Kataro ホームページ 「 河太郎 」 31 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 9 月 1 日

巻頭言

長谷川 隆次

  「 河太郎 」 28 、 29 号に掲載された渡邊源司さんの 「 釧中・湖陵高校校歌 」 が思いの外話題をよび、色々な方から御手紙、御電話を頂戴しました。東京、札幌の同窓生の要望により、札幌 30 冊、東京 50 冊増刷して送りました。まこと嬉しい事です。丁度開学百周年を迎える年に当たったのも亦時を得たのでしょう。それにしても母校釧中、湖陵高校に対する思い入れの深さに接し、感動ひとしおです。
 釧中、湖陵と続く百年の歴史の中でいくつかの断層がありました。その第一の断層は昭和 22 年の学制改革でしょう。それ迄の 6 年の小学校に加え、 3 年の中学が義務教育となりました。昭和 22 年 3 月、小学校を卒業した児童は自動的に新制中学に入学しました。それが釧路市立南中学校であり、東中学校です。校舎は南中は、建物は違いますが今の幣舞中学校、東中は今の教育大学でした。
 それ迄の昭和 22 年以前に小学校を卒業した児童は入学試験を受けて男子は北海道庁立釧路中学校、女子は北海道庁立釧路女子高等学校へ進みました。これ等の生徒は、学制改革後もそのまま入学した釧中、釧高女の校舎に通いました。ですから昭和 21 年に入学した昭和 8 年生まれの生徒には、同じ校舎での下級生はおりません。
 永いこと釧中、湖陵同窓会の幹事長、副会長をつとめていただいた遠藤隆吉さんは昭和 21 年、釧中入学です。 2 年生になっても 3 年生になっても上級生ばかり、いつも最下級生だった。当時の学年の戒律は厳しく、制裁を受ける事しばしばだったと当時の思い出を感慨深げに語ってくれました。
 昭和 22 年以降に小学校を卒業した児童は中学に進み、そして入学試験を受けて高校へと進学して行きました。解りづらいのは、昭和 21 年以前に中学の入学試験を受けて入学した生徒の事です。そもそも昭和 21 年以前に中学に入学した生徒の就学年限は五年でした。ですから昭和 22 年 4 月、学制改革前の 3 月に卒業した学生は 5 年の釧中を卒業した事になります。
 釧中、湖陵高校の卒業名簿を見ますと、釧路中学校、並置中学校、釧路高等学校、釧路湖陵高等学校という 4 つの名前の学校が出て来ます。整理してみました。

           昭和 23 年 3 月卆釧中 32 期   昭和 5 年生れ
              24 年 3 月 釧中 33 期   昭和 6 年生れ
              23 年 3 月 並置中学 1 期 昭和 7 年生れ
              24 年 3 月 並置中学 2 期 昭和 8 年生れ
              24 年 3 月 釧路高校 1 期 昭和 5 年生れ
              25 年 3 月 釧路高校 2 期 昭和 6 年生れ
              26 年 3 月 釧路湖陵 3 期 昭和 7 年生れ
              27 年 3 月 釧路湖陵 4 期 昭和 8 年生れ

