Kataro ホームページ 「 河太郎 」 28 号 平成 23 年 ( 2011 年 ) 12 月 1 日

太平台の春秋

木村 好成


                ひょんなことから、現國學院大學理事の木村好成氏が著した 「 太平台春秋 」 という、
               ハードカバーの分厚い本が手に入りました。
                この本の中で、木村氏は札幌南高等学校の柔道部員として、南高校教員であり柔道部長であ
               った渡部五郎さんとの心のこもった交流を書かれています。
                木村氏の了解を得て、渡部五郎氏が登場している章を転載させて頂きました。        三井 裕

柔道部物語

渡部五郎先生との出会い

 八畳の畳が学校に届けられた日のことは忘れられない。その頃はオート三輪車という運送車があって、それ十二畳の畳が積まれて生徒の通用口玄関に届けられた。降ろされた畳を前にし て私どもは練習場に運ぶために集まっていた。
 そこへ通り掛かった英語担当の渡部五郎先生から声をかけられた。
  「 君たち、柔道をやるのか 」
  「 はい 」
  「 柔道衣はあるの。いま買おうとして買えるものかね 」
 重ねて問い掛けられた。
  「 新しい柔道衣は買えませんが、古着なら買えると思います。今は持っている者たちが持ち寄って、持っていない者に貸してあげようと思っているのです 」
  「 そうか、それなら私もやってみようかな 」
  「 五郎先生は柔道をおやりになるのですか 」
  「 ああ、旧制の中学校、高等学校と柔道をやったからね 」
  「 そうですか、それじゃあ是非一緒にやりましょう 」
 私どもは柔道仲間に、生徒だけでなく教員も参加してくださることになって大きな力を得た思いになった。それも、参加してくださる先生がこの年の夏休み明けに就任された東大英文科出身の、全校生徒が畏敬してやまない英語の渡部五郎先生であるというのだから感激である。
  「 おい。五郎先生は柔道経験者だってよ 」
  「 一緒に稽古をしてくださるといってるぞ 」
  「 よかったなあ、これで柔道部長は決まったぞ。五郎さんにお願いしよう 」
と、衆議一決であった。
 畳を練習場に運び込み、その日から柔道の稽古が始まったが、渡部五郎先生という後ろ盾を得て私どもの意気はいよいよ昂まったのであった。
 五郎先生は、滝川市の在にある北海道空知郡歌志内町の出身で、旧制滝川中学から旧制弘前高校へ進学し、さらに東大へと進んだのだった。東大では英文学を専攻したが途中学徒出陣で海軍航空隊に入隊し、特別攻撃隊員として待機していたが、終戦となって東大に復学したというように聞いていた。かねてから作家志望であった五郎先生は、大学を卒業してからも作家への道を歩んでいたが、弘前高校の先輩である太宰治に私塾していて、東京三鷹の太宰宅にも出入りしていたのだが、太宰の玉川上水入水自殺でショックを受け、精神的に迷いを生じたことと、文壇への足掛かりを失ったことで郷里に帰っていたが、知人の紹介があって札幌南高校の教員になったのである。
 五郎先生の学校での様子は、実に颯爽とした姿に私どもには見えた。旧制中学・高校と柔道で鍛えた心身と、戦時体験で一度は死線を超えた精神力が、人間を大きくしていたのだろうが、生来の人柄に温かみがあって、言葉では言い難い魅力のある人であった。南高校に就任すると、校長の期待もあったのだろうが、文化部の顧問を一手に引き受けた感があった。文芸部はもちろん新聞部や英語部ほかである。東大英文科卒の経験が、旧制札幌一中という進学校の後を受け継ぐ南高校の英才たちを先生の周りに引き付けた。私ども鈍才で腕白な連中はそれを羨望の眼差しで見つめ近づき難さを感じていたのだが、先生自身は何の隔ても持たない人であったから、柔道部を創りたいという猛者連中にも、かっての中学生時代の自分の姿に想いを重ねて愛しむかのように、私どもを暖かく包み込み始動してくださった。

渡部五郎先生

 五郎先生にはいろいろなことを教わった。柔道部の運営にしても、かって旧制の高等学校と専門学校の柔道部の生徒らが覇を競った高専大会を目指した旧制高校柔道部の雰囲気を私どもに伝えてくれた。社会人の柔道クラブの雰囲気の中にいた私どもに、学校でのクラブ活動の在り方や人間関係での処し方を、言葉ではなく日常生活の中で先生自身の態度で教えてくださった。五郎先生こそ私の人生の最初の、そして終生の恩師であったと思っている。
 後に、柔道の高専大会関係の書物を読んでいて、五郎先生の弘前高校柔道部選手としての記録を発見したのだった。それは、湯本修治著 『 闘魂 高専柔道の回顧 』 日本繊維新聞社発行の 『 続闘魂 』 の四百六十四頁の佐賀高対弘前高の戦績の中に渡部五郎の名を見つけたのである。そこには昭和十七年の記録として、大会第一日 ( 七月二十五日 ) 、佐賀校は弘前高と対戦した。佐高部誌には、

  未知なれど彼に津軽魂があれば、我に葉隠精神あり、彼は三年以下の精鋭をすぐって来たりたるに、佐高は一年二年の新鋭
  ぞろい、しかるに結果は無念にも、先鋒より大将まで総引分けとなる。

と記している。
 続いて、勝抜き戦で両校とも十五人の選手の名があって全員が引分けとなっている。大変な接戦であったことになるが、五郎先生は六番手に出場して高橋孝選手と対戦し引分けている。
 大会二日目 ( 七月二十六日 ) 、弘前高は松江高と対戦、不戦三人を残してこれを破り、大会第二日を終わる、とあるが詳しい戦績は記されていない。
 大会の規定は二勝して第二回戦に進むことになっており、弘前高は一勝一引分けで失格したようだ。記事にも、 「 参加校三十一校中二勝して第二回戦に残るもの僅かに八校 」 とある。
 私はこの記録を発見した時、この部分をコピーして五郎先生に青春時代の思い出のよすがにとの手紙を書き添えて送って差し上げたのだった。
 五郎先生のその後の経歴は、次の通りである。
  昭和二十七年 釧路湖陵高等学校教諭
  昭和二十八年 ㈱大黒屋ふとん店専務取締役
  昭和三十一年 釧路市役所秘書室長
  昭和三十二年 同 秘書課長
  昭和三十四年 同 総務部長
  昭和三十七年 同 経済部長
  昭和三十八年 釧路市助役
  昭和四十二年 道議会議員当選
  昭和四十五年 釧路短期大学学長・理事長
  昭和四十六年 道議会議員当選
  昭和四十九年二月十七日 肝臓ガンで死去。五十一歳


