Kataro ホームページ 「 河太郎 」 30 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 7 月 1 日

論語を読む ( 一 )

長谷川 隆次

  ( 訓 )  子曰く 学んで時に之を習う 亦悦ばしからずや ともあり 遠方より来る 
     亦楽しからずや 人知らずしていきどおらず 亦君子はらずや  ( 学而第一 ― )
  ( 新 )  子曰く  ( 礼を ) 学んで 時をきめて温習会をひらくのは こんな楽しい
     ことはない 朋が遠方からたずねて来てくれるのは こんなうれしいことはな
     い 人が ( 自分を ) 知らないでもうっぷんを抱かない そうゆう人に私はな
     りたい ( 宮崎定市 )

  「 論語 」 の冒頭の一章です。この言葉は 「 小論語 」 「 孔子自伝 」と云われています。亦孔子自身述べた、あまりにも有名な簡単な自叙伝

  ( 訓 )  子曰く 吾十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五
     十にして天命を知り 六十にして耳順う 七十にして心の欲する所に従って
     のりを踰えず ( 為政第二 20 )
  ( 新 )  子曰く私は 15 才で学問の道に入る決心をし  30 才で自信を得  40 才で
     こわいものがなくなり  50 才で人間の力の限界を知り  60 才になると何を
     聞いても本気で腹をたてることがなくなり  70 才になると何をやっても努め
     ずして度を過ごすことがなくなった ( 宮崎定市 )

 この様に孔子は生涯学びつづけた 「 生涯学習 」 を志した人でした。そして亦学ばないで思索、考察したりする事は無益な事とした。

  ( 訓 )  子曰く吾れ嘗って終日飯わず 終夜寝れずして 以て思うも益なし 学ぶに
     如かざるなり ( 霊公第十五 30 )
  ( 新 )  子曰く私は若い時 一日中食うことを忘れ 一晩中寝ることをやめて 思索
     に耽ったが結局得るとことがなかった そして実事の中に学問がある事を悟っ
     た ( 宮崎定市 )

亦こうも言っている。

  ( 訓 )  子曰く学んで思わざれば則ちくらし 思って学ばざれば則ち殆うし ( 為政第二 31 )
  ( 新 )  子曰く教わるばかりで自から思索しなければ独創がない 自分で考案するだ
     けで教えを仰ぐことをしなければ大きな陥し穴にはまる ( 宮崎定市 )

 教育とは人類が進歩して来た今の状態まで後につづく者を引き上げてやる事です。いくら科学が進歩した現在でも生まれた子供は千年前に生まれた子供と差がある訳ではないはずです。人間の差異は教育の差であり人種の差ではなく、教育によって善とも悪ともなるのであって、人間の種類に善、悪があるわけではない。

  ( 訓 )  子曰く 教有りて類無し ( 衛霊公第十五 38 )

 これは孔子は人間は能力、資質すべて無差別で平等だと言ったという事ではありません。
  「 論語 」 には能力平等主義の思想は全くありません。人間は同じではないが、似たりよったりで人間の天性は同じ様なものだが、善に習えは善となり、悪に習えは悪になる。

  ( 訓 )  子曰く 性相い近く 習い相い遠し ( 陽貨第十七 2 )
  ( 新 )  子曰く生まれつきは互に似たものだが、習慣によって人間がすっかり変わっ
     てくる ( 宮崎定市 )

 孔子は学ぼうとする者には誰彼差別なく教えようとした。

  ( 訓 )  互郷は互に言い難し 童子に見えんとす 門人惑う 子曰く其の進むことにくみし 
     其の退くを与さざるならば 唯何ぞはなはだしきや 人己を潔く
     して以て 進まば其の潔きを与せん 其の往を保せざるなり ( 述而第七 28 )
  ( 新 )  互郷という邑は人気の悪いことで有名で誰からも相手にされなかった。その
     邑の少年が孔子に入門のため面会を求めて来た。門人たちはその扱いに当惑し
     た。子曰く 面会を認めたからには、何時までも門下に引きとめておかねばな
     らぬものだというならそれはあまりに取越苦労というものだ。たとえば、人が
     着物を着かえてやって来たなら、そのこざっぱりした点を認めてやらねばなら
     ぬのと同じだ。今まで何をやっていたか、その本質が何であるかを一々聞きた
     だすには及ばない ( 宮崎定市 )

