同人誌 「 河太郎 」 第 34 号
Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 34 号 平成 25 年 ( 2013 年) 6 月 1 日

論語を読む ( 五 )

長谷川 隆次

孔子とその弟子たち

憲問第十四 1〜47

 この扁も例に依って始めの 2 字を以て扁名としています。 47 章から成ります。
  ( 訓 )  憲 恥を問う 子曰く 邦に道あれば穀す 邦に道なくして穀するは 恥な
     り ( 憲問第十四 1 )
  ( 新 )  原憲が名を惜しむ方法を尋ねた。子曰く 道義の行われる国ならば出仕して
     穀を受けるがよい。非道な国において禄を貰いたさに出仕すると、大変な恥辱
     を加えられることがありますぞ ( 宮崎市定 )

 憲、すなわち  ( 姓 ) 原  ( 名 ) 憲  ( 字 ) 思 孔子の弟子。貧しい生活をして道を楽しんだ人とされる。原憲は邦に道のない時に穀する事は恥だと知っているけれど、邦に道が行われているのに何もしないで禄をもらうのは恥だ、と孔子は教えた事です。
 原憲はこの論語に 3 回登場します。先ず次の 2 章です。

  ( 訓 )  こく ばつ えん よく 行われざるは 以て仁と為すべきか 子曰く 以て難しと為
     すべし 仁は則ち吾知らざるなり ( 憲問第十四 2 )
  ( 新 )  仲間に対しりあい、自慢しあい、怨みあい、羨みあいを行わなかったならば、
     それは仁者と言えましょうか。子曰く 滅多にありえないことではあるが仁者
     であるかないかかないかとは別の問題だろう ( 宮崎市定 )

 古注では、この章と前の章を一つとします。ですから 憲曰く が省略されているという克伐怨欲があってもよくその感情をおさえて行わない様にするのはむずかしいことであるけれども、それだけでは未だ仁とはいわれない。 ( 顔淵第十二 1 ) に出て来た 「 克己復礼 」 とこの 「 克伐怨欲 」 の間を考えてみれば仁に近づく方法があると思います。次に原憲の不欲を言った一章

  ( 訓 )  子華しか 斉に使いす 冉子ぜんし 其の母のためぞくを請う 子曰く これにを与えよ 
     益さんことを請う 曰く これにを与えよ 冉子これに粟五へいを与う 子曰
     く 赤の斉にくや肥馬に乗り 軽裘を衣る 吾 これを聞く 君子は急をすく
     て富を継がず と 原思これが宰たり これに粟九百を与う 辞す 子曰く 
     以てなんじが鄰里郷党に与うるからんや ( 雍也第六 3 )
  ( 新 )  子華が斉の国に使いに出された。冉子がその母の留守手当を下さいと願った。
     子曰く 十日分の食料、一釜を与えるがよい。冉子がもう少し多くを願った。
     子曰く 二倍の一を与えるが良い。冉子はそれでも少なすぎる
     と思い独断で、更に五十倍に当る五へいを与えた。孔子は、それ
     を聞いて言った。私の予想どおり、赤が斉に行った時、肥えた馬四頭に車をひ
     かせ、ふわふわした毛の外套を着て行ったそうではないか。上に立つ者として
     困窮者を支援するにつとめ、金持に追銭を与えるな、ということを私は常に教
     わっている。また原思を孔子の会計係になった時、手当として穀物九 を与え
     ることにした。多過ぎると辞退すると、子曰く 余ったなら、お前の隣り近所、
     町内の知りあいに与えたらどんなものかね ( 宮崎市定 )

 子華  ( 姓 ) 公西こうせい  ( 名 ) せき  ( 字 ) 子華 孔子より 42 才若いとされる。論語には、しばしば登場します。公冶長第五 7 に孟武伯が 「 赤や如何 」 と問いたのに孔子は 「 赤や束帯して朝に立ち賓客と言わしむべきなり 」 と答え、外交官としての資格を評価しています。冉子 すなわち冉有ぜんゆう 先進第十一 2 「 政治には冉有、李路 」 と出ています。孔門十哲の一人  ( 姓 ) 冉  ( 名 ) 求  ( 字 ) 子有 孔子より 29 才若い。前に触れました。
 衛の宰相となった子貢が路地裏の原憲をたずねた所、原憲はボロボロの着物を衣て迎えた。子貢 「 君は病めるのか 」 原憲 「 病とは道を学んで至らざるを言う。俺は貧乏しているが病んではいない 」 。史記、弟子列伝にのっています。原憲は清貧に甘んじた人でした。冉子は与えるべからずを与え、公西華は受けとるべからずを受け、原思は受けとるべきを受けとらなかった。いずれも義に反していることだと言う。