レスリング同好会としての部活動始まる

 レスリング同好会の設立の許可が出ると新たに部員の募集を行った。ポスターを校内に貼りだすとともに、三年生は卒業期を控えているので強いて誘わず、二年生一年生の教室を回ってレスリング同好会が発足するが、実は柔道部を創部するのだとの趣旨を説明しての部員の勧誘である。
 私が部員の募集活動をしながら思ったことは、近代柔道の創始者嘉納治五郎師範が講道館の草創期に門人を募る時に払った努力であった。入門間もない門人に対しては稽古に通うことが嫌にならないように、内弟子たちと一緒に気を遣い、稽古に来る者たちの稽古衣の洗濯をしてあげたり、稽古の後に麦湯をふるまうなどしたということである。草創の時のこのような細かな心遣いと一方での激しい技術錬磨への努力があって柔道の普及がなされ、講道館の今日の発展があったのだということである。学校での柔道部活動も仲間があってできることで、部の創設に当たっては、まず仲間を多く募ることであり、そのためにはそれなりの努力をしなければならない。柔道というものの格闘技としての優秀性を説くことと、体の小さい者でも大きな者を倒すことができるのが柔道だとかの説明をしたり、さらに渡部五郎先生が部長をなさってくださっている求道精神の横溢した部会を目指していることとか、柔道部の魅力を語ったのである。そして自分もまた、集まった者たちにはできるだけの誠意をもって接したのだった。
 集まった仲間は、三年生に佐藤さんほか三名ほど、同学年の二年生には菊地・岩本・小田島・本郷・望月・今ほか六名ほど、一年生には重村・川崎・則・渡辺・田中・吉田・石山ほか十名ほどであった。柔道の有段者は私と佐藤・菊地・岩本であった。段は持っていなかったが札幌柔道同好会での稽古仲間は小田島・川崎・吉田らで、他のほとんどの者がこれから始める初心者であった。初心の者には私と数人の生徒が、柔道衣の着方、帯の締め方や受け身の練習から指導し、基本の業を教え、乱取りができるようにと段階的に教えていった。五郎先生や事務室に荒谷さんという弐段ぐらいの人がいて稽古に参加してくれたが、どちらも本務の仕事があって常時の指導はできなかったのである。
 活動の初めの頃、横田教頭と二、三人の先生方が練習道場に見えて、
  「 レスリングを見せてもらおうか 」
と言われたことがあった。
 私と菊地は目配せをして皆の稽古をやめさせてから柔道衣の上着を脱ぎ、上半身裸になって練習場の中央に進み出た。互いに握手を交わし、足を前に進めながら互いの右側に擦れ違って向き合った。そして互いの両掌を相手の肩に当て、押し合いながら相手の隙をうかがう形で攻撃の機をつかもうとするレスリングのスタイルから始めて、立ち技から寝技へと互いの攻防の技を披露した。
  「 なるほど 」
と感心して見ておられたが、その後先生方が練習道場に姿を見せることはなかった。横田教頭も柔道の有段者であると後で聞いたが、柔道の稽古には興味を持たれながらも、その時は教頭という立場から、レスリングの練習状況はいかにと見に来られたのだが、生徒たちが普段は柔道の稽古をしていることを知っておられたので、二度とは来られなかったのであろう。
 日が経つにしたがって仲間も増え、部費が貯まると畳を増やすということで、八畳が十二畳となり、やがて十六畳から二十畳になって有段者や経験者たちも互いにそれなりの激しい稽古ができるようになった。
 その頃私は、毎週火曜日と金曜日の午後七時からの札幌柔道同好会の練習には必ず出席していたのであるが、学校で柔道部の活動が始まってからは柔道同好会に行くことが少なくなって、ほとんど学校での指導と稽古に専念するようになっていた。五郎先生を中心とする部生活が何よりの私の生き甲斐になってしまったのである。しかしこのことは、自分自身の技術向上のためには問題であったのである。お山の大将的なことになってしまって、伸び盛りの時期にあった自分の力を伸ばしきれないでしまったのであるが、全てのことをうまく成し遂げるということは難しいことだと思っている。しかし、この時期にしか成しえない貴重な体験を自分はしたのだと思って後悔は一切していない。高校生としての青春時代を、共通の目的と意識によって結ばれるクラブ活動を、柔道部を創ることからたずさわることができたということは、大きな喜びであり、その体験は貴重な財産であったと思っている。また、多くの先輩・同期生・後輩たちとの友情を想うとき、喜びは倍加するものである。


柔道部の活動と月次試合

 昭和二十六年四月、新年度を迎えて私どもは三年生となった。レスリング同好会も柔道部として正式に認められ、畳の数も増えて五十畳ほどとなって名実ともに柔道部としての部活動がいよいよ本格的に行われるようになった。新たに入学してきた一年生からも檄文を掲示して、同士としての部員を募った。

   いよいよ学校での柔道部の活動が正式に認められる時となった。
    そもそも柔道は日本固有の武道であり、柔能く剛を制する理により、小躯能く巨人を倒すことのできる、その合理性
   において世界で最も優れた格闘技である。近代柔道の創始者嘉納治五郎先生は、柔道こそ最善の身体鍛錬法であり勝負
   法であり、かつまた精神修養法であると述べておられる。柔道修業の方法は、真剣勝負の方法である攻防の術の錬磨に
   よる。而して、柔道修業の目的はと言えば、身体・精神の鍛錬、術の錬磨により道を悟る所にある。道とは、心身の力
   を最も有効に使用する道、すなわち精力善用道の体得である。さらに目指す究極の目的は、柔道の修行によって形成さ
   れた身体精神人格を以て世のため人のために貢献することで、すなわち自他の共栄にある。
    柔道の修業により人間を形成し、将来有為の人たろうとする我等と志を同じくする者よ、来たりて、我等が柔道部に
   投ぜよ。

といった調子である。
 私は一人でも多くの仲間を得ようと考え、柔道の理想とする 「 柔能く剛を制する理により、小躯能く巨人を倒すこと 」 に興味を持つ者であれば身体の大小は問わないで部員を熱心に勧誘した。その結果、ほとんどの者が初心者であったが、かなりの人数の部員が集まった。赤坂昴・岩城俊憲・藤田修二・村岡章輔・泉正勝・水森一夫・酒巻吟一ら十五、六名が入部した。これらの新入部員に対して懇切にして丁寧に受け身を教え、基本の技を教えたものであった。その結果の一例であるが、野球部にいて控えのキャッチャーをしていた同級生本郷三則の素質を見込んで柔道部に誘い、ひと月目はみっちり受け身を指導し、どのような形で投げられても受け身ができるように、ふた月目は基本的な技五つほどを反復練習させ、次のふた月を基本技を増やしながら柔らの理による乱取り稽古を徹底的に指導して、四か月で彼を昇段審査会で初段に昇段させたのであった。柔道の理とは何かと言えば、柔術の古流起倒流の古歌にある、

     柔は求めて柔らかく 和は自然に 柔らかなり

の意味するところである。柔も和も 「 やわら 」 と読み、柔術・柔道を意味する古語であるから、柔術・柔道というものは、初めはひたすら努力して、つまり、求めて努めて柔らかく動くことを心掛けなければならないものだ。そうすれば柔術・柔道と言えば、それはもう、初めから、ごく自然に柔らかな動きの中で人が倒せる妙技という域にまで達することになるものである、ということが柔の理である。
 この柔の理を体現している最もよい例がある。女子柔道の田村亮子選手の柔道の動きがこれである。國學院大學の名誉師範であった十段三船久蔵先生がよく揮毫された言葉、 「 奥妙錬心在り 」 の意味するところもこれである。このことが今の国際化した柔道ではないがしろにされている。私は今の柔道は本当のわが国伝来の柔道に似て非なるものと思っている。なぜならば、今の柔道は、柔道の根本理念である柔の理を忘れているからである。
 初心の者もある程度の技を覚え、任意に動いて技を掛け合う乱取り稽古ができるようになると、毎月一定の日を定めて月次つきなみ試合を行うようになった。ひと月の間の各自の努力と技能の向上の実績を見るための試合で、前の月の月次試合の成績で部員のランキングを決め、ランクの低い者から高い者へと順に並べ、紅白に分けての勝ち抜き戦を行うのである。
 試合が終わってからのひとときが楽しいものであった。全員にコッペパンが一つずつ配られて、それを食べながら五郎先生の講評を聞くのである。
  「 重村、頑張ったな。あの背負い投げはよかったぞ。三人も抜いたのは普段の稽古のおかげだ。よし、コッペパン二つ 」
と言って、皆に配られた余りのパンが渡される。
  「 石山、寝技は辛抱だ。我慢だ。諦めてはいけない。しつっこく、食い下がること。よく頑張った。コッペパン一つ 」
  「 川崎、立ち技から寝技への移行はもっと敏捷に動かなければ相手を押さえ込むことはできないぞ。投げた相手の右腕は離さずに、自分の左手と左脇にしっかり抱え込んで移行するのだ 」
といったように、簡単ではあるが適切な批評があって、成績の良かった者にはパンが余分に与えられるのであった。若い成長盛りの高校生、ましてまだ食物が豊かでなかった頃で、この一つのパンが何物にも代えがたい名誉を感じさせる褒美であったのである。この月次試合の組合せ表は、試合の前日から全校生徒の目に触れるように掲示板に掲出されるので、一般生徒の観戦をうながすとともに、柔道部の活動の宣伝にもなり、また公開と言うことから試合に対する部員の心構えも違ってきて、各自の励みにもなることで、その月の試合にふるわなかった者は次の月を目指して稽古に励む、という効果もあったのである。紅白の勝ち抜き戦の後に、部を代表する選手のための三人掛け、五人掛け、といった掛け試合も、同じように前日から掲示する形で行われた。選手級の者の稽古の実績を見るためと、必ず一本勝ちをするための稽古にはこの方法が有効なのである。
 例えば、一級の選手に対しては三級二人と二級の者、初段の選手には三級二人と二級二人に一級者というように、本に立つ選手の技能に応じて組合せと時間を定めて対戦させるのである。三人掛けをしなければならない選手が二人あるいは三人目で引き分けられてしまうようなことがあれば、それは掛ける者には大変不名誉なことなのである。五人掛けの場合も、五人しっかり倒して面目が立つのであって、途中で引き分けられたり敗けることがあったら衆人の前に恥をさらすことになってしまうのである。
 楽しくもあるが苦しくもあるのが月次試合であった。


