Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 34 号 平成 25 年 ( 2013 年) 6 月 1 日

洋楽今昔物語 明治の洋楽その 1

佐藤 昌之


 日本に洋楽が入って来たのは明治に入ってから、つまり百五十年程しか経っていない。それ迄の百五十年の戦国時代と二百六十年の徳川幕府の時代があるが、鎖国によって外国との往来が禁じられていたので意識的に外国の文化が入ることはなかった。
 しかし近隣諸国の中国や朝鮮からの外来文化は幕府の目の届かないところで入っていた様だ。しかし欧米の外来文化は幕末になって渡来する黒船やロシア船、オランダ船、そしてそして一八六五年 ( 慶應元年 ) 福沢諭吉のアメリカ渡航に伴って随行した人達によって少しずつ外来文化がどんなものか、知ることが出来た。
 明治に入って政府が意識的に導入したのは一八六五年(明治二年)イギリス軍楽隊長フエントンに依って薩摩藩の鼓隊三十名が上京して伝習を受けたのが最初であった。
 明治維新の政府のスローガンである富国強兵、脱亜入欧の政策は国民の志気を高めるため従来からあった三味線や琴による邦楽よりラッパや太鼓が一杯あって大音響の出せる洋楽の楽隊こそ国民の志気を高めるためにふさわしい音楽と考えたのである。
 やがて創設された陸海軍の軍楽隊は陸軍がフランス式、海軍がイギリス式を指南されて成長して行った。しかしこのことは後にオーケストラを創立する時に大きな障害となって行った。つまりフランス式、イギリス式と云うことは言葉が国によって違うように音楽に於いても音名、音階、曲名、楽器名などそれぞれの国の言葉で表現するから外国名も統一しなければならない。初めて洋楽が日本に入って来た時、人々は驚いた。先ず日本には無い楽器、特に金管楽器のうち真鍮がぐるぐる巻いているホルンことを "真鍮曲がりくねり器" と呼び、トロンボーンのことを "真鍮引延ばし器" と笑い話のような話が本当にあったのである。
 しかし邦楽にもあって形が似ていたものに弦楽器のヴァイオリンがあって、これは中国の明楽ミンガク清楽シンガクにも使われていたので抵抗はなかった様だ。そしてヴァイオリンには提琴と云う名前をつけた。木管楽器のオーボエは形も音もチャルメラに似ていたので抵抗感がなかった様だ。しかし同じ木管楽器でも低音を吹くファゴット ( バスーン ) は二つの束ね木を重ねたものなので驚いた様だ。そしてフルートは日本にもあった横笛だったので抵抗がなかった。そして日本になかった楽器としてオルガンは "風琴" 、ピアノは "洋琴" として定着して行った。さて音名も今日、日本で使われているドレミファソラシはイタリア語の音名、英語だとドは C 、レは D 、ドイツ語だと C は ( ツェー ) 、 D は ( デー ) 、しかし音名や音階に関してはフランス語が専門家以外使われていない。
 作曲家の名前も明治の初期から中期にかけては統一されていなかった。ベートーベン ( Beethoven ) はビートーフェンとドイツ語読みだったが、モーツアルト ( Mozart ) はモザーとフランス語読みになっているのも面白い。同じドイツ人なのにグルック ( Gluck ) は英語読みになっている。ドイツ語読みならクルックと発音しなければならない。
 そんな訳で洋楽の移入当初があらゆる面で混乱していた時代だったのだ。
 さて初めてオーケストラを聞いた人々の驚きを当時の新聞記事から引用してみよう、 「 その音響はすさまじくラッパが一斉になり太鼓 ( ティンパニー ) が鳴り出すと人々 ( 聴衆 ) は雷が落ちたと思って席を立って逃げ出す者も出た 」 。初めて来日した当時のロシア ( 日露戦争前 ) の帝政ロシア管弦楽団の演奏会の東京朝日新聞の記事である。聴衆はそれでも物珍しさから音楽会にはよく出掛けたようだ。
 しかし洋楽だけのプログラムでは人集めが出来なく邦楽とか舞も入れて和洋折衷の音楽会が開かれていた。演奏会場も本格的なコンサートホールがないので寄席をする畳張りの会場で、一部と二部の休憩時間には弁当を食べたりして聴いていたようだ。
 それら音楽会のプログラムを一部紹介しよう。明治二十九年に上野音楽学校 ( 現東京芸術大学 ) の音楽会は次の様なプログラムになっている。風琴とはオルガンのこと。作曲者バハはバッハのこと、作曲者モザートはモーツアルトのこと。ヘイデンはヘンデルのこと。多分これだけのプログラムだと半日はかかったことと思う。