 リアリスト孔子は人間全員資質能力平等とは考えていない。人間には 「 才、不才 」 があるとした。

  ( 訓 )  顔淵がんえん死す 顔路 子の車を請いて以てこれが椁をつくらんとす 子曰く 才も
     不才も 亦各々其の子を言うなり や死せしとき棺ありてがくなかりき吾徒行
     して以てこれが椁を為らず 吾は大夫のしりえに従うを以て徒行すべからざれば
     なり ( 先進第十一 7 )
  ( 新 )  顔淵が死んだ時、父の顔路は孔先生の車を貰って、それで外棺を造りたいと
     願った。子曰く才と不才の違いがあっても人は各々自分の子である。私の子の
     鯉が死んだ時、内棺だけあって外棺はなかった私が車をなくして歩行してまで
     子のために外棺を造らなかったのは私はこれでも大夫の位の末席につらなって
     いて大路を車に乗らず徒歩で往来するわけに行かなかったからだ
     ( 宮崎定市 )

 顔淵は ( 姓 ) 顔、 ( 名 ) 回、 ( 字 ) 子淵、孔子と同じ魯の人。若くして 41 才で死んだ。孔子より 30 才の年下であったが孔子の最も愛する弟子であった。 「 論語 」 には顔淵を称めた語や哀惜の言葉が沢山出て来ます。

  ( 訓 )  顔淵死す 噫、天 予をほろぼすか予を喪すか ( 先進第十一 00 )
  ( 新 )  顔淵が死んだ。子曰く ああ お天道さま 私を亡す気か 私が死んでしま
     ったも同然だ ( 宮崎定市 )
  ( 訓 )  顔淵死す 子これをこくしてどうす 従者曰く 子 慟せり 曰く慟あらんには 
     夫の人の為するに非ずして誰が為にせん ( 先進第十一 9 )
  ( 新 )  顔淵が死んだ。孔子が身体を投げだして泣きくずれた。従者曰く 先生 あ
     身体にさわります。曰く 何も云ってくれるな。あの人のことだけは泣けるだ
     け泣かせてくれ ( 宮崎定市 )
  ( 訓 )  顔淵死す門人厚くこれを葬らんと欲す 子曰く 不可なり 門人厚くこれを
     葬る 子曰く回や予を視ること猶父の如かりき予視ること猶子の如くするを得
     ず我に非ざるなり 夫の二三子なり ( 先進第十一 10 )
  ( 新 )  顔淵が死んだ。孔子の門人たちが派手な葬式を出したいと計った。子曰くそ
     れはいかぬ。門人たちはとうとう派手に式を行った。子曰く回はこの私を生み
     の父の様に慕っていた。ところがこの私は回を自分の子の様に取扱うことが出
     来ずにしまった。私自身のせいではない。誰やら余計なことをしたせいだ
     ( 宮崎定市 )

 孔子は孔子の道は顔淵に依って伝わるとした。 「 天 予を喪ぼす 」 と嘆じたり 「 哭して慟す 」 したのは顔淵を重んじたのではなく道を行ったのである。顔淵の父顔路が子の車を請うて椁を為ろうとしたのをしりぞけたり、門人が厚く葬ったのを責めたりしたのは顔淵を軽んじたのではなく、道を行ったのである。 「 論語 」 は二十扁 499 章で成り立っています。一章一章前後の関連はありませんが、この 「 顔淵死す 」 で三章も続くのは稀です。この三章続く前の章に 「 李康子問う弟子孰か学を学むと為す 孔子対えて曰く顔回なる者ありて学を好む不幸短命にして死す今や則ち亡し 」 ( 先進第十一 6 )  これと同じ文章がもう一ヶ所あります。