柔道部の歌

 柔道部の歌も五郎先生が創ってくれた。部員たちが稽古の合間に唄うことで、精神を高揚させ士気を鼓舞するとともに、合唱することで互いの友情を温め合い、同じ目的・思想で、同じ道に精進していることを確認することができるものが部歌である。曲はかって五郎先生自身が歌った曲であったのだろうか、旧制高校の寮歌調のその曲に札幌南高校の柔道部にふさわしい歌詞が当てられて、作詞された歌がこれである。

          道立札幌南高校柔道部歌

         一 豊平とよひら川の辺に 集い
           吾れ等 石狩健児等は
           肝胆かんたん互いに相照らし
           厳寒ふゆあしたも 酷暑なつの日も
           友情溢れ 意気に燃え
           白衣びゃくえに技を競うなり

         二 真理のとぼそ 叩かんと
           ああ友達よ 手を取れと
           若き血潮ちしおは もくし得ず
           遠き栄えをば 望みつつ
           団結も固く進み行く
           見よや吾れ等の柔道部

         三 吾が先人の汲み求めし
           清洌せいれつの水 めゆかん
           吾れ等が決意 固ければ
           呼び声遠く平原の
           たてに高くどよもしつ
           進まむ吾れ等の柔道部

 私どもは毎日のようにこの歌を唄った。中でも柔道部生活一辺倒であった私は、稽古の前に、稽古の後に、汗に濡れ、時には涙を流しながら部歌を唄ったものである。放課後の激しい練習の後、学校の裏の堤防の向こうを流れる豊平川に飛び込み、体を洗った後に道場の畳に仰臥して天井を仰ぎ見ながら部歌を唄ったあの時の気持ちは今も忘れない。
 「 真理の扉叩かんと ああ友達よ手を取れど 若き血潮は黙し得ず 遠き栄えをば 望みつつ 」 の歌詞を唄う時、涙が込み上げてくるのだった。 「 真理の扉叩かんと 」 して高校での授業を受け、ひたすら学ばなければならない立場にあるのが現在の自分であるのに、柔道というものに情熱を燃やす若い血の騒ぎをどうしても抑えることができずにいる。日々熱心に教室で教え導いてくださる各教科の先生方に申し訳ないと思う気持ちがないわけではない。学生の本分はひたすら勉学に努めることであると知りながらも、柔道の魅力に引き付けられて、日々の学習に支障をきたしてもなお柔道の練習に打ち込みたいという想いは、どうしようもない己の現実の姿なのである。そんな想いを 「 遠き栄えをば望みつつ 」 と五郎先生は詠み込んで苦悩する私を救ってくださっているのだと思うと、私にはこの歌詞が自分のために創られ、自分の気持ちを代弁してくれているように思えて、切なくなって涙が溢れてくるのであった。
 部員の唄うこの歌を傍らで聞いていた人から、
 「 歌詞はどなたの作ですか 」
と問われたりすることがあったが、五郎先生は照れ隠しだったのだろうか。
 「 木村です 」
と、私の方を見つめながら応えるのであった。それを私は強いて否定することはしなかった。作詞者は五郎先生ご自身なのだが、創られた歌は自分たちの気持ちがそのままに表現されていて、唄っている者それぞれが自分の歌だと思い込んで唄っている、まさに自分たちが作った歌も同然だと思っていたからである。


嗚呼 渡部五郎先生

 渡部五郎先生は私の高校時代の恩師であった。五郎先生の謦咳に接し得たことは、私の人生の最大の幸せであった。特に、柔道を通しての人間形成を指標していた青年前期の私に、真の学生柔道の在り方を教えてくださったのは五郎先生であった。また、かっての学生柔道の精華であった高専柔道の雰囲気を私どもに知らせ、札幌南高校柔道部に継承させたのも五郎先生であった。さらに、その時に結ばれた縁を先生は御在世の二十五年の間、折々に強くそして正しくご自分の生きざまを示す形で私どもに影響を与えてくださった。私のみならず、当時の高校柔道部の仲間が、強い団結の心を今に持ち続けていることを想うとき、渡部五郎先生は偉大な人生の指導者であり教育者であったと思う。


五郎先生札幌南高校に赴任

 昭和二十五年五月、私は高校二年生であった。この年、札幌の四つの公立普通科高校、道立一高・二高、道立女子校・市立女子校は、学制改革により男女共学・通学区制に改められ編成され直した。私はそれまで道立札幌二中から札幌二高へと四年間通学していたのだが、この編成替えで前身札幌一中・一高であった札幌南高校に編入させられた。この年、渡部五郎先生は東都を離れて同校に英語の教師として赴任された。五郎先生と私の縁、結び付きは、このような奇しき因縁から始まるのである。
 昭和二十五年の八月、高校二年生の夏休み明けであった。厳つい面立ちだが温かい感じを周囲に与える二十七歳の、中肉中背の青年教師が北海道立札幌南高校に赴任してきた。東大文学部英文科の卒業で、英語の担当であるという。旧制札幌一中といわれた名門進学校の伝統を引き継ぐ私どもの高校であったから、所謂俊才連中にとってはセンセイショナルなニュースであったわけだ。中学一年の時からの親友で、生徒会の執行部委員をしていた菊地正孝がそのことを私に伝えてくれた。それが渡部五郎先生を知った初めであった。
 五郎先生は、滝川市の在にある北海道空知郡歌志内町の出身で、旧制滝川中学から旧制弘前高校を経て、東大へ進んだ。東大では英文学を専攻したが途中学徒出陣で海軍航空隊に入隊し、特別攻撃隊員として待機していたが終戦となって東大に復学したように聞いていた。かねてから作家志望であった五郎先生は、大学を卒業してからも作家への道を歩んでいたが、弘前高校および東大での先輩であった太宰治に私塾していて、東京三鷹の太宰宅にも出入りしていたということだったが、太宰の玉川上水入水心中でショックを受けたことと、文壇への足掛かりを失ったことで東京での生活を離れ郷里に帰っていたが、知人の紹介があって札幌南高校の教員になったということだった。
 五郎先生の赴任当時のことを、一級下の石山雅之と重村俊之は、次のように語っている。
 「 造形の神の傑作にちがいない。あのいかつい顔形と、奥光りのする、それでいて柔和でもある眼と、ベートーベンのようなヘアースタイルの先生 」
 「 最初の英語の時間、分厚い体に、ぴっちりして、少々色あせた学生服を着て、あの独特の微笑をうかべ、スタスタと教壇の上にあがったときの五郎さんの姿は、今でもはっきりと目に浮かべることが出来る。そして颯爽といった感じの歯切れの良い話を聞いていると、東大英文科出身の高校の先生というより、旧制高校生気質を体いっぱいに溢れさせた学校の先生らしからぬ先生、というのが私の第一印象だった 」
 五郎先生の学校での様子は、着る物に頓着できない物のない時代ではあったが、よれよれの背広姿であったり学生服姿であったりしたのだが、重村も言っているように、実に颯爽とした姿に私どもの目には映った。これは後で分かったことだが、旧制中学・高校では柔道部の選手として活躍したということで、武道を通して鍛えた心身と、戦時体験で一度は死線を越えた精神力が、人間を大きくしていたのだろうが、生来の人柄に温かみがあって、言葉では言い難い魅力のある人であった。南高校に赴任すると、校長の期待もあったのだろうが、文化部の顧問を一手に引き受けた感があった。生徒もまたそのことに期待して文芸部はもちろんのこと、新聞部や英語部のほかに、生徒会のいくつかの部会が先生を迎えたのだった。東大英文科卒の経歴は、旧制札幌一中の後を受け継ぐ札幌南高校の俊才たちを先生の周りに引き付けた。私ども鈍才で腕白な連中はそれを羨望の眼差しで傍らから見つめていた。先生自身の周囲に与える印象は実に温かい雰囲気で、誰にでも親しみを感じさせて近づき難さはなかったのだが、私には言葉を交わす機会はなかった。