  「 恥 」 の文字はよく出て来ます。孔子の恥を追ってみます。
  ( 訓 )  子貢 問いて曰く 如何なれば斯にこれを士と謂うべきか 子曰く 己を行
     うに恥あり 四方に使いして君命を辱しめず 士と謂うべし 曰く 敢えて其
     の次を問う 曰く 宗 孝を称し 郷党弟を称す 曰く 敢えて其の次を問う
      曰く 言うこと必ず信 行うこと必ず果 ■々こうこう然として小人なるかな そもそ
     も亦以て次となすべし 曰く 今の政に従う者は如何 子曰く ああ 斗■とそう
     の人 何ぞかぞうるに足らんや ( 子路第十三 20 )
  ( 新 )  子貢が尋ねた。私共は、どの様にすれば求道の学徒たるの名に恥じないこと
     になりましょうか。子曰く 自己の行為に全責任を持つ。外国に使いに出され
     ても立派に使命を果すだけの力量をそなえる。それなら学徒と言ってよい。曰
     く もう少し程度の低い所を教えて下さい。曰く 親族が口をそろえて孝行だ
     といい、町内が一様に骨惜しみせぬと賞める人になることだ。曰く もう一つ
     下の所を伺いたいと思います。曰く 言った事は必ず守る。行うべき事にぐず
     ぐずしない。大局的に見れば見識の狭い人間にすぎないが、それでもまだまし
     な方と言えよう。曰く 現在の政治当局者はどの程度でしょう。子曰く 聞く
     だけ野暮だ。揃いも揃って小粒な帳面づけ役人で、問題にならない
     ( 宮崎市定 )

  「 己を行うに恥あり 」 何とすごい言葉でしょうか 「 己を行う 」 といういい方にも亦厳然とした見識の発動を意味していると私は読みます。この見識の最も問われているのが 「 恥あり 」 です。行って恥となる事は絶対にしないそしてその倫理的判断は自分自身の判断に依ります。もし人間として恥辱になると判断したら己の総てを賭して行わない 「 恥あり 」 です。我々がこの何十年間見て来た不祥事は全くこれと正反対の人種でした。見つからなければ何をしても良い、法律に抵触しなければ何をしても良い、そしてそれが発覚して糾弾されると責任を回避し、理由にもならない弁明をこととし社会のせいにしたり他人になすりつけたり、仕舞いには立法府の政治家でさえ法律のせいにしたりしました。

  ( 訓 )  子曰く 之を道びくに政を以てし之をととのうるに刑を以てすれば 民免れて恥
     なし 之を道びくに徳を以てし之を斉うるに礼を以てすれば恥あり且つただ
     す ( 為政第二 3 )
  ( 新 )  子曰く 人民を動かすのに政治権力を用い、人民を鎮めるのに刑罰を用いれ
     ば、人民は抜け道を考えるのにせいいっぱいで罪の意識をもたなくなる。人民
     を動かすのに正義を用い、人民を鎮めるのに礼儀を用いれば人民は廉恥を重ん
     じて心底から正しくなる(宮崎市定)

  「 政刑 」 と 「 徳礼 」の違い、その効果を述べています。いくら法律を厳しくしてもその法の網をくぐることを考えだしたとしたら法に触れないのだから何をやっても罪の意識はありません。 「 恥なし 」 です。虚業と言われる世界でのことです。
 抑も法律は人間の作ったものです。極端なことを云えば法律の決まりがなければ罪人はいない訳です。法律は人間生活を営むための最大公約数であると私は思っています。しかし考えてみれば一般人はいちいち法律に鑑み行動を起す訳ではありません。六法全書を片手に仕事をしている訳ではないでしょう。法律いぜんにあるもの、それは各人の持つ内的規範です。その内的規範をなすものそれが 「 徳 」 です。前にも言いました 「 天の命これを性と謂う 性にしたがう これを道と謂う 道を修める これを教えと謂う 」 諸橋徹次先生は、これを 「 天理 」 と訳し 「 天理のままの状態に従うこと 」 。これが 「 徳 」 だと謂う。誰でも生まれながらに持っている人間らしく生きる能力、これが 「 心の徳 」 だと説明されています。天から授ったものです。生まれながらにして誰もがこの 「 心の徳 」 が備わっています。人間が作った法律以前のものです。 「 徳 」 それは 「 仁 義 礼 智 信 」 です。

