Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 30 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 7 月 1 日

身辺整理

奈良 久


はじめに

 平成 23 年の日本人の平均寿命は、女性が 86.39 歳で依然として世界一位、男性が 79.64 歳で世界第 4 位に下がった相である。しかし、いずれにしろ日本は世界最長寿国であることは間違いない。
 僕は昭和 6 年 4 月生まれだから現在 81 歳である。つまり僕は日本男子の平均寿命 79.64 歳を立派に超えたのだ。日本人の平均寿命は、厚生労働省が発表している 「 生命表 ( 簡易生命表 ) 」 (1) がもとになっている。生命表では、その年に生きているすべての年齢の人々に対し、過去の年齢別の死亡者数のデータを使い 「 その年齢の人が、あと何年生きられるか 」 という数値 ( 平均余命 ) を算出している。この中で 0 歳の平均余命 ( 例えば 2010 年生まれの男児の場合は 79.64 年 ) を、特に 「 平均寿命 」 と呼んでいる。
 81 歳を超え、平均寿命を超えて、個人的に感じたり決意したりすることは色々ある。思いがけず長生きしているが、それはいずれ確実に訪れる死に近づいているということだ。そろそろ死出の旅への準備を始めなければならないと思い始めている。しかし厄介なことに僕が何歳まで生きられるのか全く分からない。現在死に至るような病気とは無縁で暮らしているからなおのことだ。そしてそれを良いことにして、考えるべきことも考えず、やるべきこともやらず、つまり人生の終焉にあたって欠かせない 「 身辺整理 」 を怠って毎日のんべんだらりと暮らしているのが実情である。
 本稿では 「 身辺整理 」 をする理由やその目的、意義、内容などを考えてみたい。考えてみれば僕には部分的に実行してしまったり、実行中だったりする身辺整理もあるが、多分僕が生きている間には本質的に実行しきれない身辺整理もある筈だ。ここでは 「 高齢になって必要な身辺整理 」 に限って考えてみたい。そのように問題を限定してみても、身辺整理できる問題と、やはり死の前に身辺整理しきれない本質的な問題があるだろう。そしてさらに本来去りゆく人には実行不可能な、原理的に残された者に託されるべき問題もあるだろう。


ここで考える 「 身辺整理 」

 身辺整理は、例えば転勤になって住む場所を変えざるを得ない時、高校や大学を卒業して就職するための新住所を定める時、結婚するために新居を構える時など、日常的にやらなければならないことも多い。だから身辺整理は年齢にかかわらず、若い人にも時と場合に応じて必要なことだ。しかしここで問題にしたい身辺整理は、誰でも高齢になって人生の終焉に近づいたことを意識した人が、死の前にやるべき身辺整理である。その意味で身辺整理と死とは密接に関係する人生の一大テーマであろう。しかし死と関係する身辺整理には、自殺を決意した人の身辺整理といった深刻な問題もあるだろう。自殺を含む高齢と無関係な死と関係する身辺整理には、深遠な哲学的考察が必要であるかもしれない。そんな高尚な考察が果たして僕に可能かどうか甚だ疑問だ。ここではそのような深遠な哲学的考察を必要とする一般的身辺整理は取り上げず、 「 高齢になって必要な身辺整理 」という問題に限って考えて行くことにしたいと思う。人間誰でも一人では生きていけない。家族や友人、同僚などとの関係の中で、つまり社会の中で人生を送るのである。自分が死んだ場合それら生前に関係の深かった人たちとの関係を無視するわけにはいかない。齋藤茂太はそのような観点から 「 老いへの身辺整理 」 (2) という表題の単行本を書いて出版しているので参考になるかも知れない。

