Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 37 号 平成 26 年 ( 2014 年 ) 6 月 1 日

洋楽今昔物語 明治の洋楽 その 4


佐藤 昌之


 洋楽の普及は全国的に次第に広まって行った。
 特に若い層は抵抗無く受け入れることが出来た。そしてインテリ層は日本古来の音楽を "蛮楽" と呼び西洋音楽はギリシャの哲人ピタゴラス以来数千年にわたり紡がれた美学の極致で、まさに人間が作った最高の音楽であると称して邦楽を毛嫌いする人達も出て来た。
 こう云う傾向は音楽ばかりでなく、明治維新は着物から洋服へ、下駄から靴へと、文明の転換期でもあったからインテリ層は欧米を志向し、一般大衆は戸惑いながらも今迄の生活感情から抜け出さないで居た。現に私も幼少時代、祖父や祖母が着物姿で居たし、祖父は外出の時、二重マントを着て中折れ帽子をかぶって下駄を履いて外出しているのを見ていたが、これこそ和洋折衷の姿であった。また " 浪花節 " や "三味線音楽" をレコードで聴くのも和洋の折衷文明だった。
 そんな中でロシア革命 ( 注 1 ) で逃れて来た白系ロシア人達が北大通で洋品店を開き、時々スピーカーから今迄聴いたことのない音楽 ( 多分それは今、想うとチャイコフスキーやムソルグスキーなどのロシア音楽 ) をレコードから流して居たのを聴いて胸が高鳴る程のショックを受けたことがあった。今の言葉で云うとカルチュア・ショックと云うものだろう。
 白系ロシア人達は自国の共産革命に馴染めずトロイカを乗り継ぎ、当時の満州、朝鮮を経て日本にやって来たのである。北国のロシア人にとって本州より北海道の方が住み易かったようで、北海道のあちこちに白系ロシア人は居を構えた。野球で有名なスタルヒンもそのひとりで家族は旭川に住み、旭川中学に通って居たこと。そして時々夏休みになると釧路に居る白系ロシア人宅を訪ねていたことを私も知っている。亡命で国外に逃亡して来た白系ロシア人は貴族かインテリ層の人達であった。そのため彼等は教養もあり音楽の趣味もクラシックだったようだ。
 少し横道にそれたが政府は洋楽を普及するために当時の文部省音楽取調掛長伊沢修二にこれからの学校に於ける音楽教育のあり方について意見書を求めた。そこで伊沢修二は甲乙丙の三ッの答申書を提出した。 ( この事については "河太郎三五号" に詳しく書いている。) 政府が採用したのは丙説であった。
 つまり東西二様の音楽を折衷することだった。先ず子供から洋楽に馴染ませることが大切と云うことで学校では文部省唱歌に重点を置くことになった。洋楽風の旋律に日本語を付け和洋折衷の独特の唱歌が出来上がった。
 滝廉太郎や山田耕筰と云う作曲家も文部省唱歌作曲に大いに活躍することになった。
 唱歌と云う言葉は平安時代に雅楽家が使っていたと云う。明治時代の唱歌の定義は次の様である。
  「 初等、中等の学校で教科書用にもち入られ、日本語で歌われる主として洋楽の短い歌である。歌詞は徳性の涵養と情操の陶冶に資するように教育的および美的な内容を持ち、曲は欧米の民謡、賛美歌、学校唱歌に及び芸術的声楽曲からそのまま取り、それらの型に依って邦人の創作した小歌曲及び少数の日本民謡、わらべ歌を含む 」 ( 注 2 )とある。特にこう云う風潮の中では日本独特の涵養と情操の陶冶と云う点は欧米では見られない。音楽は芸術であり美学上の問題であり、それが道義的に利用していることは明治以来、日本の特徴であろう。
 そのことにつき次の論説を参照されたい。

