Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 17 号 平成 20 年 ( 2008 年 ) 4 月 1 日

放屁学外伝 ( 一 )

田丸 治


一. 遺伝子

 どの様な遺伝子によるものか? とにかく彼は人並みはずれておならが出る。屁をふるとも言う。 ( 北海道では屁をひるとは言わない ) あまりの頻度に自分でいやになることも、またこれについての苦労は、普通の人は誰も分かってくれないとも言う。もっともなことだ。
 だらしがないからだと人は言う。だが、どんなに気をつけても彼の身体の中からわき出て来るようなもよおしを押さえることは、一回は出来てもその後は苦痛そのものになるそうだ。
 朝、目が覚めた時や、くつろいだ時に音とともに放ったり、無意識にもらす男性などは普通、一般的であるが、彼の場合は時と所を選ばずに四六時中とは言わないまでも、一旦もよおしがくると、相当の数が続く。無意識ではなく、全部意識しているそうだ。おなかの中がどうなっているのかと思う程だ。
 母子家庭で育った彼は、長男なので小さい時は男の人はみんな自分のようにふるものだと思っていたそうだ。
 しかし、学校に入って彼は自分の異常さに少しずつ気がついてきた。この異常さはきっと遺伝による体質からきているのだと考えた。
 人が、遺伝ですばらしい才能を受け継いだり、特異な体質を親から譲り受けたりするのと同じでないかと。
 小学校 2 年生の時、教室で他人を気にしないで自分の家にいるような感覚でふっていたらしい。隣に並んだ女の子からそのだらしなさを指摘されて、生まれてはじめて家族以外の他人からの苦情にその恥ずかしさで顔が赤くなったそうだ。
 恥ずかしいと言うことと、自分は少し違うんだと気がついたことで六十歳を過ぎてもその時の彼女を覚えているそうで、これは恨みではなく、よくぞ言ってくれたとの感謝の気持ちだと言っているが、はたしてそれだけだろうか。
 彼は、家に帰るなり母親に家系の中で自分みたいな人がいたかどうかを聞いてみた。
 彼の父親は、小学校に入るまえに亡くなっていたので、父親の性癖がわからなかったからだ。
 母親は、いろいろと教えてくれた。父親は、それはたいへんなもので、隣の家でも聞こえたかと言う大きなものをよくやっていたし、頻度も相当のようだった。
 しかし、臭気の記憶は、あまりないと言う。
 彼の父の母つまり彼の祖母は、彼が生まれたとき既に亡くなっていたが、ふだんもよく音を出して「これはぶちょうほう」といつもまわりに謝っていたことが、彼の母の記憶に強く残っているそうだ。
 その祖母が脳溢血で倒れた時には、救急車などの無い時代だから父がおぶって病院に運んだ。その時両方で音を出していたと言う話を以前に彼の伯母からの話として聞いたことを思い出した。
 彼の祖母は、南部藩士の娘だったというから、若い時から相当苦労してきたと思うが、案外気にしないノーテンキなところがあったのかもしれない。
 こんなあんなで彼は、遺伝子の作用に間違いないと確信した。そくで、心配が増えた。
 彼には三人の子供がいる。誰かにこのことが、遺伝していないか、特に娘にどうかと彼だけの密かな心配があったが、今のところいずれも異常は見あたらない。
 こういうことは、孫に現れることが多いと聞くが、それも四人の孫には、現在幼児なのでよく分からないが、今見たところ大丈夫なようで気を休めているそうだ。
 遺伝とは恐ろしい。人の細胞の染色体に DNA があり、この分子構造の中に遺伝情報が書き込まれているそうだ。放屁体質が遺伝学上解明されるのは、相当先になるだろうとおもうが。