出会い

 やがて五郎先生と私との出会いの時がきた。その年の秋の新聞紙上に、敗戦後禁止されていた学校での柔道が翌二十六年度からクラブ活動としてなら許されるという報道がなされたのを機会に、私は柔道部創設のための行動を開始した。私は小学校五年生から終戦の年の中学一年まで柔道を習っていたが、戦後中断していたものを中学三年生の時から個人的に札幌柔道同好会に入会して再び習い始めていた。学校での柔道同好会仲間と翌年を待たずに柔道部に代わるレスリング同好会の創設を計り、そのことが許されて練習場に敷くマットの代用と称して畳の購入を決め、それが学校に届けられた日のことである。
 その頃はオート三輪車という運送車があって、それに八畳の畳が積まれて生徒の通用口玄関に届けられた。降ろされた畳を前にして私どもは練習場に運ぶために集まっていた。そこへ通りかかった渡部五郎先生から声を掛けられたのである。
  「 君たち、柔道をやるんだね。今、柔道着は買えるのだろうか 」
  「 新しい柔道着は買えませんが、古着なら買えると思います 」
  「 そうか、それじゃあ探してくれ。私もやってみよう 」
  「 五郎先生は柔道をおやりになるのですか 」
  「 ああ、旧制の中学校、高等学校と柔道をやったからね 」
  「 そうですか、それじゃ是非一緒にやりましょう 」
 私どもは柔道仲間に、生徒だけでなく教員も参加してくれることになって大きな力を得た思いになった。それも、参加してくださる先生がこの年に赴任した東大英文科出身の全生徒が畏敬して止まない英語の渡部五郎先生であるというのだから感激であった。
  「 おい、五郎先生は柔道経験者だってよ 」
  「 一緒に稽古をしてくださるといっているぞ 」
  「 よかったなぁ、これで柔道部長は決まったぞ。五郎さんにお願いしよう 」
と、衆議一決であった。
 畳を練習場としての使用を許可された旧武道場であった第二屋内体操場に運び込み、その日から柔道の稽古が始まったが、渡部五郎先生という後盾を得て私どもの意気はいよいよ昂まったのであった。


五郎先生の稽古ぶり

 五郎先生の稽古ぶりは旧制高校のそれであった。組んですぐに強引とも思える大外刈りを掛け、相手を倒すと直ちに押さえ込みに入る。所謂寝技偏重の高専柔道であった。
 高専柔道がなぜ寝技偏重になったかというと、十五人勝ち抜き戦で戦われる対校試合で敗けない柔道を考えた結果である。立ち技での勝負は技量が上のものが勝つ確率が高い。ときには一人で十五人勝ち抜くこともありうる。もちろん寝技でも技量に大きな差があればこれも可能である。しかし、立ち技での技量を高めるためには時間がかかる。寝技は比較して短い時間で技量的にある程度の水準に達することが出来る。旧制高校・専門学校、大学予科も含まれてその在学期間は二年から三年、短い期間に学問もしなければならない。稽古は試合本意の敗けない柔道ということになって寝技偏重ということになった。頭脳明晰な者たちの熱心な研究の成果は、高専柔道と呼称されるような高度な寝技の技術を生みだしたのである。
 五郎先生の稽古ぶりについて、やはり一級下の川崎英夫と松本信一は、
  「 先生の大外刈りは強烈だった。何回もあの太い腕で引き付けられ叩きつけられた。汗で濡れた臍のあたりを顔に押しつけてくる上四方固めは苦しかった 」
  「 何の運動でもそうだが、真夏の稽古は大変なものだった。分厚い柔道着が吹き出す汗を吸い込んでベトベトになり、身体中が汗まみれになる。こんなとき、先生に稽古を付けてもらうことは文字どおり敬遠、敬って遠ざかったものだ。先生は人一倍の汗かきで、寝技の上四方固め、横四方固めを得意とした。特に上四方固めで抑え込まれると、先生の巨大な十分に汗を含んだ腹で、私どもの顔を圧し潰してしまう。先生の汗が、目に入るは息はできぬはで大変だった 」

 五郎先生は、道場に出て柔道着に着替えて指導する時間に余裕がないときでも、生徒を捕まえて技の指導をしてくれたが、生徒は先生の化繊で編んだセーターの袖をつかみ指導を受けることになる。先生が技を掛けて生徒が倒されながら袖にぶら下がる。生徒が手を離しても伸びきってしまった袖はもとの形に戻らない。先生は袖をたくしあげて平気でいるのであった。
 五郎先生の飾り気のない一途な姿は私ども柔道部の生徒の心をしっかりと捉えた。私どもにとって五郎さんは絶対的な存在になった。翌年私は高校三年生になり部の選手監督、普通に言う主将になった。北海道札幌の春は五月になって梅・桜・桃の花がいっせいに咲く。新入生部員との親睦を計るための歓迎会ということで円山公園に花見に行くことになった。五郎先生のファンでもあった家庭科の伊藤弘子先生が指導している調理部の女子生徒に頼んで折り詰弁当を作ってもらった。このことが横田庄八教頭の耳に入ったのである。私が呼ばれて、 「 折り詰め弁当持参で花見に出掛けるなどは高校生のすることでないから止めなさい 」 と言われた。私は部長である五郎先生の指示ならばともかく、調理部に頼んだ弁当も出来上がっていることだし、止められませんといって予定どおり実施した。折詰め弁当を持っていくからといって酒盛りをするというわけではもちろんないのだが、教頭からするとやりかねない連中と思われていたのかも知れない。

 五郎先生の生活ぶりは、月の十日くらいで給料のほとんどを使い果たしてしまい、後はたばこ銭にも困る様子にあることはしばしばであった。そのような折に、稽古をしていて私は三本勝負を挑むことがあった。五郎先生が勝ったらビールを奢るということでの勝負であったが、こんなとき五郎先生は乾坤一擲非常に強いのである。私も懸命に頑張るのだが、多くは五郎先生の勝ちとなり下校時に生ビールを奢ることになるのだった。私と本郷三則ほかの生徒が摘みにでるグリンピースを口に運んでいる前で、斗酒なを辞さない酒豪が、生徒の奢りのたった一杯のビールを、実にうまそうにグラスを傾けて飲むのであった。