 僕の父は 1942 年 ( 昭和 17 年 ) に享年 53 歳で亡くなった。僕が小学校 5 年生であった年の秋の出来事であった。父は釧路市の繁華街で薬種商を営んでいたのだが、父の死の年の 6 月に生まれた赤ん坊を含めて、11 人の子供を残しての旅立ちであった。母は当時 42 歳の若さであった。 11 人の子供を残された母の苦労は察しても余りある。父は子供たちに財産をほとんど残さなかったが、唯一の救いは巨額の借金が無かったことだ。釧路という土地柄、母はイサバ屋と呼ばれる魚の行商の仕事を選択して子供の養育に全力を挙げた。釧路の魚市場の仲買人の資格を得て魚を扱う商売を続けた。そして信じ難いことに、僕を含むすべての子供たちに十分な教育を施して立派に育て上げてくれた。
 母は 70 歳になるまで釧路で魚を扱いながら頑張っていた。しかし何度か深刻な病気に罹ったりして一人で暮らすことに限界を感じて、いろいろな経緯の後結局は仙台で僕の家族として暮らすことになった。母の引越しの仕事は全て僕が行った。母が釧路を引き払うについては、長年釧路で暮らした家財道具の整理が大仕事であった。家財道具の大部分は、正直な話瓦礫に近いポンコツであった。しかしそれらは全て母にとっては、多くの子供たちを育て上げた釧路での生活を支えたかけがいのない宝である。母はその全てを仙台に持って行きたいと主張する。僕は現実的に取捨選択して仙台に運びたいと主張する。両者の主張がぶつかり合って、時には険悪な意見の衝突があった。
 母は仙台で二十数年間を僕らと暮らし、1994 年 ( 平成 6 年 ) に仙台の僕の自宅で、老衰で亡くなった。享年 92 歳であった。仙台での生活は母にとって幸せな生活であったと僕は信じている。母の死後、母の持ち物の整理をした。釧路から持ち込んだ家財道具の大部分は一度も使われずに、物置のかなりのスペースを占めていた。母が残した衣類や膨大な量の布団類などは母にとって捨てがたい大切な宝物であったが、僕らには残念ながら単なるゴミであり、清掃業者にゴミとして引き取ってもらった。
 家内の母親 ( 笹森総 ) は秋田市で一人暮らしをしていた。昭和 61 年秋に秋田市の交番から突然連絡があって、自宅玄関で転んで骨折し動けないまま数日を過ごしているのが発見されて保護されたという。家内はすぐに秋田に急行し、日赤病院で手術を行い、本当に危機一髪のところで一命を取り止めた。この突発事件を契機に家内の母親は仙台の我が家で暮らすことになった。つまり仙台の我が家では、僕の母と家内の母とが我々と一緒に暮らすようになったのである。義母はその後平成 10 年に享年 89 歳で仙台の我が家で亡くなった。つまり僕の家内は、二十数年間にわたって僕の母の面倒を引き受け、その内十数年間は自分の母親と共に二人の老人の介護を一手に引き受けたのである。言うまでもなく二人の老人の介護を引き受けた家内の苦労は只事ではなかった。しかし家内は僕の母の居室を 1 号室、義母の居室を 2 号室と呼ぶなど、ユーモアに溢れた対応で二人の老人に接していた。家内は二人の母親の死に接したとき、やるべきことは全てやったと信じているので思い残すことはないと言っていた。
 以上、父、母、義母の死とその後に残された家族への影響を述べた。誰かが死ねば、家族などの関係者が葬儀その他の、死者の身辺整理をすることになる。上に述べたようにその身辺整理ないし後始末は、残された家族の生活の確保から始まって、遺産の処分やもしあれば借金の返済など場合によっては膨大な量の残務整理の仕事を含むであろう。人の人生は多種多様だから、中には隠し子や隠し女が居ることもあるだろう。この場合の後始末には、遺産相続の問題とこれら関係者の生活が成り立つように出来るだけの配慮をすることが含まれるであろう。だからこれから死を迎えようとする人々は誰でも、残された家族の人々や関係者が行わなければならない死後の後始末の仕事が、出来るだけ単純で簡単に終わるものであってほしいと願うであろう。これらが高齢と共に必要となる 「 身辺整理 」 の第一の理由であると思う。
 人間誰でも生きている間はもちろん、死後についても面子をたてたがり、格好を付けたがるものだ。素敵な人生を送った人という記憶を多くの人々に残して死にたいと願うものだ。しかし人の人生というものは、多くの場合可もなく不可もない平凡な人生が圧倒的に多い。中には素敵な業績を積み重ねた人生もあるだろう。しかし恥の多い、場合のよっては嫌悪すべき部分のない人生を全うした人というのはむしろ極めて稀であろうと思う。だから多くの人は自分の人生のネガティブな部分の痕跡を消してしまって死にたいと願望する。 「 人生のネガティブな部分の痕跡 」 は日記や個人的な記録などに記録されているであろう。だから多くの人はこれら個人的な記録を死ぬ前に始末した切望する。しかし、日記は本来自分以外の誰かが読むことを前提としない記録だと思うが、作家などの有名人の日記が出版される例も多数あるのでそう簡単な問題ではないらしい。
 遺産相続を巡って遺族の間で深刻な揉め事が生じているという話はよく聞く。遺産の処分については、生前に遺言書などの形式で処分の内容を明確にしておくのが望ましいであろう。僕には僕が今住んでいる家と土地以外、目立った財産はほとんどない。バイオリンと弓が財産といえば財産であるかも知れない。そのほかは若干の預金と死亡保険金があるだけだ。子供は結婚して長野に住んでいる娘と、仙台にいる息子の二人だけだから、特に財産相続で姉弟が揉めることもなかろうとタカをくくっている。そして有難いことに僕には隠し女は居ないし、隠し子も居ないからそのための後始末は全く必要ない。だからなのか、もともとグータラな性格だからなのか分らないが、遺言書を本気で書こうという気がなかなか起らない。結局時間切れで死を迎えることになり相な気がする。


