Kataro ホームページ 「 河太郎 」 30 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 7 月 1 日

小説 昭和の 「 ダフネスとクローエ 」 ( 2 )
霧海 裕

  「 さーて、行くとするか 」

 昭和 32 年 ( 1957 年 ) 4 月、今日は中学 3 年生の始業式の日である。 伊吹聡 ( いぶきさとし ) は、近所の散り遅れ桜の花びらに見送られながら、家から徒歩 5 分くらいの A 市立 S 中学校に向かって歩き始めた。 聡の家は A 市の中心から南西に少し外れた住宅地で、八百屋と米屋、酒屋を営んでいる。 家の辺りは小さな商店街になっていて、国道沿いに西隣は自転車修理店、雑貨屋、少し飛んで貸本屋。東隣は少し飛んで散髪屋、文具屋、お好み焼き屋、風呂屋が集まっている。

 家を出てすぐに貸本屋の息子多田真 ( ただまこと ) と出くわした。多田は聡の一つ下で、聡の遊びグループの常連であった。さっそく 6 月に実のなる 「 しゃしゃぶ ( なわしろぐみ ) 」 のことを色々話しながら学校に向かった。 多田の親父は面白い親父で、土地や株のブローカーをしていて、いつもぼろぼろの格好で街を徘徊していたが、 K 銀行 A 支店に勤める聡の姉によると、親父は K 銀行の上得意で、あのぼろぼろの格好で銀行に来ても、対応は常に支店長があたるそうである。貸本屋は多田の母親がやっていて、ほんの小遣い稼ぎだったのである。

 多田の親父は聡が小学校 3 年生 ( 昭和 26 年n) の頃、仲間 2 〜 3 人と 「 世界宇宙経 」 なる新興宗教を立ち上げた。近所の子供たちをお菓子で集めて布教していた。  聡もお菓子につられて参加したが、布教の内容は覚えてなく、ただ、胸の前で手を合掌して 「 良いことをしましょう 」と挨拶することと、教団の歌を覚えている。その歌詞は、

     目覚めよや 目覚めよや 全人類よ万物よ 
          神の御心 とうへいの ( ? )
     光り輝く楽土郷 ( らくどきょう)
          平和の真理に 目覚めよや

であった。

 多田の親父は戦争中、過激な皇国親父だったそうで、戦後の変わり様に、近所の大人たちは親父を全然信用していなかった。 「 世界宇宙経 」 はその後、 1 年持たずに解散した。

 家の前は国道 XX 号線が走っていたが、まだ未完成の砂利道で、中学校へ向かう西 200 m の K 大学に面する道路から、片側 3 車線の広大な未舗装の国道は途切れ、それから先は幅 6 m の片側に排水溝のある道に連なっていた。

未舗装国道と I 山

 なぜこうなったかと言うと、昭和 20 年 7 月 4 日、 A 市は米軍の B29 爆撃機によって大空襲を受け、 A 市の 80 %が焦土と化した。戦後、 A 市は戦災復興土地区画整理事業を行なったが、西 200 m 以後の西地域は爆撃を免れていたため、土地区画整理事業の区域から除外されたのである。そのため聡の家の前までの国道 XX 号線は土地区画整理事業で確保できたが、西 200 m 以後は用地買収をしなければならず、予算難と住民の買収反対で計画はストップしてしまったのである。 そのため聡の家の前の未舗装の国道 XX 号線は行き止まり同然で、ほとんど自動車交通はなく、聡たちの絶好の遊び場になっていたのである。
 また、爆撃を免れた、 K 大学の南端から南 500 m の I 山麓の I 八幡宮までの地域は戦前の町並みが残り、幅員 3 〜 4 m ぐらいの狭い道がくねくね入り組んで家がびっしり建て込んだミステリーゾーンで、聡は一度何気なく入り込んだが、すぐに道に迷い、その地域から脱出するのにえらく苦労した経験がある。それ以来聡は、その地区に入り込んだことはない。

  K 大学に沿って細い道を 800 m ぐらい西へ行くと S 中学があった。この中学校は、昭和 37 年 ( 1962 年 ) に史上最多の 3553 人の生徒が通ったが、聡の時代は3200 名古屋の中学校で、生徒数は5000人だと先生が言っていた。聡の3年生の生徒数は、60人学級の 20 クラスで 1 学年 1200 人であった。聡が 1 年生の時は学校校舎の建設が間に合わず、隣接の K 大学学芸学部3の 1 階建て木造校舎を借り、他の 1 クラスの半分と合同で、 1 クラス 90 人で授業を受けた。

