Kataro ホームページ 「 河太郎 」 31 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 9 月 1 日

論語を読む ( 二 )

長谷川 隆次

 札幌の友人納谷敏夫さんから宮崎市定先生の資料を頂戴しました。私は今まで大変な間違いを繰り返してきました。それは宮崎市定を宮崎定市と書いてきた事です。絶対にあってはならない過ちを犯して来ました。深くお詫びいたします。亦この過ちを教えてくださった納谷敏夫さんに感謝致します。

  「 この様な人間を子路は見たことがない。力千釣せんきんかなえを挙げる勇者を彼は見たことがある。めい十里の外を深する智者の話も聞いたことがある。しかし孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な間性に過ぎないのである。知情意のそれぞれから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及なく均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しく始めて見る所のものであった。闊達自在かったつじざい、いささかの道学者臭喪ないのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑しいことに子路の誇るぶげいや 力に於いてさえ孝しの方が上なのである。ただ其れを平生用いないだけのことだ。きょう者子路は先ず、この点で度胆を抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われるぐらい、あらゆる人間への鋭い心理洞察がある。そういう一面から、また一方、きわめて高い汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底からうならずにはいられない。とのかく、この人はどこへ行っても大丈夫な人だ、潔癖な倫理的な見方からして大丈夫だし、最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路は今までに会った人間の偉さはどれも皆その利用価値に中にあった。これこれの役に立つからえらいというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人が存在するというだけでじゅうぶんなのだ。すくナックとも子路にはそう思えた 」 中島敦 「 弟子 」

 孔子  ( 姓 ) 孔  ( 名 ) 丘  ( 字 )  仲尼   BC 551 年、小都市国家 「 魯 」の昌平郷生まれ、 BC 479 年、 73 才で終命。周王朝春秋時代の人。  論語は孔子の言葉、孔子と弟子との問答、門人以外の人との対話、門人同士の対話を孔子の死後、門人が編集したものです。 20 篇 499 章で成り立っています。

   篇名      章数         累計
  学而がくじ第一      1 〜 16        1 〜 16
  為政いせい第二      1 〜 24       17 〜 40
  八侑はちいつ第三     1 〜 26        41 〜 66
  里仁りじん第四      1 〜 26        67 〜 92
  公冶長こうじちょう第五    1 〜 27        93 〜 119
  雍也ようや第六      1 〜 28       120 〜 147
  述而じゅつじ第七     1 〜 37       148 〜 184
  泰伯たいはく第八     1 〜 21       185 〜 205
  子 しかん第九      1 〜 30       206 〜 235
  郷党きょうとう第十     1 〜 18       236 〜 254
  先進せんしん第十一     1 〜 25       255 〜 278
  顔淵がんえん第十二     1 〜 24       279 〜 302
  子路しろ第十三     1 〜 30       303 〜 332
  憲問けんもん第十四     1 〜 47       333 〜 379
  衛霊公えいれいこう第十五   1 〜 41       380 〜 420
  季氏きし第十六     1 〜 14        421 〜 434
  陽貨ようか第十七     1 〜 24        435 〜 460
  微子びし第十八     1 〜 11        461 〜 471
  子張しちょう第十九     1 〜 25       472 〜 496
  尭日ぎょうえつ第二十     1 〜 3        497 〜 499

  20 扁のそれぞれの扁名は、その扁に出てくる第一章目の言葉が ( 子曰くはのぞく ) そのまま扁名になっています。今回は各扁一章目に出てくる文章を追ってみます。
 宮崎市定は 「 論語の文章は長い年月の中で改変を受けており、修正しなければ意味のとおる文章にならない 」 と唱え、 「 論語の新研究 」 を出された。ここで私が引用させて頂いた訳文は、この 「 論語の新研究 」 によるものです。

