Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 34 号 平成 25 年 ( 2013 年) 6 月 1 日

釧路の老舗喫茶店リリー

奈良 久


1. はしがき

  「 河太郎 」 33 号の 「 旭小学校黄組のクラス会 」 で、黄組の自主的ないし私的なクラス会を、北海道釧路市の北大通 4 丁目にある老舗の喫茶店リリーで開いていることを紹介した。
 子供の頃僕の家は北大通 6 丁目の薬屋だったから、 4 丁目の喫茶店リリーは近かった。そして初代の息子の武士君は旭小学校の同級生で青組に属していた。僕らは彼のことをオモチャンと呼んでいたが、僕はどうしてオモチャンと呼んでいたか今もってその理由を知らない。北大通 5 丁目には、同級生で小松金物店の小松欽平君 ( キンチャン ) がいたし、 4 丁目には北村呉服店の北村藤一朗君 ( トウチャン ) がいたから、僕らはよく集まって遊んだものだ。
 喫茶店リリー、あるいはオモチャンの思い出は多い。その結果だと思うが、僕らは 「 私的な旭小学校黄組クラス会 」 をリリーで開くことにしたのだと思う。
 今回は、前回の 「 旭小学校黄組のクラス会 」 に続いて、釧路の喫茶店の老舗リリーと僕らとの関わりについては述べたい。


2.釧路の喫茶店老舗リリー

 喫茶店リリーは昭和 10 年 ( 1935 年 ) に初代の工藤武雄氏が創業した。工藤氏の本業は靴屋で、屋号は 「 鍵本 」 であった。靴屋の倉庫を改造して、副業として 「 食事と喫茶 」 のリリーを開業し、その経営を奥さんのヨシさんに任せたそうである。そして初代工藤武雄氏の息子工藤武士君、すなわちオモチャンは、学制改革のため釧路中学校から釧路湖陵高等学校と名前を変えた学校を終えた後、釧根食料株式会社 (1) のサラリーマンになった。オモチャンは釧根食料株式会社のサラリーマンを続けながら、実質的には喫茶店リリーの経営に深く関与していた。そして釧路の繁華街の喫茶店乱立時代の到来に際して、オモチャンは初代の経営者工藤武雄氏の後を継いで正式に喫茶店リリーのマスターとなった。オモチャンが 29 歳になった昭和 35 年の 12 月のことだった。
 オモチャンはその後病を得て残念ながら平成 4 年に享年 61 歳の、働き盛りの年齢で亡くなった。武士夫人の淑子さんが亡夫の遺志を受け継いで現在も営々とリリーの経営を続けておられる。


