Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 38 号 平成 26 年 ( 2014 年 ) 11 月 1 日

洋楽今昔物語
明治・大正の洋楽 その五

佐藤 昌之

 明治時代は "富国強兵"  "脱亜入欧" の時代で二百六十年にわたる幕府政権からの脱却の歴史でもあるが、一方で軍国主義日本の基礎を作った時でもあった。欧米文明が波の様に押し寄せて来て日本が古来から培って来た固有の文明が崩壊 clash しようとしが、何とか衝突 clash ですんだのではないか ? そして日本人はその中から取捨選択して日本人に合うものを作り上げて来たのではないだろうか。そのひとつに私は洋楽を挙げたい。
 多くの日本の大衆からは西洋の古典音楽は衒学ゲンガク的で敬遠されたが、知識階級からその知的で哲学的美学を備えた芸術として受け入れられ新生日本の未来を暗示するかの如く浸透して行ったのである。しかし一方で軍楽隊に入った洋楽は富国強兵の応援歌となり、唱歌教材に軍歌が取り入れられて戦時中盛んだった恤兵しゅっぺい音楽会は日露戦争が終わっても 「 慈善じぜん 」 と云う名がつかねば音楽会として許可にならぬ時期が続いた。
 この軍国主義的傾向を裏付けるに、加えて社会の封建的要素の残存がある。 「 日本の洋楽百年史 」 (注1)より "大正の洋楽" のあらすじを引用する。

  『 音楽取調掛に集まった男女伝習生のうち、間もなく女子のみは除外された。音楽学校設立の議案書が高官の間に回覧されたとき、まず問題になったのは男女共学に対する危惧であった。外国の制度を取り入れながら、 「 男女七才にして席を同うせず 」 の倫理観はいまだ消えていなかった。明治三十六年、東京音楽学校でグルックの作曲の歌劇 「 オルフェイス 」 を上演すると云う画期的出来事があったが、明治四十一年に再演しようとしたときは中止せざるを得なかった。
  「 男女合併劇を演ずるべからず 」 と云う文部省の通達があったからである。この年には音楽学校に対する男女の風紀問題が特にやかましかった。この頃 「 今后同校の風紀を乱すべき恐れある職員、生徒は仮借なく相当の処分をなすこと 」 云う音楽学校取締方針が発表されている。当時のジャーナリズムもこれを弁護するどころかその尻馬にのって攻撃を加えている 』

 この年は日露戦争後の不況が最も深刻となった時でもある。明治四十三年、日韓併合条約は調印を終わり、日本はアジアに於ける帝国主義の最初の実を結んだ。こんな時代に生きた音楽人の中には国家主義のイデオロギーを背景としていたにせよ、いづれも開拓者としての気概があった。明治維新で近くなったヨーロッパやアメリカから西洋文化が続々入って来た。ルネッサンスとバロックも時代様式としてヨーロッパでは長い年月を経て熟成されて来たが日本では一度に当時の古典、現代様式共々に一緒に日本にやって来たのだった。
 洋楽に未来を託した先達者達が日本を脱出して洋楽を学ぼうと心がけたことは不思議ではない。その中のひとり山田耕筰を本号の主役として彼の生きざまを探ってみたい。
 山田耕筰は最初声楽とチェロを学ぶために東京音楽学校に入学した。明治四十一年三月二十八日に東京音楽学校が第十九回卒業演奏会が開かれ、その時、山田耕筰は声楽部卒業生として独唱している。曲はシューベルト作曲 「 菩提樹 」 とハイドン作曲 「 ヴァリエーション 」 となっているが、ピアノ独奏に其后有名になった本居長世がいる。まだ作曲科はなく作曲科が出来るのは大分経ってからである。
 しかし山田耕筰は作曲を心がけて明治四十二年に新作歌劇 「 誓いの星 」 をユニテリアン教会のクリスマスで発表された。この時の記事を明治四十三年二月 「 音楽 」 第一巻第二号より引用する。 ( 原文のまま )

  『 山田耕筰作曲の新作 「 誓の星 」 はあの不揃なオーケストラと合唱とを以てともかくもあれだけに、演ぜられた点を多とする。
 特に歌劇として云えば常に京浜間外人の独占物の如く思慮されて居た時に、あの催は実に群鶏の一鶴の如き観があった。宣なるかな其批評はすこぶる本邦英字新聞の紙面を賑はした。先づこれだけにしても歌劇 「 誓の星 」 は成功と云はなければならない。初めのオーヴァーチューアは全曲の概念を与ふるものとは、何うしても聞かれなかったが、それでも燈を滅して舞台のみ青光に照らされ、バックに遠くベツレヘムの野を流るヽ小川のほとりに群羊の遊ぶ様の見える処に、静に響くオーヴァーチューアの音を聞いては誰でも少なくとも小亜細亜の野は、かうしたものだったかの感は起ったろうと思ふ。
 とにかく邦人の手に成った歌劇を邦人のオーケストラ及び合唱を以て無事に演ぜられた事を楽会に、誇らんとするものである。 』

