Kataro HomePage 「河太郎」21号 平成22年(2010年)4月1日

釧路に於ける音楽鑑賞活動の流れの中で ( 14 )

徳田 廣

名優森繁久弥の死

 特に昭和の時代に活躍したが昨秋、平成 21 年 11 月 10 日のことであり 96 歳。 「 夫婦善哉 」 「 屋根の上のヴァイオリン弾き 」 などで文化勲章初め同年 12 月 8 日、政府は国民栄誉賞を与え、遺族に表彰状を授与した。野球の 「 王貞治 」 、歌謡の 「 美空ひばり 」 など 17 人に次ぐ 18 人目。映画監督の山田洋次は 「 森繁さんの背中を撮りたい。それは戦争を生き抜いた日本人の多数をつつむ姿でもあるのだろう 」 。森繁が最初に唱ったのを加藤登紀子が若干編曲し、広がった 「 知床旅情 」 は忘れられない名曲となって愛唱している人は多い。

「 思い出す歌謡曲の数々 」

 そんなことで今回は今迄とおもむきをかえ 「 歌は世につれ・・・・ 」 のように歌の流れを追ってみたい。
  100 年来の不景気で世の中どう変わって行くのかを時代を映すような歌があるのでなかろうか。一部のクラシック独唱者の中に、「 歌謡曲 」の名が使われはじめ、「 歌謡曲 」→「 はやり歌 」→「 流行歌 」 と言われ、 「 はやり歌 」は洋楽と邦楽のどちらにも入らないものとしてラジオ放送などで使われなくなって行く。ぼくが子供の頃、 「 青空 」 ( 夕暮れに仰ぎみる ) 「 君恋し 」 ( よい闇せまれば ) 「東京行進曲 」 ( 昔恋しい銀座の柳 ) 。昭和 6 年頃 「 酒は涙か、ため息か 」 の古賀政男メロディーは感傷的、藤山一郎はバリトンの本来の美しいテノールの音色一音一音の響きがホールの隅々まで響きを、 ( 響きのある弱声 ) はマイクロフォンが効果的な役割を果たし 「 丘を越えて 」 は明るく透明感に満ちあふれていた。

昭和恐慌

 大学は出たけれど "柳条溝事変" は 「 満州事変 」 へ。日本の歌謡曲・・・・藤原義江オペラベルカントから日本語は不鮮明さが始まったという。昭和 7 年 「 銀座の柳 」 ( 植えてうれしい銀座の柳 ) 「 涙の渡り鳥 」 ( 雨の日も風の日も泣いて暮らす ) 「 天竜下れば 」 ( ハア天竜下ればヨー ) の小唄勝太郎 「 サーカスの唄 」 ( 旅のつばくろ淋しいじゃないか ) の市丸、三味線の前奏に 「 鹿児島おはら節 」 ( 花は霧島たばこは国分、燃えて上がるはオハラー桜島 ) 、昭和 9 年頃、東海林太郎の 「 赤城の子守歌 」 ( 泣くなよしよしねんねしな ) 「 国境の町 」 ( そりの鈴さえ淋しくひびく ) 、昭和 10 年頃の 「 旅笠道中 」 ( 夜が冷たい心が寒い ) 「 むらさき小唄 」 ( 流す涙がお芝居ならば ) 、音丸の 「 船頭可愛や 」 ( 夢もぬれましょ夕風夜風 ) 、ディックミネと星玲子の 「 二人は若い 」 ( あなたと呼べば貴方とこたえる。山のこだまのうれしさよ ) 東海林太郎の 「 野崎参り 」 ( 野崎参りは屋形船でまいろう ) ディックミネの 「 黒い瞳 」 ( 黒きなが瞳なやましく ) 「 ダイナ 」 ( ダイナ私の恋人、胸にえがくは麗しき姿 )