二. 少年時代

 彼は、前述のように小学二年生から自覚して、学校では休み時間に処理するようにつとめたから、それにまつわるアダ名もつかず、特に”くさい”という話もあまり広がらなかった。彼の体質からすると、もよおしてくると、休み時間だけで処理することは相当むつかしかったようで、時々スカシていたようだ。
 どうも彼の場合は、臭気が弱いのが特徴のようだったが、この時代の食糧事情を物語っているようでもあった。だから、まわりの正常な人もそれなりにふかしていたようで、かなり理解もされていたのではないかと思う。
 蛋白質や油脂を多く食べていると、臭気がひどく、炭水化物が多いとあまり臭くないと何かで読んだことがあるので、適当に判断した。
 そんな努力の中で、修学旅行やキャンプはどクラスの友達と生活を共にするときは、人に言えない苦労があったと思うが人並みに楽しんでいたように見えた。
 家に帰って近所の子供達と遊ぶ時は、ほとんど屋外だったので自由闊達に音を出していたことを覚えている。本当によく出るなあと呆れていた。そこには、学校と違ったおおらかさのためか、友達もそれなりに同じように音を出していた。炒大豆が大切なおやつの時代だったから、植物性の食べ物が多かったからだろう。
 草野球の時だったか三十番倉庫遊び ( 肥料の倉庫の中で天井からのロープに捕まって山から山へとターザンのように渡って遊ぶ ) の時だったか、ある友達が彼に言ったことを私自身も今でも覚えている。
  「 俺の叔父さんの話では、戦時中にある人がさる偉い人の前で、放屁で君が代を演奏して、大変に褒められて褒美をもらったそうだ。しょっちゅう出すお前だから、練習したら音楽ができるようになるんじゃないか 」 と、友達みんなは大笑いした。バカにされたと感じたら誰でも怒るのが普通であるが、彼はウンウンと聞いているだけで、言った友達も拍子抜けであった。あまりのことなので、返す言葉を失ったのか、まさか彼本人が可能性を感じた訳でもあるまい。あれは、小学5年生くらいの時であったと思うが、私が覚えているのだから本人にも相当ショックな言葉だったにちがいない。
 少年時代の彼の性癖は、勿論家族にも相当迷惑をかけていたらしいが、慣れてしまって、あまり苦情がなかったみたいだ。それと言うのも悪臭が少なかったからではと、推測している。
 しかし、それをよいことに他人を気にしないで生活してきたものだから、姉弟の顔の前や、来客の前でやることもあったようだ。その都度母親や姉弟から強く叱られたのは当然である。
 彼には二才違いの弟がいたが、小さい時から一つの布団に一緒に寝る事が多かったから 「 にいちゃん、臭い 」 と布団をぱふぱふやりながらいやがられたこともしょっちゅうだったそうだが、二人は仲がよかった。こんな弟がいるといいなあと羨ましく感じたものだった。彼が、布団以外で相当多発しても、家族からは 「 よくたれるなあ 」 と言われるくらいなので、一発当たりの臭気度は、当時は低かったのだろう。また、当時の家の造りも開口部が多く、こもるようなところが少なかったせいもあるのではないか。
 中学生時代に 「 誰だたれたのは? 」 と言う場面がしばしばあった。 「 俺だ。すまん 。」 とあっさり言える時としらばっくれる時とがあったそうだがタイミングのせいだといっていた。何やら、異様な臭いが漂うと顔を見合わせるが、今思うと半分くらいは彼の仕業だったのだろうが、他の友達もおそらく現在の中学生とは比べものにならないくらいの頻度であったにちがいない。
 国民皆が栄養不足の時代であったことは、彼にとって良き時代であったとも言えるのでないか。


三. 高校時代

 高校時代に入ると、何事も恥ずかしいことを覚えてくるのが自然である。特に男女共学であると、それぞれに異性を意識するようになる。こんな時に彼のような性癖は、全く困ったしろもので他人に知られない努力は厳しかっただろう。
 高校一年のとき吹奏楽部に席をおき毎日練習に励んでいたようだが、小中学校から一緒だった口の悪い同期生から、「楽器はいらないんでないか」と冗談を言われたとくやしがっていたことがあった。しかし、言われるのが当然だと私は妙に納得したものだった。
 高校に入って厳しい中にあっても、救われることもあったみたいだ。何といっても高校の机が一人掛けで、直接隣の生徒に迷惑を掛けないですむことは、少しだけれど気が楽になった。また、幸いなことに彼はクラスの中で背が高い方になり、教室でもグランドでも後尾の方の授業が多かったことは、いろいろな面でよかったと言っていた。
 そんな形で、修学旅行もクリア出来て受験体制へと入って行ったが、彼があまり市立図書館や学校図書館を利用しなかったのもうなずける。
 当時の受験する高校生は、中川塾で中川久平先生の英語の薫陶を受ける者が多かったが、彼もこの塾に通った。この塾は、先生の自宅の小さな屋根裏部屋に畳を敷いて、お座りで勉強すると言う昔式のものだから、 1 週間に 3 日 2 時間程だが、もよおしが来ると大変だったそうで、その時は勉強どころでなかったと。おなじ班の生徒は、さぞ臭かっただろうなと言っていた。
 家では、おそらく猛烈な噴射をしながら、誰はばかることなく受験勉強に取り組んでいたことだろう。