  K 大学の敷地西南端を右に曲がると左手に生徒通用入り口があり、まっすぐ行くと生徒用入り口がある。そこで上履き靴に履き替え、 2 年生時の教室に行った。 S 中学校は 1 年ごとにクラス替えをやるので、 2 年生時の担任から 3 年生のクラス名を聞き、運動場に新しいクラスの列に集まって整列し、 3 年生の 20 人のクラス担任を紹介されるのである。

 聡は 3 年 7 組のクラスに入ることになり、3 担任の先生は山村という英語の先生であった。聡は身長が 167 cm あり、列は身長順に並ぶので、 7 組の列の後方に並んだ。誰か知っている奴はいないかなあと探すと、 1 年生の時に同級生で仲の良かった吉井がいた。 「 やあやあ 」 とお互い肩をたたき合い、再会を喜び合った。他に 3 人知っている奴がいたが、あまり付き合っていなかった連中であった。
 吉井を含んで 4 〜 5 人で名前を名乗ったりふざけあったりしていると、聡は何か後から押される感じがした。変だなー、後には誰もいないはずだのにと振り返ると、隣の列の、これから同級生になる女生徒が 5 、 6 人、きゃあきゃあ騒いでいた。

 聡が 3 年生になって激変したものがある。それは聡専用の部屋と勉強机があてがわれたことである。聡の 5 つ上の次兄が K 商船大学に進学し、その部屋が空いたからである。それまで聡には部屋も勉強机もないので、予習、復習、試験勉強などはしたことがなく、 1200 人中 700 〜 900 番をうろうろする成績であった。簡単に言えば、聡は 「 落ちこぼれ 」 であった。
 この頃、 T 市の高校進学率は 50 %ぐらいで、聡の成績では公立高校進学は無理で、強いて進学しようとしたら、私立高校しかなかった。しかし、聡は無理に進学しなくてもよいと考えていた。いざとなれば親の店を継げばよいのだ。幸いなことに二人の兄は大学に進学し、店を継ぐ意志は全然なかったからである。

 勉強部屋と机を与えられた聡は、今まで一切勉強したことがなかったのだが、せっかく部屋と机が与えられたのだから、勉強とやらをおっぱじめるかと考えた。しかし、今まで 1 分も勉強をしたことがなかったので、悲しいかな勉強のやり方が全く分からなかった。そこで本屋に行き、旺文社の 「 中学三年生 」 という雑誌を立ち読みすると、読者の投稿欄の 「 こうして成績を上げた 」 という経験記事があった。それを読むと、 「 予習と復習をしっかりやり、必ず予習・復習ノートを用意し、そのノートに要点を書いて覚えること。そうすれば予習・先生の講義・復習と、同じ所を 3 回も勉強するので、たいがいのアホでも覚えられる 」 と書いていた。聡は 「 なるほど、こうやれば俺のようなアホでも覚えられるな 」 と心から納得した。

 聡の家族は 12 人の大家族であった。子供 6 人に父母、祖母とその妹、大阪の親戚のばあさんとその妹という、ばあさんが 4 人もいるという豪華絢爛 ( ? ) な家族であった。 祖母は芸者上がりで三味線が上手であった。杵屋なんとかを名乗って三味線の師匠をしていた。弟子は金持ちの上流夫人と芸者、芸者見習いであった。 A 市は昔から花柳界が繁盛していて、 A 市近郊の農民の娘で、顔が少し綺麗であれば芸者の道に進む娘が多かった。 A 市には日本で唯一 「 芸者大学 」 がある。 父は、旧制A中学を卒業し、本人は大学の電気工学に進学したかったのだが家が貧乏で進学できず、大地主で米屋を営んでいた、子供がいない叔父の養子になり、跡取り息子になった。養母が三味線の師匠である。

 戦後、農地改革により伊吹家の全ての小作地は没収され、残された屋敷跡は戦災復興土地区画整理事業によって半分以上道路用地に消え、換地された現在地に八百屋と米屋、酒屋を営んでいる。
 母は、土木業を営んでいる家の次女として生まれ、父と平凡な見合い結婚で現在に至っている。商売が性根に合っているらしく、まさに八百屋の女将さんにぴったりである。

 長兄の一 ( はじめ ) は聡より 12 才上で、 K 大学土木工学科大学院博士課程卒で、東京の赤羽にある建設省土木研究所に勤めている。

 姉の景子と比佐子は共に T 高校を卒業し、 K 銀行の T 支店と A に勤め、二人とも支店長秘書を、美人だったので支店長秘書をやっている。
 次兄の次雄 ( つぐお ) は前に述べたように K 商船大学に進学。年子の妹と 4 つ下の小学生の弟がいる。

