Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 36 号 平成 26 年 ( 2014 年 ) 2 月 1 日

寄稿 洋楽今昔物語 明治の洋楽 その 3

佐藤 昌之

 洋楽が少しずつ日本国中に普及されて行くがまだ一般大衆の中では抵抗感があって、浸透しては居なかった。もともと明治政府は新しい国造りの一環とし、その文化政策を富国強兵のスローガンの下、先ず軍楽として吹奏楽を移入したのが最初であった。そのことについては前々号ですでに述べたが、管弦楽の移入は少しくれて移入された。しかしレコードを通じて様々な洋楽は特にインテリ層に広まって行った。またトルストイやチエホフなどのロシア文学、ゲーテのドイツ文学、デカルト、ショーペンハウエルのドイツ哲学が若インテリ層の中で音楽と同じように広まって行った。
 その証拠に " デカンショウ、デカンショウで半年暮らす " などと云う替え歌まで流行したりした。今迄日本になかった新しい世界はどれ程インテリ層を魅了したことか。音楽もレコードによってベートーベンを知り、モーツアルトを知るようになった。明治二十五年に慶応ワグネルソサエティが創立され、第一回演奏会を明治三十五年に開催している。早稲田大学は創立二十五周年記念として同じ年に演奏会を開催している。なお、早稲田大学は前身が東京専門学校と呼ばれていたが、この年改称したのである。
 そして専門の東京音楽学校では初めてシューベルトの 「 未完成交響曲 」を演奏したのも明治三十五年であった。翌年、東京音楽学校ではオペラ公演を試みてグルック作曲の歌劇 「 オルフォイス 」 を上演することになった。歌劇は管弦楽と違い、舞台上で歌い演技するものであるが、この時は学校内での上演だったが、其後明治四十一年に再演を試みたところ文部省から横槍が入って上演中止と云う事件が起きた。
 歌劇は前述したように舞台上で演技するものであるが、西洋人の日常の立ち振舞は日本人と違って男女が接吻したり抱擁することは当り前の習慣であるが、日本ではこう云う行為は不謹慎とされている。だから芸術とは云えその様な歌劇上演は不道徳極まりない、と云うのが文部省の云い分であった。
 これについて当時の東京音楽学校長、湯原校長は

  「 文部省の方で多少、異論のあるのは事実だ。官立学校で歌劇などやらせると地方の学校が真似をする。普通の学校迄やり出すと困る、と云う
   のがその云い分だが自分も地方に居た事もあってその弊は確かに認める。併し芸術教育と他の教育を一様に見ることは文部省でも考えねばな
   らぬ。芸術教育が必要ならば徳の範囲内であくまで芸術の研究をすると云う事は許さねばならぬ。歌劇の中には直ちに日本で演じられないも
   のもある。
    其の取捨選択は学校でやる。決して舞台の上で男女が接吻をやる様な事は採用せぬ。と云い今年中に歌劇と演劇との区別を論拠として必ず
   再演すること 」

を言明した。しかし文部省は歌劇の公演中止を命ずることとなった。この事が世に知れると大きな反響と共に文部省の芸術制作に反論が相次いだ。そのことにつき明治四十一年八月の 「 音楽界 」 第一巻第八号に加山琴仙が次の様な反論の記事を寄せている。

