Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 40 号 平成 27 年 ( 2015 年 ) 6 月 1 日

寄稿 洋楽今昔物語
明治・大正の洋楽 その七

佐藤 昌之

 大正時代のはじめ、新聞に次の様な記事が載っていたので紹介しよう。 " レコード安くなるべし " と云うタイトルで 「 活動写真の流行で同じ比例で大流行を極めているのは蓄音器である。
 この中で一番盛んなのは日本蓄音器商会で一年の利益は百二、三十万円の多きに上がりこれから営業費を控除しても優に七、八十万年の純益があると云う位である 」( 注 1 )
 出版、新聞、映画などと並んで大正期にはレコード産業が急速にその市場を拡大した。これは新しく音楽愛好家を獲得する重要な媒介となった。大正後期には世界の一流音楽家がぞくぞくと訪れて、日本を有力な消費市場に加えたがレコードに依ってこれら音楽家の演奏が知られていたと云うことは、彼等にとって著しく有利であった。これは明治期に地方に普及した洋楽が学校音楽を中心になされていたのに対し、新しい洋楽伝達方法の手段となった。と同時にこれはまた自らの国の音楽家が育つ前に聞く者の耳ばかりが肥えてしまうと云う西洋コンプレックスにも拍車をかけることになった。レコードで耳の肥えた愛好家は主としてインテリ層に多かったが、たとえば文芸評論家の小林秀雄の様な音楽を芸能 ( 娯楽 ) より次元の高い美学 ( 哲学 ) と見做してモーツアルトを語り、エッセイに残し生涯迄音楽を愛した人も居た。その中からモーツアルトを語ったエッセイを紹介しよう。( 注 2 )
  「 もう二十年も昔のことをどんな風に思い出したらよいかわからない様であるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた九時、突然モーツアルトのト短調シンフォニーの有名なテーマが頭の中で鳴ったのである。

モーツアルト ト短調シンフォニーのテーマ

 僕がその時何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そう云う自分でも意味のわからない、やくざな言葉で頭を一杯にして犬のようにうろついていたのだろう。」 ともかくそれは自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。
 街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。
 ぼくは脳味噌に手術を受けたように驚き感動で慄えた。百貨店に駆け込みレコードを聞いたが、もはや感動は還って来なかった。自分のこんな病的な感覚に音楽があるなどと云うのではない。モーツアルトの事を書こうとして自分の一番痛切な経験が自ら思い出されたのに過ぎないのであるが、一体、今自分はト短調シンフォニーをその頃よりよく理解していたのだろうか・・・と云う考えは無意味とは思えないのである。
 僕はその頃モーツアルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて大事にして居た。
 それは巧みな絵ではないが美しい女の様な顔で何か恐ろしく不幸な感情が現れているみたいな奇妙な絵であった。
 モーツアルトは大きな眼を一杯に見開いて少しうつむきになって居た。人間は人前でこんな顔が出来るものではない。彼は画家の眼の前に居る事など全く忘れてしまっているに違いない。二重瞼の大きな眼は何も見ていない。世界はとうに消えて居る。ある巨きな悩みがあり彼の心はそれで一杯になっている。眼も口も何の用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いていているかも知れぬ。頭髪にかくれて見えぬ。ト短調シンフォニーは時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに違いない。」

小林 秀雄

 長い引用になったが、私が若い頃、東京フィルでモーツアルトのシンフォニーを演奏する時、いつも小林秀雄のエッセイを思い出して居た。
 小林秀雄はこのエッセイを一九四六年 ( 昭和 21 年 ) に書いているが二十年前の思い出となっているので著者の大学卒業の頃、青春時代の思い出だろう。生のオーケストラが日本に出来てまだヨチヨチ歩きの頃、レコードによって耳の肥えた愛好家がこんなすばらしい芸術観を持っていたとは驚きである。
 モーツアルトを演奏する時、すぐれた指揮者がいつも 「 子供のような気持ちで演奏しなさい 」 とアドヴァイスしてくれたが、つまり技巧的でなく楽譜通りに演奏することを要求したものだ。
 実際の演奏では作曲者が 「 こうして欲しい 」 と云う要求が記されているが、指揮者や奏者は、それ以上の表現を目指すのが常である。 「 子供のように・・・ 」 とは楽譜通りに忠実に演奏するとよいのである。
 モーツアルトは頭の中で考えた音楽を楽譜に書き写すとき、すでに完璧だったと云う。楽譜に書いてから修正したり補足したりしなかったと云う。モーツアルトの旋律は誰かが真似出来そうに思うが出来ない・・・・・不思議な作曲家だ。小さい時から神童、天才とうたわれたモーツアルト・・・・・・演奏の上手、下手の批評ではなく小林秀雄のような音楽論がやがて洋楽を手本にした作曲家の誕生へとつながって行くのである。