  ( 訓 )  子曰く 古は 之を言わんとして出ださすみずからの逮ばざるを恥ずればなり
     ( 里仁第四 22 )
  ( 新 )  子曰く 古語に 之を言わんとして出ださず とあるのは、実行が言葉に及
     ばぬことを恥るという意味だ ( 宮崎市定 )

 凡人は言うとおりおこなわないから簡単に言う。もし言行不一致を恥としたら言うことは容易でないと説明しています。

  ( 訓 )  子曰く 巧言 令色 足恭なるは 左丘明 これを恥ず 丘も亦これを恥ず
      怨みをかくしてその人と友とするは左丘明これを恥ず 丘も亦これを恥ず
       ( 公冶長第五 24 )
  ( 新 )  子曰く 猫なで声、追しょう笑い揉手割り腰は、左丘明の恥する所であった
     し、この私も恥とする。敵意を抱きながら親友らしく付き合うのは、左丘明の
     恥ずる所であったし、この私も恥とする(宮崎市定)

 左丘明は 「 春秋左氏伝 」 の著者とされていますがその人物はよく解らないらしい。
  「 巧言 令色 鮮し仁 」 ( 学而第一 3 ) は前に書きました。言葉が巧みで、おせじ笑いする人は仁に遠い。これに加えて、 「 足恭 」 朱子はこれを過度に恭しい、と訳しています。うわべだけで心に誠意のない偽りの人、それと同時に、心ではその人への怨恨を抱きながら表面は友人面をして付合いをするやから、これを恥とした。全くこの指摘は永遠なものです。現代の我々にもよく見られる所です。

  ( 訓 )  子曰く 其れこれを言いてはじざれば則ちこれを為すや難し ( 憲問第十四 21 )
  ( 新 )  子曰く 言うことはしゃあしゃあと言ってはにかむことを知らない人は実行
     の方までは手がまわらぬものだ ( 宮崎市定 )

 恥たり、ためらうことなくきっぱりといいきれるのは、その実行に際しての困難を知りながら困難を押しきってやり切るだけの充実した自信があるからであると吉川幸次郎は解説しています。言を軽んずるものは必ず行うことを務めない。必ず何かためにする所があって言うのである ( 陳新安 )

  ( 訓 )  子曰く やぶれたる褞袍おんぽう狐狢こかくを衣たる者と立ちて恥ざる者は 其れ由
     なるかな そこなわず求めず 何を用ってよろしからざらん ということあり 
     子路終身これを誦す 子曰く 是の道や 何ぞ以て臧しとするに足らん
     ( 子罕第九 26 )
  ( 新 )  子曰く すりきれた綿入れの服を着て銀狐の外套を着た人と列んで平気な顔
     をしておられるのは、由ひとりぐらいかな、と詩経の中に人は人、我は我、比
     べないのが一番いい、という句がある。子路はこの句が好きで、いつも口癖の
     様に唱えていた。子曰く そのくらいのことで何が一番いいもんか
     ( 宮崎市定 )

 ぼろぼろの着物を着て狐や貉の美服をまとった貴族と並び立っていれば大ていのものは引け目を感じ恥ずかしがるものだが恥ずかしがらないのは子路だと、めずらしく孔子は子路をほめています。詩経の衛風えいふうの雄雉篇に 「 人がもってるのをんでこれをそこなおうとせず己がないものを恥じてこれをむさぼろうとしないならば、物質的の欲望のために心を乱されないから、なにをしても善くないことがあろうか。何事も善を尽くすであろう 」 伎なわず求らずです。そして孔子は、伎わず求らずということは、どうして最善の道とすることがと子路を励ましています。

  ( 訓 )  子貢問いて曰く 孔文子は 何を以てか之を文と謂うか 子曰く 敏にして
     学を好み 下問を恥じず 是を以て之を文と謂う ( 公冶長第五 14 )
  ( 新 )  子貢が尋ねた。孔文子は何故に文とおくりなされたのですか。子曰く 彼は機会さえ
     あればとびついて学問にひたり、部下からの忠言を進んで求めたその点で文と
     諡する価値があったのだ ( 宮崎市定 )

 孔文子は衛の霊公の女婿にして重臣  ( 姓 ) 孔  ( 名 ) ぎゃく 文子はおくりな。諡は、その人の死後、その徳をたたえて贈る称号のことです。立派な人にはよい諡、そうでない人にはそれなりの諡が贈られます。諡の内で 「 文 」 が最高の諡です。孔文子は孔子と同時代で孔子が衛に滞在した時には交流がありました。孔圉すなわち孔文子は好ましくない事件を起こしています。子貢は、そういう人物に文子という立派な諡をもらうことに疑問を感じて質問した訳です。鋭敏な人物はとかく自己にたよりすぎます。その結果じっくりと学問をしたがらないのですが孔圉は鋭敏な人物でありながら学問を好み、しかもそのあらわれとして自分より地位能力の劣った者にも質問することを恥じとしませんでした。