原文のまま
  「 歌劇は音楽の芸術としての生命にして、この演奏は音楽者 ( 家 ) の使用なるのみならず今や我邦は具体的文明の域に入らんとして歌劇挙行
   の要求に迫られつつあるなり。音楽学校の存在を是認せる文部省当局者に向って今更歌劇の如何を説明する要なく唯吾人が解釈に苦しむ所以
   のものは教育を司る文部省と犯罪を司る警視庁と何ら撰ぶ所なく、文部省当事者が宛然文芸上無識見なる警官の態度に出でしは吾人の痛嘆に堪えざる所なり。
    文部省当局者にして無学式なりと仮定するも彼の自然派の思想と何等関連するものもある。
   歌劇は極めて ( 注@ ) ミソロジカル ( 神話的 ) にして ( 注A ) レチタチーボ ( 叙唱的 ) なる妙微な音楽の支配に依るものにしてこれ
   を聴き視るものは音楽と詩歌のエネルギーに自己の意識を奪われて歌劇上に顕われたる高遠なる楽趣に同化するものなれば登場者が男女なる
   が故に云々は全く歌劇を解するの能力なき卑近なる性格の者にして始めて発し得らるる言葉なり。殊に "オルフォイス" はサブライムの分子
   に富めるドイツ派始祖の作曲にてギリシャ神話の真善美を尽くしたる構想なれば高雅なるは言を俟たず、故に当時者は作品に口出しするにあ
   らざるものと信ず、要は男女登場にあれば作品上に深遠なる楽論を戦わすの必要なし問題は軽きが如くにして波及する所大なり。されど解決
   は唯々たるものなり。苛も国庫を以て音楽振興の画策に与かれる当時者にして常識を有しなば自己の見地を顧み芸術眼を以て歌劇を観察しな
   ば中止命令の如き暴挙をなし能わざるものなり。而も敢て命ずるに於ては当時者が自己の職責を全ふすに耻かしからざる学識と頭脳を有する
   乎、頗る疑わしきものにて頑陋なる一輩の固持する中止説は隠然省内に勢あれば今秋の挙行果して無恙なるや吾人憂惧なき能わざるなり。之
   れ音楽の発展を阻止するものにして芸術に対する迫害にあらずして何ぞや。
    見よ! 仏蘭西のプライドする所のものは裁判所にあらず議事堂にあらず即ち壮麗なる国立グランドオペラにあらずや独逸人の剛健なる民
   族性を涵養せしもの保護奨励により発達を極めたる独逸芸術の致す所多きにあらずや。近く大博覧会開設を見るに到り我質的進歩に比すべく
   もなく楽器の寥たるは吾人の一大恨事となす所、況や今又歌劇中止を聞くに於ておや。我楽界の前途愈々遠し、健全なる覚悟なかるべから
   ず、本問題の成行を顧慮する余り慈に所感を述べて当局者の覚醒と楽家の奮励を促す。」

と述べている。
 これを見ても当時の日本人にとって欧米人の風習が受け入れ難いものであった事が知れよう。長い鎖国を経験し世界、特に欧米の文明がどの様なものか知らなかった日本人にとって欧米、特に西洋は 「 坂の上の雲 」 ( 司馬遼太郎の小説 ) だった訳だ。しかしこの様な西洋への憧れは " 脱亜入欧 " と云うスローガンで進展して行ったがやがてそれが日本人の海外進出へとつながって行くことになった。
 日清・日露戦争、日中戦争、そして米英との太平洋戦争へと続いて行った。
 米英との戦争に負けて進駐軍が日本に駐在することになって日本は二度のカルチュア・ショックに見舞われることになった。明治維新が一番最初のカルチュア・ショックで欧米の文明がどっと押し寄せた時代で、これは明治政府が意図的に政策として押し進めた訳だが、二度目は敗戦によって欧米文明、特にアメリカの文明が持ち込まれることになった。
 話が飛躍してしまったが、歌劇公演中止の時代には、これとは別に管弦楽団の創立へと人々は動き出して居た。音楽学校や陸海軍々楽隊では弦楽器部も創立され時々演奏する機会もあったが、洋楽は若い人達の方が抵抗感がなく受け入れられると云うことで明治四十二年に「三越少年音楽隊」が結成された。このデパートでの演奏会は人々に歓迎され昭和に入ってからもデパートのサーヴィス演奏となって行った。そしてそこで演奏した人達がやがて管弦楽団の結成に一役買うことになったのである。 明治四十三年に山田耕筰はベルリンに留学し、その年の三月には " 日英博覧会 " が開かれたロンドンに陸軍々楽隊が出張している。
そして四月には東京フィルハーモニー会が第一回演奏会を開催している。その時のプログラムを紹介しよう。