講師とその弟子たち

学而第一 1

  ( 訓 )  子曰く 学んで時に之を習う 亦悦ばしからずや 朋あり 遠方より来たる
      亦楽しからずや 人知らずして慍おらず 亦君子ならずや

  「 論語 」 を手にした人ならば先ず最初に出会う一章です。 「 学習院大学 」 の典拠でもあります。
 この時代、紙はありません。紙は AD 105 年、蔡倫の紙の発明を待たなければなりません。それ迄の文章とか記録は木や竹に書きました木簡、竹簡です。例えばこの論語にしても今では一冊の本になり手の平にのります。木簡にしたらどのくらいの量になるでしょうか。本が沢山あることを、汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうといいます。牛が汗をかく棟にいっぱいになる。木簡、竹簡のことです。ですから今で云う教科書などは無かったはずです。ですから 「 学ぶ 」 ということは先生の云った事をまるまる覚えることです暗記することです。それを時々復唱する。
  「 学んだときに之を習う 」
 私たちの小学校の国語の授業は教科書の文章を正しくすらすらと読む訓練でした。声を出して何回も何回もくり返し朗読熟読することでした。読書百遍自ずから生ず。
 声を出して読む、その言葉のもつ力強さ、ひびきを感じます 「 論語 」 の一章一章将に文章というより美しい詩です。この開巻第一の章の 亦悦ばしからずや 亦楽しからずや 亦君子ならずや 韻を踏んだ、リズミカルなこの三つの句を声を出して呼んだ時、文章の力強さ、美しさ、楽しさを感じます。


為政第二 1 

  ( 訓 )  子曰く政を為すに徳を以てす たとえば北辰の其の所に居りて衆星の之に
     共うが如きなり
  ( 新 )  子曰く政を為すには徳を以てす という語がある これは北極星がその位置
     を少しも変えずして 衆星がこれを中心に指向しながら回転するが如きを譬え
     たのである ( 宮崎市定 )

 有徳の君子は自分では何もしなくても、百官や人民が君子の意を体して各々の任務を遂行する 「 徳冶主義 」 の基本的な考え方を表した章がいくつかあります。

  ( 訓 )  子曰く無為にして冶むる者は其れしゅんなるか 夫れ何をかなさん 己を
     うやうやして南面を正すのみ ( 衛霊公第十五 4 )
  ( 新 )  子曰く作為なしで自然のままに政治を行ったのは恐らく帝舜であろう 最小
     限にしたことはと言えば自己の姿勢を改めた上天子の南面する座にきちんと座
     っただけだ ( 宮崎市定 )

  ( 訓 )  子曰く巍々ぎぎたるかなしゅん の天下を有つや而してこれに与からず
      ( 泰伯第八 18 )
  ( 新 )  子曰く 崇高すうこうといえば舜と禹の天下を治めるやり方だ 少しも天下を治めてい
     るように見えぬのが偉いのだ ( 宮崎市定 )

  ( 訓 )  大なるかなぎょうの君たるや 巍巍ぎぎたるかな唯天を大なりとなす唯堯のみこれに
     のっとる 蕩蕩とうとうたるかな 能くこれに名づくるなし 巍巍たるかな
     其れ成功あり煥乎として其れ文章あり ( 泰伯第八 19 )
  ( 新 )  子曰く偉大なのは堯の君主としてのあり方だ凡そ崇高なものの中で天ほど偉
     大なものはないが ただ堯だけがそれを手本にする事が出来た あまりにも徳
     が広すぎて人民は形容の言葉を知らぬ だからこそ天にも届くほど高い成功を
     収め目が眩むほどきらびやかな文化を残したのだ ( 宮崎市定 )

 天の星の秩序ある運行、その格になるもの其れが北極星であり、地にありては人間社会に於いて秩序立った生活その格になるものは徳ある人間が中心になってこそ社会の秩序が生まれます。孔子の秩序の考え方は天の秩序、社会の秩序人間の心の秩序は基本的に一致させなければならないしその秩序を絶対なものと考えた。

  ( 訓 )  子曰く予言うこと無きを欲っす 子貢曰く子もし言わずんば 小子何をか述
     べん 子曰く天何をか言わんや四時行われ 百物生す 天何をか言わんや
      ( 陽価第十七 19 )
  ( 新 )  子曰く私はもう物を言うまいかな 子貢曰く先生が物を仰らねば 私どもは
     何と言って弟子たちに取りつぎましょうか 子曰く天を見たまえ何も言わぬ 
     それでいて四時は滞りなく遂行するし万物はちゃんと生育している天は何も物
     言わぬではないか ( 宮崎市定 )

