Kataro ホームページ 「 河太郎 」 25 号 平成 23 年 ( 2011 年 ) 2 月 1 日

釧路における音楽鑑賞活動の流れの中で ( 18 )
徳田 廣

 前回は戦後に於ける日本人作曲家がアメリカなどへの音楽界にカルチャーショックを与えた外山雄三、武満徹、黛敏郎などについて記したが、戦中戦後を通じて日本の音楽を発表させ作曲家等について今少し触れてみたいと思う。

①信時潔

「 海行波かば 」 昭和 12 年 ( 東京音楽学校教授を辞し、同校講師となっていた ) 放送協会からの依頼で同年 11 月、国民精神強調週間のため作曲・海行かば水づく屍、山行かば草むす屍・・・・・この歌の持つ荘厳感のため儀式用と広く使われ、大政翼賛会は昭和 17 年 11 月に国民歌と推し、主として戦死英霊を迎える時、敗戦の報道の度毎に放送され、終戦近くには胸がしめつけられ耐えがたいものとなっていた。
 信時は昭和 15 年、神武天皇が九州から大和まで東征された神話にもとづき、交声曲 「 海道東征 」 を書いた ( 北原白秋の長詩、独唱、混声合唱、児童合唱と管弦楽 ) 。戦争協力もあってその後活動を休止するが、シェーンベルクの音楽に傾倒してたらしく、作曲家諸井三郎がドイツへ勉学に行くとき、 「 信時さんから沢山のシェーンベルクの譜をもらったが、日本で一番先にシェーンベルクを研究していた人ではなかったか 」 と言っている。
 ※ 蛇足かも知れないが、旧制釧路中学校 = 釧中 ( 現湖陵高校 ) の校歌は市内本行寺住職菅原覚也 ( 釧中の教師でもあった ) 氏の詩に信時潔が作曲した。校歌として名曲であり、ある種の荘厳さをもつこの校歌が、湖陵校が甲子園に出場し、応援団、同窓生等が歌う姿や声など TV で映し出され、歌を聞いたら感銘感動する人々も多く出るのではなかろうか。校歌の名曲は少ないと言われる中で・・・・。

②山田耕筰

  「 赤とんぼ 」 「 この道 」 「 からたちの花 」 「 かやの木やま 」、歌曲を作曲するのは 「 詩に旋律の衣をあむ 」 行為だと明言し、詩を熟読し、次に歌唱旋律をスケッチし、最後にピアノ伴奏部を付して作品を完成させる。山田の歌曲は白秋との出会いを転機に作曲のプロセス様式も変容したと言われる。山田には演劇と音楽との融合芸術である楽劇の構想があり、ときおり白秋に楽劇台本の起想を依頼していたが、白秋は自由詩から定型的な短歌のみちを選び、山田の要望に背をむけた型になった。

③瀧廉太郎

  作品の多くは声楽曲であり大半は幼稚園唱歌と中学唱歌であり、 「 荒城の月 」 は日本的な 「 あはれ 」を表現し、歌い継がれている。芸術歌曲集と見做せる組曲 〈 四季 〉 の一曲 「 花 」 がある。シューベルトやメンデルスゾーンのような清々しいロマン派音楽の影響が強く、二つの器楽作品 「 メヌエット 」 「 憾 」 もロマン派の域を出ないといわれ、なかでも 「 憾 」 に於ける悲痛な叫びは胸を打ち、・・・・。

④芥川也寸志

 芥川龍之介の三男、父の SP コレクションの中からストラヴィンスキーの 「 火の鳥 」 と 「 ペトルーシュカ 」 に親しみ作曲家を志し、東京音楽学校で戦中期に橋本国彦らに師事し戦後は伊福部昭に師事、早坂文雄の映画音楽の仕事でアシスタントを務め、 「 交響三章 」 「 交響管弦楽のための音楽 」 で名声を確立した。その後、 60 年の原爆物のオペラ 「 ヒロシマのオルフェ 」 ( 台本 大江健三郎 ) などを作曲、 「 音楽はみんなのもの 」 と明言し、前衛音楽は 「 みんなのもの 」 にはなりえぬと悟ったようである。

⑤団 伊久磨

 下総皖一、橋本国彦に師事、 NHK 創立 25 周年記念懸賞で特賞を芥川の 「 交響管弦楽のための音楽 」 と分けあった。芥川也寸志、黛敏郎と 「 3 人の会 」 を結成 、85 年、 「 交響曲第 6 番 "HIROSHIMA" 」 を広島の人々の鎮魂と復活への心の強さの表現に篠笛のもつ力を活かした。
  49 年、木下順二の 「 夕鶴 」 の付帯音楽を創作、 52 年、オペラ 「 夕鶴 」 を創作、同オペラには 「 民話 」 の題材、 「 素戔鳴 」 、 「建 ( TAKERU ) 」 の神話の世界、民族的なものをもつ普遍性の力、 「 ちゃんちき 」 「 聴身頭巾 」 の明朗さなど。
  「 夕鶴 」 のアリアなどに見られる叙情性は声楽作品に共通しているが、団の大切にしている人間の 「 暖かさ 」 を感じさせるものがあり、聴衆の理解を常に前提とした創作姿勢であろう。