  ( 訓 )  哀公問う 弟子孰れか学を好むと為す 孔子対えて曰く顔回なる者あり学を
     好みたり 怒りを遷さず過ちをふたたびせす不幸短命にして死せり 今や則ち
     亡し未だ学を好む者あるを聞かざるなり ( 雍也第六 2 )
  ( 新 )  魯の哀公が尋ねた弟子の中で誰が学問好きですか孔子が対えて曰く顔回なる
     者があって好学でした自分の不愉快を人に感じさせません同じ過失を二度繰り
     返しませんでした。不幸にも短命で亡くなりました。それっきりです。それか
     ら後は学問好きという人についぞめぐりあえません ( 宮崎定市 )

 哀公は魯の君子 定公の子 孔子 59 才の時即位 李康子は魯の家老 李桓子の後をつぐ孔子の弟子。
 人間h誰でも過ちを犯すものです。顔回が正しい道を学び、過ちをしても其れを二度とすることがなかった事を孔子は高く評価しています。過ちを犯したと気づきながら改めない。本当の過ちとはその事を言うのだと言っています。

 物事の判断の過ち、決断の過ち、判定の過ち、評価の過ち等人間の過ちは数知れません。孔子はそのことを認めた上で過ちを犯すこと辞退を否定したり、とがめたりはしていません。問題は過ちを犯したと気づいた後の行動なのだと言う。

  ( 訓 )  子貢しこう曰く 君子の過ちや 日月の食の如し 過ちや人皆之を見る あらたむるや
     人皆之を仰ぐ ( 子張第十九 21 )
  ( 新 )  子貢曰く 諸君は過失を犯した時には日月の食のようにして貰いたい。過失
     があれば万人がそれに気づく。過失を改めた時はまた万人が皆其れに気づいて
     尊敬する ( 宮崎定市 )

  ( 訓 )  子曰く 人の過ちや 各々其の党に於いてす 過ちを観て 斯に仁を知る
     ( 里仁第四 7 )
  ( 新 )  人の過ちや各々癖がある。過失のありようで其の人物がわかる。
      ( 宮崎定市 )

  ( 訓 )  子曰く 己んねるかな 吾未だ能く其の過ちを見て撃ちに自から訟むる者を
     見ざるなり ( 公治長第五 26 )
  ( 新 )  子曰く つくづくいやになったね。自分の犯した過ちに気付いて自ら咎める
     人がどこにもいないではないか。 ( 宮崎定市 )

  ( 訓 )  子夏曰く 小人の過ちや 必ずかざる ( 陽価第十七 8 )
  ( 新 )  子夏曰く 諸君は万一過失をおかしたなら、決して言い訳してはならぬ
      ( 宮崎定市 )

 孔子はいかに過ちを重大視したか「 論語 」 は語ってくれます。それは過ちを犯すこと辞退を責めたのではなく、過ちを改めないことを罪としました。

  ( 訓 )  子曰く 君子重からざれば則ち威あらず 学べば個ならず 忠信を主とし 
     己にしかざる者を反とするなかれ 過ちては改むるにはばかることなか
      ( 学而第一 8 )
  ( 新 )  子曰く諸君は態度がおっちょこちょいであってはならない。人に軽蔑される
     からだ。学問をして片意地にならぬことを身につけるがよい。友人には誠心誠
     意で付きあい、そうすることに相応しくない者には友人にならぬがよい。過失
     はあっさりとあやまるべきに ( 宮崎定市 )

 人の上に建つものは態度、言動が重々しくどっしりとしていなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。
 よく 「 あいつは軽い 」 といいます。表面は激しく威勢がよく節操も堅く、者に屈しないように見せかけているが、内実は柔弱、主体性のない人間。これを細民に譬うると、この泥棒の様なものだ。
 子曰く色レイにして内くやわらかなるは諸れを昇任に譬うれば其れ猶穿せんユウの盗のごとし ( 陽貨第十七 12 )

  ( 訓 )  子曰く郷原は徳の賊なり ( 陽貨第十七 13 )
  ( 新 )  子曰く 誉められ者になろうとしている青年ほど鼻持ちならぬ偽者はない
     ( 宮崎定市 )