 天は何にも言わないけれど春夏秋冬はたえまなく続き万物は生育している。この天の秩序に則した秩序を人間社会に打ちたてた堯の様な君主が偉大なのである。秩序正しく運行していれば理想的であってこれを達成するのが徳であるという事です。
 論語には徳を随所に語られています。では 「 徳 」 とは何なのか。

  ( 訓 )  子曰く道に志し徳に拠り仁に依り芸に游ふ ( 述而第七 6 )
  ( 新 )  子曰く学問の道に励み人格完成を理想とし人道主義を離れず その上で趣味
     にひたりたい ( 宮崎市定 )
  ( 訓 )  子曰く中庸ちゅうようの徳たるや其れ至れるかな 民能くすることすくなきや久し( 雍也第六 27 )
  ( 新)  子曰く永遠の道たる中庸は至れり尽くせりの徳と言うべきだ この道が民間
     ですたれたことも久しいものだ ( 宮崎市定 )

 中庸の中は過不及のないこと。庸は常なり。この常は永久の常である。過不及のない行為は時間的に永久に繰り返していきつまることがないというのが中国思想の特色であると宮崎定市先生は解説する。
 徳の極致の中庸とは 「 天の命をこれを性と謂い、性にしたからこれを道と謂い、道を修めることを教えと謂う 」 、 「 四書 」 の一つである 「 中庸 」 の冒頭に出てくる言葉です。つまり、天の命と人間の性は同じものだと云うことなのでしょうが私には難解で解らない。亦 「 喜怒哀楽未だ発せざる これを中という 」 感情に動かされない事が前提でそこではじめて 「 徳に至ることが出来る 朱子の 「 近思録 」 に 「 徳 」 は 愛するを 「 仁 」 と曰い 宜しきを 「 義 」 と曰い 理あるを 「 礼 」 と曰い 通するを 「 智 」 と曰い 守るを 「 信 」 と曰う 焉を性のままにし焉に安んずる 之を聖と謂う 焉に復り焉を執る 之を賢と謂う 」
 こういう人が指導者になるとおのずから秩序が保たれ立派な政治が行われます。蛇足ながら 「 近思録 」 は論語の章にもとずく書名です。
  ( 訓 )  子夏曰く博く学んで篤く志し切に問いて近くを思う 仁 其の中に在り
      ( 子張第十九 6 )


  ( 新 )  子夏曰く博く学んで熱心に理想を追い  な疑問を捕えて自身のこととして
     思索をこらす 学問の目的とする仁は その中から自然と現れてくる
      ( 宮崎市定 )

八侑第三 1

  ( 訓 )  孔子 李氏を謂う八侑はちいつ庭に舞わす是れにして忍ぶべくんば孰いず れをか
     忍ぶべからざらにゃ
  ( 新 )  孔子が李氏について謂った大名の家臣の分際で天子一家の徳をたたえるべき
     八侑の舞楽を公然と庭中で奏させた。これを黙っていられるなら外に非難すべ
     きどんな僭越な行為があるものか ( 宮崎市定 )

  ( 訓 )  三家者 ようを以て徹す 子曰くたすくるは維辟公へきこう天子は穆々ぼくぼくたりとあり 
     いずくにぞ三家の堂に取らん ( 八X第三 2 )
  ( 新 )  魯の家老の三家が天子の音楽たる雍で祭を閉じた孔子曰く雍の詩に並みいる
     辟公には周公召公天子は盛徳の成王がおわしたとある。三家の堂にはいったい
     誰がいたと思うか ( 宮崎市定 )

 李氏とは孔子の生まれた魯の国の家老の家柄李孫氏、孔子の頃の当主は李桓子。論語にも名がでてくる。侑とは列のことで八侑は八列八人が八侑 64 名の群舞であり天子の祭祀の場合のみ許容される。諸侯は六侑 36 名、郷大夫は四侑 16 名、士は二侑 4 名、身分に依って決まります。李子は郷大夫であるから四侑であるのに天子のみに許される八侑の舞を舞わせる。この李子の僭越な行為を評したものです。
 次に出てくる三家者とはこの李孫氏と仲孫氏、孟孫氏のことです。この三家は魯の桓公の王子を祖先とした代々家老の家柄。
 雍の詩は天子が先祖の廟を祭って供物をさげる時に歌う演奏させた。これも亦秩序の破壊である。