 この文章を読むとまだ音楽批評と云う分野も確立されて居らずテイを成していないが、それまで外人教師による外国の歌劇から一歩、抜きん出た日本人の最初のオペラとして若き日の山田耕筰は一歩を踏み出したのである。
 またこの文章の中に京浜間外人の独占物の如くとあるが、当時外人の多くが住んでいた鎌倉とか湘南の高級住宅地に住んで居た人達のことを云うのであろう。この文章を書きながら私は若い頃活躍していた東京フィルハーモニー交響楽団にオペラ作曲家の団伊玖磨氏が湘南電車に乗ってやって来て居たことを思い出す。彼は大のお酒好きで葉山から東京迄の通勤の間にポケットウィスキーをチビリ、チビリやりながら二等車でなく一等車で楽想を練っていたようなことを彼から聞いたことがあった。
 団伊玖磨の話は山田耕筰の教え子でもあり、日本のオペラを山田耕筰から引き継いだ作曲家でもあるので後述する。
 さて話を明治に戻そう。山田耕筰は明治四十三年二月に横浜を発ちベルリンに向かった。西暦だと一九一〇年である。ルネサンス様式もバロック様式も体験しない日本だったが、ヨーロッパはその頃どうだったのか、当時の作曲家と作品からヨーロッパの楽会を覗いてみよう。
 一九一〇年にストラヴィンスキーのバレー曲 「 火の鳥 」 がパリで初演され、リムスキー・コルサコフのオペラ 「 金鶏 」 がペテルスブルクで初演され、バルトークやドビッシーが活躍していた。シベリウスが 「 交響曲四番 」 を初演、リヒアルト・シュトラウスは 「 バラの騎士 」 をドレスデンで初演したのは一九一一年である。ヨーロッパは最早ロマン派の後期を迎えストラヴィンスキーの様な若手の作曲家が 「 ペトルーシュカ 」 の様なバレー曲を発表し 「 まるで木屑からからパンを作った様な … 」 と悪評され、前衛音楽の旗手となった話題を提供した時代でいわば西洋音楽が機能音楽としてその円熟期を迎え、新しい様式の音楽が芽生え始めていた時期に日本は黎明れいめい期を迎えたのである。山田耕筰がベルリンにやって来た時、どんな音楽が巷に溢れていたのだろうか ? こんな事を想像してみると夏目漱石の若き日のロンドン留学を思い出して … 、苦笑せざるを得ない。
 さて山田耕筰なきあとの日本の楽界ではどの様な動きがあったのか。明治四十五年五月 「 音楽世界 」 第六巻第五号に次の様な意見が載っていた。

  『 帝劇のオペラ部では其の作曲をユンメル氏の手から邦人の手に移さうと云う意見がある相だ。期道の造詣深き集大家の談を聞くに … 日本の歌詞に外人が曲譜をつけるのが面白くない。元来この人達は作曲のサの字も解らないのだから始めから頼むのが間違ってゐる。出来る筈がない。
 唯一人正直の所今の日本でオペラ作曲が出来ると思われる者一人も無い、唯現に独逸に行ってゐる山田君が少し出来かけてゐる。
 最近の通信によると同君丈けは確かに望がある様だ。併しまだなかなか帰って来ないから当分日本には誰もゐない訳である。どうしても帝劇のオペラ部で頼むと云うのなら本居君であろうが現在の同君では不可能である。もっと根底から勉強し直さねば駄目だ。 』

 また別の角度からの意見として

  『 調和は不可、それから今時のオペラ論でよく調和と云ふ事が唱えられるが、これが抑も間違っている。単にピアノと三味線とを合わせ調和などと思ってゐるのは実に愚にもつかぬ考で調和と云ふのそんな事ではない。将来日本のオペラが出来て今の音楽学校のオーケストラの第一ヴァイオリンか第二ヴァイオリンになり人数も倍くらいになってやるのが誰しも理想とあるが其処に達する道は今の所謂調和などで出来るものではない。
 おおいに輸入せよ。一体近代のオーケストラの傑作は日本人にはまだ手をつけられないのではないか、三、四百人の大楽団で大砲迄交ぜてゐる。日本人には夢想も出来ない。 ( 注・この時代ヨーロッパでは一八七一年 ( 明治四年 ) イタリアの作曲家ヴェルディがオペラ 「 アイーダ 」 をカイロで初演しているが、このオペラは大砲と生きた象もステージに出ていた ) それでゐて調和も何もあったものでない、だから私はまず大に彼の輸入を唱えたい。歌詞をそのまヽ翻訳して原曲のまヽで演ずることに努めて、それが出来る様になり、其輸入オペラに養成されて漸く模倣する。その内に自ら日本人の性色も現はれ始めて日本のオペラが出来るだろうと思ふ。今の調和を云う人は要するに西洋が解らない者である。結論としての音楽の本質について又一方では西洋の音楽は日本人には解らないと云ふ理由で輸入より調和を唱ふる人もある様だが近代の西洋音楽は人間の生理的基礎に立ってゐるのだから、それを排するのは全く訳がわからぬ而してよく人が日本の芸術中では音楽が一番劣ってゐると云うが、これは聴く人の力にも大に責任がある。試みに日本人に第六度の長短の音を聴かしてみてわかる人が幾人あるだろうか、恐らく百人に一人も難しからう而して此処に音楽の本質があるのである。
 だからこの修行からしてかヽらねばならない。私は日本の歌劇の理想に達する道は先ず輸入と模倣とに在って断じて直接の調和にない事を信ずる者である。』

