Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 39 号 平成 27 年 ( 2015 年 ) 3 月 1 日

寄稿 洋楽今昔物語
明治・大正の洋楽 その六

佐藤 昌之

 時代はいよいよ大正時代に入る。さまざまな洋楽がまるで洪水とまでは行かないが、滔々と水が流れるように日本に洋楽が入って来た。教会を通じた賛美歌や軍隊を通じた軍楽隊、一般旅行の洋行帰りの人達など明治維新は鎖国を解いた日本の国へと・・・そのさまは洋楽だけでない、服装や考え方の違い、政治形態の違い、色々な制度の導入そしてインフラの整備、文学青年を釘づけにした西洋文学など・・・日本は生まれ変わったのである。そんな中で政府がとびついたのは富国強兵を国造りのスローガンとしたことであった。
 今迄の邦楽にない洋楽の持つ音楽の力は国民の士気を高揚させるに十分であった。
 そんなことで軍楽隊は一番先に洋楽輸入の先鞭をつけたのである。
 当時、欧米・時にヨーロッパではどんな音楽文化が花咲いていたのであろうか。その辺を少し述べてみたい。
 一八七六年 ( 明治九年 ) バイロイトの歌劇場が完成しワーグナーが生涯の目標とした楽劇 ( 歌劇を更に総合芸術として高めたもの ) の幕が切って落とされていた。
 ベートーベンは一八二七年、シューベルトは一八二八 ( 共に文政十一年、文政十二年 ) にすでに亡くなっていた。一八六八年 ( 明治元年 ) にロッシーニーが亡くなっている。マスネーは一八七八年 ( 明治十一年 ) にパリ音楽院作曲科教授になっている。ワーグナー全盛の時代であったが、ドイツ音楽の支配権が次第に没落して行った時代でもある。フランスのドビュッシーの出現は印象主義と云う手法で長い間続いて来た機能和声の破壊する迄には至らなかった。
 しかしヨーロッパでは新しく台頭して来たロシア音楽の花開いた時期でもあった。
 一八九八年 ( 明治三十一年 ) リムスキー・コルサコフのオペラ 「 サドコ 」 が初演され、スクリアビンがモスクワ音楽院のピアノ教師に就任した。グラズノフがペテルブルクの音楽院長に就任したのが一九〇五年 ( 明治三十八年 ) であった。明治三十七年に日露戦争が起きたが、この年プロコフィエフがペテルブルク音楽院に入ってリムスキー・コルサコフに師事した。
 しかしロシアから生まれたストラヴィンスキーの音楽はヨーロッパの長い伝統に一撃を与えた様な出来ごとだった。そしてストラヴィンスキーの音楽は全ての他の行動を誘発したのであった。更に続いて起こった第一次世界大戦は古い秩序を全て否定する動機となった。アメリカに起こったジャズの急速な伝播もその一つの顕著なあらわれである。一九一三年 ( 大正二年 ) ストラヴィンスキーのバレー曲 「 春の祭典 」 がパリで初演されたことはヨーロッパの音楽史にとって忘れない出来ごととなった。ディアギレフによって初演された時、パリの観客は 「 これは音楽でない! 」 と大声で叫ぶ観客達の前で演奏が中断されると云う事件に発展している。
  「 これはまるで木屑きくずからパンを作ったみたいだ! 」 評論家もこぞって新しい音楽の登場に異議をとなえた。
 ストラヴィンスキーはその後 「 ペトルーシュカ 」、 「 兵士の物語 」 など発表し、バレー音楽の分野で新しい担い手となって行った。
 明治から大正にかけてヨーロッパは機能音楽の牙城が崩れて新しい前衛音楽が芽生えて来た時代にあたる。ドイツではハンガリアのバルトークが管弦楽曲 「 二つの影像 」 を発表し、イギリスではヴォーン・ウィリアムスが合唱付き 「 交響曲 」 一番を初演し、エルガーが 「 ヴァイオリン協奏曲 」 作品六十一を初演している。
 そんな時代に日本では洋楽の祖と云うべき 「 グレゴリオ聖歌 」 からルネッサンス期、バロック期、クラシック期、ロマン派迄長い間熟成されたものが一度にどっと入って来たのである。
 これでは消化不良にならぬわけがない。
 西洋崇拝舶来至上の大正意識はそのまま、日本卑下のコンプレックスにおち入った。
 西洋のものが良ければ西洋の音楽家は崇拝に値する。それを乗り越えようとすれば日本を脱する以外に道はない。
 この様な道をとったひとりに山田耕筰 ( 注1 ) 。山田は明治末期に東京音楽学校で声楽とチェロを学ぶため入学した。山田耕筰はその才能を認められて其后岩崎小弥太男爵の援助でドイツ留学の道にのぼるが、その目的は作曲の勉強にあった。その頃東京音楽学校には作曲科がなかったのである。
 ひそかに彼は作曲を勉強し、自分の作品を "西洋古典 " の音楽だと偽って友人達に歌わせて喜んで居たとエピソードも残っている。
 その後彼は一九一〇年 ( 明治四十三年 ) ドイツへ留学する。その後彼は日本の交響楽運動をおこし、また長く日本人に愛唱される歌を作り時代の寵児になる。それは彼自身の作曲家としての才能の故であるが、それを許せた大正文化の個人主義が迎合したからである。大正期の芸術至上主義雰囲気は文部省の国定唱歌とは反対に国定教科書的唱歌に反撥する新しい童謡運動と共に子供達に夢を与える運動に発展して行くことになる。