里仁第四 1

  ( 訓 )  子曰く里は仁なるを美と為すえらんで仁に処らずんば焉んぞ知なるを得ん
  ( 新 )  子曰く家を求めるには人気のよい里がいちばんだ、という古語がある。どん
     なに骨を折って探しても、人気の悪い場所に当ったら、それは選択を誤ったと
     言うべきだ ( 宮崎市定 )

  「 孟母三遷 」 の教えを知っているかと質問しました。 「 知らない 」 「 それ何の事 」 「 どういう字を書くの 」 という答えでした。孟子の母が、孟子幼少の頃住んでいる環境が孟子に及ぼす影響を考えて墓地の付近から商業地へ、さらに学校の付近へと 3 度居を遷して教育に心を用いた事を 「 孟母三遷の教え 」 といいます。


公冶長第五  1

  ( 訓 )  子 公冶長を謂う あわすべきなり 縲絏るいせつの中に在りと雖も其の
     罪に非ざるなり と 其の子を以て之に妻あわす 子 南容なんようを謂う 
     邦に道あれば廃せられず 邦に道なきも刑戮けいりくより免かる と 其の兄の
     子を以て之に妻あわせたり
  ( 新 )  孔子が公冶長について言った。彼は婿にしていい青年だ。いま未決監に収容
     されているが無実の罪で嫌疑を受けただけだと、自分の娘と結婚させた。孔子
     は亦南容について言った。世の中が治まっている時には重く用いられ、世の中
     が乱れた時でも刑罰にひっかからない人物だ、と自分の兄の娘と結婚させた。
      ( 宮崎市定 )

 公冶長 孔子の弟子(姓)公冶 (名)長 論語には、ここにだけ登場する。公冶長は鳥の言葉を聞き分けるという才能を持っていたため、ある殺人事件で鳥の言葉から屍体のありかを知り、そのため犯人の嫌疑を受けたという。
 南容は弟子の南宮とうの事だといい魯の家老の一族の南宮かつのことだという。
 先進十一 5 「 南容白圭を三復す 孔子其の兄の子を以て之に妻あわす 」
白圭の句は詩経 大雅 抑にあり
「 白圭についたは、磨いてへらすことができる。言葉のきづは永久に修理出来ない 」


雍也第六 1

  ( 訓 )  子曰く雍也南面せしむべし 仲弓 子桑しそう 伯子はくしを問う 子曰く
     可なり簡仲弓曰く敬に居りて簡を行い以て其の民に臨むは亦可ならずや 簡に
     居りて簡を行うはすなわはなはが簡なるなからんや 子曰く雍の言然り
  ( 新 )  子曰く雍なら地方長官がつとまる。その雍が子桑伯子のことを尋ねた。子曰
     く可はおおまかな人間だ。仲弓曰く本質が謹直で表面おおまかにして人民を治
     めるならそれはそれで良いと思います。本質が、おおまかで外面も亦おおまか
     では、あんまりおおまかすぎて粗略になりはしませんでしょうか。子曰くお前
     の言うとうりだ ( 宮崎市定 )

 南面とは南の方に向かって位置することです。中国は古代から君子は南に面して座りました。このことから君主の位につく天子となって国を治めることを意味します。日本では 「 北面武士 」 、院中を警護した武士の事です。官位によって上北面、下北面という白河法皇の時に始まりました。何故南面なのかその理由はハッキリしているはずですが私には解りません。

 ある衆議院議員選挙の時 「 この選挙ヤバイぞ 」 と云った人がいました。理由を聞いたら、神棚が北面だといいました。こんな物を知らない、配慮に欠ける人達が集まっても勝てる訳がないと云いきりました。