「身辺整理」 の内容

 すでに述べたように僕は、日本人男子の平均寿命 79.64 歳を超えて 81 歳になったし、家内も 74 歳になった。家内の年齢が日本人女子の平均年齢 86.39 歳を超えるまでにはあと 12 年ほどもある。しかしひょんな事から家内の脳に 「 未破裂脳動脈瘤 」 が見つかって現在経過観察中だ。僕は 5 年ほど前に脳梗塞を発症したし、去年暮れにはバスに乗り損ねて転び、左大腿骨頸部を骨折して入院・手術をして憂鬱な年末年始を過ごした。長野に嫁いだ娘の夫はプロの音楽家 ( バイオリン奏者 ) だか、昨年末に脳出血を起こして緊急手術をした。昨年からあれやこれやの出来事が矢継ぎ早に次々に起こり、家内と話し合ってそろそろ 「 身辺整理 」 を実行し始めようということになった。
 「 高齢になって必要な身辺整理 」 には、

@ 既に実行し終ったものから始って、
A 実行中ないし実行しなければならない身辺整理、

そして、本来当人が実行することは出来なくて

B 本人の死後誰かにやって貰わなければならない身辺整理がある

と思っている。これら身辺整理の全てを順繰りに考えていきたい。念のため表題に続くカッコの中に上記の @、A、B の数字を添えたい。


家庭菜園 ( @ )

 家庭菜園を何時始めたか、正確には思い出せない古い話だ。僕らが現在の桜ヶ丘団地に移り住んだのは昭和 43 年で、当時は別の名前の町であった。まだ仙台市が政令都市になっていない時期で、仙台市の北のはずれの新興団地だった。桜ヶ丘団地に移り住んだ年の翌年カナダのウインザー大学 (3) に出張して 2 年後の昭和 46 年に帰国したが、その後間もなく近所の農家が始めた家庭菜園を借りることになったと思う。その家庭菜園を借りた第一号のお客さんであった。だから多分昭和 48 年( 1973 年)頃から家庭菜園を楽しんでいたことになる。地主の広い農地を約 10 坪単位に小分けして 2 列に並べその真ん中に 1 m 幅くらいの通路がある構造で、僕の借りた菜園はその一番ハズレに位置していた。そのために 10 坪をはみ出した余計な三角形部分が付いていて,一区画 10 坪の面積より 5 割以上広いという土地であった。地主はその土地を 10 坪単位の区画と同じ値段で借してくれた。我が家の菜園の隣には、地主とは違うプロの農家の畑が広がっていて、僕らはこのプロのお百姓さん夫婦とすぐに仲良くなって、農作物栽培のことを随分色々と教わった。その結果例えば大根作りはプロ級の栽培技能を獲得したと思っている。毎年 100 本前後の立派な大根を収穫したりして大いに楽しんだ。
 僕が脳梗塞を発症して家庭菜園をエンジョイ出来なくなって以来、我が家の家庭菜園の維持管理は家内だけの仕事になってしまった。そして去年の平成 23 年 3 月、そろそろ家庭菜園の維持管理も家内の体力の限界に達したと判断して、地主に借用していた菜園を返納した。思えばほぼ 40 年間にわたって楽しませてもらった家庭菜園であった。

洋裁教室 ( @ )

