Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 35 号 平成 25 年 ( 2013 年 ) 9 月 1 日

寄稿 洋楽今昔物語 明治の洋楽 その 2

佐藤 昌之

 明治時代は全てに於いて欧米の文化をどの様に受け入れたらよいか?あらゆる分野で試行錯誤の時代であった。何故日本は独自の文化を守って、世界の仲間入りをしようとしなかったのか?。
 幕末から明治にかけて多くの指導者層が攘夷か開国か?大いに悩み遂に幕府を倒し開国の道を選択した訳であるが、脱亜入欧と云うスローガンは脱かん入欧とも云っていいくらいもともと隣国かん国(中国)の文化の影響を受けていた日本にとって脱亜入欧の精神は大きい国造りのスローガンであった。
 当時ヨーロッパに目を向けよう。十五世紀に始まった航海の時代からイギリス、スペインを中心にアメリカ大陸を発見し植民地にし、やがてアジアへその矛先は向かった。
 当時後進国であったアジア諸国はヨーロッパから見ると野蛮国であった。それはヨーロッパから見ての見解であって、すでに産業革命を終えて鉄道や工場など科学文明が整えつつあり、それに従って三権分立など独立国としての国造りが整えつつあった。現在とほぼ同じレベルの国々が多くあった。そんな中でロシアだけは憲法がなく明治二十二年に初めて憲法を制定した日本より遅れて制定した。
 勿論その頃のアジアで憲法を持った国はなかった。アジアに進出したイギリス、スペイン、オランダなどはこれらアジアの国造りを助けると云う名目でアジアに進出するのであるが、本音は彼等の国々に眠る豊富な資源が目的であった。アジアの殆どは熱帯地方にあり、住居や衣類の心配もなく原始時代そのままの生活をしていたし、争いのための武器弾薬の備えもない状態であった。
 それに比べてヨーロッパは物質文明に目覚め、武器弾薬も豊富に持っていた。また彼等の航海術も大型船で遠洋まで容易に出かけることが出来た。これらを背景にヨーロッパ人はアジアへ侵入 ( 本当は侵略 ) したのであった。
 しかし文明には遅れたが彼等の文化は決してヨーロッパに劣ってはいなかった。音楽ひとつをとっても彼等は伝承された文化を大切にしていた。祭事や葬儀の際の歌や踊りは現在も大切に伝承されている。
 最終的にヨーロッパ人に服従したのはキリスト教と云う伝家の宝刀のためだった。
 アジア人も原始宗教を持っていたが、普遍性を持たない宗教のため世界中に広まることはなかった。広く世界史を見渡すと人類は宗教戦争のくり返しだった様に思う。
 仏教やイスラム教、そしてキリスト教と世界を席巻した宗教は世界をかけめぐった。
 日本の鎖国もキリスト教の伝来を恐れた幕府の危惧感から始まったが、同時にヨーロッパ人の文明がすでにアジア諸国を植民地化した現実を見て鎖国へと進むのであった。
 幕府二百六十年の鎖国は気がつくと日本を孤立化していた。そして明治維新を迎えたのであった。ざっとそれ迄の歴史を振り返ってみたが、明治維新と云う今までの幕府政策と違う政治形態の中で、音楽文化がどうなったか?
 前回で総括的に述べたが、その中で洋楽をどの様に受け入れたか・・・・。結局従来からあった邦楽と洋楽をどの様な形で定義させようとしたのか・・・・。各種音楽会では邦楽と洋楽を混ぜたプログラムを紹介し、最後に新しい洋楽を学ぶ音楽学校を設立し、富国強兵のスローガンの下に軍楽隊を設立し日本も欧米並みのレベルへと変身して行くのであった。それは民間や個人のレベルでなく政府として行政としての音楽行政が行われて行くのであった。そのことについて述べてみたい。
 学校に洋楽を取り入れようとして活躍した教育者に伊沢修二なる人物がいた。彼は初代の音楽取調掛長であり初代の東京音楽学校長である。彼の行った業績は多くの賛辞に満ちている。戦後に出版された 「 音楽五十年 」 で音楽評論家の園部三郎は次の様に述べている。