  「 郷原の語はえせ君子を意味するという。孟子は 「 言は行いを顧りみず 行いは言を顧りみず 斯の世に生まるれば斯の世を為すなり 善ければ斯れ可なり矣とし閹然えんぜんとして世に媚ぶるなる者は是れ郷原なり 」 と定義しています。これは 「 世の中から誉められ様としている者 」 さらに孟子はその特徴として 「 非難しようにも非難する点がなく、攻撃しようにも攻撃する点がない。世俗に迎合し汚世に旨く身を合わす 」 「これを非とせんに挙ぐべきなく これをそしらんにも刺るべきなし流俗に同じくし汚世に合す 」としています。 「 以て非なる者 」 えせ紳士の事をいう。何と今のバッチの付けた人にこの様な重からざる人が多いことか。
 呂新吾の 「 呻吟語 」 深沈厚なるは是れ第一等の資質、二等は 「 磊落豪雄 」 三等は 「 聡明才弁 」 とあります。説明するまでもないと思います。
 何ものにも屈しない 「 剛 」 忍耐力が強くて斯かん「 毅 」 質樸しつぼで飾りがない 「 木 」 口が利くことが下手で遅純ちど 「 訥 」 は仁そのものではないが仁に近い。
  ( 訓 )  子曰く剛毅木訥は仁に近し ( 子路第十三 27 )
  「 君子重かざれば則ち威あらず 学びや則ち固ならず ― 」 の章に関連すると思われる章を挙げてみましたがなぜかここの突然 「 過ちて則ち改むるにはばかる勿れ 」 が出てきます。亦 「 忠信を主とし 」 以下の句がそっくり 「 子罕第九 24 」 にそのまま出て来ます。是は孔子がよほど 「 過ちを改める 」 を重視した徳目だったからだと思います。
 人は誰でも過ちをする。過ちが悪と化すのは誤ったと知った時、或いは知りながら隠蔽したり、ごまかしたり、いいつくろったりするのが本当の過ちというものだと孔子は言う、我々の日欧を見てもたしかにそうである。

 孔子が最も愛し後継を願った顔淵は、論語に 19 回登場します。それを追ってみたいと思います。

  ( 訓 )  子曰く吾回と言う終日違わず愚なるが如し退いて其の私を省すれば亦以て発
     するに足る 回や愚ならず ( 為政第二 26 )
  ( 新 )  子曰く自分は顔回と会って話すか一日中、はいはいとばかり言っているから
     馬鹿かなと思う併し退出してから独りでいる時の様子を見ているとちゃんと此
     方の言ったことを理解していた事が解る。どうしてあれは馬鹿どころではない
      ( 宮崎定市 )

 これは顔回が入門してまもない時のことだろうとする。

  ( 訓 )  子曰く回や我を助くる者にあらざるなり 吾が言に於て説ばざる所なし
     ( 先進第十一 3 )
  ( 新 )  子曰く顔回は私の学問にプラスする事が出来ぬ男だ私のいう事にいちいち賛
     成してしまわれては ( 宮崎定市 )

 孔子が顔回を許した言葉です孔子が云った言葉に対し顔回は理解しないものはない。顔淵の頭脳と人柄を賞賛した章です。

  ( 訓 )  子 子貢に謂いて曰く女と回といずれがまされる こたえて曰く賜や何ぞ敢えて回を
     望まん 回や一を聞いて以て十を知る 賜や一を聞いて二を知るのみ 子曰く
     如かざるなり吾と女と与に如かざるなり ( 公治長第五 8 )
  ( 新 )  孔子が子貢に言ったお前と回とどちらが上か、対えて曰く回は私など到底及
     びもつかない男です。回は一を聞けば10を悟る男です。私は一を聞いて二を悟
     るだけです。子曰く 其の通りお前だけではない。私も及ばぬのだ
     ( 宮崎定市 )

 子貢しこうは ( 姓 ) たん、 ( 名 ) ( 字 ) 子貢 衛の人孔子より 31 才若い、従って顔回より一つ下。才子肌で弁舌に秀で魯の外交交渉に活躍。論語には 36 回登場する。

