Kataro ホームページ 「 河太郎 」 31 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 9 月 1 日

臨死体験

角田 憲治



 臨死体験と言う言葉があてはまるのか自分にはよく分からないが、このような体験はそうざらにある事ではないようなので、記憶の新しいうちに ( 入院中に ) 書きとどめておこうと思う。
 平成十一年十一月の定期健康診断バリウム検査でクレームがつき、十二月に医師会病院で内視鏡検査をしてもらったら、胃を切除しなければならないものがあるとのご宣託である。市立釧路総合病院でもう一度内視鏡検査をして間違いないとのことで、外科にまわされた。手術の日程を決めたのが、暮れもおしせまった十二月二十九日であった。自覚症状もなく極めて健康な体にメスを入れることに気が滅入るお正月を過ごした。
 一月七日に入院して、いろいろな検査の上一月十一日午前 9 時頃に手術室へ運ばれて、胃の一部切除の手術が行われた。約二時間かかり胃の三分の二をとってしまったそうだが、家内と娘に示されたものは、肉塊で肉眼ではどれが腫瘍なのか判別できず、医師が液体をかけて変色した部分を指してここが腫瘍だと説明したそうだ。
 手術は順調に終わったかに思われ、個室に運ばれて自分のベッドで気がついたのは午後一時頃だったと思う。全身麻酔がきれてくる時なのに調子が良いようで、寒気もせず頭痛もなくよかったなあと自分自身で安心していた。うつらうつらと眠ったり覚めたり夢も見ずに妻の幸子に 「 今何時か 」 と何回も聞いた。手術中の失われた時間を確認したかったからなのか。しかし、明るい日差しの中で、時間はゆったりと流れて、自分の感覚とは違う時間を感じていた。
 その夜は妻の民生委員の新年会が予定されていたので、これに出ても良いぞと言うと、今夜だけは付き合うから断ったなどと余裕のある会話などで経過していった。
 午後五時に近い頃だったと思うが、急に汗が噴き出して寒気がし、酸素マスクをしているのに呼吸が苦しくなってきた。一体何が起きたのか、何がなされたのかもよく分からない。ただ看護婦さんが血圧計を代えて何回も測り、何か機械でも測っているようだ。後から聞いたが、最高血圧が六十しかなかったそうだ。
 そのうちに身体が手足の方からだんだん冷たくなってきて、本当に呼吸が苦しく、目を開けていられなくなり耳だけの世界になった。バタバタと看護婦さんの走る音、○○先生を呼びなさいという、医師の指示、身体にいろいろな管と機械がつけられたようだ。手術室の準備がまだだとの報告を受けて医師も看護婦もイライラしている気配。そのうちいつ来たのか○○が顔を近づけて、 「 手術の後太い血管を 4 本 ( 5 本だったか ) を止めてそれから縫いあわせるのだが、どれかを止め忘れたたようなので、もう一度開腹します。 」 と説明してくれた。 「 同じ所をですか? 」 と聞き返すのがやっと。 「 そうです。 」との返事。
 さらに息苦しくなり、肩の骨が食い込んでくるような異常な肩張りで気分が悪くなってきたが、不思議にこの時あたりからアタマがさえてきたようだ。このまま目を閉じて耐えていれば、そのまま無意識の別の世界に引きずりこまれるような気がしたので、ここで頑張らなければと言う意志がわき出てきた。目をしっかり開け続けようと努力した。しかし、見える世界は真っ白で、自分で瞼を直そうとしたが、両腕にはいろいろな管が着いていて手が持ち上がらないし鼻と口にも何かついていて頭を動かすことができない。上からいろいろな人が覗き込んでいるようだが、いわゆる白眼だったと思う。ショックのため眼球をつっている神経がゆるんだことを後で聞いた。だが、全部が白ではなく、下の方にいくらかの幅で見える所があった。顎を上げて頭を枕から外すようにすると、病室の中が帯状に細く見えた。病室の中は医師と看護婦でいっぱいのようで、妻の幸子の姿は見当たらない。緊張した遺志の声看護婦の走り方、何を言っているのか、何をやられているのかさっぱり分からず、苦しい方は良くならない。このときは、幸子は病室を出されていたそうだ。目の部分に何か薄い布がかけられたようだ。其の頃あたりだと思うが自分の意識が天井に張りつき上から自分のベッド姿や病室の様子を見下すような感覚になっていた。医学的には、未だ余裕があったかもしれないが、本人としては、精神的に何か限界に近づいている様に感じた。時間の経過が非常にに気になる。○○先生の説明で、再手術が必要なことはわかったが何故早くやらないのか、と。
 幸子が呼ばれて病室に入りテーブルで手術の承諾書を書かされている。これも天井から見えた。幸子も意思も全く上からの構図であった。こんなこと後でも良いのになと思いながら、苦しくなって何分経ったのだろうか、すごく長く感じながらジリジリしていた。病室の中は次第に落ち着いてきているようだった。
  「 手術室の用意ができました 」 という声とともに、それっと言う掛け声で今まで寝ていたベッドが医師三人、看護婦 5 人とともに動き出した。ベッドはエスカレーターのほうに走ったが自分の意識も廊下の天井を一緒に走った。病室は 8 階で 2 階の手術室にむかうのだがエレベータは 8 階でドアが開いて待っていた。タイミング良いなあと思いながらベッドとともにエレベーターに乗った。妻、娘夫婦、妹一家等も医師と一緒に乗り込んだが、エレベーターは呼び出しに応じて 6 階と 4 階に止まり健康な見舞い人が乗ってくる。のんきなものだな。なぜ直通にならないのかなあ。間に合わないのでないかとこんなことにも不安でイラついているうちに 2 階に着いた。 8 階のドアが開いていたのは、娘の有里がドアを押さえていたことが後でわかった。廊下やエレベーターの天井は以外に汚いなあと感じているうちに 2 階に着きえっ度は手術室へと走った。
