Kataro ホームページ 「 河太郎 」 第 16 号 平成 19 年 ( 2007 年 ) 2 月 1 日

「 釧路に於ける音楽鑑賞活動の流れの中で 」 ( 9 )

徳田 廣


川村清一先生のこと

 本誌 12 号で川村先生とご子息の川村英司さん ( 57 年第 1 回ハイドン、シューベルトコンクール ヴィーンで第 1 位優勝。その後 78 年シューベルト没後 150 年記念で 5 夜連続、 89 年ブラームス生誕 150 年記念で 3 夜連続、 85 〜 86 年ヴォルフ生誕 125 年記念で 4 夜連続の演奏会など行い、 87 年武蔵野音楽大学教授を定年退職、現在日本フーゴー・ヴォルフ協会理事長などを勤め日本リート界の優れたリーダーとして活躍 ) のことについて若干記したが、その時わからないこともあったので、川村英司さんにお伺いしていたが、お便りがあった。前回と若干重複するところもあろうが、記してみたいと思う。加村清一先生 ( 別掲写真 )
昭和 2 年 函館師範学校 ( 英語、商業科 ) を卒業、旭川青雲尋常高等小学校へ勤務
昭和 5 年 武蔵野音楽学校師範科へ入学
昭和 7 年 上在学中に中学校、高等女学校教員試験合格、音楽科の免許取得 ( 文部省認定 ) = 文検合格 =
昭和 7 年 10 月 妻子を養う必要もあって、就職のため師範科を 3 年で中退し、北海道庁立根室高等女学校教諭として勤務
昭和 10 年 北海道庁立釧路高等女学校教諭として勤務
昭和 11 年 北海道庁立釧路中学校音楽科教諭嘱託
昭和 15 年 音楽研究のため出張被命 ( 武蔵野音楽学校師範科第 3 学年の課程を修了し、卒業証書取得
昭和 18 年 釧路庁立高等女学校から室蘭へ転勤、室蘭市立高等家政女学校勤務
昭和 22 年 同校校長事務取扱い
昭和 23 年 東京都立大田区立大森第 7 中学校へ
昭和 25 年 東京都立大田高等学校
昭和 30 年 東京都立田園調布高等学校教務主任
昭和 39 年 依願退職
 その間、中学校教員再教育 ( 教科課程 ) 講師、教科用図書検定審議会委員、東京都教員適性検査実施委員などの公職を勤めている。

「 釧路音楽研究会 」 の発足

 川村英司さんからの手紙には ( 以下原文のまま )

  「 中学校の嘱託をしていた時代に "ラッキョウの逆立ち" というあだ名をつけられ、僕を見つけると "子ラッキョウ" と言われ、腹を立てたことがありました。当時の釧路高女の教頭先生が岡沢武氏で大変音楽に理解があり、 「 釧路音楽研究会 」 を釧路高女内立ち上げることが出来、岡沢先生も会員になられたそうです。特に寿小学校の三浦先生 ( 後に根室高女に栄転 ) や平田先生 ( 小学校の先生で後に東京都の中学校長もなされたとの事 ) が非常に積極的であったとの事です。その後、校医の高後先生の嫁さんにピアノのレッスンをすることになったりした関係でしょうか、高後先生も加わってくださったようです。最初の頃の研究会で河野 ( 現鈴木 ) 公江さんがピアノソロ ( ソナチネを弾いたとか ) をしたり、活動が始まったそうです。

川村英司先生

 父は武蔵野音楽学校に在学中に文検に合格、教員免許状を取得したので妻子を養うため就職し、根室高女に赴任し、音楽学校は中退となりましたが後に卒業証書が欲しくなり、昭和 15 年に二ヶ月少々東京に出かけましたが、それが音楽研究のための出張であったとは今回初めて知りました。釧路の誰かが音楽研究会のプログラムなど所有していないでしょうか。昭和 10 年頃の市長 ( 茅野さん? ) さんの娘さんがピアノを内地で勉強して釧路でコンサートを開き、コンチェルトのピノ伴奏を弾かれたこともあったそうです。
 今年 6 月に結城 ( 旧坪田 ) 貞子さんに札幌でお会いし、その節同級生の喜多村 ( 旧伊藤? ) さんが同席され、 4 年生になった時釧路高女に転校したそうですが、私一人だけピアノもオルガンも弾けなくてとても苦労したとの話を聞きました。いずれまた親父からいろいろ聞き出してお知らせいたします 」 。