教室での五郎先生

 五郎先生に教室での授業を何回か受けたことがある。私どものクラス担当の英語の教師に何かの都合があっての代講であったのか、二、三週間ぐらいだったのか、一学期ぐらいだったのか続いたのだった。五郎さんはその日の授業単元の文章を読み、一応の解釈をした後、生徒に質問をする。指名されて起立して答えるのだが、半端な答え方では座らせない。ヒントを与え、質問の言葉を変えて何とか答えさせようとする。自信のない答え方では駄目である。予習復習をしっかりやっていなければ答えられない。すっかり参ったと思わされたところで 「 勉強しろ 」 の小さいが鋭い言葉で許されるのだった。それが冗漫な時間経過のうちではなく、畳み込まれるような感じで進んで、次の者が指名されるのであった。力のある人だなぁと感心させられたものである。生徒が授業に疲れた頃合いに語ってくれる話がおもしろかった。旧制高等学校時代の恩師の話であったり、生徒仲間の話であったりした。先生から 「 君はコモンセンスに欠ける 」 と言われた生徒が 「 孔孟精神とは、どんな精神でしょうか 」 と問い返したとか、コンパで、ある生徒が 「 たぬきの歌を唄います 」 といって小学校唱歌 「 春が来た 」 を 「 春がき 春がき 何処にき 山にき 里にき 野にもき 」 と唄ったので、皆が一笑いした後しばらくしてから一人の生徒が 「 あぁ、そうか 」 と叫んだのでもう一度皆で笑い転げたとか、チョッキのポケットに懐中時計を入れているドイツ語の先生がいて、授業に夢中になって一番前の席に座っている五郎さんの前に立つと、五郎さんはポケットから懐中時計を取り出してネジを回し針を進めてポケットに戻すのだという。しばらくして先生は時計を出して、 「 もうこんな時間か 」 といって慌てて授業を止めて教室から出て行くのだったとか言う話であるが、話し方に微妙なユーモアがあって面白かった。
 一級下の川崎英夫の思い出の五郎先生は、 「 私が高校二年のとき、斉藤次郎先生が着任しない一か月ほどの間、五郎先生が仮担任をされた。柔道部長の五郎先生が仮担任と聞いて、勉強が苦手な私は後の方の席で小さくなっていたものだ。東京外語大学卒業の斉藤先生が着任されて五郎先生から紹介を受けた。斉藤先生は英語で十分ほど挨拶をされて職員室に引き揚げると五郎先生は、今の話の内容は斯く斯く然々と、いとも簡単に説明してくれた。さすが我等の柔道部長、さすが東大と心の中で叫んだものだった 」 と語っている。


荒ぶる魂

 傍目には名門校の颯爽たる青年教師渡部五郎というところであったが、その頃、五郎さん自身はどうだったのだろうか。文筆家として生きようとしていた先生が、東京を離れて札幌に来たということは、いわば中央での文壇活動に挫折しての都落ちであって、その寂莫感はどうしようもなかったであろう。札幌での教員生活にもなれてきたところで、東京での生活を想うとき、自分の在り方にどうしようもない遣る瀬なさを感じていたであろう。してみれば、教師家業は仮の姿という思いが五郎先生にはあったであろう。
 五郎先生の才能は、生徒を前にしては実に颯爽と授業をされ、クラブ活動でもまた歯切れ良く適切な指導をなさっていて、校務の面では完璧に果たしていた先生が、放課後の過ごし方にはかなり無頼なことがあった。
 夕闇迫る頃になると酒を飲まれる。それも浴びるが如くという形容そのままの様子を一切ならず眼にしたものだ。ときには職員室で、酒のない当時のこと薬局から買ってきた日本薬局方のアルコールを湯飲みについで番茶で薄めて飲むというようなことをしていたのだが、酔いがまわって赤銅色の顔となり、危なげな足取りで校門を出て路上で倒れてしまったこともあった。
 こんなことが重なってみれば、やがて校長の覚えも悪くなるのは当然であろうし、それが校長に迎合する教師仲間から疎まれることにもなろうし、かの秀才生徒らも戸惑いを感じ、何とはなしに先生から離れていくようにもなったのは、これもまた当然の流れであった。だが一方では、敢えてそれでもなお己の感情の起伏を隠すことのない五郎先生の人間的魅力と、無頼な生活の中にも他人に対する思い遣りを常に考えている人間性、さらにもって生まれて身に付いている指導者としての素質と信頼できる人柄が、真の男の悩みと闘っている姿として映り、先生を支持する生徒や若い教員も多数いたのである。
 かなり無頼であった五郎先生の真の気持ちや人となりは、高校生ながらも私ども柔道部員は解っていた。私どもにしたところで、腕白者の集まり、無頼ぶりは同じように持っていたのかも知れない。ひたすら五郎先生一辺倒であった。五郎先生も、一途に利害など考えないで、ひたすら自分を慕ってついてくる私どもの姿に、かっての旧制弘前高校で柔道に熱中した自分の若き日に想いを重ねて、荒んでいた当時の気持ちを私どもを指導することで慰めていたことは事実であったろう。そしてこよなく私どもを慈しみ愛してくれたのだった。

 ある時期、五郎先生は下校の後大通りにある教会で英語を教えるアルバイトをしていた。出掛ける時間まで、教員室の自分の席で例の番茶割りアルコールを飲むことがあった。酒の不足していた時ではあったが、アルコールを番茶で薄めただけで飲む者は少なかった。五郎先生は酒豪といわれるに十分な人であったが、時にはすっかり酔っ払ってしまって腰が立たなくなってしまうこともあった。五郎先生を自転車の荷台に乗せて本郷がペダルをこぎ、私が先生の体を支えながら傍らを走るということで大通りの教会へ向かったが、途中の中島公園で転倒してしまって五郎先生を再び荷台に乗せるのに往生したことがあった。教会に送り込んでから授業の終わるのを待って、出てきた受講生に様子を聞いてみたが普段と変わらなかったという。二人は安心して五郎さんを待っていたがなかなか出てこない。中に入って様子を伺うと、五郎先生は小便室でぐっすりと眠り込んでいるのであった。


本郷宅への転居

 五郎さんの下宿は男寡の典型的な様相を呈していた。万年床に炬燵があって、そこで飲み食いをして汚れ放題、凄まじいとしか表現できない部屋の様子であった。下宿には可愛らしい面立ちの娘さんがいた。朝夕顔を合わせているうちに五郎先生の人柄にその娘さんがすっかり惚れ込んでしまった。気持ちの優しい五郎さんは、一緒になる気がないのに娘さんに恋心をもたせたままにいることが忍び難くて下宿を替えることにした。何処かに適当な下宿はないかということで探したのだが結局は見つからず、私と同じクラスで柔道部仲間のマネージャーであった本郷の家に引っ越すことになった。私どもはリヤカーを引いて手伝いをしたのだが、五郎さんを訪ねてはいろいろ世話になった下宿の娘さんの見送りを受けながらの引っ越しは高校生ながら辛い気がしたものだ。 「 五郎先生、この娘をお嫁さんにしてやればいいのに 」 と思ったものである。目的を持つ男は、女性の情に縛られてはならないと思っていたのか、その頃五郎さんが、 「 惚れた女とは結婚しない 」 と言っていた言葉を思い出す。
 本郷の家に着いて、五郎さんは本郷の両親に初対面の挨拶をしたのだが、その様子はいかにも簡単であっさりしたものだった。引っ越し前の挨拶もしていないで、それも生徒の家に転がり込むような形なのだから、もうちょっと何とか丁寧に口上を述べたほうがいいのではないかと思ったものである。それからは親身も及ばない世話を五郎さんはこの夫婦から受けるのであった。
 本郷の両親は今度の戦争で二人の子息を亡くしていた。長男と次男であった。夫婦の部屋の長押には額に入ったそれぞれの方の写真が掲げられていたのを思い出す。本郷は光則と命名されていて三男であった。ご両親にとって光則は残された一人息子であったからひとしお可愛くて大事な息子であったわけだが、五郎先生に対しては光則の師であるということだけでなく、亡くした自分の息子たちに代わる若者のつもりで世話をしたのだった。五郎さんは本郷と部屋を同じくして暮らしていた。この頃のことについて、本郷自身が語っている。