3. 昭和 10 年から 50 年間の釧路と喫茶店リリーの変遷

 オモチャンは昭和 60 年 ( 1985 年 ) に喫茶店リリーの創業 50 周年を祝って色々な記念行事を行い、そして 「 珈琲と共に 50 年 」 (2) と題した小冊子を発行している。 「 珈琲と共に 50 年 」 は 100 ページ弱の小冊子であるが、表紙はリリーで使っていた歴代マッチ箱レッテルのデザインをあしらった洒落た冊子である。オモチャンが喫茶店リリーの開店からの 50 年を概観し、常連客の手記や、開店以来 50 年のリリーを振り返る座談会の模様が収録され、関連する年表や古い釧路の写真、当時上映されていた懐かしの映画の宣伝ポスター、タバコのデザインの写真等なども収録された格調高い本格的な冊子である。
  「 珈琲と共に 50 年 」 には、 「 釧路市の 50 年間の主な出来事! 」 とタイトルが付けられた 6 ページにわたる年表が載っている。この年表を眺めていると、昭和 10 年以来の釧路市の栄枯変遷が良く分るし、ほとんど忘れていたことも思い出されて懐かしい気分になる。ここに再現する表 1 は、 「 珈琲と共に 50 年 」 の 「 釧路市の 50 年間の主な出来事! 」 を元にして、僕自身が取捨選択して新しく改訂した 「 釧路市の 50 年間の主な出来事! 」 である。若干の補足をしたい。
 まず釧路市の人口である。昭和 10 年 ( 1935 年 ) 当時の人口は 56,170 人である。僕らが旭小学校に通っていた頃は、釧路の人口は 5 万人とか 6 万人とか言っていた記憶がある。それが昭和 27 年 ( 1952 年 ) には 10 万人を突破し、昭和 35 年 ( 1960 年 ) には 15 万人を超えた。そして昭和 55 年 ( 1980 年 )には過去最高の 227,234 人になり、それ以降は毎年減少し続けて現在 ( 2010 年国勢調査 ) では 190,478 人 (3) である。釧路市人口の予測 (4) によれば、 2035 年には 118,448 人にまで減少すると予測されている。ある都市の活性度や繁栄度は端的にその人口数に比例すると考えて良かろう。色々な意見があり得るが、釧路の経済的な発展は北洋漁業と太平洋炭鉱それに林業 ( 製紙工業 ) に支えられてきたことに異論はなかろう。いわゆる 200 海里問題 ( 排他的経済水域問題 ) が持ち上がって 1982 年に施行された国際海洋法条約 (5) の発効や、エネルギー問題で石炭と石油の地位が逆転して太平洋炭鉱が平成 2 年 ( 2002 年 ) に閉山 (6) したことも大きく影響して人口の減少が続いているものと思われる。

表1 釧路市50年間の主な出来事
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 つぎに興味のあるのは珈琲一杯の値段の推移である。リリー開店当時のコーヒーの値段は 15 銭であった! それが戦後のリリー営業再開時 ( 昭和 21 年 ) には 40 円、昭和 42 年 ( 1967 年 ) は 100 円から 200 円に値上がりしている。しかしその後の値上がりは非常に穏便なもので、昭和 50 年 ( 1975 年 ) には 250 円から 280 円へ、昭和 56 年 ( 1981 年 ) 300 円、喫茶店リリー創立 50 周年の昭和 60 年 ( 1985 年 ) には 350 円である。ちなみに現在 ( 平成 25 年の 2013 年 ) の値段は 450 円である。喫茶店リリーのコーヒー一杯の値段は、戦後の猛烈なインフレ時代を除けば、慎ましいほどの穏便な値上げ方針を守ってきている。


