Kataro ホームページ 「 河太郎 」 30 号 平成 24 年 ( 2012 年 ) 7 月 1 日

巻頭言

長谷川 隆次

 徳田廣先生が逝った。 6 月 3 日午前 2 時 49 分。 82 年の生涯だった。
 先生は昭和 5 年 8 月、南大通 8 丁目に生まれ、東栄小学校を経て庁立釧路中学校を昭和 24 年に卒業 ( 釧中 32 期 湖陵高校 1 期 ) 。卒業と同時に新制釧路市立南中学校教師として奉職されました。昭和 25 年 4 月、我々は南中学校に入学、 1 年 3 組 61 名のクラスに入れられました。 1 学年 8 クラス約 500 名、 3 学年で 1500 名ものマンモス中学です。この 1 年 3 組の担任が徳田廣先生です。卒業までの 3 年間クラスも担任も変わりませんでした。
 新制南中学校は学区制によって、日進小学校、東栄小学校、春採小学校の卒業生が主でした。校舎は今の東中学校の所ににありました。ちなみに当時の東中学校もマンモス中学校で、今の教育大学の所にあった前の市立女学校の校舎です。この校舎が国立学芸大学釧路分校の開学の校舎になり、東中の生徒は新設された北中学校と南中学校の校舎に移りました。昭和 26 年の事だったと思います。その時には弥生中学校の新築工事が始まっていたかも知れません。昭和 28 年に卒業した我々は南中最後の卒業生です。南中在学生の 2 年生、 1 年生はそのまま新設された弥生中学校に移りました。学校の名称と校舎が変わっただけです。
 学校の登下校は徒歩、ごく少数の自転車。舗装などしていません。春は泥濘、夏は埃、秋は水たまり、冬は氷道、学校まで生徒の波が続きます。登下校の約 1 時間は友人や先生と話しながら歩きます。今思えばこの登下校の会話が沢山の事を教えてくれました。
 当時、代用教員と言われた旧制中学、新制高校を卒業した先生方が沢山居りました。学制改革に依り 3 年制の新制中学が義務教育になり生徒数が増加、当然先生が足りなくなったからでしょう。
 徳田先生が我々 1 年 3 組の担任になったのは先生 20 才の時です。我々は 13 才、先生は自分の事を先生とは云いません、 「 僕は 」 と云う。教わった教科は数学、社会、英語でした。
 入学して 2 学期になった頃、我々の机の配列が変わりました。管弦楽団の楽器の配列を模倣したものでした。教壇を指揮台として扇型に左側に 5 人づつ向い合い第一ヴァイオリン 10 名、対照的に右側 10 人が第二ヴァイオリン、第一第二ヴァイオリンに挟まった中央部分がヴィオラ、チェロ、コントラバス 20 人が二班に別れ、その後ろに木管楽器群10人、並んで11人の金管楽器群、合計61人の三管編成のオーケストラを真似た班づくりでした。この班づくりは徳田先生ならでの発想です。 3 年 3 組の絆はここから生まれたものだと私は思っています。
  2 年生になって夏の或る日、 2 年 3 組の男子生徒 31 名全員が、びんたを食った事件がありました。先生は 「 次 」 という。次に並んでいた級友が出て行く。先生は 「 歯をくいしばれ 」 という。先生は我々の頭を左手で押さえ、びんた。女生徒は声を出して泣く。先生も泣きながらびんた。我々も泣く。もう 60 年前のことです。何でびんただったのか記憶にありませんでした。幾人かの級友に聞いても、びんたの事は鮮明におぼえているけれども何が原因でどんな経緯だったか思い出せないと云う。それが今回はっきりしました。 「 早メシ 」 だったのです。朝早く登校して野球の練習をしていた連中が昼休み前の一寸した時間に早メシをした。皆が早メシをした訳ではありません。連帯責任です。