一・三部合奏          ピアノ   フヒオ夫人
                バイオリン ユンケル氏
                セロ    ウェルクマイステル氏
  短ハ調トリオ              ベエトウフェン作
二・独唱
  甲、諸威の民謡             グリーク作
  乙、独乙の子守歌            ブラームス作
  丙、二つの星              ウェルクマイステル作
三・バイロリン二部合奏           ユンケル氏
                      安藤夫人
  コンサート               ゴーダード作
四・ピアノ独奏               ベゾルド夫人
  甲、夢                 リッセル作
  乙、ポロネイス             リッセル作
五・セロと箏の合奏        箏    安藤夫人
                 〃    鳥居令嬢
                 セロ   ウェルクマイステル氏
  甲、メジテーション           バハ作
  乙、ローマンス             ゴルトマン作
六・ピアノ独奏               本居長世氏
  数え歌のバリエーション         同氏作
七・独唱(箏歌)              ベゾルド夫人
  甲、桜                 箏曲原作
  乙、蛍                 ウェルクマイステル作
八・セロ独奏                ウェルクマイステル氏
  歌の曲                 同氏作
九・三部合奏          ピアノ   フヒオ夫人
  (曲名は不明)       バイオリン ユンケル氏
                セロ    ウェルクマイステル氏

 以上の様なプログラムになっているが、ウェルクマイステル氏は東京音楽学校の教授でイギリス大使マクドナルド氏と大隈伯爵など有力な保護のもとに開催されたとある。東京フィルハーモニー会は欧米に倣って会員組織とし、専門的演奏会と娯楽的演奏会との二種の音楽界を毎年六回づつ開催し、極めて平易なる曲を演奏し若しくは新時代に適応すべき新曲を発表する計画なるをよしとして、今回四月三日午後二時より東京音楽学校にて朝野の名士を招待して行われたのである。しかし未だ洋楽は大衆のものではなく上流家庭の極く限られた人達に浸透して行った。服装にしても男性はフロックコートかモーニング、又は制服 ( 軍服 ) 、女性はイヴニングドレスと云う様に決められていた。東京フィルハーモニー会の演奏会は其の後もずっと続くが、やがて明治三十七年を迎えると日露戦争が起き、世相は慌ただしく変わって行くことになった。明治三十八年にロシアに第一回革命が起き日本は三月に奉天を占領し五月には日本海大海戦があって日本は大勝利をおさめ、ロシアは自国の紛争の方が気になって休戦を申し出ることになった。アメリカの仲介でアメリカのポーツマスで講和条約が締結することになり、日本が勝利を収めたことになったが、国民大会では群衆が暴動化し大変な事態になった。この年に日比谷公園に音楽堂が完成し日曜祭日には陸海軍の軍楽隊が演奏することになった。日比谷野外音楽堂は私も若い頃、演奏したことも有り今日迄ずっと続いている。この音楽堂で演奏された洋楽は吹奏楽ばかりでなく、編曲された管弦楽曲を通じてどれ程、洋楽普及に貢献したことか、当時すでに有名な 「 軍艦マーチ 」 は作曲され流行歌として愛唱されていた。この他に当時の流行歌は 「 夫人従軍歌 」 「 勇敢なる水兵 」 「雪の進軍 」 「 あいたさ節 」 「 荒城の月 」 「 箱根八里 」 「 ラッパ節 」 など軍歌もどきの歌が歌われていた。多くの名曲を残した滝廉太郎は明治三十六年に亡くなっている。
 その跡を継いだ山田耕筰は大正三年にドイツから帰国することになり、やがて日本の音楽界の中で中心的活動をすることになる。

( つづく )

注@ ミソロジカル Mythological ( 神話的 )
注A レチタチーボ recitativo ( 叙唱的 )

参考文献 日本の洋楽百年史 第一法規
Updated 20 April , 2020