 昭和 5 年生れから昭和 8 年生れの旧制中学校に入学した学生の事です。昭和 5 年、 6 年生れの学生は 5 年の旧釧中と湖陵高校、 7 年、 8 年生れの学生は並置中学と湖陵高校を卒業しています。並置中学とは何を意味するかは解りませんが、新制中学と違うのは確かな事です。ちなみに新制中学の 1 期生は昭和 9 年生れです。
 そしてこの資料で解る様に昭和 24 年 3 月に卒業した、正確には釧路高等学校の 1 期生を釧路湖陵高等学校 1 期生としました。正式に北海道立釧路湖陵高等学校となったのは昭和 25 年 4 月からです。北海道立江南高等学校も昭和 25 年 4 月になりました。江南高校の 1 期卒業生は昭和 26 年 3 月です。ここに同じ年令、同じ学年で卒業 「 期 」 の違いが出て来た訳です。江南は湖陵より 2 期若く云っています。
 昭和 25 年 4 月に新制中学を卒業した生徒は、高等学校へ進学しました。北海道立釧路湖陵高等学校、北海道立江南高等学校、北海道立釧路工業高等学校です。男女共学です。工業高校は別にして、湖陵も江南も小学区制による進学です。個人が進学しようとする高校の選択肢はありません。住んでいる地区に依って進学する高校が決まります。具体的に云うと南中、春採中、共栄中、鳥取中、根室本線上り白糠方面は湖陵、下り厚岸方面、東中、北中は江南の入学試験を受けました。大変だったのは旧釧中、旧高女に在学していた昭和 7 年、 8 年生れの男女学生です。この年、昭和 25 年 4 月には昭和 7 年生れの学生は高校 3 年生に、 8 年生れの学生は高校 2 年生になり、各々入学した旧釧中、旧釧高女の校舎に通学しておりました。この在学生も亦区域割に入れられました。具体的に云うと、湖陵に通学している男子学生がその学区が江南の区域であれば江南に転校させられ、亦逆に江南に通学している女子学生が湖陵の区域であれば湖陵への転校を余儀なくされました。
 湖陵は開学以来初めて女子学生を受け入れ、江南も亦初めて男子学生を受け入れました。この小学区制は昭和 41 年迄続きました。昭和 41 年以後、自分で進みたい高校を受験出来る大学区制に変わりました。
 北海道立釧路湖陵高等学校と正式に呼ばれる様になったのは昭和 25 年からだと前に述べました。どうして 「 湖陵 」 なのか、その由来を知りたいと願っていますが、未だ分かりません。誰か教えて下さいませんか。
 学制改革、学区制、男女共学等の揺れ動く間に居て変わらなかったもの、それは校訓であり校歌であり熊笹です。ともすれば古いものを否定しようとする流れの中で、これを守りぬいた担識には敬意の気持ちでいっぱいです。
  「 湖陵 」 という町も場所もありません。湖のほとりの丘陵、つまり春採湖のほとり、或いは春採湖の見える丘陵を云うのでしょうか。昭和 3 年 8 月に制定された釧中校歌には 「 湖陵に立てる我が学舎 」 作詞された菅原覚也先生はその時釧中が建っている所を 「 湖陵 」 と謳ったのではと解釈します。
 平成 2 年 9 月、湖陵高校は現在の校舎に移りました。湖が見える場所です。学校も新しい場所に新しい校舎が建った。校歌も新しくしようではないかという議論が持ち上がったと最近聞きました。全くとんでもない、恐れいった話です。
 釧中、湖陵が百年続きました。連綿とつづく連続性、それが歴史です。
 連綿と続く連続性の中に自分が居て兄弟が居たり親子がいる、今や孫、あるいは曾孫が同じ学舎で学んでいます。この連続性が湖陵の歴史です。そしてその歴史を意識することが誇りの根元となります。その誇りに感動し、感動が力を与えてくれます。感動・感激が人生を飛躍させ、運命を創る最大の力となります。
 釧中開学以来絶えず人材を輩出して来ました誇りえる釧中の歴史です。その歴史を培った伝統を湖陵は受け継ぎ、今も人材を輩出つづけています。その釧中、湖陵はどの様にして人材を育てたのか、その歴史を掘り起こし亦その人達を顕彰する事がこれからの湖陵の発展に繋がることです。人が、教育が、人を育てます。そして亦自然が人を育てる事を忘れてはなりません。百周年を迎える今、我々が誇りうる釧中、湖陵の歴史、伝統、価値をしっかりと認識するにはいいチャンスだと思います。
 湖陵健児の飛躍、発展を祈り上げます。

Updated 30 October , 2019