  ( 訓 )  子曰く回や其の心三月仁に違わず其の余は則ち日月に至るのみ ( 雍也第六 5 )
  ( 新 )  子曰く回は教えはじめてから三月するともう仁の徳に違う行為がない様にな
     った。その他の徳は一日一月で卒業してしまった。

 これは宮崎定市の読みです 「 其の余 」 とは他の弟子たちは一日間、あるいは一月間ぐらい仁の境地に到達できるにすぎたいという読み方もあります。

  ( 訓 )  子曰くこれを語りておこたらず者は其れ回なるか(子X第九 19 )
  ( 新 )  子曰く教わっている間緊張の態度を少しもくずさないのは回が一番だ ( 宮崎定市 )
  ( 訓 )  子顔淵を謂いて曰く惜しいかな吾は其の進玉を見たり未だ其の止まるを見ざ
     りき ( 子X第九 20 )
  ( 新 )  孔子が顔淵のことを憶い出して言った。全く惜しいことをした。たえず進歩
     を続けた男だった。行きづまった風を見せた事がなかったのに ( 宮崎定市 )

若くして死んだ最も信頼していた高弟顔回をほめ惜しんだ言葉です。

  ( 訓 )  子曰く回や其れちかいかな しばしばむなし賜や命を受けずして貨殖す 億れば
     則ちしばしば中る ( 先進第十一 18 )
  ( 新 )  子曰く回は年中貧乏暮らしという所、賜は命ぜられなくても金儲けに熱心だ
     彼の見通しは大てい的中する ( 宮崎定市 )

 回即ち顔淵は経済的手腕は全くなく学園に貢献することおろかいつも貧乏している。一方賜即ち子貢は学園の財政担当者であったらしい。
  ( 訓 )  子曰く賢なるかな回や一たんの食 一ひょうの飲 陋巷ろうこうにあり人は其の憂之にえず
     回や其の楽しみを改めず賢なるかな回や ( 雍也第六 9 )
  ( 新 )  子曰く顔回は頼母しい一碗の飯を食い水筒いっぱいの水を飲み路地の奥の長
     屋住まいだ他人なら不平だらけに暮らすところだが回は少しも気にかけずに至
     って楽しそうだ。あれは大した者だ ( 宮崎定市 )

 例え貧しくても、もし富んでもその楽しみを改めない所が 「 賢なるかな回や 」 と称賛される所以です。
  ( 訓 )  顔淵 李路侍す 子曰く蓋ぞ各々なんじの志を言わざる 子曰く願わくば
     車馬衣裘を朋友と共にしこれをやぶりてうらむなからん 顔淵曰く願わくば善
     に伐るなく労を施しすることなからん 子路曰く願わくば子の志を聞かん 
     子曰く老者はこれを安んじ 朋友はこれを信じ小者はこれを懐けん
      ( 公治長第五 25 )
  ( 新 )  顔淵 李路とが左右に侍っていた。子曰くどうだね、お前たちの日頃の志を
     言ってみては。子路曰く私は外出用の車馬、衣服、外套を友人に貸して使いつ
     ぶされても惜しいとは思わない様な交際をしたいと心掛けています。顔淵曰く
     私は驕って独りよがりにならぬ様に、少しの骨折りで恩を売ることのない様心
     掛けています。子路曰く 今度は先生の理想をお聞かせ下さい。子曰く老人た
     ちは不安をなくし同輩は互いに信じあい若者たちは出来るだけ面倒を見てやり
     たい。 ( 宮崎定市 )

 白川静はこの一章の孔子の言葉について言う。人間関係を律するものとしてこれ以上のものがあろうか。それは確信にみちた人のみがもつやさしさである。その羨ましい師弟の姿がわずか 60 字ほどの行間にあふれでている様だ。
 子路 ( 姓 ) ちゅう  ( 名 )   ( 字 )  子路 李氏に仕えて李路と呼ばれた。孔子より 9 才若い魯の人。無頼の輩の出身だが率直な人柄で愛される。 「 孔子学園 」 の塾頭。孔子が最も愛した弟子は恐らく子路ではなかろうか。孔子と子路の問答は論語の中で最も多く生き生きしており本当に先生に惚れこんで先生のためなら命もいらない。それだけ甘えて何でもズケズケ云っています。