 家内は結婚以前から洋裁には関心を持っていたと思う。子供が生まれて、娘と息子が着る衣類はすべて家内が見よう見まねで手作りしたものであったと記憶している。そしていずれは洋裁を本格的に習いたいと願っていたと思う。そしていつ頃だったかはっきりしないが、本格的な洋裁教室に通って正規の洋裁教育を受けることになった。洋裁教室は毎週火曜日朝から夕方まで、若林区の市民センターで行われる。家内は毎週自家用車で片道 40 分ほどかけて熱心に洋裁教室に通った。洋裁教室に通うようになってから、家内の着用する衣類は全て、洋服からオーバーコートに至るまで、家内が自作したものを着用している。男物は自作しないが、娘の着る衣類も全て家内自作のものであった。娘は大学の音楽科で声楽を専攻し、ドイツに 5 年間ほど留学をして勉強をした声楽家だが、娘が舞台で着用する演奏会用ドレスも家内が自作した。
 家内は何時の頃からか糖尿病の持病を持つようになって、かなり長い間治療を継続している。比較的最近たまたま主治医が糖尿病の薬の種類を変更した。その時期と家内の体調が不調になった時期とが重なった。それで家内は主治医にその因果関係を尋ねたところ、脳の精密検査を行うようアドバイスを受けた。そして脳の精密検査を行なったところ、家内の脳の中に「未破裂脳動脈瘤 (4) が発見されたのである。精密検査を行なった病院は、東北大学病院と関係の深い広南病院 (5) である。広南病院の医師は 『 もし破裂すれば 「 くも膜下出血 」 で深刻な事態になる可能性が高い 』 と言う。さらにかなりの量の資料を渡してくれて、未破裂が破裂になる可能性が何 % 、それが死に至る可能性が何 % 、治癒する可能性が何 % 、後遺症が残る可能性が何 % 、等などあらゆる選択肢をかなり丁寧に説明した上で、どのような治療法ないし選択肢が望ましいかを家族を含む患者に選択してもらうのが本病院の基本方針であるという。そんなこと言われても、素人の我々にはどうしようもない。家内と色々話し合い、医者との会話から医者が言外に言わんとしていることや、はっきり言わない医者の治療方針などを推量 ( 邪推? ) したりして、当面は経過観察をするという結論に達し、その旨を医者に伝えた。数ヶ月毎に経過観察のための診察を受けることにしている。
 毎週車の運転を往復2時間近くするのは避けたほうが良いし、洋裁教室で習得した技量もかなり高度なレベルに達したと思われるので、この際洋裁教室は辞めにするというのが家内の決断だった。しかし家内は洋裁教室を辞めるのであって洋裁そのものを辞めるつもりは無いらしい。日常生活では、相変わらずミシンの前に座って何かを縫っていることが多い。以上が僕の、というよりは、家内の 「 身辺整理 」 の一つである。

庭の整理 ( @ )

 狭い我が家の庭は、まさに密林状態であった。家内は山野草木が大好きで、自分で採取したり購入したり、あるいは人から貰ったりした山野草木を庭に次々と植えて育ててきた結果である。結婚して間もない頃、今は故人の東北大学教養部経済学科の S 教授は仙台バラ会 (6) の会長で、同時に多種類の山野草木を収集育成していた。どういうわけか物理学科の僕はこの経済学科の S 教授に可愛がられて、バラや多数の山野草木の苗を頂いた。その後 S 教授に会うと何時も 「 バラの花は今どういう状態か? 」 と聞かれるので、僕は仕方なくバラの世話を続け、一時は 10 種類以上のバラ 30 本以上を育てたりした。何年かするうちにバラに病気が発生し、バラ栽培を続けるためには庭の土を全て入れ替えなければならないという大変なことになってしまった。仕方がないのでバラ栽培は中止してしまったのである。しかし、これが我が家の庭の密林化のスタートになったと思う。同時に大小様々の鉢が増え出し、庭はだんだん足の踏み場もない状態になってきていた。
 庭木の維持・管理は、家内と、家内の命令によって僕とが行なってきた。しかし年齢とともにそれも難しくなり、年に一度シニア人材センターから派遣される半プロの造園庭師に庭の維持・管理を依頼するようになっていた。完全プロの造園師と違って不満の多い仕事ぶりではあったが、仕方がなかった。庭の荒れが目立つようになった家は、大抵家主が健康上問題があるなど問題を抱えている例が多い。
 というわけで庭の整理をすることにした。整理の方針は、梅などの大木は伐採して、根も取り除く。金木犀、ライラック、蝋梅、ドウダン、ツツジなど、ごく少数の樹木を残して必要ならそれらを庭の中で再配置する、などとした。現在住んでいる家を建てた工務店を経由して造園屋を紹介してもらい、同時に東日本大震災の後なので震災後の家の安全チェックもお願いした。この工務店では前店主の息子さんが社長となっていたが、引継ぎが誠にスムーズに行われていて、全く不安がなかった。紹介してくれた造園屋さんは現在住んでいる家を新築した時に来ていた造園屋さんで、話がスムーズに進んだ。また居間から庭に張り出したウッドデッキも取り替えてもらった。
 すべての工事が終わった我が家の庭は、見違えるほどすっきりと綺麗になった。

蔵書類 ( A )