補足

 モーツアルトは三十五才で四十一曲のシンフォニーを作ってこの世を去ったが、残された作品は後にケッヘル( 注 3 ) によって整理番号がつけられこの世に残された。モーツアルトは生前 500 曲程作曲しているが発刊されたのは僅か七十四曲ばかり、故に妻コンスタンツェの浪費癖もあったが生活は豊かだった訳でない。死后借金一〇〇グルーデン残し、埋葬場所も知らなかったコンスタンツェは七年後にデンマークの外交官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚するがニッセンから 「 お前の前のヴォルフガンクはすごい作曲家だった 」 と聞かされる迄モーツアルトの偉大さを知らなかったと云う。
  " 悪妻コンスタンツェ " と後々云われるが本当のことは本人の我々には知らないことが多い。

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 レコードに依って洋楽が普及され、来日する世界の音楽家達も増えて来た。そのため時々開催される邦人の音楽会など軽蔑されるようになった。当時行われた外人音楽会の幾つかを紹介しよう。先ず大正十年九月二十一日夜からロシア大歌劇団が来日、九月二十九日に次の歌劇が帝国劇場で上演された。
 カルメン、セヴィラの理髪師、ラ・トスカ、道化師、リゴレット、ロミオとジュリエット、トロバトーレ、タイス、ラ・ボエーム、ミニヨン、どれも有名なオペラだが昼夜にわたるものも三日あって、出演者にとって大変な舞台だったことが想像出来る。帝国劇場は今は新しくなったが、私が在京中の頃はとてもオペラなど上演出来るステージではなく、宝塚歌劇団などがよく出演していた。
 指揮者はフェールスト、そして出演者の名前は出ているがオーケストラについては書いていない。また演奏についての批評も載っていない。
 ロシアと云えば丁度日露戦争が終わって十年ちょっとしか経ていない時期にわざわざ遠いロシアから来日とはご苦労様と云いたいが、おそらくロシアの南下政策の一環として当時の清国から租借していた旧満州のハルピンからやって来たのだろうと思う。
 オペラについては前号で少しふれておいたが初めて外国人だけのオペラを観た日本の観客は熱演中の歌手の声を聞いて驚いた様だ。なかには笑いをこらえて座席を立った人も居たと云う。浪花節とか、どちらかと云えば声を張り上げず低音志向の声を出す日本の発声に比べ西洋のソプラノ特にコロラチュラのような小鳥のかん高いさえずりの様な発声は多くの日本人客を驚かせたようだ。
 その後フランスからもオペラ団が来日し公演するが、前回のロシアからのオペラ団より批評はよくなかった。来日音楽家達はその后続々やってくるが、その中から幾つかプログラムを紹介しよう。

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( 大正十一年一月二十九日 日比谷公園音楽堂 )
    ジョッフル元帥歓迎日仏交勘音楽大演奏会 ( 主催 東京市役所 )
    演奏者 仏国海軍モンカルム号軍楽隊
        日本海軍東京派遣軍楽隊
第一部  ( 心からの歓迎に意を表すために ) 日本海軍軍楽隊 田中楽長指揮
    一 大序曲 「 祖国 」 ビゼー作曲
    二 仏蘭西軍隊行進曲 サンサアン作曲
    三 歌劇 「 ファウスト 」 抜粋曲 グーノオ作曲 「 ラ・マルセーユ 」
第二部 モンカルム号軍楽隊 ヴぇらっく楽長指揮
    四 行進曲 「 イエナ ] ファリゴール作曲
    五 歌劇 「 聯隊の娘 」 抜粋曲 ドニゼッチ作曲
    六 歌劇 「 香具師 」 意想曲 ガンヌ作曲
    七 ボレロ曲 「 トレデの祈念」 ブレマン作曲
    八 歌劇 「 ミレイユ 」 意想曲 グーノオ作曲
    九 行進曲 「 別れの歌 」 「 君が代 」

