランス名では同じ呼び方でもスペルが違っているだけで同じ呼び方もある。いづれにしても初めて日本にお目見えした楽器だけに当時の日本人は先ず楽器の呼び方に苦労したのである。トロンボーンを眞鍮引延し器 ( シンチュウ・ヒキノバシキ ) 、ホルンを眞鍮曲がりくねり器 ( シンチュウ・マガリクネリキ ) と呼んだと云う。まるで落語のネタになる様な話であった。海軍々楽隊は平和な時代であれば世界の各都市を訪問し演奏会を披露したりするので見聞を拡める機会に恵まれたが、陸軍々楽隊は国内に居ることの方が多い。日本がアジア諸国、中国や満州に進出した時、各地に駐屯する兵隊を慰問したりすることはあってもイギリスの様に世界中に植民地を持ったため、その治安維持と啓蒙のために軍楽隊が常時に駐屯することはなかっただろう。
 除隊し民間のオーケストラに再就職した元軍楽隊員はいざ戦争となれば武器を取って戦わなければならない。そのための訓練が音楽の訓練より厳しかったと云う。楽器が上手になることより、身体強健で戦争の時に役立つ兵士の教育の方が大切であったのである。しかし軍楽隊の歴史を検証すると、若し軍楽隊がなかったら日本のオーケストラは育たなかったのでないかと思う。特に日比谷公園音楽野外堂での演奏会はどれだけ国民を啓蒙したか知れない。
 その幾つかを紹介しよう。

 日比谷公園内音楽堂の演奏は各月最終の日曜日午後四時より開催される様になったが、この演奏会のきっかけを作ったのは来日したイギリスやドイツの軍楽隊であった。軍楽だけでないクラシックの曲を編曲したものが多く、編成間もない日本の軍楽隊発展のきっかけを作った。日比谷公園内音楽堂の演奏はステージが改装されて今でも行われている。私も東京フィル時代、何度か演奏した経験もある。


日比谷の演奏

 来る二十八日 ( 雨天ならば翌二十九日 ) 午後七時より九時迄海軍々楽長吉本光蔵氏の指揮の下に左の曲目を奏する曲

第一部
一、北米合衆国国旗行進曲 スーザー作
二、歌劇ネブカチザール王序曲 ヴェルヂク作
三、マンドリエーター伊太利府歌曲 ザラデイル作
四、朝報 ワルス舞曲 ストラウス作
五、帝国波蘭風舞曲 イーヴァンス作

第二部

六、歌劇露帝と木裳抜翠曲 ロルテイング作
七、口中の消息 コルネット独奏曲 シェッファー作
八、聖謡曲天地創造の中合奏曲 ハイドン作
九、准歌劇(日本芸妓)抜翠曲 ジョーンスヂ作 十、 ( ラチーヴ ) 仏国陸軍行進曲

  (明治三十八年八月八日 東京日日新聞)

  (明治三十九年六月十日 時事新報)


日比谷の演奏

 日比谷公園内音楽堂の演奏は各月最終の日曜日午後四時より永井建子氏の指揮の下に演奏する筈なりしも生憎くの雨天にて延期となり尚ほ本月第一日曜日も楽手の方に止むを得ざる差閊ありて是れ亦演奏の場合に至ざりしが十日にして晴天ならば午後四時より既報の曲目を演奏する由因に五月最終の日曜日に配布したる入場券は無論其効力を有し居るなりと、

  (明治三十九年六月十七日 報知新聞)

日比谷の演奏
 本日午後四時より日比谷公園音楽堂に於て奏する


日比谷の演奏

 来る二十四日午後四時半より日比谷公園音楽堂に於て開く海軍々楽の演奏曲目は
第一部
祝婚 ( 行進曲 )  メンデルスゾーン作曲、
仏国風喜劇 ( 序曲 )  ケラペラ作曲、
金髪の美人 ( ウォース舞曲 )  ゴッドフレイ作曲、
歌劇共同射的 ( 抜翠曲 )  ウェーバー作曲、
観劇鐘 ( 方舞曲)カール作曲 
第二部 挨及風 ( 行進曲 )  ストラウス作曲、
歌劇ツアンパ ( 序曲 ) ヘロールド作曲、
告別 ( 小夜曲 )  ヘルフルド作曲、
歌劇アリエン ( 大詰の曲 )  オー、バッハ作曲、
三鞭酒 ( ガロップ舞曲 )  ルムピイ作曲

     ( 明治三十九年 「 音楽新報 」八月楽歌号 )


日比谷の演奏

 来る二十八日 ( 第四日曜日 ) 午後三時より ( 雨天の節は次週日曜日に繰下ぐ ) 吉本海軍楽長指揮の下に催さるる奏楽曲目は左の如し、
△ 第一部
一、花の面影 行進曲カムベル作
二、歌劇(ウヰンゾルの三人女房)大序曲ニコライ作
三、牛斗の勇士 西班牙風ワルス舞曲トランスチュール作
四、菩提樹の歌 歌曲シューベルト作
五、笑談バ(マ)ンドリン独奏曲グランドジョーンス作
△ (独奏者安村楽生)

△第二部
六、歌劇(タンホイゼル)行進曲ワグネル作
七、歌劇(アンゴー夫人の娘)抜翠曲レコック作
八、春鶯囀 ポルカ舞曲ソロヴヰオーフ作
九、歌の花束 接続曲エッケルト作 十、廻遊列車 カロップ舞曲ハイエル作

  (明治四十年五月「帝国文学」第十三巻第五号)

 日本の楽隊は日本に於けるオーケストラの先駆者となったが、音楽学校がピアノや声楽・作曲などに力を入れたのに、弦楽器の専攻する科がなかったこと、そして管楽器専攻の科も戦后生まれたことを知ることは驚きであった。
 軍楽隊はその点、将来のオーケストラ誕生を予想してかどうかは知らず、副科として弦楽器を専攻させたことは賢明であった。そのため終戦になった時、ヴァイオリンの指導者になって副業として活躍した者も居たくらいである。
 しかし、日本の軍楽隊は志向として“音楽家”を育てることではなく“強健な身体の軍人”を育てることであった。出来ない所を何度も練習させたり、そのため常に鉄拳制裁があったことは、戦後復員した兵士達に依って、学校吹奏楽などで幅をきかせたことは残念で、現在も吹奏楽コンクールなど出場のために日々行われている学校が多いのは残念である。

日比谷公園内音楽堂
注1 早稲田大学創立二十五周年第一回演奏会
   明治四十年十月
注2 三越少年音楽隊開始
   大正二年二月

参考文献 日本の洋楽百年史 第一法規
Updated 9 September , 2019