4. 喫茶店リリーの 「 珈琲と共に 50 年 」

 僕はオモチャンが喫茶店リリーの経営を受け継いで、喫茶店リリーのマスターになった経緯をすべて知っているわけではない。オモチャンが、戦後の学制改革のため釧路中学校から釧路湖陵高等学校 (7) に変わった学校を卒業したのは昭和 25 年だったと思う。大学進学を希望したが不合格だった。そして両親はまだ健在であったが、工藤家には息子に浪人させるほどのゆとりはなかったのだろう。それでオモチャンはとりあえず釧根食料株式会社 (1) に勤務してサラリーマンとなったのである。
 オモチャンが結婚したのは 32 歳になった昭和 38 年である。当時としては極めて晩婚である。喫茶店リリーの店も開店以来ニ十年近く経ってみすぼらしくなったし、釧路繁華街にあった唯一の喫茶店リリーに対抗して喫茶店モカが新しく開店したのを契機として、釧路にも喫茶店乱立の時代がやってきたのだ。喫茶店モカはが開店したのは多分昭和 27 年か 28 年の頃のことであったと思う。
  「 珈琲と共に 50 年 」 (2) の 「 思い出深き喫茶店 」 によると、昭和 37 年 ( 1962 年 ) 8 月 22 日付けの釧路新聞に、その時点での釧路の繁華街で営業していた喫茶店として 22 軒の喫茶店を挙げている。つまり喫茶店リリー開店の昭和 10 年から 20 年ほどの間に、競争相手の同業喫茶店が釧路の繁華街に二十数軒あってしのぎを削っていたのである。形式的なリリーのマスターはオモチャンの父親であったが、オモチャンは実質的なリリーの経営者として喫茶店リリーの諸問題に対処してきたのである。
 例えば、オモチャンは昭和 35 年に喫茶店リリーを改造して、釧路で初めてのオープン・カウンターの喫茶店をこの時期に出現させた。そしてこの年に喫茶店リリーの第 2 代目のマスターに就任したのである。
 喫茶店リリーは、昭和 60 年 ( 1985 年 ) に創業 50 周年の記念すべき年を迎えた。昭和 50 年 ( 1975 年 ) の創業 40 周年にも喫茶店リリーは記念行事を行ったが、昭和 60 年早々から、オモチャンは喫茶店リリーの経営者としてどのような記念事業を行うべきか検討を加えてきた。総合広告代理店の株式会社新生広告社 (8) の 「 いたさか康央 」 氏に相談を持ちかけ、常連客のメッセージ、喫茶リリーを語る座談会、等々の色々な企画を検討し、そのすべてを掲載する記念誌 「 珈琲と共に 50 年 」 を発行するなどの方針を決めた。オモチャンが正式に喫茶店リリーのマスターになったのは昭和 35 年だから、昭和 60 年の創業 50 年記念の時点で喫茶店リリーの責任者を 25 年務めたにすぎない。しかしオモチャンはサラリーマン時代から深く喫茶店リリーの運営に関与してきたから、創業以来少なくとも 35 年以上は実質的にリリーの責任者としての役割を果たしてきたのである。そして 「 珈琲と共に 50 年 」 の編集発行は言うに及ばず、喫茶店リリーの創業 50 周年記念行事のすべてを取り仕切って立派にその役割を果たしたのである。
 創業以来 50 年の喫茶店リリーの歴史の詳細は小冊子 「 珈琲と共に 50 年 」 (2) に詳しく紹介されている。以下しばらくは 「 珈琲と共に 50 年 」 に頼って喫茶店リリーの 50 年を振り返りたい。
 昔も今も喫茶店の繁盛は数多くの、良質の常連客に負うところが多い。オモチャンの記憶に残る常連の第一号は三ツ輪運輸 (9) 社長の故紅林定四郎氏だそうである。英国紳士然としてステッキをつき、社員がリリーに来る時間を意識的に避けて、琥珀色のコーヒーを長い時間かけて味わっていたとのことである。
 カメラ狂の 4 人も、常連であった。増田碧氏、宮家一正氏、柴田栄氏、越田正男氏の 4 人組である。昭和の初期、カメラを個人で所有するというのはまだまだ珍しい時代だったが、この 4 人はイコンタ (10) 、ミノルタフレックス (11) などの写真機を持って写真を撮りまくっていた。当時ミノルタ・シックスは 270 円位していたという。オモチャンは、多分この 4 人の影響を強く受けたのだろうと思われるが、早くからカメラを趣味としていた。そして自前のカメラ ( セミ・イコンタ (12) ) を購入して写真を撮っていた。旭小学校黄組のクラス会では、記念写真をいつもオモチャンに撮ってもらっていた。お金を払った記憶が無いから、多分タダで撮ってもらっていたのだと思う。