( 大正十一年十月十四、十五、十六、十七日帝国劇場 )
    カスリン・パーロウ女史 バイオリン大演奏会
十四日曲目     一 司伴楽、 第四、短ニ調、作品三十一  ビュータン作曲
    二 ソナタ、悪魔のとりる  タルティーニ作曲
    三 ( イ )  ヘブリュープレイヤー  アクロン作曲
      ( ロ )  ロンド        モーツアルト作曲
      ( ハ )  ラ・ギタナ( 18 世紀のスペインジプシーの歌 )
                        クライスラー作曲
      ( 二 )  班牙利亜部曲  ブラームス・ヨアヒム作曲
    四 ( イ )  インディアン・ラメント  ドボルジャック作曲
      ( ロ )  ゼ・カックー  ダキー・マーネン作曲
      ( ハ )  ツィゴイネルワイゼン  サラサーテ作曲
十五日曲目
    一 司伴曲、 長二調、 作品三十五、第一楽章  チャイコフスキー作曲
    二 ソナタ、 長ホ調  ヘンデル作曲     三 ( イ )  クレシ・バラータ  スック作曲
      ( ロ )  アパショナータ  スクク作曲
      ( ハ )  歌のつばさ  メンデルスゾーン作曲
      ( 二 )  カプリース、二十四番、  パガニービ作曲
    四 ( イ )  カプリースヴィノアー  クライスラー作曲
十六日曲目
    一 司伴曲、 長ニ調  パガニーニ作曲
    二 チャコンヌ、モルト・モデラート  ヴィタリ作曲
    三 ( イ )  ローマンス  ベートーベン作曲
      ( ハ )  太陽への賛歌 ( 金鶏 )  リムスキー・コルサコフ作曲
      ( 二 )  モルトモルト・ベルベトウオ  フランクリン、ブリッジ作曲
    四 ( イ )  ノクターン、変ホ調  ショパン作曲
      ( ロ )  スーベニア・ド・モスコー  ヰニアウスキー作曲
十七日曲目
    一 ソナタ、変ホ調、作品十八  リヒアルド・シュトラウス作曲
    二 司伴曲、短ニ調、  ヰニアウスキー作曲
    三 ( イ )  アベ・マリア  シューベルト作曲
      ( ロ )  スピンリード  ポッパ・アウアー作曲
      ( ハ )  アン・パーティユー  デビュッシー作曲
      ( 二 )  ハンガリアン・ダンス  ブラームス・ヨアヒム作曲
    四 ( イ )  ギターレ  モス工スキー作曲
      ( ロ )  ヴァルス  チャイコフスキー作曲
      ( ハ )  ハバネラ  サラサーテ作曲
          洋琴伴奏 セオドール・フリント氏 ( 御入場料 特等金十円、一等金八円、 二等金六円、三等金三円、四等金二円 )

( 大正十一年一月一日 〜 五日 丸の内帝国劇場 )
 レオポールド・ゴドウスキー氏 ピアノ代演奏会
    一 ソナタ ( アッパショナタ ) 作品五十七  ベートーベン作曲
    二 ( イ )  無言歌 作品六十一の一 ト長調、
              作品六十七の四 変ホ調  メンデルスゾーン作曲
      ( ロ )  ラプソディ 作品百十九の四 変ホ調  ブラームス作曲
    三 ( イ )  ソナタ 作品三十五 変ロ単調  ショパン作曲
      ( ロ )  ベルソース           ショパン作曲
      ( ハ )  ワルツ 嬰ハ単調        ショパン作曲
      ( ニ )  三つのエチュード 作品十の十一 ショパン作曲
      ( ホ )  ポロネーズ 作品五十三 変イ調 ショパン作曲
    四 ( イ )  歌のつばさに  メンデルスゾーン・リスト作曲
      ( ロ )  コンサート スタディ第2番  リスト作曲
      ( ハ )  カプリッシオ  ドーナニイ作曲
      ( ニ )  トッカタ ( 第五司伴楽より ) 作品百十一

 昨秋来朝して帝劇に独奏会を催した洋琴対価リオポールド・ゴドウスキーは其後支那及南洋方面の演奏旅行を終り米国への帰途再び夫人同伴にて日本に訪れたが氏は来る十八九の両夜二十一お呼びの午後二時より有楽座に洋琴独奏会を開き本月下旬渡米する。

( 大正十二年四月十八日、十九日、二十一日 有楽座 )
       聖楽ゴドウスキー氏、ピアノ独奏会
                  ( 主催 白十字後援会 )