伊沢 修二

  「 伊沢修二の功績は実に偉大だった。若しも彼が機械的な欧風化に走って洋楽万能主義をとっていたならば、日本の音楽伝統はこの時代に、もはや研究の対象とならなかっただろうし、洋楽はただ一部の人々のみ一層固定化し、また民衆音楽は一層それらと全くかけ離れて、ますます原始的な感性の中に没入してしまい、洋楽調の吸収はなかなか実現しなかっただろう 」 と云っている。伊沢修二は二十四才で愛知県師範学校長になっている。明治八年には師範学科取調員としてアメリカに留学、明治十一年に帰国した。音楽取調掛の外人教師アメリカ人のメーソンとはこの時からの付き合いだった。この留学時代に彼が学びとったことは音楽ばかりではない。 "一身独立して一国独立す" と云う明治先覚者の共通した意識がこの時代の彼にはある。こう云う意識がやがて音楽取調掛長として洋楽をどの様に我が国に取入れようかと云う教育に取組むことになるのである。明治二十三年二月十一日 ( 紀元節 ) に国歌教育社という団体を作り、そして社の方針として次の要領を決めたのである。
 一・忠君愛国の元気を養成渙発かんはつすべきこと。
 二・国家教育の本義を講明し其主義を貫徹すべきこと。
 先ず国家主義の教育が第一で国民教育はそのつぎであると云う思想を述べている。
 しかしこの彼の思想は文部省訓令によって止めを刺された。 「 教育会の名称に於ける団体は教育行政を新聞雑誌等を通して政論が正しからうがそうでなかろうがひはんすることは許されない 」 と糾弾されるのである。これで彼の音楽教育に対する場は全く失われてしまう。
 しかし伊沢は政府から音楽に関する諮問に対し三つの意見を述べたことは評価されるべきであろう。伊沢修二が述べた三つの意見書は次の通りである。 ( 原文のまゝ )
 甲説 「 音楽の情、自ら其音調に顕るゝ者なれば洋の東西を問わず人種の黄白を
     論ぜず荀も人情の同き所は音楽亦同じて可なり。抑々西洋の音楽はギリ
     シャの哲人ピタゴラス以来、数千年間に達したるものはなれば其情、其
     美素より東洋蛮楽の及ぶ所に非ず、故に其良種を択てこれを我土に移植す
     可し、何ぞ不十分なる東洋音楽培育完成するの迂策を、求るを要せんと
     す 」 。
 乙説 「 各国皆各国の言辞あり風俗あり文物あり是れ其住民の性質と風土の情勢
     とにて因て自然に産出せしものなれば人力の能く之を変易すべきに非ず
     且音楽の如きは人情の発する所人心の向ふ所に從て興りたるものなれば
     各国皆固有の国楽を保すいまだ全く他国の音楽を自国に移入せしの例ある
     を聞かず、我国に西洋の音楽を移植せんとするは恰も我国語に代るに英
     語を以てせんとするが如く無益の論と云わざるを得ず故に我固有の音楽
     を培育完成するに如かず 」 。
 丙説 「 甲乙の二説其理なきに非ずと雖も皆偏倚の極に陥るの弊を免れず故に其
     中を執り東西二様の音楽を折衷し今日我国に適すべきものを制定するを
     務むべし 」 。

 この様な意見書を提出し結局政府によって丙説 ( 和洋折衷説 ) が採用されることとなった。
 この様にして日本の音楽教育は和洋折衷の道を辿ることになる。西洋のドレミファソラシドと云う音階の器の中に日本的情緒を積めたメロディと和音の歌曲が作られるようになり、これがやがて文部省唱歌として子供達に歌われるようになって行くのである。
 新しい文化は大人より子供の方に抵抗感がないので洋楽は小学生に浸透して行ったのである。伊沢修二の 「 小学唱歌初篇 」 が出版されたのは明治十四年である。そして 「 小学唱歌第二篇 」 が出版されたのは二年後の明治十六年であった。その後伊沢修二は 「 第三篇 」 をと次々出版している。そして明治十六年には音楽取調掛のアメリカ人教師メーソンに変ってエッケルトが赴任する。世は次第に洋風文化が巷に拡がり明治十七年には有名な " 鹿鳴館 " でダンスをする男女が話題を呼ぶことになる。
 和服から洋服へと音楽以外でも洋風化は進んで行くのである。背広を着たりドレスを着る人達を "ハイカラさん" と呼んでからかう人達もいたが、 "ハイカラ" とは英語 high collor のことで、たけの高いえりが流行し洋風好みの気取った態度をとる人をこう呼んだのである。
 この言葉は転じて "新しがり屋、流行を追う人" と、どちらかと云うと誉め言葉ではなく、からかった言葉であろう。
 そして大衆の中では多くの流行歌が生まれて行った。そしてそれらの流行歌は今でも我々の血の中に残っているようだ。明治初期に流行った流行歌を調べると、なんとなつかしいことか!。私達の父や祖父、母や祖母が鼻歌で歌っていたではないか!ざっと次の様な歌が歌われていた。
 トコトンヤレ節、ええじゃないか節、ぎっちょんちょん節、都々逸、こちゃえ節、かっぽれオッペケペ節。
 これらの歌は文部省唱歌より、ずっと前から大衆の中で歌われていたのである。
  「 軍艦マーチ 」 も明治三十年には流行歌として生まれていた。
 やがて文部省唱歌の祖、滝廉太郎が東京音楽学校を卒業し明治三十三年にドイツへと留学するのである。そして明治三十四年に 「 荒城の月 」 「 箱根八里 」 が作曲され広く大衆の間で流行って行くのである。
 洋楽は特にクラシック音楽は一般大衆の間では人気がなく、一部インテリ層の中でレコードマニアとして浸透して行ったが、本格的オーケストラの誕生はもう少し時代が経ってからである。

 参考文献  洋楽百年史 第一法規出版株式会社
Updated 28 November , 2019