  ( 訓 )  子曰く無為にして冶むる者は其れしゅんなるかな れ何をか為すや 己をうやうや
     しくして南面を正すのみ ( 衛霊公第十五 4 )
  ( 新 )  子曰く作為なくして自然のまま政治を行ったのは恐らく帝舜であろう。最小
     限にした事といえば自己の姿勢をあらためた上、天子の南面する座にきちんと
     座っただけだ ( 宮崎市定 )

 中国歴史以前の聖王 ぎょうしゅんについては論語にも出て来ます。 ( 堯曰第二十 1 ) 堯曰く 咨爾舜 天の歴数爾の躬にあり ― 」の章で述べることにします。
 雍すなわち仲弓は孔門十哲 先進第十一 2 に 「 徳行には顔淵 閔子騫 冉伯牛 仲弓 」 論語には 6 回出て来る

  ( 訓 )  或る人曰く雍や仁にして佞ならず 子曰く焉んぞ佞なるを用いん 人をふせ
     ぐに 給を以てすればしばしば人に憎まる 其の仁なるを知らず焉んぞ佞なる
     を用いん(公冶長第五4)
  ( 新 )  或る人が仲弓について言った雍は立派な人物で仁と言ってもいい程ですが惜
     しいことに利巧さが足りない。子曰く利巧になれとはとんでもない人と言い争
     って利巧に対応するのは結局人に憎まれるのが落ちだ彼が仁であるかは別問題
     として利巧になれなどとはとんでもない話だ(宮崎市定)

 仲弓すなわち冉雍は史記によると 「 仲弓の父は賤人なり 」 と記録されています。仲弓は最下層の家の出身です。孔子の門はこれらの人達にも開かれていた訳です。仲弓は貧しく知的教養もなく口べたで粗野だったのでしょう 「 佞ならず 」 です。論語の 3 番目に 「 子曰く巧言令色鮮し仁 」 ( 学而第一 3 ) 言葉を巧みに飾ったり、お世辞笑いをする人間には最高道徳の仁は求められないという事でしょうか。
 とにかく孔子は仲弓に仁に対して最大級の賛辞を贈られています。

  ( 訓 )  仲弓仁を問う子曰く門を出でては大賓を見るが如く民を使うには大祭を承く
     るが如くす己の欲せざる所は人に施すことなかれ邦にありて怨みなく家にあり
     ても怨みなし仲弓曰く雍不敏なりと雖も請う この語を事とせん ( 顔淵第十二 2 )
  ( 新 )  仲弓が仁とは何であるかと尋ねた子曰く家の門を一歩出たらば、いつも大事
     は賓客を接待する様な張りつめた気持ち、人民を使役するにはいつも大切な祭
     祀を執行するような厳粛な態度、自分の欲しないことを人に加えてはならない
     一国の人民からも怨まれることなく一家の使用人からも怨まれるようなことは
     しない。仲弓曰く雍には出来るかどうか分かりませんが仰ったとおり努めて見
     たいと思います ( 宮崎市定 )
  ( 訓 )  仲弓李氏の宰となり政を問う子曰く有司を先にし小過を赦して賢才を挙げよ
      曰く焉んぞ賢才を知りてこれを挙げん 曰く爾の知るところを挙げよ爾の知
     らざるところを人其れこれを かんや ( 子路第十三 2 )
  ( 新 )  仲弓が李氏の奉行となり政治のやり方を尋ねた子曰くこれまでいた役人は小
     さな過失があっても見逃してやり新たに人材を登用するがよい曰くどんな方法
     で人材を見つけて登用しますか曰く先ずお前の見つけた人を登用することだ。
     そうすればお前の知らない人材は黙っていても人が推薦してくれる様になる
     ( 宮崎市定 )


述而第七  1

  ( 訓 )  子曰く述べて作らず信じて古を好む ひそかに我が老彭ろうほうに比す
  ( 新 )  子曰く私の目的は祖述するにあって私個人の創作ではない十分な自信を以て伝統の中に不変の良きを見出す。そう言えば前代に老彭という人があって私の理想通りに行ったそうだ ( 宮崎市定 )