明治二十九年
音楽学校同声会音楽会

 紅雲靉靆として柳眉は方に浅碧を横ふ四月十八日花は盛りの上野公園音楽学校に於て同声会音楽会は昨年帰朝せられし幸田子の紹介を兼ねて開かれたり同日の演奏曲下の如し
一、洋琴聯弾 ボアエルデュー氏作
       才 女   学友会々員 内田 菊子  由比くめ子
二、唱歌 ウェッペ氏作曲、鳥居忱氏作歌
       那須与一  学友会々員諸氏
三、バイオリン独奏 メンデルソーン氏作
>        コンサルト第一部  幸田 延子
四、三曲合奏 峰崎勾当作
       箏   山勢松韻氏  今井慶松氏  千布豊勢子  吾妻獅子
       三弦  萩岡松柯氏
       胡弓  山室保嘉氏  山室千代子
五、風琴独奏 バハ氏作
       コンサルト  島崎赤太郎
六、音楽四部合奏  ヘイデン氏作
   第一部
       第一バイオリン 幸田 延子氏
       第二バイオリン 山田源一郎氏
       ビ オ ラ   納所辨次郎氏
       セ   ロ   比留間賢八氏
七、クラリネット独奏 モザート氏作
       ラーゲトー   来賓 吉本光蔵氏
八、洋琴独奏  ビートーベン氏作
       ムーンライトソナタ  遠山 甲子
九、独唱歌 ( 独逸語 )
       甲 シエーベルト氏作 死と娘  幸田延子
       乙 ブラームス氏作  五月の夜
十、バイオリン合奏 バハ氏作  フーゲ ( バイオリンソナタ中抜粋 )
               小関 得子
               頼母木駒子
               荒井 慎子
               林  蝶子
               幸田 幸子
               小関ステ子
               鈴木フク子
十一、唱歌
    甲 シューマン氏作曲 佐藤誠実氏作歌
    夢
十二、三曲合奏
       十  山勢 松十氏  今井 慶松氏  千布豊勢子
       三弦 萩丘 松柯氏
       胡弓 山室 保嘉氏  山室千代子氏

 次のプログラムは明治三十一年に神田の青年会館で行われたもので午後六時より午後九時迄かかっている。このプログラムも和洋折衷である。曲名は片仮名で標記されている。洋琴はピアノ、風琴はオルガン、しかしオーケストラ名がないのは音楽好きの愛好者が演奏したものと推察している。