 書籍の整理はかなり前から心がけていた。東北大学停年の時には、東北大学最後の日まで多忙を極めた日々を送っていたので研究室に所蔵していた書籍類は全て機械的に荷造して、新設の青森公立大学 (7) に送った。青森公立大学は当時開学 3 年目の新しい大学で、僕はその創立のお手伝いを数年前からしていた。そして東北大学の停年退職後は青森公立大学教授に就任することになっていたからである。青森公立大学には 3 年間在籍してその後八戸工業大学に移ったが、その時かなりの量の書籍と物理学及び情報科学関連の学術雑誌類を青森公立大学図書館に寄付した。八戸工業大学を退職して仙台に戻るときにも、やはりかなりの量の単行本と学術雑誌類を八戸工業大学図書館に寄付してきた。だから現在僕が仙台の家に持っている蔵書類の数は知れているし、整理・処分に特別な手間はかからないものと思う。
 蔵書類の整理の中で唯一問題なのは日記である。僕は若い頃、正確に言うと旧制弘前高等学校 (8) に入学した時 ( 昭和 23 年 ) から家内と 1962 年 ( 昭和 37 年) に結婚するまでの 14 年間、実に丹念に日記を書いた。それは大学ノート五十数冊に及ぶ膨大な量だ。そしてどういう訳かその後日記を書く習慣は全く失ってしまって現在に至っている。この時期に日記を書かなくなった特別な理由があったとは思えない。 「 こうこうこう言う理由で僕は日記を書かないことにする 」 と特別に決意した記憶は全くない。特別な理由があったわけではなく、なんとなく日記を書かなくなってしまったのである。そしてこの期間の日記だけは厳然として存在しているのである。繰り返しになるが、僕の日記は僕が弘前高等学校に入学した 17 歳の時から 31 歳で家内と結婚した時までの僕の人生の 14 年間の記録である。この時期は、僕が希望に溢れて旧制弘前高等学校に入学し過ごした 1 年間から始まって、その後の学制改革 (9) の影響を受けて進学の希望が満たされなかった 6 年間の辛い浪人 ( 代用教員 ) 生活時代を含む。そしてその後の埼玉大学における大学生活を経て、物理学の勉強を続けるために、やはり希望に溢れて仙台に移って東北大学の大学院生となった。そして大学院博士課程に在籍したまま 31 歳の秋に結婚したのである。人生に絶望して結婚する訳が無い。僕は学者生活に憧れて、僕の人生を全面的に肯定して結婚生活に入ったと思う。僕の日記は、言ってみれば人生の中で最も感受性の強い時期に書かれた僕の記録である。しかし今日記を読み返してみると、日記の中身は、論理も思想も全く無い他愛ない感想文みたいなことの羅列であってうんざりする。時間があれば日記帳を開いて何でも書きなぐっていた記憶がある。とにかく恥多い青春の記録ではある。必ず処分してから死ぬべきものであるが、もう一度何を書いてあるか確認してから破棄しても遅くはないと思っている。いつまでもぐずぐずして時間切れにならないようにしなければなるまい。

バイオリンと弓 ( A、B )

 僕はバイオリンの師夏目純一 (10) 氏の形見として、イタリアのオールドバイオリン S ・セラフィン ( 1710 年製 ) とフランス製の銘弓 A ・ラミーを譲り受け、愛用している。鑑定書こそ無いが、本来ならとんでもなく高価な楽器と弓である。その他やはりイタリア製のバイオリンの B ・カルカニウス ( 1736 年製 ) と F ・ジュゼッペ ( 1807年製 )、それにドイツの楽器メーカーのハンミッヒの職人が名器アマティをモデルにして制作したバイオリンを含め、合計 4 台のバイオリンを持っている。これらは全て夏目純一氏経由で手に入れたものである。それに加えて、僕自身が購入したイギリスの楽器商ヒル商会が製作した弓もある。
 僕の娘は宮城女子大学 (11) 音楽科で声楽を専攻し、大学卒業後ドイツのフライブルグ大学に 5 年間ほど留学した。その当時長野出身でやはりドイツに留学していたバイオリン弾きの青年と知り合って結婚し、現在長野市に住んでいる。娘婿はセラフィンとラミーに非常に強い関心を持っているので、4 台のバイオリンと 2 本の弓は娘婿が中心になって娘婿と息子の間で、例えばセラフィンと 2 本の弓は娘婿に、残りの 3 台のバイオリンは息子に、という具合に分配するのが良いと思っている。息子はバイオリンを 3 台持っていてもしょうがないから、売却処分すれば良いだろう。多分娘婿が相談に乗ってくれるはずだ。