  「 この様な人間を子路は見たことがない。???の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明??の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし孔子にあるものは、けっしてそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意の各から肉体的な諸能力に至るまで実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど過不足なく均衡のとれた豊かさは子路にとって正しく初めて見るところのものであった。闊達自在いささかの道学者臭もないのに子路は驚く。この人は苦労人だなと直ぐに子路は感じた。可笑しいことに子路の誇る武芸や力に於てさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。
 侠者子路は先ずこの点で度胆を抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験あるのかはないかと思われるぐらい、あらゆる人間への鋭い真理洞察がある。そういう一面から、また一方きわめて高く汚れのないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると子路はウーンと心の底から呻らずにはいられない。ともかく、この人は何処へ持って行っても大丈夫だし最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路は今まで会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中にあった。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少なくとも子路にはそう思えた 」

 中島敦の小説 「 弟子 」 の一部分です。

  ( 訓 )  顔淵 き然として嘆じて曰く これを仰げばいよいよ高く これをればいよいよ
     堅し これをれば前にあり忽焉こつえんとして後之しりこれにあり 夫子循循然として善く人
     をみちびく我を博むに文を以てし我を約するに礼を以てす罷めんと欲して能わず 
     既に吾が才をつくす 立つ所ありて卓爾たつじたるが如し これに従わんと欲すと雖
     きのみ ( 子牢第九 215 )
  ( 新 )  顔淵が思わず嘆息して言った。百語に仰げば仰ぐほどいよいよ く、きりでも
     めばもむほどいよいよ堅い事が分かる。目の前にあると思って前ばかり警戒し
     ていると、いつの間にか急に後の方から見てござる。というのはよく先生の場
     合にあてはまる。先生は盾々じゅんじゅん然としてひとつひとつ我々を指導され見聞を
     広めて知識を与え行動をルールに従わせて礼を教えられた。一方では苦労だが
     一方では楽しくてやめられない。とうとう力の限りの勉強をする様になった。
     先生はどこか高い場所に立ち、そこから何でも見渡せる様な気がするのだが、
     どこから其処に行けるか足がかりが見つからないでいる。 ( 宮崎定市 )

 孔子が最も愛し、孔子学園で最も嘱望された賢者顔淵の嘆きの言葉です。

  ( 訓 )  子匡に畏す 顔淵後る 子曰く 吾れなんじを以て死せりと為す曰く子存す 
     回何ぞ敢えて死せん ( 先進第十一 275 )
  ( 新 )  孔子が匡で災難に罹った顔淵がはぐれて姿を消しやっとのことで追いついた。
     子曰くお前はもう死んだのかと思っていた所だ。曰く先生が生きておいでにな
     る限り回はどんなことでもして生きています。 ( 宮崎定市 )
  「 子在ます 」 という顔淵の確信にみちた言葉先生が健在である以上私も死ぬわけにはいきませんの顔淵の信念、孔子の輔佐者としての責任が感じられます。しかし孔子が魯に帰った。翌々年顔回は死んだ。

  ( 訓 )  我に陳蔡に従しい者は皆門に及ばざりき 徳行には顔淵がんえん 閔子騫びんしけん 冉伯牛せんはくちゅう 
     仲弓ちゅうきゅう 言語には宰我さいが 子貢 政事には冉有李路 文学には子游 子夏 
      ( 先進第十一 2 )
  ( 新 )  子曰く陳蔡の間で難にあった時弟子たちは誰れ一人城門で追いついた者がな
     かった。徳行には顔淵 閔子騫 冉伯牛 仲牛 言語には冉我 子貢 政治に
     は 冉有  李路 文学には子游 子貢があった ( 宮崎定市 )

