Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 34 号 平成 25 年 ( 2013 年) 6 月 1 日

― 釧路湿原シニア大学院発表原稿 ―

釧路の商業

角田 幸子

はじめに

 釧路の商業についてという題が与えられましたので、私の事を思い起こしてみますと、私は昭和 38 年に北大通りで履物店を営業していた角田の家に嫁いできましたので、このことに関連したことを調べてみました。
 角田の店は、昭和 39 年に北大通都市改造事業という大プロジェクトが推進され、その時に釧路市に協力し代替え用地として売却し閉店しました。
 それまでにどのように商業が変遷してきたかについて時代の流れと共に思い返し家の少ない資料を基に調べたことを報告いたします。


1 都心商店街の経過

 釧路の都心商店街は、どの様に変遷してきたかについて考えてみますと、港の発展、鉄道交通の発達、橋の架け替え、国の動きなどと大きくかかわってきたことがわかります。
 ここでその過程を 6 つの時代に分けて考えてみたいと思います。

( 1 ) 商業の発生期 ( 明治初年 〜 明治 20 年まで )
   釧路開拓時代ともいわれ現在の米町から南大通りに商店街らしき店の連担が形成さ
   れてきました。

( 2 ) 南大通りの発展期 ( 明治 20 年 〜 明治 40 年頃まで )
   鉄道開通までは、人や物資の動きはすべて海上交通に依存していたので知人、大町
   の港を持つ南大通り地区が大きく発展しました。

( 3 ) 商店街の移動期 ( 明治 40 年 〜 昭和 12 年頃まで )
   この時期は、函館までの鉄道開通によって駅が設置され、さらに根室まで延伸する
   ことで駅舎が現在地に移り、都心商店街としての北大通が形成され商業施設のほか
   の都市施設も橋南から橋北へ移転してきました。

( 4 ) 戦時中の停滞 ( 昭和 12 年 〜 昭和 20 年まで )
   戦争が激しくなり戦時経済統制下で各個人企業は制約を受け、協同組合方式に組み
   込まれました。配給制度で衣料などは切符制度となりました。

( 5 ) 戦後の北大通の復興 ( 昭和 20 年 〜 昭和 40 年まで )
   ヤミ市経済からはじまり流通機構の整備と共に北大通が戦前の規模に復興しさらに
   都心商店街としての地位を確定してきました。

( 6 ) 都心商店街の変質期 ( 昭和 40 年 〜 現在 )
   昭和 36 年から始まった都市改造事業は 11 年の歳月を費やし昭和 46 年に完成し
   店舗の大型化、協業化、ビル化もすすみました。また市役所の移転とと官庁関係も
   移動し商店街は勿論中心市街地を形成するに至りました。
    しかし、その後郊外大型ショッピングセンターの進出などにより都心商店街とし
   て成り立たない状況にあることは皆さまご承知のとおりです。

角田商店

 角田商店は、主人の祖父で文久生まれの角田定蔵が京都から釧路港に明治 36 年上陸し、現在の北大通 2 丁目 で角田種苗店を開店しました。
 当時は、内地から取り寄せた種物を開拓農家に販売していたと思われます。雑穀も扱うようになった明治 37 年角田捷平 ( 主人の父 ) が生まれました。
 この 2 年後の明治 40 年鉄道が釧路から旭川経由で函館まで開通し翌 41 年には啄木が来釧しております。
 大正 4 年には幣舞橋 ( 3 代目 ) が竣工し、角田商店では、この頃から食料品や雑貨、たばこを取り扱うようになったようです。
 大正期の西幣舞 ( 橋北地区 ) は、大正 2 年、 7 年、 8 年、 12 年と大火に会いましたが、幸運にも角田商店は、どの大火にも遭わずに発展して行きました。
 大正 10 年根室線が全通し釧路駅が現在地に建て替えられて、北大通りの形態がつくられ、 11 年には市政が施行されます。人口は 42,673 人でした。
 大正末の4 年に 4 代目幣舞橋を永久橋として掛け替え工事にかかりますが、そのための仮橋が錦町側に出来ましたので、角田商店も錦町側に仮店舗を建て営業しました。
 昭和に入り 2 年に角田捷平は京都の親戚筋の中村ツユと結婚しました。この年に釧路の上水道が給水をはじめております。
 翌昭和 3 年幣舞橋が永久橋として竣工しますが、角田商店も高さに合わせて地下 1 階構造の洋風店舗が出来上がり、食料品の卸売り、主に郡部の駅前雑貨店に卸す営業も始めたそうです。
 昭和 7 年、町内地番改正により、西幣舞がいろいろの町名に設定され角田商店は、北大通り 2 丁目 7 番地となりました。
 昭和 11 年、捷平の長男角田憲治が生まれ、営業も順調なことから角田定蔵は、札幌に隠居し捷平が店主として活躍することになりました。
 しかしこのあたりから日本の戦時体制がすすみ、重要産業統制法が昭和 13 年制定され、米穀配給制度から順次統制経済に入っていきます。
 各個人商店は、産業報国会に属する統制組合に吸収されてゆきます。
 昭和 16 年、統制組合の説明会が札幌で行われ、これに出席していた捷平は、帰路札幌駅で事故のため死亡しました。行年 36 歳、残されたのは妻ツユ 30 歳と 5 人の子供達でした。
 その年の 12 月、太平洋戦争が勃発しました。角田の店の事務所は種物組合に貸出し、、店舗は軍隊の車庫代わりに使われていました。母ツユは種物組合の給料と家賃で何とか子育てはできたようです。

昭和 19 年イトコの出征風景

 昭和 20 年、釧路は、米軍の艦載機による空襲を受け、店の前が大火災となりましたが、ここでも幸運にも北大通の西側には延焼せず残りました。家族は、親戚を頼って標茶町茅沼に空襲の翌日疎開しました。そして 1 ヵ月後終戦となり 2 ヵ月の疎開で北大通りに帰ってきました。
 戦後は自由経済となり、食料以外は配給制度からはずれ、統制組合は解散しました。
 母ツユは女手でできる商売をさがし、残った店舗で下駄屋 ( 履物屋 ) をはじめました。履物はあまりはやらなかったようですが、種物とタバコは戦前からの権利で家計が維持できたと思います。

昭和 42 年くしろデパート屋上遊技場で長男・次男と

 昭和 36 年、北大通りの都市改造事業がはじまり、、昭和 40 年、代替え用地として釧路市に土地を売却しました。北大通りの場所は、現在日専連釧路が使っているところです。私が嫁いでの翌年で長男が生まれた時でした。角田商店は廃業となりました今年は丁度 50 年目にあたります。

     角田 幸子  略歴

     昭和 15 年 11 月 21 日 釧路市錦町で出生 ( 佐々木太郎作 4 女 )
     昭和 34 年 3 月    旭小学校、北中学校をへて江南高校を卒業
        同年 4 月    釧路臨港鉄道(株)に就職
     昭和 38 年 3 月    上記会社退職
        同年 6 月    角田憲治と結婚
     昭和 39 年 7 月    長男出産 以後次男、長女出産
Updated 26 March , 2021