土地と家の整理または相続 ( A、B )

 そのほかの僕の財産は、現在住んでいる土地・家屋である。相続人は娘と息子の二人と家内である。基本的には僕らの死後、姉弟二人で相談して土地と家屋を相続すればよい、と思っている。ただ僕としては、僕と家内のどちらが先立つか分からないが、僕が先に死んだ場合、その後の家内の生活が保証されることを切望するだけだ。だから僕が死んだ場合の生命保険などの保険金の相続は、娘と息子には相続権を放棄してもらいたいと思っている。それさえ確保されれば、僕の責任から離れて娘や息子に相続された土地・家屋等が転売されようが人手に渡ろうが、僕は一向に構わないと思っている。相続する財産が多い場合は相続税を払わなければならない。しかし僕の持っている財産は間違いなく遺産相続控除の範囲内だろうから、息子も娘も相続税を払う必要はないだろう。

お墓の問題 ( A、B )

 奈良家代々の菩提寺は、現在の秋田県大仙市角間川にある浄土宗浄蓮寺 (12) であり、お墓もこのお寺の構内にある。墓地は本堂のすぐ後に位置する非常に広い土地である。往年の奈良家の繁栄を彷彿とさせる墓地である。父が亡くなったあとこの墓地には数十基のお墓が雑然と並んでいた。母は父のお墓を建立したいと望んだが大家族の生活と子どもの教育を優先せざるを得ず、随分遅れて昭和 45 年頃すべてのお墓を統合して「奈良家累代之墓」を建立した。墓地整理の費用は兄弟全員が拠出した。浄蓮寺のたっての希望で、浄蓮寺に寄進の多かった先祖の墓 4 基を残して、立派で大きな 「 奈良家累代之墓 」 を中心に合計 5 基のお墓が奈良家の墓地に建っている。このお墓に父、母はもちろん、結婚せずに亡くなった二人の姉、亡くなった兄嫁が眠っている。僕のすぐ上の兄とすぐ下の弟は既に故人だが、二人とも葉山沖の太平洋に散骨して角間川の墓地には眠っていない。
 家内と僕は始め秋田の 「 奈良家累代之墓 」 とは別に奈良久家の墓を仙台に作ろうとして、仙台市が運営する葛岡墓地 (13) のお墓一区画をお墓を建てずに借用していた。しかし高齢になって僕も家内も角間川の 「奈良家累代之墓」 に入るのも悪くはないと考えるようになり、葛岡の墓地は仙台市に返納してしまった。つまり僕らは二人とも角間川の先祖代々のお墓に入ることにしたいと決心したのである。
 お墓の面倒を誰が見るかという問題がある。僕は毎年母の命日とお盆の時の少なくとも二回角間川の浄蓮寺に詣っている。現在次男の兄が秋田市に住んでいて、浄蓮寺に対して奈良家の代表役を務めている。兄に何か異変が起ったとしても、僕が元気なうちは奈良家の代表役を引き受けてお墓の世話をすることには何の問題もない。兄は、本心では釧路在住の長男の息子に奈良家の墓守を継いでもらいたいと希望している。しかし、長男の息子は父親 (つまりわれわれの長男) のお骨を釧路の菩提寺である大成寺 (14) の骨堂に祀っていて、将来とも遠隔地の秋田角間川の浄蓮寺に納めるつもりはないらしい。僕が父親の権利を振りかざして僕の息子に角間川のお墓の墓守を命令するということもあり得るが、僕としては気が進まない。基本的には、僕らの死後息子の判断に委ねられるべき問題と思う。


戒名(15)の問題 ( A、B )

 日本の仏教徒の習慣では、人が死ぬとお寺から戒名ないし法名を戴く。実質無宗教者に近い僕にとって戒名または法名の定義は難しくてよく分からないが、現代の日本では各宗派独自に法要や儀式を受けたり、ある一定の講習に参加したりした人に対しても授けるようになっている。また、故人に対しても 「戒名」 を授けることが慣習化され、生前の俗名に対する死者の名前であると考えられている面もある。お寺から戒名を頂くときには戒名料を払わなければならない。院号を付けたり、有難い戒名にしたりすると料金は高い。多分百万円単位の値段は普通ではないかも知れないが、そう驚く値段ではないだろう。要するに値段があって無いような、現代経済社会では有り得ないような存在である。僕自身は死んでからの戒名は要らないと思っている。生きている内も死んでからも 「 奈良久 」 で何の不都合もないと思っている。家内も多分同じように考えていると思う。これは娘や息子にはっきり伝えておかねばならないだろう。

遺言書 ( A、B )