明治三十一年
明治音楽会

 同会は予報の如く先年二十二日午後六時より神田美土代町の青年会館に於て第一回の演奏会を催されたるが頗る盛会にて先づ上原副会長の開会披露あり次で左の曲目によりて演奏せられ何れも大喝采を博して閉会したるは九時頃なりき
一、欧州管弦楽  来賓及会員諸氏
       トイフェルスマルシュ   フランツ、スッペ氏作
二、三曲合奏  松竹梅
       箏  山勢 松韻氏  今井 慶松氏
       三弦 萩岡 松柯氏
       胡弓 山室 保嘉氏
三、クラリネット独奏  井上 京次郎氏
         甲、デル、フライシエッツ  ウェーベル氏作曲
         乙、デー、ワイセー、ダーメ ボイエルデュー氏作曲
四、三部合奏  ロマンス  ロパウデ氏作曲  大和田健樹氏作歌
       歌        納所辧次郎氏
       バイオリンセロ  比留間賢八氏
       洋     琴  島崎赤太郎氏
五、欧州管弦楽  来賓及会員諸氏
         甲 トロイメライ     シューマン氏作
         乙 ドナウ、ウェルレン  イバノウェチ氏作
六、長 唄
       唱  芳村 伊十郎氏  岡安 清代八氏
       三弦 杵屋六左衛門氏  杵屋 長三郎氏
       其他 囃連中
七、洋琴独弾  前田 久八氏
         甲、ミニュエット  モザート氏作曲
         乙、大洋の浪    ブレーク氏作曲
八、三曲合奏  松風
       箏  山勢 松韻氏  今井 慶松氏
       三弦 萩岡 松柯氏
       胡弓 山室 保嘉氏
九、風琴独奏  天谷 秀氏
         アリー  バハ作曲
十、長唄
       唄   芳村 伊十郎氏  岡安 喜代八氏
       三弦 杵屋六左衛門氏  杵屋 長三郎氏
       其他 囃連中
十一、欧州管弦楽  ボルジア  来賓及会員諸氏

 次のプログラムは宮内省雅楽部の演奏会プログラムである。宮内省雅楽部は楽士と呼ばず伶人と呼んで洋楽と雅楽の両方を教育させて居た。雅楽の伶人は殆どその家系が芸事を職としている家の子息 ( 女は禁制 ) が多く、小学校を卒業した段階で雅楽部には楽生 ( がくしょう ) と云う制度があって、三味線、箏、笛などを習いその上、舞の科目で東遊、大和舞、左舞、右舞、鼓の科では太鼓や鉦鼓など習得しなければならなかった。そして洋楽もどれかひとつ楽器を専攻しなければならなかった。
 だから洋楽百五十年の中で雅楽部が果たした役割は非常に大きい。日本は太平洋戦争で敗戦国になり新しく昭和二十二年に日本国憲法が制定されたが、軍隊の解体と共に宮内省の雅楽部も組織を変えられ多くの伶人 ( 楽士 ) が民間のオーケストラに入団した。
 伶人達は官職こそ高かったが給料が安いため待遇改善の要求もしたりしたが、洋楽の方で技術の高い者は民間のオーケストラに職を求めたのである。話が少し先走ったが明治四十二年の宮内省雅楽部のプログラムを紹介しよう。
 会場が宮内省内か、一般市民の会場なのか明記されていないが、私の推察するところでは雅楽部の演奏は一般市民相手ではなく、外国からの貴紳来日の際、ごく一部の招待者のための演奏会を常としているので、会場はおそらく宮内省内部であろうと思う。


明治四十二年
雅楽部演奏会

 牛込なる同所演奏会は六月十日開会せられ、第一部本邦舞楽、第二部欧州楽にて、年々進歩のあとあるは喜ぶべきことなり特にヴァイオリンの進歩は著しく聴衆の耳をひけり曲目次の如し

第一部
東遊 駿河舞
  管弦  一越調調子
          回杯楽
          胡飲酒残楽楽三返
          羅陵王破
  舞楽  振鉾二節
          賀殿
      長保楽
  散手  貴徳
      長慶子
第二部
欧州楽
一、管弦楽
  オベロン、オウエルツレー  ウェーベル作曲
二、ホルン四部連奏
  甲 デイ、エーレ、ゴッテスイン、デル、ナテウール  ベートベン作曲
  乙 デイ、フオレルレ  シューベルト作曲
  丙 イール、プリック  ランカウ作曲
三、ヴァイオリン四部連奏
  ローマンツ  ヘルメスベルゲル作曲
四、管弦楽
 レス、コンテス、ドホフマン  オッフェンバハ作曲
五、管弦
 マダマ、バッタフライ  プチニー作曲