( 大正十一年十二月十日  「 音楽界 」十二月号
 盛況裡に帝劇の演奏会を終演したゴドウスキー氏は、六日午後山本帝劇専務の案内にて御学区学校を訪問し、夜は八時より徳川頼貞氏夫妻の斡旋にて南葵文庫に良子女王殿下初め奉り、御在京各宮妃殿下、姫宮を全部御案内申上げ、その御前に於晴れの演奏をしたが、右につき当時山本専務の語た所では声楽やヴァイオリンと違ってピアノの事であるから、一般的にどうかと思ひましたが予想外の成功でした。今夜の御前演奏に就いては徳川頼貞氏から予め報酬の点に就いて打ち合わせがありましたので私はおそらく要らぬというだろうと申したが、尚念のため本人に話すと私は商売人ではない、これが音楽香イに出演しろというなら報酬をもらうが、こうした席へ出る事でもあり心の喜びから一生懸命にやろうと思うが、報酬が出るならどんな後期の方の前でも自分は一切やらぬ。もし報酬が出るなら御断りして呉れという事でした。やはりン楽教育者として立っているだけに心持が違っているようですと、之までエルマン、ハインク、人馬リストなど楽会の名手来朝せるも書く宮お揃いの御前にて演奏するは氏が嚆矢であった。

( 大正十一年五月一日 帝国劇場 ) ジンバリストし大演奏会
ジンバリスト氏演奏曲目
第一日、五月一日
     A フォリイ、デスパァニュ   コレルリ
     B コンチェルト        パガニーニ
 ( 休憩時間 十五分 )
     A シャコンヌ ( ヴァイオリン独奏 )   バッハ
     B ハンガリアン・ダンス ニ調 ホ調  ブラームス・ヨアヒム編
 ( 休憩時間 十五分 )
( 曲目開設及ジンバリスト氏夫妻アッシュマン氏略伝等を記せる綺麗な本が二種ござります )
( 御入場料 特等金十五円、一等金十三円、二等金八円、三等金四円、四等金二円 )

  ( 五月二日 )
     A 短ニ調奏鳴曲  ブラームス
     B コンチェルト ( ト調 )   ブルッフ
  ( 休憩時間 十五分 )
     A 夕べの歌  シューマン・ヨアヒム
     B 花火  ドント・アウエル
     C 維也納舞曲  ゴッドフスキー
     D 舞曲   シリル スコット
  ( 休憩時間 十五分 )
     A 懸賞の歌  ワーグナーウヰルヘルミ
     B  「 金鶏 」 の幻想曲 リムスキー・コルサコフ、ジンバリスト
  ( 休憩時間 十五分 )
     A 奏鳴曲  ヘンデル
     B コンチェルト  ヘンデル
  ( 休憩時間 十五分 )
     A ミュゼット  ラモー
     B ヴィヴァーチェ  ハイドゥン−アウエル
     C プラエラ  サラサーテ
     D ザパデアード  サラサーテ
  ( 休憩時間 十五分 )
     A フォースト幻想曲  グノー‐ウィーニアフスキー

  ( 五月三日 )      A コンチェルト  ヴィバルディ
     B 西班牙交響曲  ラーロ
  ( 休憩時間 十五分 )
     A 華想曲ク  ベートーベン
     B アンダンティーノとプレスチッシモ  レーガー
  ( 休憩時間 十五分 )
     A ユモレスク  ヨーク ボーウィキン
     B タンブラン シアノ  クライスラー
     C チゴイネルの歌  サラサーテ

     A スウィト ( イ調 )   シンディンク
     B コンチェルト ( ニ調 )   ヴェ(*ユ)−タン
  ( 休憩時間 十五分 )
     A ラロネット  グリンカ‐アウワア
     B アンプロンプテユ  トール、アウラン
     C カプリス  カプリス  サンサアン‐イザエ   ( 休憩時間 十五分 )
     A ロマンザ、アンダレーザ  サラサーテ
     B ホータ、なヴァルラ    さらさーて
    ( 伴奏者 グレゴリィ アッシュマン氏 )

( 大正十年七月二十二日、二十三日 帝国劇場 )
  世界的バイオリン大家ピアストロ氏大音楽会 二十二日演奏曲目
               ピアノ伴奏 近藤柏次郎氏
    一 ソナタ ( 長ホ調 )     ヘンデル作曲
    ニ 司伴楽 ( 短ニ調 )     ウイニアウスキー作曲
    三 ( イ ) ひばり       グリンカ・アウアー作曲
      ( ロ ) 印度の歌      リムスキーコルサコフ作曲
      ( ハ ) ラ・カプリシウス    エルガー作曲
    四 ( イ ) さびしき流浪者    グリークピアスヨロ作曲