   昭和二十六年春のことだった。五郎先生から、急に下宿を変えたいが何処かないだろうかと相談を受けたが、おいそれ
  とは見つからず、急いで居られたこともあり、取りあえず次の下宿が見つかるまで私の家の一室を仮の住まいということで、
  部員一同先生の全財産をリヤカーで運び込んだものである。その後居心地が良かったのか下宿代が安かったのか一年半ほ
  ど生活をともにした時期があった。お酒が好きな先生は父の絶好の酒の相手であり、また母にしてみれば私の兄二人が戦
  死しているのでその兄の代わりのつもりか全く家族同様の下宿人であった。先生は、夜遅く飲んで帰ってくる時は何処か
  らか木製の看板を持ち帰り玄関の前に立てかけて家に入ったもので、翌朝父に 「 風呂のタキツケにしてください 」 と
  詫びを入れたものだ。また、母の手前どんなに酔って帰って来ても、玄関から先生の部屋までの距離を歩く姿はシャンと
  して 「 只今帰りました 」 と挨拶して通り抜け、自分の部屋に入った途端にバターンキュー、そのままの格好で寝て
  しまうので、よく洋服を脱がせ布団の中に寝かせてあげたものだ。朝登校するするとき、私は自転車で行く習慣だったが、
  先生が下宿するようになってからは大抵一緒に家を出て先生を後に乗せて通学したものであるが、父に見つかると叱られ
  た。それでも先生は相変わらず後に乗って学校へ行ったものだ。当時二人を会わせると百四十キロぐらいあったろうから
  自転車がいたむということで叱られたつもりでいたが、父の死後よく考えてみれば自転車の二人乗りがいかに危険であるか、
  そんな理由で叱ってくれたのだと反省している。

 当時私も家族から離れて一人で下宿生活をしていたので、帰宅後の無聊を慰めるためによく本郷宅を訪れた。遅くなると私も泊めてもらうことがあったが、やはりその部屋に三人布団を並べて寝るのであった。ある日酔って帰ってきた五郎先生が件の様子で部屋に入ると大声で 「 加清純子が俺の子供を産みたいといった 」 と喚くようにいってから眠り込んでしまった。加清純子とは、当時いち早く動展などに入選を重ねていて天才少女画家と騒がれていた私どもの同期生であったが、これも同期生であった作家渡辺淳一の小説 「 阿寒に果つ 」 のヒロインのモデルといわれる女生徒である。加清純子が当時学校の外では大人の作家や画家たちと派手に付き合っているらしい噂は聞いていたが、五郎先生の口から、成り行きは別にして加清の名が出たことで二人は驚いたものである。
 このような生活の中でも五郎先生は作家への希望を捨てていたわけではなくて、原稿を書いては東京に送っていたようだった。時折本郷の部屋で、送り返されてきた分厚く綴じこまれた原稿用紙の束を見ることがあった。その頃五郎さんは NHK ラジオ札幌放送局 JORK の、夜の十二時を前にしてのお休み番組で放送されるラジオ随筆のレギュラー作家の一人であった。竹久夢二作詞・多忠亮作曲の宵待ち草の曲が流れてから、五郎先生の例えば 「 鎌倉彫と太宰夫人 」 といったような随筆が放送され、再び宵待ち草の曲が流れて、 「 それでは皆様、お休みなさい 」 というアナウンサーの言葉で、その日の放送番組が終わるのであった。私は五郎先生の使いで、よくその原稿を放送局に届けに行ったものである。原稿と引き換えに原稿料が渡されるのであったが、そのうちの幾らかを使いの駄賃として私にくれるのであった。 「 今晩は五郎さんの随筆の放送日だ 」 といって夜更かしをして聞いたものである。


野幌農業錬成高校

 北海道の秋は短く、冬は長い。秋の収穫が終わってから、長い冬の農閑期に開かれる全寮制の定時制農業高校が、札幌市と岩見沢市の間の野幌にあった。野幌農業錬成高校といったかと思うが、五郎先生はそこでも非常勤の講師として英語を教えていた。私どもは、二年生の終了式が終わってから、雪解けが始まって春の近づきを感じる三月の末に、野幌農業錬成高校の終了式の後の閉寮の日の催しに五郎先生の声がかりで招待された。催しの中に柔道部の紅白試合があるということでの招待であった。この日、出掛けたのは私と菊地と、初段に昇段して間のない本郷と野幌に家のある白帯の望月芳明であった。五郎先生は泊まり込んでいて、駅に着いた私どもは雪解けの始まった道を小春日を浴びながらかなりの距離を歩いて農業高校に到着した。控え室に通されて五郎先生に会い、生徒会委員の生徒に紹介された。
 しばらくして屋内体操場の中央に設けられた仮設の試合場に案内された。会場を取り巻くように全校の男女生徒が開会を待っていた。やがて紅白それぞれ十五、六人ずつの選手による勝抜き戦が始まった。観ていると立ち技の技能はほとんどなくて力と力のぶつかりあいである。寝技の技術もほとんどないに等しい。上になった者は上から突っ込み締めで相手の首を絞める。下の者も下からこれに答えてこちらも相手を締め上げる。互いに喉をヒイヒイいわせながらの締め合いである。私どもは観ていて、これはひどいと思った。柔道などというものではないと思った。そして、男子生徒たちはともかく、なぜか女子生徒たちにこれが柔道だと思われては大変だと思った。柔道というものはもっと高度な格闘技なのにと思いつつ試合の進行を観ていた。
 やがて、やっとという感じで試合が終わった。五郎先生が立ち上がって、 「 私の本務高である札幌南高校の柔道部の生徒が来ているので、これから親善稽古をお願いします 」 といって四人を紹介した。私どもは昂ぶった気持ちを抑えながら礼を交わし、紅白両軍の端から相手を指示して組み合った。私と菊地は昇段してから一年ほど経っていて稽古に油がのっていた。一分から一分半ほどで相手を変えるのだがその間に、足払い・大外刈り・釣り込み腰・背負い投げ・投げを警戒して腰を引いている相手には膝車・体落し・内股というような技で十本ほど投げるのだった。相手の数が少なくなってからは寝技も披露し、袈裟固め・上四方固め・横四方固め・送り襟締め・方羽締めなどを決めて、柔道とはこういうものだということを実際の稽古で観せたのだった。本郷と望月はやや扱い難い相手もいたようだったが二十分ほどで三十数名との稽古を終えた。五郎先生も私どもを呼んだことの面目が立って満足そうであった。散会すると、私どもの周りを幾人もの男女が囲んだ。私どもはちょっとしたスター気分を味わった。それから夕食までの間生徒会活動について話し合いがなされたが、菊地が南高の生徒会執行部委員であったので、こちらの方の話もうまく進んだのだった。夕食には、鰊漁の時期であったので鰊の味噌煮が出たのだが実にうまかったことを思い出す。
 野幌の駅までの帰りは、早春の道を農学校の馬橇で送られた。五郎先生は夕食のときに出された酒にほどよく酔ってご機嫌であった。


ダンチョネ節

 私は高校二年生から三年生にかけて一人の女生徒に淡い恋心をいだいた。相手は二年生のときのクラスメイトであった。札幌の近郊の大きな牧場の跡取り娘であったが、全くの片想いであった。菊地正孝は受験期を控えてそんなことに思い患っていては人生をあやまると忠告してくれた。自分の気持ちを相手に伝え、このことに決着を付けて勉学に励めというのである。私自身はそのようなことにうぶであったから、ただ一人で想っているだけでよかったのだが、菊地が強く言うのでその言に従うままに日曜日に山遊びに誘った。待っていたその日は、朝から雨が降っていた。次の日曜日も雨で、その次の日曜日もまた雨が降って、山への誘いは実現しなかった。
 その頃、五郎先生から 「 ダンチョネ節 」 を習った。海軍の飛行機乗りが唄っていた歌だといって、折りおりに唄ってくれた。それを私どもも気に入って、また唄ったものである。

     三浦岬にゃ鯨が潮を吹く 沖じゃ鴎がネ笑うだろ ダンチョネ
     飛行機乗りには娘はやれぬ やれぬ娘がネ いきたがる ダンチョネ
     お釈迦様でも草津の湯でも 惚れた病はネ 治りゃせぬ ダンチョネ

 いま、私が演歌の 「 舟歌 」 を唄うのは 「 ダンチョネ節 」 が唄い込まれているからで、当時の自分を懐かしく想って唄うのである。初恋の自分の気持ちのいじらしさを懐かしく思い返すとともに、五郎さんを慕う想いとが重なってのことである。