 次に軍楽隊の演奏について見てみたい。
 富国強兵の一策として海軍軍楽隊はしばしば日比谷公園の奏楽堂で無料で一般市民のための演奏会を開催していた。陸軍軍楽隊も同じように日比谷公園奏楽堂で演奏していたが、技術的には海軍軍楽隊の方が上であった。
 同じ軍楽隊であったが海軍軍楽隊の方は艦に乗って海外に出掛けて演奏する場合も多く遠く日本を離れてアメリカとか地中海遠征ではイタリアやフランスの都市で演奏するので見分を拡めるため隊員の音楽観も陸上に留まっている陸軍軍楽隊より上だったようだ。
 それにプログラムを見れば分かるように "軍艦マーチ" を作曲した瀬戸口藤吉氏が指揮を担当していることで分かるように海軍軍楽隊は指導者にも恵まれていた。しかし日本の軍楽隊は欧米の軍楽隊に比べて大きな違いがあった。


  ( 明治二十一年八月三日 東京朝日新聞 )
陸軍軍楽基本隊軍楽生徒召募 ( 広告 )

 今般軍楽生徒五十名召募し検査の上官費入学を許す依て志願者は来る八月二十日限り府県庁を経て ( 寄留居住を問はず ) 当校へ出願すべし其召募検査は追て当校に於て施行す
但し年齢十六年以上二十年以下にして体格強健歯並斉密身長五尺以上若しくは五尺に達すべき見込ある者
検査科目
一、 読書 日本略史若くは兵要日本地理小史等の通読
二、 作文通俗往復文且つ作文の巧拙を検査
三、 算術、四則雑問及単比例
以上


 これは陸軍軍楽隊の当時の募集広告であるが、音楽の適性検査はひとつもなく、身体強健な男を募集しているのである。音楽家である前に "強き軍人たれ" と云うのが本音であった。そして軍楽隊は一方で西洋音楽の普及に力を注いだが、政府の軍国主義の片棒を担いだことは否めない。
 欧米の軍楽隊は身体強健より音楽の適正を重視し隊員になれば声楽やピアノなどを課し、軍人としてではなくミュージシャンとしての実力を備えさせていた。

( 明治四十二年五月二十三日 日比谷公園奏楽堂 )
日比谷の演奏
海軍々楽長瀬戸口藤吉指揮
第一部
一、ガルゴーリ行進曲 ヒューム作
二、歌劇ラ・トラヴイアタ序曲 ウェルデー作
三、舞踏の要求、円舞曲 ウェーベル作
四、歌劇フーゲノワンテ ( 中古新教の異名 ) 幻想曲 マイヤベーヤ作
五、愉快の会合、編成曲 ウィンテルベルグ作
第二部
六、歌劇 「 グラナダの舎営 」 中歌旋及合唱曲 クロイッチェル作
七、ショップングの合唱曲 ハイドン作
八、悲劇ルチア姫幻想曲 ドニゼッチ作

( 明治四十二年五月二十二日 万朝報 )  露国音楽家の来朝
 露国有名の声楽家にして又オペラの名手たるカミヲンスキ氏同夫人ブルン女史が今般来朝したるを機とし廿四日午後三時より帝国ホテルにて音楽会開催の筈、入場券は金三円、同ホテル及び銀座松本楽器店にて売捌

( 明治四十二年六月十二日 時事新聞 )
日比谷の演奏
十三日 ( 第二日曜日 ) 午後四時より同六時迄日比谷公園音楽堂に於て奏楽、曲目下の如し ( 但し雨天の節は次週日曜日に繰下ぐ )

陸軍戸山学校軍楽隊 永井建子指揮
第一部

一、セダン軍隊行進曲 メイステール作
二、祭典序曲 ロルヂング作
三、独帝ヴァルス舞曲 ストラウス作
四、歌劇、小侯爵幻想曲 ルコック作
五、天地創造 ( オラトリヲ ) 聖楽 ハイドン作
第二部

六、 「 ポルチシ 」 の唖女劇より求索せる進行曲 レオンシジク作
七、 「 ポルシチ 」 の唖女劇の幻想曲 アウーベル作
八、(甲)怒り給ふな、ヴァルツ舞曲 ゼーラー作
(乙)襁褓の中の生れ児よ、トーステップ舞曲 ストーン作