四. 大学時代

 彼の札幌での大学時代の生活は。実際に見たことではなく、彼との会話の中から得たもののため客観性にやや欠けるが、記憶をたどって記録してみよう。
 さて、彼の大学生活が始まるが、大学の寮はすぐ入れると思っていたがそれは甘く、下宿を探すことになった。もっとも、もし寮に入っていたら6人か8人の部屋なので、彼の性癖をどのように発揮したか面白かったかもしれない。
 約一ヶ月間親戚の大学院生の下宿に入り込んで下宿を探し、やっと見つけて入った所は、普通の家で、空いている部屋を貸してもらったとのこと。四畳半の個室で快適であった。だが、隣が茶の間で障子戸が堺であり、音が全部聞こえると言うことがあとで分かった。快適なるが故に思いっきり音を出してふっていたら、食事時間に他の下宿人や家族から大笑いされたのも当然で、それからどの様に節制したかは聞きもらした。
 大学での講義のときはどうだったかと聞いたことがある。最初は、教養課程なので何百人もの学生が大きな講堂で講義を受けることが多いので、かれの性癖は、それ程苦にならなかったそうだ。もっともこれだけではなく、語学等は、 60 人くらいの教室となるのでそれなりに工夫したらしい。大学は、どの部屋も土足であることがまず気を楽にする。アルバイトなどで休む学生が多く、出席ギリギリで単位を取る学生もいて、教室に空席が多い。彼はこの空席を利用したらしい。
 それから学部に移行しても、大学での受講に彼の性癖はそれほどの障害にはならなかったみたいだ。ただ、小用の近い人と思われていたかも知れない、と言う。

 下宿はそれから 2 回ほど代わったが、下宿代のこともありほとんど 6 畳 2 人であった。
 最初から断っていたそうだが、何故か同室の相手が次々に代わったのは、直接口に出して言えないが、彼の性癖によるのではないか、と思っているそうだ。それでも釧路から来た予備校生が、 「 音は聞くが、臭いがない 」と 言って札幌にいる最後まで同室だったことにはホッとしたとか。
 最後の下宿は 2 年位いたが、同じクラスの学生の家だったので、彼の性癖は充分に理解されて入ったと彼は思っていた。茶の間にいる時間が長いのでもらす事も多く、おばさんは、便秘のせいだと思い込み、薬を用意したり、おかずに気をつかったり心配されたのにはまいった。恐縮の至りだが、そのうちに、おばさんもあきらめてしまったそうだ。
 この頃麻雀をおぼえたが、おべたてのためかよくやったみたい。丁度下宿の隣が釧路の太平洋炭鉱の学生寮だったので、いろいろと交流があったようだが、そのうちにいろいろな友達が集まるようになってしまったようだ。この連中には彼の性癖で、相当に迷惑をかけたことだろう。
 こんな生活からか、ガールフレンドなど憧れはあっても、多分特定の人はできなかったのだろう。


五. ボート部生活 ( 1 )