 聡は八百屋の手伝いを積極的にやっていた。両親から強制されたわけでもなかったが、春、夏、冬休みには午前中自転車で得意先に注文聞きをし、午後から注文された品物を配達した。

伊吹商店

 聡の店には米屋に 1 人、八百屋に 2 人の使用人がいた。学校が休みのとき、聡が仕事を手伝うので結果的八百屋の 2 人の使用人の仕事が楽になるので、聡は 2 人の使用人にかわいがられた。
 得意先で面白かったのは、 N 銀行 T 支店の社宅で、 50 軒あるうちの 10 軒が得意先であった。 50 軒のうち 10 軒がキャリア組で、 2 倍の広さの社宅であった。
 聡が行く得意先は高卒か地方大学出身のノンキャリア組であった。注文聞きや配達に行くといつも奥さん方が集まって井戸端会議をやっていた。井戸端会議の最中に聡が行っても、中学生の聡には警戒せず、あけすけな話をしていた。その話を聞くのが聡の楽しみであった。
 話の中心は、出世できない亭主とキャリア組の悪口、子供の教育であった。ノンキャリアの亭主とキャリア組の出世の差をまざまざと見せつけられ、亭主の出世はほとんど諦めていたが、その分、子供の教育には異常に熱心であった。
 ある奥さんなんか 「 お父さんのようになったら絶対駄目よ。良い学校に行けるよう必死に勉強しなさい! 」 と日頃から口を酸っぱくして子供に言っている、と自慢していた。
 井戸端会議の議題がちょいちょい聡に向かってきた。 「 ところで坊や ( 聡のこと ) 、あんた勉強してるの? 」。勉強なんて 1 分もしたことがない聡は口ごもりながら 「 えーと、あのー、適当にやっています 」 と答えると、 「 悪いことは言わない。しっかり勉強しなさいよ! 」 と親から 1 回も言われたことがない言葉を浴びせられることがちょいちょいあった。そんなときは早々に退散することにしていた。

 八百屋の手伝いをしていて、聡は色々な実社会の勉強ができた。得意先の社宅で奥さん方の井戸端会議からは、会社では旧帝大や一橋大学、早稲田大学、慶応大学を出てなくては出世できないこと、娘や息子の縁談では必ず相手を興信所を使って調べ上げること、興信所の調査員が近所の娘や息子の調査に来たときは、日頃仲の良い人には誉めあげて、仲の悪い人についてはぼろくそに言うことが分かった。
 また、店で売っている野菜や果物、お総菜などの全てを憶え、特に旬の野菜、例えば新ゴボウや新ショウガ、新キャベツ、新ジャガイモなどの新物が出るころには、注文聞きに出る前に母親から、 「 今日は何々の新物が入荷するからそのことをちゃんと得意先に言うこと 」 と念を押された。店を手伝う前にはそんな野菜があるのは全く知らなかった。
 聡は学校に行くのが楽しみになっていた。クラスの席順は身長順に低い者から高い者へ前列から後列に順に座るので、毎週月曜日の朝礼で後に並ぶ連中と机を並べていた。
 聡の仲間は、朝礼でも席順でも後に並ぶ連中 7 人であった。内訳は勉強ができる奴 4 人、できない奴 3 人であった。
 聡自身は、なんせ成績が 700 〜 900 番であったため、できない奴 3 人に含まれると思っていたが、皆はそう思っていないことに気が付いた。 2 年生までは予習などやっていなかったので、授業中英語や国語の朗読を当てられたとき、英語のスペルや国語の漢字が読めず、数学では問題が解けず、 「 読めません、解けません 」 が聡の口癖であった。
 それが、部屋と机をあてがわれて予習をやり始めると、授業中当てられても、すらすら答えたり朗読ができだしたのである。聡自身びっくりしたのだが、仲間は、聡の成績が 700 〜 900 番だったとは知らなかったので、こいつは頭がよいと判定したのだろう。