非常体勢と流行歌

  "たたかいは創造の父、文化の母体である" と陸相林銑十郎らの動き 「 国民歌謡 」 として 「 椰子の実 」 が登場する。「 椰子の実 」 は島崎藤村の作詞、 「 夜明けの歌 」 ( 霧が晴れるよ夜が明ける ) 「 春の歌 」 ( ラララ紅い花束車に積んで春が来ました丘から町へ ) 藤山一郎 「 青い背広で 」 ( 青い背広で心も軽く旅へあの娘と行こうじゃないか ) この歌の中には "ニコライの鐘 "  "ジャズの浅草" などモダンな東京の風景がもり込まれていた。

「 軍事歌謡への推進 」

 昭和 13 年、近衛内閣は国民政府を相手とせず自ら平和への途を閉じ、戦争の長期化を選択した。 「 野営の歌 」 ( 勝って来るぞと勇ましく誓って国を出たからは ) 「 九段の母 」 ( 上野駅から九段まで ) 「 愛馬行進曲 」 ( 国を出てから幾月ぞともに死ぬならこの馬と ) 「 父よあなたは強かった 」 ( 父よあなたは強かった。身もこがす炎熱で ) 映画の主題歌 「 愛染かつら 」 ( 花も嵐もふみ越えて・・・・ ) 「 一杯のコーヒーから 」 ( 一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・・ )

「 太平洋戦争前夜 」

 軍事政権、 「 暁に祈る 」 ( あゝあの顔であの声で手柄たのむと妻や子が ) 「 若鷲の歌 」 ( 若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨 ) 「 ラバウル小唄 」 ( さらばラバウルよ、また来るまでは ) 。東条内閣↓小磯国昭内閣へ、山本五十六元帥が戦死し、 「 レイテ湾 」 などでは日本海軍が全滅敗戦で B29 の登場で本土空襲が強まる。廃きょの中から 「 リンゴの歌 」 ( 赤いリンゴに唇よせてだまってみている青い空 ) 「 かえり船 」 ( 波の背の背に揺られて揺れて ) 田端義夫。 NHK が占領軍むけに放送していた WUTR の灰田勝彦、進駐軍キャンプで高級将校慰問に南里文雄とホットペッパーズ。バッキー白片とアロハハワイアン。
 戦後 10 年して戦争後、吉田茂第二次内閣、アメリカ一辺倒の政界を鳩山一郎内閣が外交の方針を改めた。

「 ブギの爆発 」

 笠置シズ子 「 東京ブギウギ 」 ( 東京ブギウギリズムうきうき心ずきずきわくわく ) 「 異国の丘 」 ( 教も暮れ行く異国の丘に友よつらかろ、切なかろう ) はじめ作詞作曲家不明と言われたが吉田正と判った。岡晴夫 「 憧れのハワイ航路 」 ( 晴れた空そよぐ風港出船のドラの音愉し )

「 平和への祈り 」

 永井隆博士は原爆症で苦しんだ。著書 「 この子を残して 」 に親交のあった式場隆三郎の強い要請で古関裕二が作曲した 「 長崎の鐘 」 ( あゝ長崎の鐘が鳴る ) 「 青い山脈 」 は戦後民主化の息吹を ( 若く明るい歌声に雪崩も消える花も咲く ) 藤山一郎、石坂洋次郎の 「 青い山脈 」 の映画化 ― 原節子主演など ― で広まった。美空ひばりの 「 悲しき口笛 」 ( 丘のホテルの赤い灯も胸の明かりも消える頃 ) 13 歳の少女とは思えないものがあった。 NHK の 「 のど自慢 」 も始まり、 1954 年、アメリカの水爆実験で死の灰を受けた 「 第五福竜丸事件 」 後 "原爆許すまじ" 、 "歌ごえ運動" などとなって広がって行くのだった。
  1940 年代初め ( 昭和 10 年半ば頃 ) 元丸三鶴屋デパート ( 後に丸井今井釧路店となる ) の北側末広町四丁目にあった劇場 「 八千代座 」 。同劇場は釧路市史にも 1916 ( 大正 8 )年、装いで誕生とある。大正ロマンを感じさせるモダンさがあったが、昭和 45 年の釧路空襲で焼失したが、 「 ディックミネ 」 やターキーこと水江滝子 ( 昨秋死去 ) など来釧したこともあった。(つづく)


Updated 3 July , 2017