 手術室の入り口はガラス戸でありここからは従事者以外は入られない所で少し待たされた。このときのことは上から見てはっきり覚えている。自分の足は手術室のほうに向かっている。左手を娘の有里がしっかり握って何か言っている。その横に娘婿の章さんがいる。右手の近くには妹の道子がいてその横に清さん、直子ちゃんがいる。幸子は、ベッドの手をかけて泣き崩れるように毛布にかをを埋めていた。やはり意識は天井にあったが最悪のこと考えて 「 オイ、後はよろしく頼むぞ 」 との言葉を妻の幸子に伝えたいと思い、大きな声で言ったつもりだが天井からで声が届かなかった。娘の有里がうなずいているように見えたので救われた気がした。
 間もなく手術室のガラス戸がしずかに開き、カタッと言う少しのショックで中に入ったが、その瞬間に天井にあった意識が自分の身体にもどり収まったようだ。瞬間だが横を向くと人の顔が見えたような気がした。
 手術室が明る過ぎるのか、ほとんど目を開けられなかった。耳はその分しっかりしていた。手術台に向かって動いているベッドに後ろから走りながら 「 かどたさんですね。かどたけんじさんですね 」と 2 回よびかけられた。多分麻酔科の女医さんだと思うが、こんな時に名前を間違えられるのかとさびしく感じ、思わず 「 ちがいまーす 」 と叫んでいた。どこかで 「 そうだな 」 という男の笑い声がした。ベッドは手術台に横付けされたが高さが違うのでさあどうしようとなったようだ。 「 ニ詰のストレッチャーを借りよう 」 と誰かが言うと 「 ニ詰は洗ってかえせとかうるさい 」 「 8 階から持ってこようか? 」 とか話されているうちに、外科の先生の掛け声とともに手術台に自分の身体が挙げられた。小さな沢山の手のひらを背中に感じたのは、沢山の看護婦さんが持ち上げたのであろう。そこで多分麻酔の処置がされたのであろう。以後何も分からなくなってしまった。午後 7 時頃だったように思う。
 相当時間が経ったように思ったが、午後十時半頃八階の自分の病室で気がついた。心配していた娘夫婦や妹の家族に帰ってもらい、妻だけ付き添うことになった。
 一日に二度の全身麻酔。しかも後で聞いたのだが約三○○○ cc の輸血、酸素も病室のものでは足りずボンベから直接吸入したとのこと。相当精神的にも疲れていたのだろう。麻雀ゲームが現れてつい口で言ってしまったり、司馬遼太郎のモンゴルあたりの記録や風塵抄の一部がちらついたりした。気が付けば看護婦さんが血液中の酸素を測りに来ているのに受験勉強をしているように勘違いして、看護婦さんは何時も勉強で大変だなあと同情したり、やはり精神的におかしいことが自分でもわかった。
 夜中の二時頃若い女の声で 「 痛いよう、苦しいよう 」 と言う最後と思われる叫びを何回も聞いた。また五十歳ぐらいの男の声で 「 これで終わりか?あとのことはどうしよう。困ったなあ 」 との声も聞こえた。いずれもはっきりした声であった。以前にこの病室でなくなった人たちのうめき声だと思ったが、妻に尋ねても何も聞こえなかったと言う。それから三週間同じ病室で夜を過したが、そんな声は二度と聞こえなかった。やはりこの夜だけは、異常な神経の高ぶりの中にあったのだろうと思うが、別の次元の世界にいたとも言えるのではないか。なんとも不思議な体験であった。
 翌朝○○先生の話では、心臓に近い動脈を止め忘れていたのでニ七○○ cc くらい出血したが、約三○○○ cc を輸血し、七○○○ cc の水で洗ったので腹膜炎等の心配はない。また現在の輸血は相当検査したものを使っているので後遺症はないだろうとのこと。しかし、自分の身体全部で五○○○ cc しかない血液の半分以上が他人の血液と思うと医師の言葉も信じられない不安を感じた。
 ニ 〜 三日間両足の毛細血管が紫色になり、まるで網タイツをはいた様になっていた。身体のところどころにダメージがあるらしい。
 入院中の後日、院長先生と会ったので、自分は 「 三途の川 」 を渡るところだったが先生は知っているかと聞いてみた。報告を受けているが 「 三途の川 」 は見えなかったはずだが 「 三途の川 」 のほうに向かって歩き出したことは確かであるときわめて冷静な答えであり、特に謝罪らしき言葉もなかった。
 二度も開いた腹部の縫い口はケロイド状態で、腹部の出血を洗った水を抜いた穴は何時ふさがるのだろうか?穴からは薄い血の色をした水がまだ出てくる。

 以上が自分の異常な体験の内容である。

 この体験記は平成十二年一月七日に入院し二月一日に退院した間にワープロを病室に持ち込んで記録したもので、十二年間気にはしていたが忘れていた。実は母もこのとき肺炎で同じ日に入院し、同じ日に退院したので、自分のこの状況を知らせていなかった。
 退院してしばらくしてこの記録を渡して読んでもらい、 「 お前も大変だったのだね 」 といわれたことを覚えていた。母は当時九十歳でまだぼけていなかったようだ。この度、母の七回忌を迎えるにあたり、母の持ち物を整理していると大切なものの中からこの記録が出てきた。当時のワープロの感熱紙で薄く変色していてほとんど読めない状態のため一字一字判読しながらパソコンに打ち直してみた。少しおかしなところがあるがご容赦頂きたい。

( 平成 24 年 5 月記 )

Updated 13 July , 2019