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 大正に入って日本はアジアの最初の帝国主義国となった。富国強兵、殖産興業文化の明治絶対主義体制は不況と矛盾をはらんだままブルジョア民主主義へと移行する。

 明治四十四年開場の帝劇がその象徴とすれば、そこで演じられた女優側と男女合併の歌劇は大正個人主義、消費文化の最初の現れであった。帝劇オペラは先ず先鞭をつけて上演された。 「 帝劇十年史 」 ( 杉浦善三著大正九年四月発行 ) に次の様に述べられている。 ( 注 2 )

  『 帝国劇場の特に開場せられんとするや、各興行師は所属俳優を招く去らんことを憂ひて極度の神経衰弱に陥り百方防戦に努力せり、而して一面帝劇の建築様式を稽ふるも当局者が新劇に多大の希望を繋げること明かなり。然れども所謂新劇派は特に凋落せんとし、新社会劇は幼稚にして未だ採るに足らず。
 乃ち欧米の興行界を席巻しつつある歌劇を日本化し新進無名の士をして之に当らしむることの利益なるを思ふは独走力の権化とも謂ふべき西野専務として当然の事なり。果然氏は音楽界の才媛柴田環女史を説き開場第一年 ( 明治四十四年 ) 七月常設のローヤル館を作って帝劇で育った歌手達が引きつぎローシー夫婦 ( イタリアから招待した歌手夫婦 ) の指導を受けながらいつの日か日本の音楽界にオペラが花咲くことを夢みたがその夢も消えてしまった。 』 ( 全文当時の文章のまま )

 帝劇オペラは明治四十四年から大正七年迄続いたが、その後、西野氏は歌劇部新設の意を決して男子八名、女子七名を試験の上採用し、早速練習を始めることとなった。
 新進無名の士といいながらオペラにプリマが居なくては興業にならない。こうして柴田環を中心に十月 「 胡蝶の舞 」 や十二月に 「 カバレルヤルスチカーナ 」 が上演され、初期の人気歌手清水金太郎がこの時から加入し出演している。
 この様にしてまがりなりにも日本で歌劇が上演されたが、オーケストラがどうだったか、指揮者が誰だったか、演奏がどうであったことなど記録も音源も残っていないので知る由もない。
 オペラはやがて盛んになるが日本では今でも本格的上演は出来ないでいる。これについて私はまがりなりにも若い時、十年間東京フィルハーモニー交響楽団に居てオペラ上演の経験を持っているので私見を述べてみたい。
 ヨーロッパではどんな小さな町にもオペラ劇場があってオペラを観ることが出来る。
 オペラ劇場は文化会館や公民館とは違ってオペラだけが上演できる様に設備された劇場のことを云う。廻り舞台があったり、オーケストラが入るボックスがあったりする劇場のことである。日本では今でもその様な専門の劇場がない。ふだんシンフォニーや演劇を公演している様な劇場を使用し、オペラ上演の時だけオペラ向きに転換している。
 第一、専門のオペラ専門の歌劇団がない。一時藤原歌劇団や二期会歌劇団が存在したこともあったが、そう度々上演しないオペラのため上演の時だけ集まって集合しているだけでオペラのない時は合唱や教職のために仕事をしている人々が殆どであった。
 現在日本の各地にオーケストラが誕生し夫々その町の補助を受けながらコンサートを開いているが、例えば東京、大阪以外の小さな都市でオペラ団が結成されたことはない。
 これはクラシック音楽のひとつの "あり方" を象徴している。ヨーロッパはその点オペラ誕生の地だから歴史的にも芸術的にもオペラあってのクラシック天国であろうか・・・・
 そもそもオペラはシンフォニーの誕生より先に演奏されて居て、オペラの序曲 ( 幕開けの前にオペラの粗筋を演奏するもの ) から独立して生まれたものである。分かり易く云えばシンフォニーはオペラの弟分で副産物なのである。近代になって新しく台頭して来た市民階級に愛された自由主義的、芸術至上主義がこれらの人々を満足させたのであった。
 これに比べて日本では帝劇オペラが消滅し、やがて大衆演劇となったアサクサオペラは多分にでたらめで大衆的であったため、すたれたのであった。アサクサオペラについては帝劇オペラを支持した大正期の成金主義の知識層の支持が得られなくて一足飛びに庶民の町・浅草で大衆演劇として一時期栄えることになった。私が若い頃アサクサオペラの生き残り音楽家も少し居て、たとえば田谷力三とか藤山一郎と云った歌手などと共演したこともあった。
 さて本論に戻ろう。ヨーロッパではオペラ劇場のオーケストラや指揮者は国立や州立、市立のオーケストラより格上でランキングも上位を占めている。そしてオペラ劇場に行くことは社交上大切なこととされている。例えば日本の歌舞伎座のような存在で、お見合いの場であったり、大切な客人を招待したりすることも多い。例えばバイロイトにあるワグナー専門の音楽祭はチケットが入手されにくいためまず普通の人なら行くことが出来ない。私は二度程バイロイトに向かったがチケットは入手出来なかった。
 しかし一緒に誘ってくれたニュルンベルク・シンフォニカの楽友達は 「 俺達だって入手出来ないんだ。特に音楽祭初日は多くの有名人が招待されているからね。むしろ上演前か休憩の時、バルコニーで吹くファンファーレを聴く方が良い 」 とのことだった。ファンファーレで吹く金管奏者は全ドイツのオーケストラから選ばれるので大変名誉あることだと云う。曲はワグナーの楽劇よりその年に依って選曲されるが、この方は二度とも聴くことが出来た。
 劇場の中は観たことがないので分からないがシンフォニカの楽友の話ではオーケストラボックスは客席から全く見えないとのこと。従って観客の目はステージ一点にのみ集中されるとのこと。客席からオーケストラが見えないので楽団員も正装をせず、普段着で演奏しているとのことであった。
 私が訪れた時、沢山の警備員がついて当時のシュミット首相が入場しているのを見ることが出来た。