衛霊公 第十五 1 〜 41

 例によって始めの三字が扁名 41 章あります。

  ( 訓 )  衛の霊公れいこう じんを孔子に問う 孔子こたえて曰く 俎豆そとうの事は則ちかつてこれを聞
     けり 軍旅の事は未だ学ばざるなり と 明日遂にる 陳にありて糧を絶つ 
     従者病み 能くつことなし 子路いかり見えて曰く 君子も亦きゅうするか 子曰く
     君子圉より窮す 小人は窮すれば斯にらんす  ( 衛霊公第十五 1 )
  ( 新 )  衛の霊公が戦術のことを孔子に尋ねた。孔子対えて曰く 文化に関した事は
     少しは勉強してみました。併し戦争のことは学ぼうともしませんでした、と。
     その明日前から考えていた様に決心して立ち退いた。陳に来た時食糧がつきて
     しまい、門人の従う者は病んで立ち上がれない者もあった。子路が腹を立て孔
     子に面と向かって言った。徳のある君子もこんなに落ちぶれるものでしょうか。
     子曰く 君子だって落ちぶれるさ。ただ小人のように取りみだすことがないだ
     けだ ( 宮崎市定 )

 霊公は決して明君ではありません。そして、そのきさき南子は亦大変な問題婦人です ( 雍也第四 26 ) 「 子南子を見る 」 の章で書きました。霊公亡き後、御家騒動が始まります。霊公の息子■■かいかいと、その息子つまり霊公の孫出公しゅっこう輒の争いです。この源は霊公、南子にあります。

  ( 訓 )  子 衛の霊公の無道を言うや 康子曰く 夫れかくの如くんば 何すれどほろ
     ざる 子曰く 仲叔圉ちゅうしくご 賓客を治め 祝■しゅくだ 宗廟を治め 王孫賈おうそんか 軍旅を
     治む 夫れ是の如し なんぞ喪びん ( 憲問第十四 20 )
  ( 新 )  孔子の衛の霊公の無軌道ぶりを話すと、康子曰く その様な状態ならばどう
     して滅亡せずにいることができるのでしょうか。孔子曰く 仲叔圉が外交を掌
     り、祝■しゅくだが内政を治め、王孫賈が軍事を統べて、何れも、成績を挙げている。
     この様な状態だから、どうして滅亡に陥ろう ( 宮崎市定 )

  「 国家は適当な人材を得てこれを用いるより強いことはない。もし能くこの様にするならば四方の諸国がその国を手本としてこれらを学ぶであろう 」 と。
 仲叔圉、祝■しゅくだ、王孫賈は霊公を補佐した重臣です。仲叔圉は二つ前に出てきた、孔文子のことです。祝 、王孫賈の名前はこの章の話が各々一回づつ見えます。

  ( 訓 )  子曰く 祝■しゅくだねいあらずして 宋朝の美あらば 難いかな 今の世に免れん
     こと ( 雍也第六 14 )
  ( 新 )  子曰く 衛の国で有名な祝Xしゅくだのような弁才を持たずに、宋朝のような美貌を
     持ったなら、どんな不幸な身の上になるかも知れない ( 宮崎市定 )

 祝■しゅくだ 祝とは祭祀の官名 Xは名 弁舌の巧みな人。論語には 「 ねい 」という言葉がよく出て来ます。一般的には、口先がうまい、人にへつらう、と解釈しますが、ここでは雄弁を意味します。宋朝 宋の公子朝のこと霊公婦人南子の情人、大変な色男。

  ( 訓 )  王孫賈問いて曰く 其の奥にびんよりは むしろかまどに媚びよとは何の謂い
     ぞや 子曰く 然らず罪を天に獲れば祈る所なし
     (八いつ第三■ 13 )
  ( 新 )  王孫賈が質問した。奥座敷へご機嫌伺いに罷り出るよりは、台所でおべんち
     ゃらを言っている方が貰いが多いという諺をどうお考えになりますか。子曰く
      私が信じているのは別の諺です。最高神の天のご機嫌を損したら最後、どこ
     へ祈りに行っても利き目がない ( 宮崎市定 )