学校唱歌等ニ関スル演述

村岡範為馳

 左の一篇は過般地方学務官の東京音楽学校参観の節同校長村岡範為馳が学校唱歌に関し演述せられたる者なり

 諸君、今般文部省学事諮問ノ為メ、御上京ノ好機ヲ以テ、本校ヲモ御来館相成リシハ、余ニ於テ光栄満足ノ至リナリ。余ハ、今諸君ヲ、各教室ニ誘引スルニ先ッテ、学校用唱歌及音楽教員等ノ件ニ関シ、聊カ希望スル所ヲ一言シテ諸君ノ注意ヲ乞ハントス。
 第一ハ、祝日大祭日の儀式ニ供スル唱歌用歌詞楽譜ノ件アリ。諸君、御承知ノ通リ、我ガ文部大臣ハ、省令第四号ヲ以テ、祝日、大祭日ノ儀式ニ関スル規定ヲ義メラレシガ、其第一条第四款ニ「学校長教員及生徒其祝日大祭日ニ相応スル唱歌ヲ合唱スル」トアリ、依テ諸学校ニ於テ、実際其儀式ヲ挙行セントスルモ、適当ノ歌詞楽譜ヲ得ザルガ為メ、往々杜撰ノ楽曲ヲ用フルノ弊ヲ生セントセリ。然ルニ、祝日大祭日ノ儀式ハ、恐レ多クモ、我ガ帝室ニ執リテ、最モ重要ナル大礼ナレバ、其儀式ヲ行フニ際シ、敬意ヲ表シ奉ラン為メ、唱謡スル所ノ歌詞楽譜ハ、国歌ノ性質ヲ帯ビテ、能ク生徒ノ志気ヲ鼓舞シ、忠臣愛国ノ情操ヲ養成スルニ足ルベキモノタラザルベカラズ。以テ曩ニ、文部大臣ハ、其歌詞楽譜ノ撰定ヲ当東京音楽学校ニ命セラレ、更ニ其歌詞ハ千家尊福、鈴木重嶺、本居豊穎、高崎正風、丸山作楽、黒川真頼、木村正辞、佐藤誠実、小中村清矩、勝安房諸氏ニ依頼アリテ、既ニ過半落成シタレバ、之ニ楽譜ヲ付スルコトモ、亦漸次其緒ニ就クヘキ見込ナリ。
 次ニ一般ノ唱歌用教科書ノ儀ハ、過半発布アリシ小学校教則大綱第十条ノ趣旨(第十条に付キテハ、別ニ余ノ解釈アリ)ニ基キ、且十年前、唱歌ノ小学校ニ入リシヨリ、今日ニ至マテノ実験ニ依テ、唱歌集中歌曲ノ順序等ヲ修正セルモノ、及歌詞ニ解釈ヲ附セルモノ等ヲ出版シ、教員ヲシテ、唱歌授業上ノ便益ヲ得セシメントノ見込ナリ。又新製ノ歌曲ハ、音楽教員一般ニ渇望スル処ナレハ、是又続続製作頒布スルニ至ルヘシ。
 次ニ、音楽教員採用ノ事ナリ。尋常師範学校ニテハ、将来成ルヘク、本校ノ卒業生ヲ採用アラン事ヲ希望ス。又中学校ニテハ、本校ノ卒業生ヲ採用セルモノ幾ト皆無ノ姿ニシテ、実ニ唱歌ハ、未タ中学校ノ学科ト見做サレサルモノ、如シ。普通教育ノ為メ、慨嘆スヘキコトナリ。世ニ、往々音楽ハ、人ヲ柔弱ニスルモノ、ゴトク信スル者アルカ如シ。是レ、蓋シ音楽ノ何物タルヲ考究スルノ至ラサルヨリ生スルノ説ナリ。試ミニ、古今東西ノ史乗ニ徴センニ、勁敵ニ投シ、塁址ヲ陥レントスルニ際シ、一死国恩ニ報ストノ士気ヲ鼓舞シテ、君王ノ為メ、国ノ為メニ、一身ヲ擲ツ程ノ勇気ヲ出サシムルノ一具ハ、即チ音楽ニ非スヤ。勿論、今日俗間ニ行ハル、音曲ナルモノハ、所謂鄭衛ノ音ニシテ、実ニ似テ非ナルモノナリ。其性質タル、独リ人ヲシテ、柔弱ナラシムルノミナラス、或ハ淫奔猥褻ニ導クノ恐アルモノナリ。固ヨリ端正高雅ニシテ、徳性ヲ涵養スルニ足ル音楽ト同一視スベキモノニ非ス。中学校ニ於テハ、音楽ハ師範学校ノ如ク、後来人ノ子女ニ教フルノ目的ヲ以テ、学フノ必要ハ、固ヨリ之レナシト雖、其生徒自身ノ教育トシテハ、正ニ欠クヘカラザルモノナリトス。況ンヤ、中学校ト雖、或ハ祝日大祭日ニ方リ、其儀式ヲ執行スルニハ、唱歌ハ必然欠ヘカラザルノ要具ナルニ於テヲヤ。尋常小学校ニシテ、普通教員ノ外、更ニ音楽教員ヲ聘用スル資力ナキ学校ニテハ、普通教員中ニ、成ルベク音楽ノ心得アル者ヲ聘用スベシ。又高等小学校ニシテ、生徒ノ数三四百人、又ハ七八百人以上モアリテ、多数ノ平行級ヲ有スル学校等ニハ、必ス一人ノ音楽専門教員ヲ聘用スベシ。此ノ如キ大ナル高等小学校ニハ、一人ノ専門教員アルモ、尚ホ不足ヲ感スル事ナラント信ス。果シテ専門音楽教員一人ヲ採用シ置ケハ、平日ノ授業ハ、勿論諸般ノ式日等ニ方リ、必スヤ万事好都合ノコトアラン。右ノ目的ヲ達スルニハ、壮年ノ男子ニシテ、聴感鋭敏ナル者ヲ撰ビ、県費、或ハ郡費等ヲ以テ多少ノ補助ヲ与ヘ、凡ソ三年間本校ニ入学セシメ、卒業ノ後、其県其郡ニ聘用スルニ至レハ最便法ナラント信ス。
 諸君後帰任ノ後、新法令実施ノ際前陳ノ数件ニ就キ、宜シク御注意ノ上、只管御尽力アランコト、余カ偏ニ希望スル処ナリ。