羽生節子さんのお話

 弥生町の東栄小学校のすぐ横 ( 現六園荘の向い ) に広い空き地がある。ここは知る人ぞ知る坂井徳治氏の邸宅敷地の跡である。坂井徳治氏は函館のキング商会に勤めアメリカなどにも勤務し語学も勉強され、明治 10 年に釧路支店支配人の後、大正 8 年独立し木材輸出関係の大手に成長した。大正 10 年から 3 期 12 年、釧路市議会議員など勤めるだけでなく釧路商工会議所会頭など務められ、将来はシベリア開発まで視野を広げていたと言われる。
 羽生節子さんは徳治氏の三女で、三ツ輪運輸に勤められていた羽生大司さんと結婚、長男の輝さんは釧路を代表する美術家の一人で郷土が生んだ日本画の大家久本春雄先生の唯一人の教え子である。せんせいは他に弟子はとらなかった。輝さんは昨年、岡山県の総社市で開かれた墨画展で平山郁夫 ( 人間国宝 ) 賞を受賞し、益々活動が注目されている。
 羽生節子さんは庁立釧路高女の第十五回生 ( 昭和 12 年卒 ) で丁度その頃、川村清一先生がおられたので先生のことを伺ってみた。
  「 とても親切で熱心な情熱のある先生でした。当時学校には十数台のオルガンがありましたが全部故障があったり壊れていたのを、先生が一人で全部修理され、その上誰でも楽譜が読めてオルガンが弾けるよう、いろいろ工夫努力されたので、生徒もみんな先生に信頼を寄せ尊敬して音楽の勉強をしました。私事ですが昭和 12 年、 「 全道女学生の夕 」 が開かれ全道 ( 札幌、小樽、旭川、函館など ) 7 市がそれぞれ各地の放送局から参加し、私は川村先生に引率され、一番上の姉が付き添って帯広まで行き、帯広放送局でマイクに向い "花の少女" "君よいずこ" の 2 曲を歌いました。結果は庁立札幌高女が一位 ( 確か曲はアヴェマリアだった ) で、私は第二位でしたが川村先生の熱心なご指導があったからこそと今でも想い出すことがあります。その時は先生も 「 よくやったネ 」 と褒めて下さり、先生と三人で喜びました。 ( 注:釧路放送局は昭和 13 年 2 月仮放送、同年 7 月 JOPG として本放送開始、第 2 放送は昭和 25 年 4 月から )
 川村先生に音楽を習うようになってから合唱が好きになり暇を見つけては友達と一緒に私の家の庭や時にお風呂場などで歌っては父から "あまり大きな声で唱うとご近所に迷惑だよ" と注意されることもありました。 」
  NHK 釧路放送局 JOPG の開局記念番組で庁立釧路高女は三部合唱では "ホフマンの舟唄" "狩人の合唱" 、独唱では "アヴェマリア" ( 独唱、児玉百合子など、指揮・川村先生、ピアノ伴奏・坪田貞子 ) であった。
 坪田貞子さんはその後、武蔵野音楽学校を出て、川村先生が室蘭へ転出のあと釧路高女の音楽の先生として赴任し活躍された ( 現在結城の姓にに変わっているが、川村英司さんとの交流も深く、夏季は札幌、冬季は鎌倉に在住 ) 。
 羽生節子さんのお話を聞いていると若さが甦って来るようでとても八十歳代後半の方と思われない元気さと明るさが満ちあふれていた。