 奥は尊い位にあるけれど祭の主ではなく竈はいやしいけれど祭の主になるから奥を君にたとえ竈を己にたとえて君に従うよりは己に附いたほうが好いではないかと権勢のある王孫賈がことわざにのって問いた。これに対して孔子は、奥に親しみ順うのも竈に親しみ順うのもどちらも道理に外れておりこの世に天ほど尊いものはない。人がもし道理に違ったことをして、天から罪を受けるなら、いくら祈っても、その罪を免れることはできません。奥や竈などはたのむに足りませんから親しみ順う必要はありません。宇野哲人の通訳です。

李氏 第十六  1 〜 14

  ( 訓 )  李氏 将に■臾せんゆを伐たんとす 冉有ぜんゆう 李路 孔子に見えて曰く 李氏将に
     ■臾せんゆに事あらんとす 孔子曰く 求やすなわなんじは是れ過てることなきか其れ
     ■臾せんゆは むかし先生以て東蒙とうもうの主となせり 且つ邦域の中にあり 是れ社■
     の臣なり 何ぞ伐を以て為さん 冉有曰く 夫子これを欲す 吾ら二臣は皆欲
     せざるなり 孔子曰く 求や 周人しゅうじん言あり 曰く 力を陳べて列に就き能わ
     ざれは止む と危うくしてせず くつがえりてたすけずんば 将にいずくんぞぞ彼の相
     を用いん 且つ爾の言過てり 虎児こじ こうより出て亀王 犢中とくちゅうやぶれなば 是れ
     誰の過ちぞ 冉有曰く 今夫れ■臾せんゆは固くして費に近し 今取らずんば 後世
     必ず子孫の憂えと為らん 孔子曰く 求や 君子は夫のこれを欲すと曰うを
     きて必ずこれが辞を為すを疾む 丘や聞く 国をたもち家を有つ者は すくな
     を患えずして均しからざるを患う 貧しきを患えずして安からざるを患う と 
     蓋し均しければ貧しきことなく ければ傾むくことなし 夫れ是の如し 故に
     遠人服せざれば文徳を脩めて以てこれを来す 既にこれを来たせば則ちこれを
     安んず 今由と求や 夫子をたすけ 遠人服せずして 来すことあたわず 邦 分崩
     離析して守る能わず 而して千才を邦内に動かさんと謀る 吾は恐る 李孫の
     憂えはX臾せんゆにあらずして■■しょうしょうの内にあらんことを ( 李氏第十六 1 )
  ( 新 )  魯の大臣の李氏が■臾せんゆの邑を伐つ計画をした。冉有と李路とが孔子に面会して
     曰く 李氏はいま■臾せんゆを攻めようとしています。孔子曰く 
     冉求よ、お前は何か考え違いをしているのではないか。■臾せんゆという邑は、
     むかし周の祖先が東蒙山を祭るために封じた国であって、魯国の領土に取囲ま
     れているが、独自の社 を祀る権利をもった属国である。これを攻めるという
     法はない。冉有曰く 李氏大臣が主張していることで、私等二人は実は不賛成
     なのです。孔子曰く 冉求よ聞け。周仕の言った言葉に、出来る限りの力を出
     し位にあって奉仕するか出来なければ退仕すると。足下が危い時に傍から支え、
     転びかけた時に助けおこすのが、付添人の相という者の役目だが、もしそれが
     出来なかったら相などはいらぬ。その上にお前が今言ったことも心得違いだ
     ( 官吏には夫々の職がある ) 動物園の園丁が虎や野牛に檻から逃げ出され、
     お倉番が預っていた玉器や亀甲が箱の中で毀れていたとしたら、知らなんだと
     申してすまされることではない。冉有曰く 併し多少の理由があります。■臾せんゆ
     の邑は城が堅固で、李氏の根拠地の費の邑のすぐ近くにあります。今のうちに
     片付けておかなければ、行く行くは子孫の代になって大きな禍の種になるかも
     知れません。孔子曰く 冉求よく聞け。お前たちは自分の野心から出たことを
     匿して、空々しい理屈を設けるものではない。私が聞いた言葉に、国なり領地
     なりを支配する者は、人口の寡いのを苦にせずに、負担が不均等ならば、貧乏
     という事は起こりにくい。平和が続けば人口は増え、不安が除かれれば、滅亡
     の危険はなくなる。これは自然の法則だ。だから若し遠方の異国を壊けようと
     すれば、自ら礼儀を守り、平和な手段で、向こうから進んで修好に来るのを待
     ちうけるものだ。そこで向こうの人がやって来たなら、安心させるのが第一だ。
     ところが今聞いていると、由と求とは、大臣李氏の相となって異国を懐けてこ
     れを修好することが出来ない。自分の国が内部から崩壊する危険があるのを防
     止することも出来ないでいて、すぐ近くの国に戦争を吹きかけようとしている。
     私の見るところでは、李氏にとって危険な敵国は、■臾せんゆの邑だと思うのは
     お門違いで、本当は腹心の子分だと思っている連中の中にいるのだ
     ( 宮崎市定 )