 この章の 「 門に及ばず 」 の解釈は色々に分かれています。門を仕進の門とする説すなわち仕官することなくと解釈する亦門を以て孔子の門とする朱子の説、今や死散して孔子の門に至る者がなくなった。宮崎定市は弟子たちが散り散りになって誰一人として孔子が城門に入る時追いつく者がいなかったと解釈した。
 徳行 言語 政事 文学を孔門四科といいここにあげられた 10 人の弟子即ち 顔淵 冉伯牛 閔子騫 仲弓 宰我 子貢 冉有 李路 子游 子夏を孔門十哲と呼ばれる。所が論語によく出てくる 曾参、子張、有若の名が出てこないのは 「 陳蔡に従う者 」 と限定したからでないかと思われます。第一の 「 徳行 」 とは道徳的な実践、第二の 「 言語 」 とは外交交渉など言葉使いの巧みなこと、 「 政事 」 は国家を治める事に達していること、 「 文学 」 とは学問、ことに文献についての学問。
 孔子は一時は故国魯の執政であったが政治に失望して魯を立ち去った BC 497 , 56 才以後 13 年間、弟子と達と共に諸国を遍歴、陳 は小さな諸侯の国です。この長い遍歴の終わりに近い頃に滞在しました。そして BC 484 69才でふたたび魯に帰ります。陳蔡での待遇は冷たいもので論語の中にも数章記載されていますが後に譲ります。
  「 徳行 」の顔淵については前に書いた、閔子騫は ( 姓 ) 閔  ( 名 ) 損  ( 字 ) 子騫 孔子より 15 才若い。寡黙な人。冉伯牛 ( 性 ) 冉 ( 名 ) 耕 ( 字 ) 伯牛 癩病と言われ孔子が見舞う。 「 伯牛病あり子これを問い より手を執り曰く之を亡わに命なるかな其の人にして其の疾あり其の人にして其の疾あらんとは ( 雍也第六 8)もう駄目か。なんという運命だこんな立派な人がこんや病気とは。孔子の嘆き身につまされます。伯中は論語にこの二箇所現れる。仲弓 ( 姓 ) 冉  ( 名 ) 雍  ( 字 ) 仲弓 弁は立たないが天子にもなれる器だと孔子は政治的才能を評価。
  「 言語 」 には宰我 ( 姓 ) 宰  ( 名 ) 予  ( 字 ) 子我 我門人中の問題弟子弁舌さわやかだが孔子には 「 予の不仁なるや 」 と酷評される。
  「 政事 」 冉有 ( 姓 ) 冉  ( 名 ) 求  ( 字 ) 子有 魯の人孔子より 29 才若い。温和だが消極的性格。行政手腕を買われて李氏の宰となり大軍をひきいて斉の大軍を撃破。顔淵は前に述べた。
  「 文学 」 子游 ( 姓 ) 言  ( 名 ) 堰  ( 字 ) 子游 孔子より 35 才若いといい亦 45 才下だったとも言う。
 子夏 ( 姓 ) ト  ( 名 ) 商  ( 字 ) 子夏 孔子より 44 才若い。学問にすぐれているが控え目。独自の学団を開き一派をなす。