 大学 1 年の夏休み前に、ボート部に入ったが、すぐその日から合宿に合流して翌日からボートに乗せられてトレーニングが始まった。
 選手の方は別の棟の艇庫に寝泊まりして、一年生十八人の部員は、平屋の艇庫にザコ寝であった。集団生活は面白く、ここで、いろいろなことを周りから教わったそうだが、問題は、その合宿の中で他人に迷惑をかけないために、どうすればよいかを彼はあまり考えてはいなかったことだ。
 しかし、案ずるより何かで、合宿では、 「 プーチング 」 とよんで食事中でもふることがおおっぴらであったらしい。ボートの上でのトレーニングのときは、常に水上にあって、陸上での練習も自然豊かな環境の中だから、他人への配慮はあまり必要でなかったそうだ。
 夜、食事が終わって本を読んだり、勉強したり、雑談が終わり十時になると消灯となる。問題はそれからだ。部員は、一斉に寝ることになるが、この時以後のもよおしをどうするのかと言うことである。しかし、これもあまり気にしなくてよかった。部員は、トレーニングで相当疲れているのですぐ熟睡する。
 ある夜中トイレで突然起きた時は驚いた。いびき、歯軋り、寝言、寝屁などでそれはそれは賑やかなもので、特にいびきは一つの音楽と言えるほど、歯軋りと言うものも、はじめて聞いたとか。
 彼の場合は、まわりの部員の話では、寝屁よりも寝言がすごいそうだ。大学でのこと、合宿でのことなどをまるで起きているようにしゃべったり、誰かの寝言に正確に受け答えすることもあると言う。朝、本人の記憶には全く残っていない。これは、新しい環境に入った疲れからのものらしく、慣れるとこんなことはだんだんなくなったようだ。
 合宿での放屁 ( プーチング ) については、もうひとつ助かった事があったそうだ。それは、彼よりも強烈な放屁をする、それも四六時中ふる、そして臭い。そんな O 君がいたからだ。 O 君は、全く人前を気にしないでふるので、皆も諦めたようだ。彼は、 O 君をうらやましくまた頼もしく感じたそうだ。お陰で、彼の自制も緩みがちとなり、大学での講義の際ももらすようになったのではないか。


六.ボート部生活 ( 2 )

 二年目になると、漕手、舵手、マネージャーに分かれた。体重も中途半端で舵手にもなれないので、彼と O 君はマネージャーになった。
 ボートと言うのもは、公園の貸しボートも含めて漕ぎ手の背中の方に進む。舵手は、進行方向に向かう。漕手がプーチングした場合は、前後の部員に迷惑がかかることになる。その点舵手の場合は、ほとんど影響が及ばない。マネージャーになって後輩の指導の立場で舵を取ることを目指したそうだ。
 しかし、このマネージャーと言う仕事は大変なものだった。後輩の指導と言う仕事もあるにはあったが、会計、寄付集め、先輩の名簿、買い物、飯炊き、コーチの世話、選手の世話、選手権大会への準備、冬の合宿 ( 本州方面 ) 準備等々で、考えると頭が痛くなることばかりだった。いわゆる経営である。がそこは学生だから、あまり気にしないで出来る事をやっていたようだ。
 対抗選手が漕いでいるボートを指導するには、モーターボートで追いかけてコーチが叫んでするが、 O 君は、このモーターボートの運転が得意だった。選手達は、プーチングの噴射力でモーターボートのガソリンが節約できるのでないかと冗談を言っていたそうだ。出来るだけふらないようにつとめたと言う。
 マネージャーの仕事は、選手や他の部員の消灯時間に合わないので、個室をさがして生活する。最初は、個室とは言えないが別棟の風呂場の脱衣所に布団を持ち込んだ。ここまでは、気楽な合宿の様に思えた。コーチやマネージャー三 〜 四人が狭いところではあるが、寝泊まりしたので、選手や他の部員から羨ましがられた。しかし、その臭さには、彼自身まいったと言っていた。コーチはヘビースモーカーで体臭が強く、それに二台の噴射機付きだから夏分なら窓の開放で何とかなるが、冬を迎えてのトレーニングでは、そこにある物にも匂いがしみついた様だったとか。
 全日本選手権のため上京したときは、埼玉県戸田市の農家に合宿したが、この時もコーチとマネージャーの部屋は、別に民家に間借りした。臭いのは同じだったが、ある年は、荒川の川原にボートの監視小屋が出来たので、彼は希望して寝泊まりした。しかし、あまり狭いので、今度は自分のプーチングの臭さに困ったそうだ。なにせ仮小屋だから、蚊を防ぐ何もなく戸を閉め切って蚊取り線香を炊かなければ、蚊の餌食になるからだったそうだ。
 とにかく、 O 君のお陰でボート部における彼の性癖 ( プーチング ) については、比較的に影の薄い存在であったと彼自身は思っていたようだ。

( 続く )

Updated 15 July , 2017