 めずらしく永い一章です。この論語の中で最も永い章は、先進第十一 25 の 315 字だそうです。この章は 274 字で二番目に長い章です。
 先進第十一 2 に政治には、冉有、李路と出て来ます。この李氏第十六 1 では、図らずもこの冉有 李路が李氏に仕え始めた頃の一章です。
  ( 訓 )  李氏然問う 仲由 冉有は大臣と謂うべきか 子曰く 吾は子を以て 異な
      るをこれ問うと為す すなわち由と求とをこれ問う 所謂大臣なるもおは道を
     持って君に事え 不可なれば則ち止む 今 冉と求や 且臣と謂うべきなり 
     曰く 然らば則ちこれに従う者か 子曰く 父と君とを殺するには亦従わざる
     なり ( 先進第十一 23 )
  ( 新 )  李氏全が尋ねた ( この頃召抱えた ) 仲由とが冉有とは、大臣と呼ばれる資
     格がありますか 子曰く はて、異な質問を承るものです。由と求とについて
     のお問いは予想しませんだでした。併しお尋ねの大臣という者は正義を以て主
     人に仕える者のことで、その正義を通して貰えなければさっさと地位を去りま
     す。いま由と求とはそこまで行きませんから頭数をそろえるだけの且臣と言っ
     ておけば間違いないでしょう。曰く それなら何でも主人の命令通りに動きま
     すか。曰く 父と子を殺するような場合には、決して従いません ( 宮崎市定 )

 李氏然とは過労李垣子の弟です。この李氏然が孔子の高弟子路、冉有を臣とした事を誇って質問した事です。且臣くんしんとは臣の数に備わっていることと宇野哲人は説明しています。そして 「 然らば是に従う者か 」 という李氏然の問いに対し、子路も冉有も君子、父に殺逆を企てる様な事には決して復しないといい暗に李氏の魯公をないがしろにする不忠実な態度を云ったとともとれます。冉有は有能な実務家ですが主君の不忠不正を諌める気概がありませんでした。
  ( 訓 )  李氏 泰山に旅す 冉有に謂いて曰く なんじ救う能わざるか 対えて曰く能わ
     ず 嗚呼 曾ち泰山は林牧に如からずといえるか ( 八侑第三 6 )
  ( 新 )  魯の家老李氏が、魯公の真似をして泰山で旅の祭りを行った。孔子が冉有に
     日った 利子の執事たるなんじは是を中止させる事ができぬか。対えて曰く 出
     来ません。孔子曰く嗚呼、お前も昔は泰山の例について話し合うこと、林牧う
     ままと全く同一意見ではなかったか ( 宮崎市定 )

 泰山は中国全体でも四岳の一つに数えられる名山です。旅とは山をまつる祭りの名です。領内の山川はそれぞれの諸侯がまつることになっています。魯の領内にある泰山を諸侯でない過信の李氏が祭るのは僭上行為です。孔子は弟子であり、その頃利子の家宰であった冉有に主人の李氏に忠告してその非礼から救える立場にいるのにそれがで出来ないかと叱咤しました。冉有はこのほかの事でも孔子に叱られています。

  ( 訓 )  李氏 周公より富めり 而して求やこれが為に聚斂しゅうれんして是に附益す 子曰く 
     吾徒に非ざるなり 小子 鼓を鳴らして是を改めて可なり ( 先進第十一 16 )
  ( 新 )  李氏は昔の周公よりも財産が豊かであった。ところが求は利子の代官となっ
     て税を厳しく取り立ててさらに財産を増やしてやった。子曰く 彼はもう学徒
     とは言えない。諸君はデモに押しかけて行って攻撃しても構わない
      ( 宮崎市定 )

 有能で善良な人間でも組織の中で犯す不正の罪深さは今の世でお変わらないものらしい。冉有は孔子に政治の才は認められているけれども義を正すという事に関して叱られています。性格の弱さでしょうか。この冉有すなわち冉求と子路すなわち仲由が孔子に々質問をしています。