我々 3 年 3 組は善きにつけ悪しきにつけ連帯感を植え付け根付かされました。連帯感を持つことによる人間関係の確立を先生は目ざしました。毎週金曜日の午後 6 時限はホームルームの時間です。一週間の反省の時間だったのでしょう。説教で始まります。体罰として運動靴のまま机の上に正座させられました。男も女も ― 何故机の上だったのでしょうか ― 。或る時正座中に 「 プー 」 と屁。皆笑う。これが亦説教の元、時間延長。 「 魔の金曜日 」 と誰かが云いました。亦このホームルームの時間には必ずクラシック音楽を聴かされました。ポータブルのゼンマイ式蓄音機 78 回転の SP レコードです。作曲家の生涯、曲の内容、構成など演奏者についても解りやすく説明解説して下さいました。音楽に興味があろうが無かろうが関係ありません。先生の理想主義です。先生は皆平等で特別扱いはしませんでした。
 ここに昭和 28 年、南中学校 3 年 3 組の卒業写真があります。先生も我々と同じ詰襟の学生服です。何故か代用教員の先生方は皆学生服でした。背の低い代用教員がいました。何が原因だったか忘れてしまいましたが、先生とは知らずに対等の口論になりました。やり合っているうちに、先生に向かってお前の態度はなんだと云う。私も生意気に先生とは思わなかった。先生とは先に生まれたと書くんだと云って逃げかえりました。しばらくして徳田先生が見えられ呼ばれました。職員室ではなく別な部屋 ( 宿直室だったと思う ) でした。その先生は徳田先生に抗議し、謝罪させよよ云う。私は事の顛末を説明し、謝る必要はないといい張りました。先生は 「 この話はこれっ切りだ。誰にも話すなヨ 」 と云って解放して下さいました。その後この事に関しては先生から何も聞きませんでした。あの、先生らしくないチビ先生の事です、恐らく徳田先生には大変な御迷惑をかけました。
 先生は或る時は先生、或る時は 7 才上の兄貴として旧制中学独特なバンカラ気風、友愛、誠実、勇ある連帯感、理想主義を以て我々を導いて下さいました。社会人になってからも然り、我々が社会人になってからも良く集まりました。クラス会です。先生の還暦のお祝い、古希のお祝い、東京札幌のクラスメートが駆け付けてくれます。永年幹事を勤めてくれている桶谷美恵子さんは云う 「 喜寿のお祝い何でしなかったんだろう。今となっては残念でたまりません 」 と。  平成 10 年 10 月、我が南中学校 3 年 3 組の修学旅行がありました。先生を含めて総勢 26 名。北海道勢は千歳空港集合。東京勢とは仙台空港でドッキング。中尊寺、猊鼻渓、陸中海岸、龍泉洞、盛岡等 2 泊 3 日の旅です。仙台空港には貸切りバスの運転手、ガイドが南中学 3 年 3 組と書いた旗を持って迎えてくれました。そこに集まった南中学 3 年 3 組は還暦を迎えた爺爺、婆婆。先生はその旗に感激したらしく、ガイドさんにその旗を持って引率してくれと云う。ガイドさんは困った顔をしながら従ってくれました。擦れ違う観光客 「 スネた中学生だ 」 。
  2 回目の修学旅行は平成 13 年 4 月、山形空港、天童、山寺、会津若松、五色沼、鬼怒川、浅草、羽田 3 泊 4 日の桜見の旅でした。夜の宴会はいつもの様に盛り上がります。先生は酒が好きで強かった。我々がのびてしまっても最後まで付き合って飲みながら話を聞いて下さいました。
 我々 3 年 3 組の級友は先生との出会い、そして 3 年間の中学生活、決して忘れはしません。そして卒業後の先生とのふれ合いも決して忘れないだろうと思います。俺は絶対忘れません。先生、有り難うございました。
 散る桜 残る桜も散る桜 いずれまた。

Updated 3 March , 2020