 昔から一貫している道の上に自分の道もある。孔子の立場は古代から伝わる文化の継承こそが己の使命だとする。


泰伯第八1

  ( 訓 )  子曰く泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ 三たび天下を以て譲り民得て称するなし
  ( 新 )  子曰く周の泰伯は最高の徳を身につけた方というべきだ三たび天下を弟の李
     歴に譲ったのだが、その譲りかたが如何にも自然に見えたので人民はつい其の
     徳をたたえる事を知らないでしまった ( 宮崎市定 )
 この扁名の泰は人の名前です。殷王朝時代諸侯 「 周 」 その君主大王に 3 人の男兄弟の内長男がこの泰伯、次男仲雍ちゅうよう、三男李歴りれきであり李歴の子しょうが周王朝創業した文王、大王は孫の昌の才能を見ぬきこれに位を伝えたいと考えました。そのためには末子の李歴を後継ぎにしなければなりません。父大王の意志を察した泰伯と仲雍は南方の未開発の呉の邦に亡命しています。文王の子、はつが殷の紂王に克ち天下統一したこれが周の武王 BC 1100 年頃です。


子罕代九 1 

まれに利を言う命と与にし仁と与にす
  ( 新 )  孔子が利益を議題にすることは極めて稀であった。その時でも必ず天命に関
     連し又は仁の道に関連する場合に限られた ( 宮崎市定 ) 命と共に利するとは
     如何に利を求めようとしても天命の如何によっては必ずしも成功しないから、
     それに執着してはならぬこと。仁と共に言うとは仁道に背いてまで利を求める
     こと、などであろう ( 宮崎市定 )
 古注、新注の説として 「 子まれに利と命と仁とを言う 」 孔子は利益、運命、仁、この三つのものについて語るのは稀であった。何故この三つの事を希にしか語らなかったかといえば三つの事があまりにも重大な問題であるから軽卆には語らなかったと説明しています。 孔子の父は武人であって、それによって大夫になった人ですが孔子三才の時に亡くなりました。したがって貧しく育ちました。
  ( 訓 )  大宰 子貢に問いて曰く夫子は聖者か何ぞ其れ多能なるや と 子貢曰く固
     より天これをゆるして聖をおこなわしめ亦能 からしむるなり 子これを聞いて曰く
     大宰は我を知るか吾れわかくして賤し故に鄙事に多能なるなり 君子多から
     んや 多からざるなり 罕曰く子云えることあり吾れもちいられず故に芸あり
      ( 子罕第九  6 )
  ( 新 )  大宰が子貢に尋ねた孔先生は超人的な聖人とでも申しましょうか、どうして
     あんなに多能なのでしょうか。子貢が答えたたしかに天がその計らいで孔先生
     に聖人の行為を行わせているのですからそのためには当然多能でなければなら
     ぬのです。孔子がこれを聞いて言った。大宰は、お知りになるまいが、私の若
     い時は社会の下積みになって働かされたものだ。そのため賤しい仕事なら何で
     も出来る様になった。家柄の貴人なら多能になれようか。見わたした所では、
     どうもいない様ですね罕がある時言った先生のお言葉に、私はいい地位を得な
     いでいる間にこの通りなんでもやになった と ( 宮崎市定 )