高教組書記次長

 私どもが三年生になると五郎先生は高等学校教職員組合いわゆる高教組の北海道支部の書記長をしていた木本由比先生に誘われて書記次長として組合専従職員になった。授業の持ち時間は少なくなって、屋内体操場から柔道場のある第二屋内体操場へ渡る廊下に面した組合事務室にいて、全道の高等学校の組合員に渡す文章の原稿を書きガリ版原紙に筆耕したり、毛筆での宛名書きやらの発送事務を行ったりしていた。私ども一部の柔道部員は五郎先生の手助けになるならばとガリ版刷りをしたり文章の封筒づめの手伝いをしたものである。おかげで私は留辺蘂るべしべ弟子屈てしかが・標茶とかいう難しい道内の地名のほとんどを覚えてしまったものである。
 五郎先生は、高教組が高校教員の組合であることをアピールするために、高教組主催 「 全道高校演劇コンクール大会 」 を企画し実施した。全道の高校演劇部から参加校を募り、札幌市の薄野にあった松竹劇場を会場にして催されたその大会は、大成功裡に終わったのだが、私ども南高柔道部員は会場警備と場内整理の役を引き受けた。外部からの妨害に備え、会場内の混乱を防止するためであった。このとき、私は演劇というものの素晴らしさを知った。高校生の演劇だったからチェーホフ原作のものが幾つかあったが、その中で 「 熊 」 を演じた高校が三校ほどあった。表現方法はそれぞれ違っていたがシナリオの解釈でこんなにも変わった演劇になるものかと感心させられた。舞台装置・衣装、そして発声と進行のテンポで芝居が変わったものになる。また演劇はそういうものが一つになって表現される総合芸術であることを知った。五郎先生は得意な語学を駆使して、占領軍高官たちやその夫人たちとの接待折衝に忙しくしていた。

 年末の経済闘争で高教組が要求貫徹のため道庁前でハンガーストライキをすることになって、五郎先生が組合員を代表して座り込んだ。私どもは五郎先生の身体に変調があってはならないと、雪の上に簀の子板を置き、その上に藁蘂を敷いて五郎さんを少しでも温かくして座らせようと、札幌市内の瀬戸物屋から荷を解いて用済みとなった梱包用の藁蘂を集めて回った。日が暮れてから人の目もなくなるとトイレに立つようにして五郎さんは物陰でラーメンを食べた。私は、そんなことしていいのですかと聞いた。五郎さんは平然として身体を壊したらお互いに困るからな、といいながらラーメンの汁を啜っていた。私はそういうものかと大人の世界の建前と本音を見たような気がした。


釧路へ

 私が高校を卒業した年の十二月、五郎さんの世話をする人がいて、五郎先生は釧路の女性と見合いをし結婚した。美津子夫人である。そして釧路へ転居して釧路湖陵高校に勤めを替えた。しばらくして、その高校が火事で焼けてしまったのを期に五郎先生は教員を辞めた。そして、株式会社大黒屋ふとん店専務取締役として奥さんの家の家業に従事することになった。奥さんの弟が明治大学に進学して卒業までの間ということであった。大きな家であったが、表通りに面した店では布団店を五郎さんと奥さんが営み、裏通りに面した店では質屋を奥さんの父親が営んでいた。五郎さんは、質屋と布団店の組合せは理屈に合っていると言った。夏になって温かくなれば布団を質に入れるから質屋が忙しく、冬になって寒くなれば質から布団を請け出すが、布団が売れるようになって表の店が忙しくなるのだと、本当か嘘か分からないようなことを私に語ったものであった。
 私は國學院大學を卒業して付属の久我山高校に就職した年の夏休みに、報告かたがた釧路に五郎先生を訪ねた。五郎先生は喜んでくれて、奥さんともども厚く遇してくれた。釧路を去るにあたっては、阿寒の山浦屋に宿をとってくれて、 「 忙しくなければ自分も一緒にいくのだが 」 といって小遣いを私にくれた。山浦屋に一泊して支払いを済ませたが残金がかなりあった。札幌に還ってから柔道部の仲間に集まってもらい報告かたがた一席囲んだが、十分に支払いが出来たことを思い出す。

最高得票の道議選が終って

 私は結婚をした三十四年の夏休みにも釧路を訪れている。妻と一緒に結婚の報告をしに行ったのだが、その時は五郎先生は釧路市の秘書課長を経て総務部長になっていた。
 奥さんの弟さんが大学を卒業したので家業は弟さんが継ぎ、先生は革新系の市長の要請を受けて秘書課長になったのが三十二年である。高教組の書記次長の経歴が買われてのことだろうと思っていたが、実はクシロライオンズクラブの創設に際して幹事役を務めたことで五郎先生の人柄が土地の有力者たちの注目を集めてのことだったという。五郎先生の教員時代の組合活動が、社会主義思想を信奉してのものでなく、当時の高校教員の生活条件を少しでもよくするためのヒューマニズムによるものであったことを私は知った。だからこそ、当時の先生が闘争一途に走ることはなく、妥協と強調を考えた行動をとられたのだと思う。後に北海道知事になった日教組の北海道支部であった北教組の横路節雄委員長に 「 高教組の渡部五郎はキレる男だ 」 と言わせた言葉の真意は、組合運動を行う根底思想が異なることを意識してのものだったのかも知れない。

 三十二年釧路市は佐熊市政が敗れ山本武雄氏がこれに代わった九月下旬、 「 渡部五郎という男はなかなか立派な男だ。東大も出ているし、語学力もある。あのような青年はこれからの釧路市政にとって絶対に必要だがどうだ 」 という話が出る一方で、 「 あの男は、湖陵高校に勤めの傍ら夫人の実家の小林布団店の経営にも身を入れ、あの翳りのない性格、豪放に見えて細心で真面目な性格は、業界はもちろん、近所からも立派なムコさんとして評判の男だ。また次兄、四兄を戦争で失った両親に対する孝養ぶりも涙ぐましいほどだ。東大卒と言えばエリートだがその気配も見せず、ときには夫人の実家のリヤカーを曳いて注文品を届けたり、注文をとって歩いたり、あの太い体がよくなわるものだ 」 との声もあったということで、すこぶる評判が良く、推薦者が多く出て市役所入りをすることになったということだった。
 私ども夫婦は市の車でいろいろな場所を案内してもらったが、丹頂鶴公園では鶴はこうして呼ぶのだと 「 タアールー 」 と大声で呼んでくれたりしたが、その声は教え子に対する慈愛の声として永く私の耳に残っていて、五郎先生を思い出すとき今でもあの声が聞こえてくるような気がするのである。このときもまた私ども夫婦のために阿寒のやはり山浦屋に宿をとってくれたことを思い出す。
 その後、五郎先生は助役になり筆頭助役になって市の中枢で市政に参画するのだが、支持者も増えて山本武雄市長から後事を託されて市長に立候補するのであるが、それまでの政治活動を通してきて、釧路市の真の発展のためには中央政権と密接に結びつかなくてはならないとの信念を持ち、革新党員になることはなく、無所属で出馬するのであるが当選確実と目されながら対立出馬した市の職員組合書記長に僅差で敗れ落選してしまった。対立候補が創価学会信者の票を集めるために、妻を学会に入れたのが票差となったということだった。これを機会に五郎先生は市政の外にあって政治活動を行うのだが、在世中釧路市の北大通りでの 「 土曜公論 」 と称する街頭に立っての演説会は百三十七回も続けたという。市長選挙に続いて行われた道議会議員の選挙に立候補した五郎先生は最高点で道議会議員になった。市長選に敗れたとはいえ、五郎先生の政治に期待した人びとがいかに多かったかということである。当時の町村金吾北海道知事の右腕として活躍するのであるが、次期市長選挙にも立候補して敗れ、再び道議会議員となって堂垣内尚弘知事を扶けた。釧路市の市長選の三度目の出馬を多くの市民に懇請されたが道議員としての八年の活動は五郎先生を釧路という地域だけに縛り付けておく状況ではなくなっていて、市長選には湖陵高校での教え子であった鰐淵俊之氏を立てて闘うことになったのだが、ここでも敗れてしまうのである。選挙後、北海道議会議員の視察団員として南米視察旅行に出たが、旅行中下痢に悩まされ、帰ってから間もなく肝臓病で倒れ、昭和四十九年の二月に五十一歳の若さで他界してしまった。
 その折、釧路市のある有力者の一人は、 「 第一次の市長選挙以来十年の間、二度道議会議員の席を得たとはいいながら波瀾万丈とも言うべき、そして、短すぎる生涯だったと惜しまれてならない。釧路市民各層からこんなにも惜しまれ悲しまれた人は、釧路百年の歴史の中で五郎さんが最初で最後の人だったと思う 」 と語った。そして次の市長選挙には五郎先生の弔合戦とばかりに、湖陵高校での教え子であった鰐淵俊之氏が再度立って当選を果たしたのであった。
 五郎先生が倒れたことを聞き、日ならずして私は札幌の厚生病院に駆けつけたのであったが先生は亡くなられていた。霊安室に眠る先生の変わり果てた姿を見て泣いた。通夜の席に連なり参会者が帰った後、棺を護って一晩を過ごしたが五郎先生作詞の、部歌の一節 「 肝胆互に相照らし 」 に因み南高校柔道部 OB 会照胆会の連中で柔道部の歌を唄ったが涙が止まらなかった。翌日の葬儀の席に連なって、釧路に還る先生の御遺体を見送ってから栃木に帰ってきたのだった。