  ( 訓 )  子路問う 聞くままに斯れ諸を行わんか 子曰く 父兄の在るあり 之を如
     何ぞ其れ聞くままに之を行わん冉有問う 聞くままに斯れ諸を行わんか と 
     子曰く 聞くままに斯れ諸を行え 公西華曰く 由や問う 聞くままに斯れ諸
     を行わんか と 子曰く 父兄の在るあり と 求や問う 聞くままに斯れ諸
     を行わんか と 子曰く 聞くままに斯れ之を行え と 赤や惑う敢えて問う
      子曰く 求や 退く故に之を進む 由や人を兼ぬ故に之を退く
      ( 先進第十一 21 )

 二人の弟子が々質問をしたのに対し孔子は各々異なる答えをしています。そして公西華が同じ事を復唱して別な答え、つまり子路と冉有への答えの違いの答えを導き出しています。この章でも亦孔子の弟子への慈しみを感じさせられます。全く論語は人間味豊かで奥行きの深いものです。

  ( 訓 )  冉有曰く 子の道を説こばざるに非ず 知から足らざるなり 子曰く 知か
     ら足らざるものは 中道にして廃す いま なんじは画れり ( 雍也第六 10 )
  ( 新 )  冉有曰く 私は先生の生き方に賛成しないのではありませんが、どうも力が
     足りなくて付いていけそうもありません。子曰く 本当に力の足らない人なら
     途中で落伍する。いまお前は初めから見切りをつける ( 宮崎市定 )

 気概に欠け気弱でも、冉有は有能な実務間として有力者李氏の執務菅として仕えました。李康子が康氏に政治の際が在る弟子を問いたのに対し子路、子貢、冉有をあげています。仲由すなわち子路は決断力が在る。賜すなわち冉有は才能の多い男だ。政を取らせても差し支えありませんと孔子は答えています。

  ( 訓 )  李康子曰く 仲由は政に従わしむるべきか 子曰く 由や果なり 政に従う
     に於て何かあらん 曰く 求や政に従わしむべきか 曰く 求や芸なり 政に
     従うに於て何かあらん ( 雍也第六 6 )

 孔子学園のある日の孝経。すぐれた才能を持った個性的な弟子たちにかこまれて楽しんだ風景の一章を紹介します。

  ( 訓 )  閔子 側に侍す ァァぎんぎん じょたり 子路 行行こうこう如たり 冉有 子貢 侃侃かんかん如たり 
     子楽しむ 由のことえんば 其の死然を得ざらん ( 先進第十一 12 )
  ( 新 )  孔子に陪席する人たちのうち閔子はかみしもをきた様に四角ばっており、子路は意気
     軒昂たるものがあり、冉有、子貢は人なつこい顔ををしていた。孔子は満足気
     であった ( 子曰く ) 由のようだとたたみの上で死ねそうもないのが心配だ
     ( 宮崎市定 )

 子路は孔子が心配し予言したようになりました。衛の霊公なき後、息子■■かいかいとその息子ちょうとのお家騒動に巻き込まれ殺されました。
 敵兵に切りつけられた子路は、倒れながら冠を正して叫んだ 「 見よ君子は 冠を 正しくして死ぬものだぞ 」 中島敦 「 弟子 」
 ■切りにされた子路の屍体は塩漬けにされました。それを聞いた孔子は家にあった一切の塩漬肉を捨てさせました。孔子七十三才、孔子の死ぬ一年前のことです。
 孔子の弟子を愛する気持ち、時には酷評と言ってもいいほどの悪口も口にします。
  ( 訓 )  さい しん へき がん ( 先進第十一 17 )
  ( 新 )  高紫は馬鹿正直 曾参は血のめぐりが鈍い ■孫師は見栄ぼう 仲由はきめ
     が荒い ( 宮崎市定 )

 如何にこの師弟が深く結ばれていたかをうかがい知れる言葉です。


陽貨第十七 1 〜 26

  ( 訓 )  陽貨 孔子に見えんと欲す 孔子見えず 孔子に豚をおくる 孔子その亡きを
     時として往いて拝す これにみちに遇う 孔子に謂いて曰く 来れ予爾われなんじと言
     わん 其の宝を懐きて其の邦を迷わすは 仁と謂うべきかと言わば不可なりと
     日わん 事に従うを好みてしばしば時を失うを 知と謂うべきかといわば 
     不可なりと日わん日月は逝く 歳は我と与にせず とあり孔子曰く 諾 我将に
     仕えんとす ( 陽貨第十七 1 )
  ( 新 )  魯の家臣で権力家の陽貨が行使に会見を求めたが孔子は会いに行かなかった。
     そこで孔子に豚を贈った。孔子はわざとその留守を伺って返礼に行ったが、あ
     いにく途中でぶつかった。陽貨が曰く ちょうどよかった。君に話したいこと
     がある。大切な宝をもちぐされにして、黒人が戸惑っているのを放っておくの
     は、仁の道にかなっているかと聞かれたら、そうではないと答える外ないだろ
     う。本当は政治が好きでありながら、何度も出番を失うのは、知者のすること
     かと聞かれたら、そうではないと答える外ないだろう。日月はどんどん過ぎ去
     る。歳月は人を待たない言葉をどうお考えか。孔子曰く もうよい。私も任官
     しようか ( 宮崎市定 )