( 明治二十五年一月 「 音楽雑誌 」 第十六号 )

 しかし唱歌に関する不満もあった様だ。明治二十六年六月「帝国文学」第一巻第六号で西駿音狂生と云うペンネームで次の様な一文が目についたので紹介しよう。 ( 原文のまゝ )

(一) 生徒の発音、不完全なるも之正さざること
(二) 高音を出すこと得ずして生徒の管理を余所にすること
(三) ヲルガンにのみかぢりつきて生徒の管理を余所にすること
(四) 撰曲撰歌其当を得ずして高尚に馳せ或は卑野に流れること
(五) 流行の壮士節、類似のものを生徒に授けていささかも顕慮せざること
(六) 校内にて「カッポレ」「梅が枝」其他の俗曲を弾じ及唱歌すること
(七) 唱歌時間の回数を減じて一回長時間に渉ること
(八) 高等生の軍歌を真似ん、とて無闇に幼稚生にまで之を奨励する傾向あること
(九) 生徒の年齢をはかりてその調を高下することを知らず徒に原書即唱歌集を拘束せらるること
(十) 同一律調若くは類似調の数曲を連続教授して生徒を倦ましめ又律調に大変化ある曲を突然、
    授けて生徒を困ましむること

 以上唱歌の教授に付き嫌忌すべき条件ならんとの私考より茲に記述す。大方の実験家乞ふ其陋見を矯正せられんことを乞う」と、投稿主は訴えていることがよくわかる。原文のまま引用したが云っていることは的外れのことではない。音楽的に説明すると、人間には男声、女声がありそれぞれの中で声の高いソプラノ、低いアルト、男声にも声の高いテノール、低いバスなど声域が違うので単一調で歌うのはむつかしい訳だ。今日、カラオケなどでも声域に依って選曲していることでも理解出来よう。

 次に軍歌について取り上げてみたい。
 唱歌と共に富国強兵のスローガンで登場して来たのは軍歌である。文部省は唱歌の他に高等小学校、中学校に軍歌を採用することを許可したのである。。曲は次の通りである。