 適当なときに、法的に有効な 「 遺言書 」 は書き残しておいたほうが良いとは思っている。しかし肉筆・自筆であること、記載日付けを明記し署名捺印するなどのルールがあり、気楽にすぐ書いておくという種類の書類ではないような気がする。しかも僕の 「 身辺整理 」 は比較的単純で、遺産相続などで揉めることはないのではないかと思っているから、遺言書を書く気分にはなかなかなれない。しかし、法的に有効な遺言書という形式かどうかはいざ知らず、僕の死後の残務整理についての僕の意思は可能ならば娘と息子には伝えておきたいと思う。そうは思うが、のんべんぐーたらと毎日を過ごしているばかりで、具体的な行動は先延ばし状態である。残念ながら当分この状態は続きそうな気がする。


死後誰かにやって貰わなければならない 「 身辺整理 」 ( B )

 僕の 「 身辺整理 」 は実行可能なものと、本質的に実行不可能なものとがある。残される者への配慮から、実行可能な身辺整理は全てやっておくのが良いと思っている。しかし実行不可能な身辺整理は残される者にやって貰わなければならない。それはこの世を去る者と、残される者との間の信頼関係によるものであろう。だからここで述べることは、可能ならこうあって欲しいという僕の願望である。すべては、残された者が死者の遺志を斟酌して行うものと思うからである。

葬儀(B)

 僕が死んだら、その通知は最小限の親しかった人々だけにして欲しい。新聞紙上などの死亡広告はもっての外である。そして葬儀は桜ヶ丘の自宅などで ( 大きな葬儀場ではなく ) 、家族葬または密葬などのささやかな形式で営んで欲しい。葬儀をやらない人、形式的に葬儀を行う人、大きな会場で盛大な葬儀を行う人、大々的な 「 送る会 」 をする人、等など様々だが、ぼくは親しかった人々だけによるささやかな葬儀を希望したい。香典などは、少なくとも一部はしかるべきところに寄付して欲しい。
 親しかった外国の友人にも知らせて欲しい。しかし多くの友人は既に鬼籍に入っていて、現在生きている友人で知らせてほしい人は、カナダの M ・シュレージンガー夫妻と、同じくカナダのリン未亡人、それにイギリスの M ・ J ・クーパー夫妻くらいであろう。英語で通知しなければならないが、簡単な通知で勘弁してもらうより仕方がない。娘と息子が何とかしてくれるだろう。  年賀状を交換してきた人々には適当なときに通知をして欲しい。その人数は比較的多いが、住所録から拾って通知して欲しい。
 僕の親しい友人のお父さんが亡くなった時、その友人は故人の意志に従って、故人の遺体を医学教育のために東北大学に献体した。僕も家内も医学教育の重要性は認めるが、そのために僕らの遺体を献体する意志はない。また後期高齢者の臓器が役に立つとも思えないが、僕らの臓器を他人に移植するために提供する意志もない。さっさと火葬して遺骨を角間川の奈良家の墓に葬ってくれればよい。

その他 ( B )