 陽貨は李孫子の家臣で名は 「 虎 」 という。李子に使え着々と力を蓄え、ついに利子を凌駕するに至ります。下克上の代表選手です。陽貨は講師の人物、才能を見抜き自分の陣営に入れたい。そして自分の野望をじつげんさせるための最高の同志と考えました。併し孔子は陽貨とでは理想への道を歩みだす事とは思えなかったのでしょう。陽貨は顔といい、姿といい、知識、教養といい全く孔子そっくりだといいます。ただ違っていたのは理想に生きるか、野望にいきるかという一点です。孔子は陽貨の意図を察し避けました。
 孔子は理想が実現できるならば反乱軍に身を置いてもよいと考えた章が二つあります。

  ( 訓 )  公山弗擾こうざんふじょう を以てそむく まねく 子往かんと欲す 子路説ばずして曰く 
     くことなきのみ 何ぞ必ずしも公山氏にこれかん 子曰く それ我を召く
     者にして あにいたずらなるのみならんや 如し 我を用うる者あらば吾は其れ
     東周を為さんか ( 陽貨代十七 5 )
  ( 新 )  公山弗擾なる者が費の邑に拠って叛乱を起し、講師を招いた。孔子は往こう
     とした。子路は不賛成を唱えて言った。行くには及ばないでしょう。何 故、
     選りに選って公山弗擾などを助けに行くのですか。子曰く 私を見込んで招く
     からには、きっとそれだけの理由が在るに違いない。本当に私のいう事に従う
     なら、私はそれを東周再興のように仕立てて見せるのだが ( 宮崎市定 )

 孔子 51 才の時のことだという。孔子の生まれた魯の国、要衛の地である費の町を拠点にして公山弗擾が叛乱を起し、孔子を執政官として招請した訳です。もう一つ

  ( 訓 )  仏胖ひつきつ 子を召すに往かんと欲す 子路曰く 昔は由也 これを夫子に聞けり 
     曰く 親から其の身に不善を為す者には 君子は入らざるなりと仏X 中牟ちゅうぼ
     らを以て く 子の往かんとするや これを如何せん 子曰く 然り 是の言
     あるなり 堅きを日わずや 麿すれどもすりへらず 白きと日わずや れどもくろ
     まずと 吾 豈匏瓜ほうかならんや 繋りて食われざらんや ( 陽貨第十七 7 )
  ( 新 )  仏胖なる者が孔子を招いたので、孔子が往きかかった。子路曰く 以前に私
     は先生から承りましたが、自分から進んで不善を為す者には、諸君は決してな
     かまになるでない、とのことでした。仏胖は中牟の邑に拠って叛乱を起してい
     る所へ、先生が往かれるとは、どうしたことでしょうか。子曰く そうだ、確
     かにそう言った。だが別の考えようもある。堅いことを形容する言葉に、いく
     ら磨いてもすりへらぬ、というのがあり、白いことを形容する言葉に、いくら
     墨を塗っても黒く染まらぬ、というのがある。その続きに匏瓜ひょうたんのように
     味のないことを形容して、ぶらりとさがったまま食われない、というのがある
     が、君の言う様にすれば、私はまるで匏瓜の様な役立たずということかね
      ( 宮崎市定 ) 。

 聖人孔子が反乱軍に組しようとしたとは一寸考えずらい事です。しかし時の孔子は聖人でもなく聖人ぶったところもありません。
 魯国は孟孫、叔孫、李孫の参垣氏が実験を握っていました。一番力を持っていたのが李氏です。その李氏の執事、陽貨が実験を握り実質上路国を支配するに至りますが三家の反撃を受けて亡命します。陽貨西手も講師の名声を味方につけたかったのでしょう。孔子も、これに応ずる機が合ったことでしょう。魯の国の政治を正すには三垣子を打破し泣けれ万里ません。そのためには先ず魯公と陽貨とが手をむすぶという政治的判断をしたのかも知れません。

孔子の時代の中国 ( BC 6 〜 5 世紀 )

Updated 28 June , 2020