 明治の人達はこの様にオペラを考えていたのだ。しかし歌詞や劇を伴わない器楽曲は度々演奏され人々の中に浸透して行ったが人々の中にはまだまだ邦楽への捨てがたい愛着もあったせいか、和洋折衷のプログラムがこの時、一番多いので紹介しよう。

一六 常磐津           常磐津文字太夫
    梅川忠兵衛        常磐津都太夫
     二のロ村の段  三味線 常磐津文字兵衛
             上調子 常磐津和歌吉

   (第五幕)

一七 踊             尾上菊五郎
   子宝            坂東三津五郎
                 常磐津連中

   (第六幕)

一八 新内            富士松加賀太夫
    道中膝栗毛
    市子ロ寄せの段      吾妻路宮古太夫

   (第七幕)

   (和洋楽器合奏)      藤間政弥
一九 踊             藤間 竜
   長唄            長唄連中
   吾妻八景          横浜二葉音楽会員 十数名

第二日(五月六日之分)明治四十四年歌舞伎座

    第一部 ( 第一幕 )

一 三部合奏       ピアノ ペッオルト夫人
  ムーブメント  ヴァイオリン ユンケル氏
  メンデルソン作     セロ マイステル氏

二 バリトン独唱         清水金太郎氏
  甲、デル、ヴァンデレル     シューベルト作
  乙、エルケーニッヒ       シューベルト作

三 ヴァイオリン独奏       ユンケル氏
  甲、ローマンス          スヘンゼン作
  乙、ガボッテ             ポーム作

四 ピアノ独弾          沢田柳吉氏
  甲、ファンタジー、カプリース  メンデルソン作
  乙、ファンタジー、アムプロンプチュ ショパン作

五 ソップラノ独唱        ペツオルド夫人
  タンホイゼル            ワグネル作

六 セロ独奏           マイステル氏
  甲、ノクチュルネ         ベッキャル作
  乙、スケルツオー           ゴンス作

七 ピアノ独弾          ペツオルド夫人
  甲、バラッド            ショパン作
  乙、ラップソデイ           リスト作

   第二部(第二幕)

八 欧州管弦楽          東京オーケストラ
  甲、フヰガロ          モーツアルト作
  乙、ユニバーサル、ピース、マーチ  ランベイ作

   ( 舞台廻ル )        山田流琴曲研究会
九 三曲合奏         箏     町田杉勢
               箏     上野鈴勢
               箏    佐藤美代勢
               三味線   千布鈴勢
               胡弓   山室千代子

   ( 舞台廻ル )           北村季晴氏

一〇 於伽素歌合奏           北村初子夫人 他十数名
   ドンブラコ ( 桃太郎 )

       ( 第三幕 ) br>
一一 哥沢               哥沢芝美弥
   うす墨、宇治茶           哥沢芝金
   夕暮、廓の誠        三味線 哥沢清子

一二 欧州管弦楽 ( 舞台廻ル )   東京オーケストラ
   モーゲン、ブレッター、ヴァルツ
              ヨハン、ステウラウス作
      ( 舞台廻ル )    踊   藤間政弥

一三 踊               清元延寿太夫
   清元              清元家内太夫
   青海波             清元喜久太夫
               三味線   清元梅吉
               上調子  清元吉太郎

   第三部 ( 第四幕 )