 もう一つの楽しみは、聡のクラスに橘かおりというとんでもない美少女がいたことである。背も高く、聡と同じ最後尾の列に席があった。いつも友達ときゃあきゃあ騒ぎ、女生徒の人気の的であった。そして聡が一番気に入ったのは、自分の美貌をまったく鼻にかけないことであった。 1 年生や 2 年生の時も同級に美少女がいたが、どれもつんとすまし、お高くとまっていた。 ただ、聡はラブレターを彼女の靴箱に入れるとか交際を申し込む気は全然なかった。何故なら聡は今まで女生徒からラブレターをもらうとか交際を求められるどころか、話しかけられたことは一度もなく、自分は女生徒には全くもてないという固い信念があり、たとえ間違って交際しても女生徒と何を話せばよいのか全然分からなかったからである。そんなことより、男友達とわあわあ遊ぶ方がずっと楽しいと思っていた。
 そしてこの頃の若者の風潮として、女とちゃらちゃら話したり、ガールハントに精を出す男などは軟弱で男の風上にもおけない輩と、内心ではうらやましさもあるのだが軽蔑していた。

 しかし、聡は彼女に対して一つだけ気にかかることがあった。それは、聡が友達と廊下で立ち話をしているとき、何か後から押される感じがして振り返ると、彼女が近づいているのである。そして彼女は聡をちらっと見てすれ違うのである。また逆に、廊下で前を歩いている彼女を追い越すとき、彼女もひょいと振り返り、 「 やっぱり 」というような顔をするのである。今から思うと、始業式を兼ねた朝礼で、後から押される感じがしたのも多分彼女からだと思われた。
 こんなこともあった。聡は小学 5 年生のころからラジオづくりに夢中になり、アマチュア無線に興味を抱いていた。始業式の 2 、 3 日後、学校が終わってすぐ、聡は日本アマチュア無線連盟発行の 「 CQ 」 誌の付録、 「 全国アマチュア無線家住所録 」 を持って家から徒歩 15 分の所の JAX FN の家を探しに行った。あとで受信機や送信機を見学させてもらおうと思ったからである。目印のアンテナが見え、角にあるその家に表札を確かめに行こうとして四つ角を出た瞬間、そのアマチュア無線家の隣のアパート玄関前でカバンを持った女子生徒二人が話し合っているのが見えた。その女生徒の一人が彼女だったのである。やばいと思ってすぐ引き返したのだが、よく考えると何もやばくないと思い直し、四つ角に出ると、彼女たちはいなかった。しかし、聡はそのころド近眼で、10 m も離れれば人の顔の判別などできなかったのである。それが 30 m 以上も離れているのになぜ彼女と判別できたのか不思議でしようがなかった。のちに彼女にこのことを話すと、彼女も憶えていて、最初は彼女をつけてきたのかと思ったそうだが、帰宅する道と反対の道から聡が来たこと、自分の部屋の窓から見ていると、聡が隣の家の表札を確かめたり、隣の家の庭に立っている二本の竹竿 ( アンテナのこと ) をじって見ているので、変な人だなと思ったそうである。

 当時は、こんな非科学的な話を解明するために彼女に話しても、 「 変な話を持ち出して私にアタックする口実にするのでしょう 」 と彼女に思われるのが関の山だろうから、このことは胸の奥深くにしまっておこうと、聡は決心した。

( 続く )

 

 「 ダフニスとクロエ 」
  「 ダフニスとクロエ 」 は、 2 世紀から 3 世紀初めにかけて古代ギリシャ語で書かれた美少年と美少女の純真な恋物語。作者はロンゴスと言われているが、生年や没年は分かっていない。
 物語の内容は、森の中で山羊に育てられていた少年ダフネス、ニンフの洞窟で羊に育てられていた少女のクロエ。二人とも捨て子だった。二人ともそれぞれ山羊飼と羊飼いの夫婦に拾われ育てられた。やがて二人は知り合い、」幼い純真な愛を育んでいった。

 この物語を世界的に有名にしたのがフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル ( 1875 ― 1937 ) であった。バレエ団を率いるディアギレフの委嘱でバレエ曲 「 ダフニスとクロエ 」 を作曲し、 1912 年 にパリで初演され、大成功を収めた。後にラヴェルはこのバレエ曲の一部を抜粋して管弦曲組曲 「 ダフニスとクロエ 」 第一組曲、第二組曲を作曲した。この組曲は 「 ボレロ 」 「 亡き王女のためのパバーヌ 」 「 スペイン狂詩曲 」 と並んでラヴェルの管弦楽曲の主要なレパートリーになっている。

ダフニスとクロエ ラファエル・コナン画

  「 ダフニスとクロエ 」 にヒントを得て、 1954 年 ( 昭和 29 年 ) 、日本に舞台を移し、伊勢湾にある神島に住む貧乏漁師の青年と網元のの娘との恋物語を書いたのが、三島由紀夫の小説 「 潮騒 」 である。
Updated 24 March , 2021