  二十三日演奏曲目
    一 司伴楽  ( 短ホ調 )     メンデルスゾーン作曲
    ニ 大露西亜幻想曲    リムスキーコルサコフ・アウアー作曲
    三 ( イ ) エリ・ザイオン    アクロンアウアー作曲       ( ロ ) ワルス・カプリース    ウイニアフスキー作曲
      ( ハ ) ラ・ギタナ( 十八世紀西班牙古曲 )     クライスラー作曲
      ( ニ ) 土留古行進曲    ベートーベン‐アウアー作曲
    四 ( イ ) アンダンテ・カンタビーレ    チャイコフスキー作曲
      ( ロ ) 露西亜の謝肉祭    ウイニアフスキー作曲
( 入場料 特等金七円、 一等金五円、二等金三円五十銭、三等金ニ円五十銭、四等金一円五十銭 )
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 この様に当時世界的な超一流の音楽家が続々日本へやって来た。その一方で日本の音楽家も育って来た。そのひとりテナー歌手の藤原義江について述べてみたい。義江と云う名前は女のひとかと勘違いする人も多いが、一時期日本の声楽界を風靡し " われらがテナー出現 " と云う見出しで新聞にも大きく載せられ日本の楽壇に新風を吹き込んだ人である。

藤原義江
藤原義江

 彼は若い頃、戸山英次郎と名乗ってアサクサオペラで活躍していたが、 もなくヨーロッパに留学しクラシックの世界へと転身したのだった。彼はイギリス人(スコットランド)と日本との混血児で日本人離れした風ぼうと動作は早くからオペラ界に注目されていた。  しかし彼が目指したのは日本の歌曲であった。彼が得意とした曲は " からたちの花 "  " 出船 " " 波浮の港 " など山田耕筰作曲などの作品が多く、それは " 藤原節 " として多くの観客を魅了した。藤原の他にも永井郁子、荻野綾子、四谷文子などがやはり日本歌曲、邦語歌曲などの道をきり開いて居た。日本人が日本の歌を求めると云う至極当然な要求が芸術上でも満たされはじめ、昭和期に入ると歌に止まらず器楽創作に及んでいった。
 この様に明治期に蒔かれた洋楽の種は少しづつ花が咲いて行ったが、果実が実る迄、私達は第二次世界大戦后を待たねばならなかった。

 補足

 藤原義江については私が昭和二十九年、上京して東京フィルハーモニー交響楽団に入団して以来、何度も一緒に共演する機会に恵まれたので色々思い出して語ってみたい。
 藤原義江については、私の少年時時代、何度か釧路にも来て歌っているが、親同伴でないと行けない当時のしきたりで、聴くことはなかった。
 当時 ( 昭和二十九年 〜 三十九年 ) 彼は藤原歌劇団を主宰して幾つかのオペラ公演を行っていたがオペラ団としての出演は少なく藤原義江個人の歌曲公演が多かった。彼は話好きで休憩時間になると控室に帰らず楽員と共に雑談に耽ることが多かった。演奏旅行に行ったときなど有名ブランドの駅弁があったりすると停車時間に同席しているオーケストラの楽員の分まで駅弁を買ってきてくれたりしたものだ。晩年は妻を失くし長年の藤原ファンのひとりから援助を受けて帝国ホテルでひとり暮らしをしていたらしい。あれほど情熱を燃やした藤原歌劇団もアメリカ公演で莫大な借金を背負い解散してしまったが、アメリカ帰国した直後、放送のため練習所であった時、 「 先生、大変でしたね 」 と楽員の一人が労を労ったら 「 いやー」銀行というところは借金をする人を大事にするんだね。借りる時はあんなに冷たかったに借金をすると大切にしてくれるので困ってしまうよ 」 と笑っていたのが今でも忘れられない。

   ( 注 1 ) 東京日日新聞 大正二年
   ( 注 2 ) 小林秀雄全作品集より、第十五号。
   ( 注 3 ) Ritter von Koehel ( ケッヘル ) , 1800 年 〜 1877 年, モーツアルト全作品を年代順に整理したドイツ人。
Updated 29 March , 2021