「 釧路音楽同好協会と釧路音楽協会 」

 川村清一先生と高後勉先生との関係は、前記した川村英司さんからの手紙でも明らかだが、高後先生は昭和 13 〜 14 年と、昭和 16 年 〜 昭和 23 年まで庁立釧路高女の校医を勤めていたので川村先生と親しくなっていったのはこの後半の約 6 年間の頃であったと思われる。 「 釧路音楽研究会 」 での関係がもととなり、後に高後先生が中心となって活動して行く 「 釧路音楽同好協会 」 の発足につながっていったことは今度の川村さんからの手紙からも想像でき間違いないものと確信する。
 金谷憙憲さんとは釧路音楽同好協会の時代から同協会の活動に参加してはいたがその頃、金谷さんは尺別炭鉱中学校に勤務していたので本格的な活動は ( 労音時代もあるが ) 昭和 41 年頃から現在の釧路音楽協会の時代になってからと言ってよいのではないかと思う。 「 釧路音楽同好協会 」 は入場料だけでは出演者へのギャラその他の費用なども支払えないので有志の寄付や会員の勧誘に奔走したり、財政面での赤字の負担などの重みは全て高後先生にふりかかっていたので、昭和 34 年 「 釧路勤労者音楽協議会 ( 労音 ) 」 に発展的に解消し、一二〇〇名の会員が会場 ( 市公民館 ) に一杯になるほど集まり、更になお一〇〇〇名ほどの予約希望会員のいることもわかり、その時の高後先生の ( 胸中やいかにと ) 安堵した明るい表情を今でも想い出すことがある。最高三六〇〇名まで増大した会員もやがて TV の普及、会員の好みの多様化などの他、創価学会系の 「 民音 」 や企業団体 = 日経連側 = の 「 音協 」 の組織が出来たりして 「 労音 」 会員は全国的に減少し釧路でもその傾向がみられるようになり "クラシック分野" での活動を活性化させようと昭和 41 年発足したのが現在の 「 釧路音楽協会 」 で、高後先生は前述の通りこれまで常に活動の先頭に立って活躍され多くの功績を残された。新しく発足の 「 釧路音楽協会 」 で注目すべきことは、今迄のように中央からの演奏家の招聘だけでなく、地元音楽家育成と支援に着目したことであり、新しい時代に促した誠に機を得て納得できる妥当性があったと思う。従って同協会の構成も専門的な音楽家達 ( 会員 ) とこれを援助する賛助会員から成り立っている点からも、うなずけることである。金谷さんは同協会の事務局長を務め、以前からの知己の演奏家とも接触が多くその点、同協会の企画面等でプロデュウス的というか、プロモーター的というか、何かと便宜的側面からも高後先生の支えともなっていたのではなかろうか。
 前川公美夫氏の 「 北海道音楽史 」 によれば 「 経営者側の鑑賞団体 ( 音協とも文協とも両方の名で使われているが音協によれば ) とは日経連のことで、日経連が中心となり労音に対抗する形で結成した全国文化団体連盟が母体であり、昭和 41 年に北海道文化協会 ( 道音協 ) が設立された。 」
 金谷さんは 「 釧路音楽協会 」 とは別に昭和 56 年頃から 「 釧路音楽文化協会 」 と 「 東北海道音楽文化協会 」 を主宰していた。これらの協会の昭和 56 年前後の頃の事業一覧をみると、クラシックでは中村紘子 ( ピアノ ) 、常森寿子 ( ソプラノ ) 、アシュケナージ ( ピアノ ) 、オペラ 「 夕鶴 」 など。ポピュラーでは五輪真弓、海援隊、阿川泰子、古典芸能 ( 小さん ) などさまざまだが、アシュケナージ、 「 夕鶴 」 などは大赤字、海援隊は大黒字であったようで、ここでも TV の影響や大きく変わって行った世相が反映されているようである。

高後先生のことあれこれ

 荒谷宏さんはピアノを瀬戸山雪子先生に習い武蔵野音楽大学に進学、卒業後釧路湖陵高校、道教大釧路校に勤めピアノの演奏活動を続け、門下生とディスクール・シュルを結成、ピアノ演奏の研修を重ねながら定期的な発表会を開いて来たが、荒谷さんがピアノの面で瀬戸山先生にお世話になったことから離れてみた時、荒谷さんが根室から釧路 ( 中学校 ) へ出て来たから公私共に最もお世話になったのは高後先生ではなかったろうか。

高後 洋先生

  "先生は車が好きで年に何度かの札幌出張のたびにお誘いを受けた。あるときタイヤがパンクしていざ交替となったが、先生のお腹が邪魔してタイヤを取り替えられないので私が先生の車の整備士的な役目をしたことがあり、先生は後部座席で安心しきったようにグゥグゥと鼾をかいてお寝みになった。またある時は駅裏の屋台で冷や酒を飲みながらプライベートな大切な問題を相談して頂いたり、音楽同好協会のことをあまり知らない人から 「 儲かるからやっているのだろう 」 と言われ ( 同好協会は赤字続きだったのに ) 「 一生懸命誠意を尽くしてやればきっと解ってくれるよ 」 と言って黙々と私費を投じておられたのには頭が下がる思いがし、その上自分を息子のように可愛がって下さり、多くの人生訓を学びとることが出来た。"