さよならだけが人生だ

 五郎先生から教えられた漢詩に干武陵の勧酒がある。これを井伏鱒二が訳して 『 厄除け詩集 』 に収めている。

         勧酒   干武陵

       勧君金屈巵  君に勧む金屈の巵
       満酌不須辞  満酌辞するを須いず
       花発多風雨  花発けば風雨多し
       人生足別離  人生別離足る

         勧酒   訳 井伏鱒二

       この杯を受けてくれ
       どうぞなみなみ注がしておくれ
       花に嵐の例へもあるぞ
       さよならだけが人生だ

 五郎先生はこの詩が好きだった。そして井伏鱒二の訳詩がことのほか好きだった。「 この世の中には別離ばかりが、やたらに多いものだなあ 」 ということが五郎先生の戦中戦後に兄を亡くし友を失い、太宰を亡くした感慨であった。それだけにこの世の中での人との縁を殊の外大事にされたのだった。私どもは五郎先生との迅い別れをしみじみと想い、別れを惜しんだものだった。

 五郎先生の揮毫された色紙に押される落款の関防印には 「 誠貫 」 の文字が刻まれていたが、誠意・誠実、誠を貫くということを信条としておられたことがこれでもわかる。色紙にはよく 「 眼高手低 」 と書かれた。 「 ものをみる眼や志、気位は高くもち、手は小まめに、苦労を厭わずよく働け 」 という解釈で、自身もそのように行動された。

五郎先生の揮毫 "眼高手低"

 自分と係わりをもったあらゆる人に己の誠を尽くされたのが五郎先生であった。五郎先生に扶けられ励まされた人がどれだけいたかその数は数えきれない。人それぞれの時に応じ事に応じて適切なアドバイスを受けていたのである。私どもの仲間に対しても、例えば本郷の転職の相談には 「 お前を信じている。やってみろ 」 といい、川崎には 「 ひたむきもよし もどるもよし 唯一筋に生きよ 」 、松本には 「 自分自身に恥ずかしくない、最善と思う方法で、まずやってみよ。物事は想像だけで動くものではない 」 、石山の事業独立には 「 意志がある以上やりとおすことだ。是非は結果だ 」 、私には 「 得意冷然 失意泰然 」 であった。
 想えば五郎先生にはいろいろなことを教わった。五郎先生は私の最初の師であり終生の師であった。先生の生き様に憧れ、先生の心に一歩でも近づこうとして私は今日に至ったように思う。


五郎忌

 五郎先生が亡くなったのは昭和四十九年二月十七日であった。翌年から私どもは毎年二月十七日を 「 五郎忌 」 として、札幌と東京でそれぞれ五郎先生を偲ぶ会を催している。五郎先生から直接指導を受けた柔道部の OB たちは、先生が作詞した札幌南高校柔道部部歌に因んだ 「 照胆会 」 と称する会を組織している。

部歌を記しておこう。

     一 豊平川の辺に集い来し
       我等石狩健児等は
       肝胆互いに相い照らし
       厳寒の朝も 猛暑の日も
       友情溢れ 意気に燃え
       白衣に技を競うなり

     二 真理の扉叩かむと
       ああ友達よ手を取れど
       若き血潮は黙し得ず
       遠き栄えをば望みつつ
       団結も固く進み行く
       見よや我等の柔道部

     三 吾が先人の汲み求めし
       清洌の水求めゆかむ
       我等が決意堅ければ
       呼び声遠く平原の
       果てに高く響しつ
       進まむ我等の柔道部

渡部 五郎先生

 照胆会の会員が集う 「 五郎忌 」 はすでに二十回を数えている。集う者は、私の六十三歳を筆頭にして、皆六十歳を超えてしまった。先生は五十一歳で亡くなったのであったから、教え子たちはとっくに先生の年を超えているのだが、先生を思慕する気持ちは昔と変わらない。
 遺影を掲げて、殊の外の酒好きであった五郎先生に、ひとしおこころをこめた献杯をしてから会を始めるのだが、幹事役はその日のほかの会場の様子を、誰だれが出席して会場は何処であるかを伝えるのであった。出席者はそれを聞いて、その者たちが同じ席にいるかのような懐かしさを覚えるのであった。そしてかって五郎先生を囲んで過ごした高校生時代の気持ちに還って、互いに胸襟を開いて歓を尽くすのであった。互いに一年間の消息を伝え合いながら、互いの喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとして語り合うのであるが、話の中心には常に五郎先生がいて、五郎先生ならその話にどんな考え方をされるか、どんな反応を示されるだろうかと、皆がそれぞれに考えながら語り合うのだった。あの日あの時の五郎先生はこうであった、ああであったと、五郎先生の姿や考え方が私どもの胸に甦るのであった。それは、五郎先生が亡くなった翌々日の葬儀の後の追悼会での様子と変わらない。
 五郎先生が十七日に亡くなって、札幌厚生病院の霊安室での一夜が過ぎて、よく十八日札幌での仮通夜が市内豊平町の札幌斎場で行われたのだが、私と本郷ら四人が親族や釧路市役所の人々と一緒に夜を通して遺体をお守りし、十九日の葬儀の後、釧路に帰る先生の遺骨をお送りしてから、その夜再び薄野で照胆会としての追悼会を行ったのであるが、その席で、「 先生の遺体は消滅しても、先生の魂は我々照胆会のメンバーの心に生きていて永遠に消えることはない。先生の教えを伝承するのが我々の使命である 」 と誓いあったことだったが、そのことがこれからも続くであろう「 五郎忌 」 であり、五郎さんは永遠に私どもの胸の中に生きているのである。

 因みに、滝川市に國學院短期大学が設立されたことから、旧制滝川中同窓会の滝川市市議会議長をなさった少覚納氏との知己を得たことから、氏との懇談の間に渡部五郎先生が私の札幌南高校での恩師であることを述べると、五郎先生の中学時代をご存じで、「 五郎さんは滝中創立以来の英才という誉れの高かった人だ 」 と、懐かしそうに語られた。嗚呼五郎先生。吾が師渡部五郎先生への追慕の想い、語り尽くせぬままに筆を置く。

木村 好成著 「 太平台の春秋 」
平成 22 年 10 月 9 日発行  ㈱ おうふう

著者紹介

   木村好成 ( きむら よしなり )
     昭和七年東京市深川区平井町に出生
     天津日本中学校、札幌第二高等学校併設中学校、札幌南高等学校を経て國學院
     大學政経学部に学ぶ、東京教育大学研究生として学校経営管理研究終了
     國學院大學久我山高等学校を経て
     現在学校法人國學院大學理事・学校法人國學院大學栃木学院理事長・國學院大學
     栃木短期大学学監・國學院大學栃木高等学校長
Updated 7 June , 2020