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 日本でオペラがあまり上演されない理由について私はオペラと云う芸術スタイルを日本人が伝統的に持っていないからだと思っている。
 日本人は昔から物ごとを表現する時、たとえば俳句の様なものでも象徴的に十七文字の中で全てを表現しようとする。表現することをドイツ語では ausdreken と云うが、これは吐き出すことである。だからオペラはあらゆるものが登場する。イタリアのヴェルディが作曲した 「 アイーダ 」 と云うオペラは大砲やら象まで登場する。それに比べて "能" と云う日本の古典芸術を考えて見たい。面をつけた役者の面の角度、つまり上を向いたり横を向いたりすることだけで悲しみや恨み、そして夢や希望を表している。
 そしてオペラ歌手の所作がオーバーで大きい。楚々そそとした日本人の演技はオペラに向いていない。
 日本人は明治以来、洋楽を自分流 ( 日本人流 ) にこなして来たが、歌を伴ったオペラだけは翻訳劇であっても演技が伴うものなので受け入れがたかったのではないか・・・・合唱曲や独唱曲なら演技を伴わないので何とかなったのではないだろうか? それにオペラではオペラでは演技が伴う。日常の所作を少しオーバーにした演技と云っても西洋人と日本人ではその所作も違う。例えば日本では男女が一緒に抱き合って接吻する行為など多くの観衆の前では失礼で、はしたない行為とされている。
 そのことは洋楽輸入の歴史でひとつの事件として残っている。グルックのオペラ 「 オルフォイス 」 を東京音楽学校で初めて上演したところ 「 大衆の面前で男女が接吻するとは何事だ 」 とばかり指導した外人教師が始末書を書かされた事件である。外人教師達は欧米では考えられない行為だと音楽学校に辞職を申し出て一悶着したのであった。始末書を書かせた上野警察署の云い分もふるっている。憲法をたてに 「 男女七才にして席を同じうすべからず・・・・」
 ついこの間、と云っても百年足らずの間に 「 男女が七才にして席を同じうすべからず 」 などと云うことが日本人の習慣だったとは驚く人も多いのではないか・・・・。この 「 オルフォイス 」 事件で如何に西洋風の男女合併劇が日本では根づかなかったことが理解出来よう。そんな訳で洋楽輸入の中でオペラだけはそのまま輸入されることはなかったのである。今でも日本のオペラ歌手達はオペラ上演の時、紅毛のかつらをつけたり、腹巻きを分厚くしたりして西洋風に扮装したりして出演している。そんな訳で日本では本格的オペラ上演が出来ないし専門の劇場も必要ない。
 かと云って日本伝統の歌舞伎や能が日常的に観れる訳でもない。観光用に日本の伝統芸術が行われていると云っても過言ではないと私は思っている。

( 注 1 ) 山田耕筰の名前は途中から御自身の頭髪が禿げて来たので竹を上につけて筰作と
    改名したとのこと。笑い話のような本当の話である。
( 注 2 ) 日本の洋楽百年史 ( 第一法規出版 ) 参考
Updated 28 November , 2019