 ここで亦中島敦著の 「 弟子 」 を引用させていただく。

 後年の孔子の長い放浪の難苦を通じて子路ほど欣然として従った者はない。それは孔子の弟子たることに依って仕官の途を求めようとするのでもなく亦滑稽なことに師の傍らに在って己の才徳を磨こうとするのでさえなかった。死に至るまでかわらなかった。極端に求むる所のない純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍らに引き留めたのである・・・。  孔子は孔子で、この弟子の際立った馴らし難さに驚いている。単に勇を好むとか柔を嫌うとかいうならば幾らでも類があるが、この弟子ほどものの形を軽蔑する男も珍しい。究極は精神に帰に帰すると言いじょう。礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに子路という男はその形から入っていくという筋道を容易に受けつけないのである。
  「 礼と云い礼と云う 玉帛ぎょくはくを云わんや 楽と云い 楽と云う 鉦鼓を云わんや ( 陽貨第十七 11 ) などというと大いに欣んで聞いているが曲礼の細則を説く段になるとにわに詰まらなそうな顔をする。形式主義への、この本能的忌避と闘ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけである。この厚みが日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。本があって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本を如何にして養うかについての実際的な考慮が足りないとて何時も孔子に叱られるのである。こういう弟子頭の下にさまざまな連中が孔子に従った。てきぱきした実務家冉有 温厚の長者 閔子騫 好きな故実家子夏 いささか詭弁的享受家 予 気骨稜々りょうりょうコウ概家の公良孺こうりょうじゅ 身長九尺六寸といわれる長人孔子の半分しかない短矮な愚直者子羔しこう 」 こういう人々と共に特徴のある 2 人がいた。 「 子路より 22 才も年下であったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子が何時も口を極めて賞める顔回よりも、むしろ子貢の方は子路を推したい気持ちであった。孔子からその強靱な生活力と、またその政治性とを抜き去った様な顔回という若者を子路はあまり好まない。それは決して嫉妬ではない ( 子貢 子張輩は、顔淵に対する師の桁外けたはずれれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしい ) 子路は年齢が違いすぎているし、それに元来そんなことに拘らぬ性であったから唯彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑み込めないのである。第一何処かバイタルな力の欠けているところが気に入らない。そこへいくと多少軽薄であっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が子路の性質には合うのである。
 この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べて未だ人間の出来ていないことは誰にも気付かれるところだがしかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝を喰わせることもあるが大体に於いて、後生畏るべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている 」
 この孔門十哲をはじめ論語に登場する弟子はほとんどが我々と同じ社会的責任を荷える人を養成しようとしたと云えますしこれが孔子の描いた理想です。
  ( 訓 )  顔淵仁を問う子曰く己に克ち礼に復えるを仁と為す 一日己に克ち礼に復え
     れば天下仁に帰す 仁を為すこと己に由る而して人に由らんや 顔淵曰く其の
     目を請いて問う 子曰く 礼に非ざれば聴く勿れ 礼に非ざれば視る勿れ 礼
     に非ざれば聴くなかれ 礼に非ざれば言う勿れ 礼に非ざれば動くこと勿れ 
     顔淵曰く 回不敏と雖も請う斯の語を事とせん ( 顔淵第十二 1 )
  ( 新 )  顔淵が仁とは何かとたずねた。子曰く私心を打ち勝ち、普遍的な礼の精神に
     立ちかえるのが仁だ。殊に主権者は一日だけでも私心に打ち克って礼に立ちか
     えるなら天下の人民はその一日中、その仁徳になびくものだ。仁は個人の心が
     けの問題だ。相手に依って変わるものではない。顔淵曰くもう少し詳しい説明
     を願います。子曰く 礼を違うことは見ようとするな。礼に違うことは耳を傾
     けるな。礼に違うことは口に出すな。礼に違うことには身を動かすな。顔淵曰
     く回には出来るかどうか分かりませんが仰ったとうり努めてみたいと思います
      ( 宮崎定市 )

  「 仁 」 を問うた弟子は沢山います。 講師の答えはそれぞれ異なっています。論語には 「 仁 」 説く章が 100 以上もあって、行使はくり返しくり返し 「 仁 」 を説いています。如何に 「 仁 」 を重要視し、採鉱の徳行であるとみなしています。顔淵は孔子学園で最も徳の高い弟子です。その最も高い弟子が最も高い徳行を質問したのに対し 「 克己複礼こっきふくれい 」 の四文字、朱子の新注によれば 「 克は勝つなり 己きはみずからの私欲を謂う 複はかえる 礼とは天理の節分なり 「 仁 」 を為すことはその心の徳を全うするなり 」 といっています。
 小さな自我をのりこえ、大地とともに生きる大きな自我に目覚めるのが 「 克己複礼 」 であると私は考えます。亦孔子は 「 非礼は見る勿れ 非礼は聴く勿れ 非礼は言う勿れ 非礼には動く勿れ 」 と答えています。徳の最も高い弟子が最も高い徳行を質問したのに対して視る、聴く、言う、行うという日常の行為に比例があってはいけないとごく当たり前の答えを出しています。これが論語です。

Updated 27 June , 2020