一四 長唄            長唄 富士田音蔵
                     中村兵蔵
                    芳村伊四蔵 

  ワグナー百年記念演奏  大正二年 東京

一、開会の辞               湯原校長

二、講演                 姉崎博士

   第二部

一、女声合唱               会  員
  歌劇「フリーゲンデホルレンダー」中の糸繰り娘の合唱
                    ワグナー作

二、声楽二部           高音  薗部房子
                 中音 竹内うめ子
  歌劇「ローエングリン」中のアリア  ワグナー作

三、中音独唱              竹内うめ子
  タンホイザー中のアリア       ワグナー作

四、高音独唱               薗部房子
  ルラッピー             ワグナー作

五、高音独唱              小笠原保子
  歌劇「リエンツイ」中の抒情調    ワグナー作

六、男声合唱               会  員
  歌劇「フリーゲンデホルレンダー」中のアリア
                    ワグナー作

七、低音独唱               樋口信平
  歌劇「デイワルキューレ」中のヴォータンの別れ
                    ワグナー作

八、中音独唱               中島かね
  甲、夢               ワグナー作
  乙、天使              ワグナー作

九、洋琴独奏              ベツォルド

   (大正二年六月八日 東京音楽学校)
     東京音楽学校第二十八回音楽演奏会

一、管弦楽 ロザムンデーの序曲  シューベルト作曲

一、独唱                 舟橋栄吉
  甲 黄昏の夢          シトラウス作曲
  乙 秘密             ウオルフ作曲
  丙 彼こそは

一、管弦楽附きピアノ        教師 ショルツ
  短ヘ調コンツェルト       ヘンセルト作曲

一、合唱
  甲 心の花           ブラームス作曲
                   吉丸一昌作歌
  乙 空しく老いぬ           瑞典民謡
                   ユングスト編
                   高野辰之作歌

一、絃楽
  絃楽四部合奏曲中のアンダンテ、カンタービレ
                ベートーヴェン作曲

一、二重合唱
  鬼火              シューマン作曲
                   吉丸一昌作歌

一、 管弦楽
   スート、アルジェリエンネ サンサーンス作曲
   ( 新任の教師クローンの初指揮による )

 当時のプログラムの一部を紹介したが、やはり洋楽演奏に熱心だったのは東京音楽学校であった。それは外人教師が沢山居たことにも依るが、彼らが日本と云う国にどの様な音楽がふさわしいかなど深く考えずに自国の地に咲いた花を切花として持ち込んで来た訳である。
 ヨーロッパに咲いた花はその花にふさわしい土壌があったからで、私は先年そのことを知るために数回ドイツ、オーストリアを研修の地として赴いたことがあった。あまり達者でないドイツ語を駆使しながらオーケストラの人達や一般市民と交流しながら、彼等が音楽をどの様に感じ演じているか ? 観察したものだ。一般の人達、いわゆる庶民達はベートーベンを知らない人も居たし、クラシック音楽のコンサートに行ったこともない人達も沢山居た。日本でなら、そう云う人達もレコードを通じて知識として知っていることだろう。私はニュルンベルクの酒場でウェーバーと名乗る四十代くらいのドイツ人と知り合い意気投合して彼のアパートに一泊したことがあった。
 私は彼に 「 魔弾の射手と云う曲を作ったウェーバーのことを知っているかい ? 君と同じ名前だがね 」 と聞いてみたウェーバー君ちょっと考えてから 「 その人、今何処に住んでいるの ? 」 ときた。私は思わず笑わずに居られなかった。
 自分と同じ、しかも有名な作曲家の名前もこのハインリッヒ・ウェーバー君は知らなかった。やがてワインやビールを飲むと近くに住む友人達を招いてレコードをかけてワルツかポルカを踊り出した。そう、彼等にとってダンスや歌は日常的で特にあらたまってすることではないのだ。教会に行けば賛美歌を歌い、クリスマスにはクリスマスの歌を家族で歌う。そして彼等にとってクラシック音楽は教養のための特別なものでなく彼等の庶民の歌の一寸上のクラスの音楽でしかないのだ。
 またこう云う経験もした。ある時私は留学先のニュルンベルクシンフォニカと共に南ドイツのある地方都市でハイドンの "大地創造" オラトリオを演奏するために訪れたことがあった。
 合唱団は地元の市民合唱団、会場は教会だったが聴衆は皆、祭壇の方を向いて座っている。
 シンフォニカと合唱団は後方のステージで演奏していた。彼等は聖書を手にしながら時々後で演奏している方に目をやるか殆どじっと聖書を見ながら瞑想している様だった。
 つまり彼等にとって宗教曲は祈りの曲であって曲そのものを鑑賞するものでないのだ。
 私はこヽで彼等にとってキリスト教と云う土壌の中に咲いた花が音楽 ( 宗教曲 ) なんだなあと思わざるを得なかった。明治以降日本に入って来た多くの洋楽は切り花としてまた観賞用として入って来たのだ。こうして洋楽は土壌の違う日本の国で独自の歩み方をして行くのである。

参考資料

( 注 1 ) 「日本洋楽百年史」より
( 注 2 ) 「日本洋楽百年史」より
( 注 3 ) 「日本洋楽百年史」より
Updated 7 September , 2019