 孔子は貧からの脱却を願い社会的地位を得たいと思ったとしても不思議ではありません。そういう意味では 「 偉大なる普通人 」 でありました。孔子は決して富そのものを否定しませんし高位高官になる事も否定してはいませんが唯それを得るための客観情勢と、それを得るための規範を問題としています。したがって当然貧乏になるべくして貧乏でいたり、不正によって富を得ることも立派ではないといいます。
  ( 訓 )  子曰く富と貴きとは是れ人の欲する所なり 其の道を以て之を得しにあらざ
     れば処らざるなり 貧と賤とは是れ人の悪む所なり 其の道を以て得しにあら
     ざれば去らざるなり 君子は仁を去りて いずくにか名を成さん 君子は終食の間も仁に違うなく 造次にも必ず是に於てし顛沛てんはいにも
     必ずここに於てす ( 里仁第四 5 )
  ( 新 )  子曰く財産と地位とは誰しも欲したがるものだ併し当然結果としてころがり
     こんだものでなければ守る価値がない。貧乏と下賤とは誰しも人の嫌うものだ。
     諸君は仁に志す修養の実をすてて何の名誉だけを求められようか諸君はふとし
     た食事の間も修養を忘れないでいてほしい。咄嗟とっさの場合にも真逆の際に
     おいても ( 宮崎市定 )
 そして亦「富貴」「貧賤」を否定しする章もあります。
  ( 訓 )  子曰く篤く信じて学を好み死を守りて道を善くす 危邦には入らず乱邦には
     居らす 天下道あるときはあらわれ道なき時は隠る邦に道ありて貧にして且つ
     賎しきは恥なり邦に道なくして富み且つ貴きも恥なり ( 泰伯第八 13 )
  ( 新 )  子曰く一生を打ち込んで学問を好み命にかけても実践を大事にする亡きかけ
     た国には入らず乱れた国に住まわぬ。テンカガ治まった時には出世し乱れた世
     の中では無視される正義の行なわれる国に住んでいて貧乏で地位がないのは恥
     ずかしいことだ併し不義の通る国にいて金持ちだったり地位が高かったりする
     のはもっと恥さらしというべきだ( 宮崎定市 )

 子曰く疏食を飯い水を飲み肱を曲げて枕とす楽しみまたその中にあり不義にして富み且つ貴きは我に於て浮雲の如し ( 述而第七 15 )
亦 「 利を見てては義を思い 」 道理上取るべき時に摂る。


郷党第十 1

  ( 訓 )  孔子郷党に於ては恂恂如じゅんじゅんじょたり言う能わざる者に似たり其の
     宗廟 朝廷にあるや 便々として言う唯謹しむのみ
  ( 新 )  孔子が町内の会合の席ではぽつりぽつりと話しをするのを聞いていると言語
     障害かと思うくらい。ところが朝廷の祭祀や政治の場合はすらすらと雄弁に語
     る。ただひどくていねいに言う ( 宮崎市定 )
 郷党第十は論語全二十からなる前半のしめくくりです。孔子の平生の生活から言語、衣服、飲食に至るまで詳細に記されています。 「 郷 」 「 党 」は地域社会の単位をいいます。亦 「 党 」 は仲間という意味 「 党する 」 という表現は現在でも使われています。
 孔子は村に於ける伝統を尊重しました。町内の宴会では杖を持った老人が帰るのを待ってその後に退出しました亦町内の行事で鬼やらいの行列がまわって来た時は礼服を着て入口の階段に立って待ちうけました 「 郷人 飲酒するに杖する者出ずれば斯を出ず 郷人飲酒するときは杖する者出ずれば斯を出ず 郷人のするときは朝服してX階そかいに立つ ( 郷党第十 10 )


陽貨第十七 13 
  「 子曰く郷原は徳の賊なり 」 宮崎市定は賞められ者になろうとしている青年ほど鼻もちならぬ偽者はないと訳文されています。
 郷は村、共同体、原は真面目なこと、すなわち郷原とは、その村、共同体で立派な人物だと常識的に見られている人物。それは理想も もない人物。孔子は 「 徳の賊 」 なのだと云っている。
  ( 訓 )  子貢問いて曰く郷人皆これを好しとせば如何 子曰く未だ可ならざるなり 
     郷人皆これを悪しとせば如何 子曰く未だ可ならざるなり 郷人の善き者これ
     を好しとし其の善からざる者これを悪しとするに如かず ( 子路第十三 24 )
  ( 新 )  子貢が尋ねた。町内の人が皆揃って賞める様な人間がいたら如何ですか。子
     曰くそれでよいとは限らなぬ。子貢曰く町内の人が皆揃ってけなすような人が
     いたら如何ですか。子曰くそれでよいとは限らぬ町内の善い人が賞め悪い人が
     けなす様でなければ本物でない ( 宮崎市定 )
 孔子曰く似て非なる者を悪む 郷原を悪むは 其の 徳を乱りがわしきを恐るるなり 「 孟子 」

孔子の時代の中国 ( BC 5 - 6 世紀 )

Updated 24 March , 2021