( 明治四十二年五月二十九日 東京日日新聞 )
東京音楽学校演奏会
 上野なる東京音楽学校にては来る六月六日 ( 日曜日 ) 午後二時三十分同校内に於て例年の通り春期音楽会を催し下記曲目の演奏ある由因に今回は近頃招聘したる同校教授にて 「 ピアノ 」 の名手独逸人ルードルフ、ロイテルの独奏もあれば入場者多からんと
一、管弦楽
   歌劇 「 フライシュッツ 」 の序曲 ウェーベル作曲 二、ピアノ独奏、教師ルードルフ、ロイテル
   甲 ガヴォット及ミュゼット  ダルベー作曲
   乙 エチュード二曲      ショパン作曲
三、管弦楽
   シムフォニー 「 短ロ調 」 ( 不完 )   シュベルト作曲
四、ピアノ独奏  教師ルードルフ、ロイテル
   シムフォニック、スタデース  シューマン作曲
五、独唱、合唱及管弦楽
   歌劇ローレライ  メンデルスゾーン作曲
   吉丸一昌訳歌 独唱  安東 恒子
  ( 実際は六月十二、十三日に演奏 )

 十三日午後東京音楽学校に開催せられたる音楽会は露仏大使を始め外交団総出の盛況にて会場僅かに二三の席を剰す程なりき、演奏はウェーベル作歌 「 フライシュッツ 」 の序曲に始まり新米教師ロイテル氏の技倆を公衆に示すべき第一の機会たるガヴォット及びミュゼットは演ぜられたるが、尚ほ年若き同氏の手腕は満場をして感嘆せしめたる上に、更らにシューマン作シムフォニック、スタデイズは演奏せられたるが、左手の働きは聴者を恍惚たらしめ、日本一の音楽通田中平氏は日本には惜しき程の教授よと賞賛したる程にてアンコールの拍手に連れて再び左手のみにて奏曲したには何人も満足せりさて此日の大物たる歌劇ローレライは安東恒子嬢の独唱に花咲けり、前者は若干のケレンあり、従ってズルキ筋ありと伝へられたりしが安東嬢に至ては飽迄真面目なるは喜ぶべき次第なるが、あはれ彼女は歌を消化する底の機能を欠けども音階の前途は彼女に待つ事多し ( 秀生 )

( 明治四十二年六月二十六日 時事新聞 )
日比谷の演奏
 廿七日午後四時より同六時迄日比谷公園音楽堂に於て横須賀海兵団楽長瀬戸口藤吉氏指揮の下に同軍楽隊の奏楽あり其曲目下の如し雨天の節は次週日曜日に繰下ぐる筈

第一部


一、ペンシルバニア行特別列車 ( 行進曲 )  インネス作
二、悲劇、エグモンド序曲 ベートオッフェン作
三、夢想 ( 幻想曲 )  ルムビー作
四、船歌 ( 園舞曲 ) デルリンゲル作
五、喜劇 亜米利加旅行 ( 編成曲 )  ジュッペ作

第二部

六、歌劇リュベツアール序曲 フロトウ作
七、ラーマノラ、西班牙風小夜楽 アイレンベルグ作
八、松明舞踏 マイヤベーヤ作 九、歌劇、風神の大
参考文献
日本の洋楽百年史 ( 第一法規出版株式会社 )

寫慎 1 , 昭和 22 年、釧路中学 3 年の時、翌年より新学生で高校 ( 当時釧路高校 ) になる。その後湖陵高校と名称変更になる。場所は学校の玄関前。前列右端が私、トランペット。左端の大太鼓は一級下の荒谷宏君 ( ピアニスト ) 。中央の先生は小路新六先生です。先生は昔、無声映画時代、劇場でトランペットを吹いていたそうです。
寫慎 2 , 平成 14 年 11 月の釧路吹奏楽団第 45 回演奏会の時 ( 文化会館 ) 、指揮台の私。
Updated 26 March , 2021