 僕も家内も、何時どのような原因で亡くなるのか全く分からない。「 ピンピンコロリ 」 、すなわち死ぬ直前までピンピンと健康で過ごし、コロリと死にたいものだと心から願っている。しかし願い通りにはいかなくて、何かの重大な病気で死ぬこともあり得る。家内と話し合ったことだが、病気で病院に入院した場合、僕も家内もいわゆる 「 延命治療 」 (16) は拒否したいと思う。延命治療とは、疾病の根治ではなく延命を目的とした治療のことである。延命治療の種類としては、人工呼吸、人工栄養、人工透析などがある。人工呼吸は脳死などの昏睡状態で黙っておけば呼吸が停止する状態のとき行われる。人工栄養は、経鼻胃菅を挿入して栄養を注入する胃瘻(胃ろう)と、中心静脈カテーテルを挿入して血液中に直接栄養を注入する場合がある。そして人工透析は腎機能が低下して何もしなければ尿毒症を起こす状態の腎不全の時に行われる。要するに病気そのものを治す医学的手段が無いのに、命だけを永らえようという目的のために行う治療法である。非常に不自然な、自然の摂理に反した、言い換えれば神様の意思に反し、人間の尊厳を無視した治療法であると思う。僕も家内もこのような延命治療を受けて生き続けたいとは思わない。延命治療以外の治療法が無い場合は、僕も家内も従容として死を選びたいと思う。ただし、痛みの苦痛だけは是非除いて欲しいし、少なくとも軽減する治療だけは行なって欲しい。そして僕らの延命治療に対する意思を、娘も息子も必ず尊重して欲しいと思う。
 小さいことかもしれないが、死後最初に訪れる 3 月 15 日には確定申告の書類を出さなければならない。この書類の準備にはなかなかの労力を必要とする。特に大変なのは医療控除のための書類準備である。1 年分の医療費の領収書を集めて一覧表を作り、各項目の通し番号と領収書の通し番号を対応させなければならない。最近では 1 年間の領収書の数が百数十枚になり、1.5 センチ程度の厚さになる。この煩雑な作業も残されたものの誰かがやらねばならないだろう。税金をきちんと収めるのは国民の義務だが、できれば税金が安いに越したことはない。何十年も確定申告を続けているが、残念ながら確定申告をして税金が戻ってきたことはただの一度もない。
 僕は、コンピュータが今のように普及し始める前から、コンピュータのヘビーユーザであった。僕の年代では最もコンピュータに慣れ親しんでいる部類に属すると思う。本稿もコンピュータを使って作っているし、日常的にメールやインターネットを使いこなしている。そしてそれらのすべての情報はコンピュータ上に記憶されている。「 河太郎 」 の原稿、メールでやり取りした記録、収集した音楽の楽譜類、雑メモ類、等々である。これらのファイルに僕は特別のガードをしていない。誰でも僕のコンピュータにアクセス出来れば、容易に内容を知る事ができる。これらの資料の処理は、娘と息子に任せたい。遺言書はいずれ法的に有効な形で完成しておきたいとは考えているが、時間切れになる可能性が高い。その場合は、法的には有効ではないが、コンピュータに保存されている資料から僕の遺志を推量してもらって、僕が希望するように身辺整理ないし事後処理を行ってほしいと願っている。


あとがき

 人間誰でも何時かは必ず死ぬ。これは例外のない絶対的な法則だ。すべての人間に適用される絶対平等性の法則と言っても良い。その法則のもとに人間は生まれ、限られた年月の人生を生きて、そして死んでいく。人間の人生は単独では形成されないし存在し得ない。人生は家族や周囲の人々との関係の中で、つまり自分と自分を取り巻く社会との間の相互作用の中で形成されていくものだと思う。親、子、孫の人生の繋がりが家族の歴史や伝統に繋がるものであろうし、強いては地域性や文化、国民性に繋がるだろう。そして大げさに言うと人類の歴史や文化にも繋がるものであろう。
 ここでは我々が人生の終焉に近づいた時に、なすべき身辺整理について考えてきた。人間の文化は、誰かが死んだ場合、その死と完全に無関係に形成されたてきたものではない。多くの人が生きた人生の些細な共通点の集積が人間の文化を形成してきたのだ。しかし現在を生きている個々の人の人生が、そのような大きな流れの中で捉えられる事は稀であろう。本稿を読み返してみて、出来の悪い遺言書の下書きのような印象を受けてしまう。残される人々の 「 身辺整理 」 や 「 残務整理 」 が少しでも単純・簡単に済むように、生前に出来る事はすべてやってしまい、遺言書の下書きを最終の 「 遺言書 」 に仕上げて死に就きたいものだと心から願っている。

参考文献

(1) 厚生労働省
     http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/01.html
(2) 齋藤茂吉 「老いへの身辺整理」 新講社 2011年
     http://www.shinkosha-jp.com/details.jsp?goods_id=2582
(3) ウインザー大学
     http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Windsor
(4) 未破裂脳動脈瘤
     http://www.aok.bias.ne.jp/~nakagomi/miharetu.html
(5) 広南病院
     http://www.kohnan-sendai.or.jp/
(6) 仙台バラ会
     ttp://huttoserapi-s.blog.so-net.n e.jp/archive/c2300596670-1
(7) 青森公立大学
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E5%85%AC%E7%
     AB%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6
(8) 弘前高等学校(旧制)
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E9%AB%98%E7%AD%89
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(9) 学制改革
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E9%AB%98%E7%AD%89
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(10) 夏目純一
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E7%B4%94%E4%B8%80
(11) 宮城女子大学
     http://www.mgu.ac.jp/#
(12) 浄蓮寺
     http://p05.everytown.info/p05/446/0187652361/mob.html
(13) 葛岡墓地
     http://www.e-ohaka.com/detail/id1201654940-139530.html
(14) 大成寺
     http://daijyoji.sakura.ne.jp
(15) 戒名
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%90%8D
(16) 延命治療
     http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-ieaddons&p=%E5%BB%B6%E5
     %91%BD%E6%B2%BB%E7%99%82&ei=UTF-8

Updated 30 October , 2019