⑥清水 脩

 寺院に生まれた父は楽人でもあったので、幼少から雅楽、お経などに親しみ、大阪外語学校卒業後、東京音楽学校に学び、橋本国彦らに師事、合唱作品は生涯を通し作曲され、群を抜いて数多い。初期の作品 「 月光とピエロ 」 は男声合唱団で歌われないところはないといわれる名曲として歌い継がれている。仏教に関連したカンタータも多数作曲され 「 仏教大師賛歌 」 が代表作である。オペラ第一作の 「 修善寺物語 」 を手始めに、日本語の旋律化の課題に挑戦、再演も多く親しまれている。その他歌曲等でも牛追唄、ソーラン節、佐渡おけさ、最上川舟歌などの他 「智恵子抄巻末の 6 首 」 「 宮沢賢治・三つの詩 」 など伝統音楽と民話、民謡への取り組みはオペラ界はじめ革新的な役割を果たした。室内楽、器楽作品では 「 越後獅子幻想 」 ( 箏、尺八、三弦、十七弦、三拍子 ) などがある。

⑦諸井 誠

 作曲家諸井三郎の次男、 ( 兄は秩父セメント会長などを務め秩父小野田 KK 会長として知られる財界の著名人 ) 1932 年、幼少で父と渡欧 ( ナチス政権誕生の頃 ) 、父のピアノの手ほどきを受け独学で作曲をはじめ、後、池内友次郎に師事して東京音楽学校へすすみ、在学中からシェーンベルクなど作品に関心を示し、1957 年、黛や岩城宏之らと組んでグループ ( アルス ) ノヴァを発足させ、後に、柴田南雄、入野敏朗、吉田秀和など含め 「 20 世紀音楽研究所 」 を発足、同年夏軽井沢ではじまった現代音楽祭レクチャーや討論会など自作について述べたり 60 年代中篇には伝統楽器を用い始め、尺八現代本曲である 「 竹籟五章 」 同年には 2 本の尺八による体位的効果を求めた 「 対語五題 」邦楽器、洋楽器との競奏関係が様々に試みられ、尺八のための 「 竹林奇譚 」 「 協奏交響曲第 3 番 ( 神話の崩壊 ) 」 など宇宙論的構想もみられると言われる。

⑧平尾貴四男

 慶応大学独文科卒。1931 年渡仏後セザールフランク音楽校で作曲を学び、47 年ヴァイオリンソナタはモンブラン賞、49 年安部幸明 ( プリングスハイムに師事、ローゼンシュトックに指揮法を師事 ) 高田三郎らと 「 地人会 」を結成、平尾はフルートも吹き、その演奏は宮城道雄らの新日本音楽運動などで日本楽器改良の点からも注目され、フルートのパートが尺八の改良楽器やハープをとり入れた作品があるが、作曲家連盟の他の作曲家より最も早い時期であった。彼の著した子供のための 「 私たちの作曲 」 に、
     「 音楽をきくのはたのしい、演奏するのもうれしい。しかし音楽を自分の
       手で作り出すのはもっと大きなよろこびだが、よろこびには苦しみがと
       もなう。だがその苦しみにたえてこそ本当のよろこびを味わうことにな
       るだろうか 」
と。彼はドイツロマン派文学で自我に目覚め 19 世紀ヨーロッパ近代の音楽が人々に与える力が現代日本の音楽に生み出したいと考え、戦後精神の開放された時代にこそそれが可能な時代と。一方声楽作品のほとんどは内田るり子編 「 平尾貴四男歌曲集 」 に収録され、原曲は管弦楽伴奏の 「 隅田川 」 などには楽劇への強い関心や意欲がみられるという。彼の弟子に一柳 慧や ( 故磯部淑 )がいる。

⑨一柳とし

 父はチェロ奏者、 5 才の時から母にピアノを学び、中学 1 年の頃から平尾貴四男に作曲を師事、その後池之内友次郎に作曲、名ピアニスト原智恵子にピアノを学ぶ。 49 年、第 19 回ピアノコンクールの室内楽部門で 1 位となり 3 年連続入賞。 56 年、ジョン・ケージがニューヨークのニューススクールに講座をもっていたので、これに参加、 60 ~ 61 年、ジョン・ケージなどと組んでコンサートシリーズを続け、一柳の名はニューヨークで注目された。 「 20 世紀音楽研究所 」 の現代音楽祭や 〈 草月コンテンポラリーシリーズ 〉の現代音楽祭を終えてその後、一柳は武満徹と 66 ~ 68 年、 「 オーケストラル・スペース 」 を開き、 68 年には当時人気絶頂の 「 グループサウンズ 」の一つ、モップス・のオーケストラドビッシーの 「 海 」 やベートーヴェンの 「 交響曲第 5 番 」 の引用変形とを共演させ、一柳の 「 ピアノトッティアプローズ 」 で観客を驚かせた。 69 年、ロックフェラー財団の招聘で渡米、アメリカ各地で作品の発表会を開く、 81 年、第 30 回尾高賞をとったピアノ協奏曲第 1 番 〈 時間の記憶 〉 では 「 音楽は本来、時間と同時に密接にかかわりをもっているのではないか、私は自分の音楽の一つの方向として空間の問題と時間と分かちがたく結びついている対象として追求して行きたい 」 と考える。 84 年、中島健蔵音楽賞を受賞、同年日仏文化サミットの一環として武満徹とともにパリのシャンゼリーゼ劇場でオーケストラ作品の発表会を開催、 85 年、フランス政府から芸術文化賞受賞、 88 年、サントリー財団主催の作曲家の個展一柳慧で交響詩 「 ベルリン連詩 」 を発表、第 30 回毎日芸術賞と京都音楽大賞を、 90 年には 4 度目の尾高賞を受賞している。 ( 以下次回へ )

○参考文献 新版 「 音楽五十年史 」  堀内敬三著、その他。
Updated 8 July , 2019