と言い、福田快厳さん ( 西端寺前住職 ) は高後先生は昭和 29 年から 2 期 10 ケ月の間、西端寺の壇代として寺門興隆に尽力された。その頃、当寺は創立以来 60 有余年の星霜を経て老朽の限界に達していたので改築計画が検討されはじめていたが、着工以来 6 年、 1 億余の巨費を投じて昭和 45 年 10 月に本堂、庫裡、納骨堂などの建立が成った。高後先生は大変頭がよい方で、大勢の人々を包容し、まとめて行く手腕をもちながら、サリゲない風情が私たちを引きつけ、あだやかで暖かく親しさを感じる人柄は、饒舌でないところが人間の深さを示し、この人とは腹を割ってご相談が出来ると本堂再建の洪業に挺身する決意を新たにしたと回想し、保科衛さんは高後先生とは囲碁仲間の一人であった。昭和 30 年頃、市内南大通の北陸銀行の支店長が囲碁に熱心だったので宿直室が碁会所となっていた。当時の仲間には柳田一トヨタ社長、南大通の進藤金物店の宮沢透専務、進藤忠嗣常務さん等が中心で、高後先生は当時 4 段を許され、グループの最高の有段者であった。毎月例会を開いて出勤簿と例会での成績表を作成し、碁会は熱気を帯びるようになったがこれも高後先生の熱意に負うところが大きかった、と言う。
 高後 洋先生は高後先生のご長男で内科医。先生は 「 亡父の好物の一つは鮭のいずしでした。家内とともに漬けたいずしを持って行くと、どういう訳か "お前のところのはいつも一番美味い" と喜んでくれました。鮭の種類にはベニ・スケ・トキ・ギンなどいろいろあるそうですが、私のところではギンを用いていました。父はギンで漬けると誰でもうまく漬かるということを知っていたのかも知れませんが "魚が違うからうまく漬けることが出来るんだ" とは一言も口に出しませんでした。父が亡くなって今年の味はどうなるのでしょうか。うまく漬かった秘訣は果たしてギン鮭にあったのでしょうか 」。
 この 4 名の方は先生が亡くなられた年の 「 釧路医師会報 」 ( 高後先生追悼号 ) にこのように記している。

音を聴き分ける

 僕がまだ小学生の頃、お医者さまが往診に来るということは大変偉い人が家に来るように思ったものである。僕のすぐ上の兄やその上の姉などあまり身体が丈夫でなかったこともあって、何かの理由で高熱が続くとよく高後先生の往診を受けた。母は先生のお話を聞いている時は今迄の母の見様見真似で洗面器に人肌ほどのお湯や新しいタオルの手拭いや石けんなどを診察の終わりをまって用意した。診察を終わった先生は手を洗いながらいつも 「 ヨクやるねエ、じゃ薬をとりに来るように 」 と言って帰られた。中学校に入って間もないころ血液型の検査に行ったとき、先生からこの事を言われ何ともテレくさく嬉しかった記憶がある。
 大きくなって音楽同好協会のお手伝いをようになり何度か先生のお宅へ伺うようになった。同好協会での懇親会の時であったと思うが、外科医の瀬戸山一夫先生が 「 僕は絵画に興味をもっているが、外科医は手術も多いので何かと美しい色に触れていると気分が落ち着くんだ 」 と言う。高後先生は 「 僕は自分の趣味として音楽が好きで音楽を聴いていると心が癒されるのは当然なんだが、音楽を聴きながら楽器の音など沢山の音をいろいろ聴き分けをすると、そのことが聴診器で患者さんを診るときに大いに役立つんだネ 」 とお話しているのを聞いて "成る程なあ" と胸を打たれた記憶がある。高後先生の音楽への向きあい方の一側面を伺えるような気がする。
 高後先生は寡黙な人であったがその根底には何か暖かさがあり、先生の人柄を 「 慈父のようだった 」 と言う人が多い。
 川村英司さんからの手紙の最後に "また親父から聞き出してお知らせします" と書いてくれたが、それから間もなく川村清一先生が亡くなられ、高後先生との関係をもう少し知りたかった僕には何故もっと早くお聞きしておかなかったのかと悔やまれて成らない。
  「 もしその人が博学であって徳行にもよく専念しているなら、その人は世の人々から学問と徳行の両方の点で称賛されるだろう 」 という言葉がある。高後先生も川村先生もそのような人ではなかったろうか。
 高後先生は 75 ( 昭和 50 ) 年 10 月 2 日心不全で亡くなられ、今年はそれから丁度 30 年。 「 釧路音楽協会 」 は発足 40 周年を迎える。
 そのようなこともあって本誌 7 号では書けなかったことを補い、心新たに謹んで二人の先生のご冥福をお祈りしたい。


Updated 29 April , 2020