 日本男児、別れの血しほ、抜刀隊、行軍、水兵、日本刀、凱陣、進撃、護国の歌、海軍歌、勝利、行けども、観兵式の歌、やまとしまね、きるべし、いざ進め学びの道、と云う歌が学校教育の中に入るようになった。大正、昭和に入っても軍歌は流行歌にもなって我々もよく歌わされた。特に日中戦争や太平洋戦争の頃には歌詞も過激になって唱歌よりむしろ軍歌を歌わされた。
 運動会の騎馬戦なんかで軍歌を歌いながら敵の大将の鉢巻きを取ったものだ。
 軍歌について私なりの私見を述べてみたい。
 軍歌は勇ましい内容が多く兵隊さんの志気を鼓舞させるために作られたものが多い。しかしその中には悲哀感が漂うようなのが、日本の軍歌の特徴ではないか?
  "ここはお国を何百里、離れて遠き満州の ・・・ " とか "除州、除州へと人馬は進む" とか歌詞やメロディに短調が多く、遠く故郷を離れて寂しさを感じている兵隊達のせつない想いがこめられている歌が多いのは日本軍歌の特徴ではないかと思う。
 死に直面した兵隊はやがて訪れる自分の死について敵を殺すことより、国のため家族のために死を以て軍神になると云う悲哀感の方が強かったように思う。私達の子供の頃戦死した家の玄関に "忠霊の家" とかかれた、日の丸が書いてある表札があって、その家の前を通る時は必ず帽子を脱いでおじぎしたものである。
 軍神と云う言葉は昭和十六年の真珠湾攻撃で殉死した特殊潜航艇の九人の海軍兵士に対してが初めてだったように思う。死を賛美する精神は日本人の武士道から来ており、やがて戦争末期の特攻隊の自爆とつながって行くが、このことは本題から外れるのでペンを止めます。

 次に童謡 ( わらべ唄 ) を取りあげてみたい。
 わらべ唄のなかには明治になって洋楽が入ってくる前から、伝統音楽として残っていたものも沢山あったが、洋楽が入ってからは洋楽の音階に日本語を入れた和洋折衷の "わらべ唄" が作られる様になった。わらべ唄について少し述べてみよう。
 我が国で "わらべ唄" として伝承されて来たものから洋楽が入ってから作られたものまで沢山あるが、次の様に分類出来る。
 子供同士の集団生活から自然発生的に生まれた唄でそれが長い年月の間に洗練され淘汰されながら今日迄伝承されてきたもの、を列挙してみよう。わらべ唄というより流行歌と云った方がよいかも知れない。
 トコトンヤレ節、こちゃへ節、ないしょ節、西郷隆盛の歌、おやまかちゃんりん、勉強せい節、かっぽれ、ダイナマイト節、など現在我々も知っている唄が沢山ある。中には花柳界の座敷唄に用いられた唄や "悪口唄" "まじない唄" の歌など子供には歌わせたくない唄もある。
 そんな中で明治二十五年三月 「 音楽雑誌 」 第十八号に次の様な記事が載っているので紹介する。

「 童謡に注意せよ 」

  「 世間には音楽改良道徳矯正と唱われ共其もとを絶つの法を務めざるは疑はしき事なり音楽及び道徳の乱るゝは是れもと社会に行はるゝ遊戯歌詞の媒介多しとす故に此等の点に、注目せらるるこそ改良の一端ならめ従来児童間に行はるゝ童謡は卑猥の歌詞多しされど一月の如き殊更に貴となく賤となく遊戯及歌詞を唱ふる時に於て其卑猥の者を僻けしめ代ふるに善良にして興味あるものを与へなば将来道徳を矯正する基とならん是れ恐くは其主旨を達するの早道ならんか 」

 原文のまま引用したが文部省唱歌と云い日本人の昔からの士農工商の階級意識の中で琵琶を弾いたり、三味線を弾いたりした人を芸能人と見做して軽視していたことが分かる。特に三味線音楽を "淫楽 ( いんがく )" とさげすんだ宮内庁伶人 ( 雅楽師 ) が雅楽のメロディを簡略化して西洋化したことも明治時代の洋楽化の一面であった。
 音楽文化を「器楽文化」と「声楽文化」に分けて考えると日本は 「 声楽文化 」 型になろう。それ故に西洋の音階の上に異質な日本語を入れて曲を作ると云う芸当が出来たのである。自分たちの言葉で自分たちの思っていることにはほど遠かった。小泉文夫東京芸術大学教授は次の様に指摘している。 「 アジア民族の中で伝統音楽を大切にしないたヾひとつの国として欠落したものが唱歌にはあった。」 と ・・・ これは音楽だけではなく日本の近代化は科学にしろ教育にせよ欧米のお手本にしながら日本独特の文明を作り上げて来たのだ。
 しかし大正時代にはこのまゝではいけないのではないかと云う不安から日本語による日本の歌が新しい童謡運動として "新唱歌" の運動が起こるのである。次回から "大正の洋楽" を考えてみたい。

( 注 1 ) ロシア革命 大正六年三月
( 注 2 ) 日本の伝承童謡 「 わらべうた 」 町田嘉章、浅野建二編 岩波書店

参考文献 日本の洋楽百年史 第一法規
Updated 20 April , 2020