 その他の常連客は、昭和 11 年に勝見義雄氏をリーダーとして結成された釧路管弦楽団のメンバーたち、小林啓一郎 (13) 氏他二十数名である。管弦楽団メンバーのリストを見れば、バイオリンなどの弦楽器奏者が 4 、 5 人、トランペット、フルート、クラリネットなどの管楽器奏者が 10 人ほど、計 20 人ほどのグループであった。
 道東塩業 (14) 社長の成島謙太郎氏もリリー常連であったが、いつも奥さんとカップルで来ていた。そして初代リリー店主は成島氏を通じて東郷青児 (15) の油絵を購入し、それは現在もリリーの店に飾ってある。
 また喫茶店リリーはクラッシク音楽のレコードを多数用意し、名曲喫茶のはしりのような役割も果たしていた。 NHK 釧路放送局が当時所蔵していたクラッシク音楽の レコードのかなりの部分は喫茶店リリーが提供したものだったそうである。
 戦争の影響で昭和 18 年から 20 年にかけてリリーは一時休業の止むなきに至ったが、戦争が終わって昭和 21 年には営業を再開した。釧路在住の白系ロシヤ人の店 「 ベロノゴフ 」から砂糖を闇で仕入れ、コーヒーは進駐軍の放出物資で賄うなど、困難に満ちた営業再開であった。
 喫茶店に勤務するウエイトレスも喫茶店の栄枯衰退に強く影響を与える。幸い歴代のリリーのウエイトレスは皆美人で、初代マスターの工藤武雄氏および 2 代目マスターのオモチャンの家族的な経営方針もあって 、リリーの顧客にほのぼのとした暖かさを提供した。歴代のウエイトレスのことは 「 珈琲と共に 50 年 」 にくわしく書かれている。リリー開店当初からのミッチャンは美人ウェイトレスとして非常に可愛がられたそうである。彼女を目当てに通った常連が沢山いた事をオモチャンは両親からしばしば聞かされたという。家族的な人柄のウエイトレス等々、オモチャンの二人のお姉さんを含めて喫茶店リリーの華やかなウエイトレス達は釧路の街に忘れがたい彩りを添えてくれた。
 喫茶店リリーにとって多分最大の出来事は、昭和 39 年に始まった都市改造計画で、北大通片道 3 車線化の大工事であろう。この工事は昭和 42 年 (16) に完成したが、この工事の影響で喫茶店リリーは店舗を地階に移した。純毛の絨毯を敷き詰め、ローズウッドの木目を基調に、重厚さとゆったりとした店内設計で喫茶店リリーの面目は一新したのである。そしてこの店内の模様は現在に至るまで基本的には全く変わっていない。リリーの正面奥の壁に丹頂鶴のレリーフ 「 親子鶴 」 が飾ってある。これは鋳金家渡辺信 (17) 氏が製作したもので、 1967 年にオモチャンが特に注文して作られたものである。渡辺信氏は現在も札幌在住で、北海道に根ざしたレリーフなどを制作している鋳金家である。
 リリーはもちろん喫茶店ではあるが、コーヒーを提供するだけの単純な喫茶店ではない。早くからリリーは絵画展、音楽会、写真展などにも積極的に使われていた。僕もクラッシク・ギターの演奏会を聴いたことが何回もある。
 僕らが小松欽平君、北村藤一朗君、両角靖二君、徳田廣さん、などとともに頻繁に喫茶店リリーを利用するようになったのは、昭和 23 年以降からである。つまり中学校 ( 中学校在学中は喫茶店に出入りするのは禁止されていた ) を終えて進学したり、職に就いたりしてからである。一杯のコーヒーで何時間も粘ったり、時には他愛のない話題で激論を交えたり、リリーにとっては必ずしも歓迎すべき客ではなかったと思うが、とにかくリリーにはよくお世話になった。昭和 27 年には北大通東側の末広丁町 2 丁目に喫茶店モカが開店し、次いで 28 年には北大通 3 丁目にポルカが、29 年には末広町 3 丁目にクロンボが開店し、釧路にも純喫茶店が次々に乱立して激しい競争の時代に突入したのである。僕が釧路や中標津で 6 年間の代用教員をしていた時代はもっぱらリリーかモカを利用していた。
  「 珈琲と共に 50 年 」 には、リリーの常連客に集まってもらって、戦前の話を座談会形式で話してもらった記事が載せられている。この座談会は昭和 60 年 10 月 28 日にオモチャンの司会で開催された。出席者はいずれもリリーの常連客で、老若男女多彩な面々が集まっている。この座談会の記録を見ると、リリー創業以来の足跡と、そしてリリーが如何に釧路の地域に根ざしたサービスを提供し、釧路の発展に貢献してきたかがよく分かる。 「 珈琲と共に 50 年 」 は残部がほとんど無くなっているが、オモチャンのあとを継いで今も喫茶店リリーを健気に守っている未亡人淑子さんに頼めば、喜んで見せてくれる筈である。事実小生も淑子未亡人から 「 珈琲と共に 50 年 」 を借用して、この寄稿文執筆の参考にさせていただいている。


5. あとがき

 昭和 10 年 ( 1935 年 ) に北海道釧路市の繁華街に創業した喫茶店リリーと僕らとの関係について述べてきた。現在は平成 25 年 ( 2013 年 ) だから喫茶店リリーは、創業者の初代工藤武雄氏、2 代目の工藤武士氏、そして武士夫人の 3 代目工藤淑子氏の 3 人が、営々と 78 年もの長い間その灯を守ってきたことになる。喫茶店リリーはもちろん釧路では最古の老舗喫茶店だが、全国的にみても 80 年になんなんとする歴史をもつ稀有な喫茶店であると思う。そのことに心から敬意を払いたい。
 喫茶店は単に旨いコーヒーを提供すれば良いという存在ではない。本稿で縷々述べてきたように、喫茶店リリーは釧路という街のあらゆる文化に深く関与し、その発展に深く寄与してきた。釧路出身の人で喫茶店リリーを知らない人がいたら、その人はまさしくモグリの人であろう。喫茶店リリーはそのくらい釧路人に馴染みの深い存在である。喫茶店リリーがこれからもできるだけ長く美味しいコーヒーを提供し続けるよう願わずにはいられない。
 本稿の大部分は喫茶店 2 代目のマスター工藤武士氏 ( オモチャン ) 発行の 「 珈琲と共に 50 年 」 の内容を参考にし、いわば 「 珈琲と共に 50 年 」 をリアレンジしたようなものである。その意味で本稿のオリジナリティーの度合いは極めて低いと言わなければならない。この事実を 「 河太郎 」 の読者に告白してお許しを請いたいと思う。


謝辞

 本稿の原稿が完成した段階で、原稿をリリーのママさん工藤淑子さんに点検していただいた。日時などが間違っているところはもちろんのこと、多くの貴重なご意見を頂いて原稿を改定して最終稿を得た。お忙しい中貴重な時間を割いて下さった工藤淑子さんに心から感謝申し上げる。

参考文献

(1)  釧根食料株式会社
      http://www7.ocn.ne.jp/~senkon/html/profile.html
(2)  「珈琲と共に50年」
      発行人 工藤武士 昭和60年12月1日発行
(3)  2010年国勢調査による釧路市の人口
      http://city.eek.jp/01/01206/
(4)  昭和35年までの釧路市人口予測
      http://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson08/gaiyo.pdf
(5)  200海里問題(排他的経済水域)
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%
      E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9F
(6)  太平洋炭鉱閉山
      http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/taiheiyou-tankoo.html
(7)  釧路湖陵高等学校
      http://www.koryo946.hokkaido-c.ed.jp/
(8)  (株)新生広告社釧路支店
      http://www.shop946.com/disp/shop.php?shop=2140
(9)  三ツ輪運輸株式会社
      http://www.mitsuwa-co.com/indexback/indexback.htm
(10)  イコンタ
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF
(11)  ミノルタフレックス
      http://www.tlr66.com/klmno/minoltaflex3.php
(12)  セミイコンタ
      http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%DF%A5%A4%A5%B
      3%A5%F3%A5%BF
(13)  小林啓一郎
      http://masaokato.jp/2010/08/29/142242
(14)  道東塩業株式会社釧路営業所
      http://www.its-mo.com/c/%E9%81%93%E6%9D%B1%E5%A1%A9%E%A5%AD%EF%BC%
      88%E6%A0%AA%EF%BC%89%E3%80%80%E9%87%A7%E8%B7%AF%E5%96%B6%E6%A5%AD%
      E6%89%80/DIDX_DKE,6119282/
(15)  東郷青児
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E9%9D%92%E5%85%90
(16)  釧路市都市改造計画
         http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A7%E8%B7%AF%E5%B8%82
(17)  親子鶴の作者「渡辺信」
      http://www.imono.net/member-list/20070507
Updated 29 November , 2019