Kataro ホームページ 「 河太郎 」 13 号 平成 15 年 ( 2003 年 ) 9 月1日

不二 一朗


 鐘は冶金、鋳金の技術を持つ民族の間で広く作られ、主として災害、病気、魔よけのお守りや、宗教的儀式などに用いられた。
 形は開放部が円形なものが最も一般的で、まれに楕円形、四角形、六角形、八角形などがあり、側面からは半円形、半楕円系、三角形、矩形に近いものがあり、金属製の打楽器である。槌などで打つもの、撞木で突いて音を出すもの、内部の頂上から吊り下げられた舌で内部から打って音を出すものがある。材料は地域によって異なり、東アジア、西アジアでは青銅、古代エジプトや中南米では金や銀などが用いられた。
 現在、一般に鐘と称されている大型のものは、前一〇〇〇年頃までに最も鋳造技術の進んでいた中国で作られていた。周代には既に一定の音高に調律された鐘が楽器として典礼音楽の中に取り入れられていた。
 インドでは多くの風鐸が仏教寺院や仏塔の軒に吊られ、風の力で壮大な響きを作り出していた。
 梵鐘の誕生は朝鮮半島の人々が鐘の音の大小が信仰心の現れと思い、巨大な鐘の鋳造が盛んになってそれが中国、そして日本に及んだ。
 ヨーロッパに鐘が移入されたのは五世紀以降で、ケルト人によって初めて鍛造のハンドベルが広められた。鋳造技術は西アジアからイタリアを経てスコットランド及びアイルランドに達し、そこからヨーロッパに広がったと云われる。ギリシャでは祭式に参加する民衆に神殿の前で鐘を鳴らして知らせる習慣があり、それが三世紀から五世紀にかけて北アフリカのキリスト教の儀式に取り入れられ、これがキリスト教と鐘のつながりになった。西欧のカトリック教会では複数の鐘が同時に降り動かされるのに対し、東欧のギリシャ正教会では、鐘が固定され、舌を紐で引いて打ち鳴らす仕掛けになっている。
 ヨーロッパの鐘は宗教的用途の外に 13 世紀頃から楽器としての側面が重要になってきた。複数の鐘の音の響きが美しく奏でるよう調整された音色を作るため、上部は円筒形に近く、開放部が大きく開いた機能的なベルの型になった。


 は発音体が共鳴体にもなる体鳴楽器の一種で、日本に金属製の体鳴楽器が出現するのは弥生時代で、弥生時代中期から後期にかけて西日本で用いられた銅鐸がそれである。鐘として最古のもので、本来楽器として用いられたが、後に宗教的儀器として使われた。日本の銅鐸の源流は朝鮮で、有細、有舌を持つ小銅鐸で、樹などに吊し、揺り動かして内側に下げた舌で本体を叩き、音を出した。歴史時代の鐘は仏教文化と共に広まり、寺院の鐘楼に掛ける大鐘 ( 梵鐘 ) 、仏堂の軒に吊す喚鐘 ( 半鐘 ) 、堂塔の軒の角に下げる風鐸などがある。梵鐘の本来の目的は時を知らせる合図に使われ、高さ 1.2 m ~ 1.5 m 、直径 60 cm 前後の大きさが普通である。半鐘は真鍮製が多く、高さ 60 cm 、直径 30 cm ぐらいのものが一般的で、寺院の法会や座禅などの時刻を知らせるのに用いた。風鐸は一種の風鈴で、舌の下につけた風招が風を受け舌を動かして音を出すものである。日本最古の寺院建築の飛鳥寺に鐘楼があったと伝えられている。
 鐘は撞木や槌で外側を打つ方式と鐸のように内部に吊り下げた舌を振り動かして内側を当てる方式がある。日本を含め東アジアでは大型の鐘は撞木式、小型の鐘は舌式が普通で、ヨーロッパでは舌式が一般的である。
 鐘は用途によって楽鐘、時鐘、朝鐘、喚鐘、晩鐘、陣鐘、警鐘 ( 半鐘 ) 、梵鐘などがあり、製作地によって和鐘 ( 日本鐘 ) 、朝鮮鐘、中国鐘、西洋鐘に区別される。楽鐘は打楽器であり、時鐘は時刻を告げる鐘、朝鐘は 官が出勤する時の合図の鐘、喚鐘は人を呼ぶ時の小型の鐘、陣鐘は軍陣において兵に進退を知らせ、士気を鼓舞するための鐘、警鐘は火災、水害など不慮の事件を知らせる鐘、梵鐘は仏教寺院の鐘である。
 我が国の鐘の求初の記録は日本書紀に欽明天皇五六二年大友平彦が高麗より持ち帰った 「 銅鏤鐘 」 の記があるが、如何なる鐘であったか不明である。聖徳太子没後六二二年間もなく作られた 「 天寿国繍帳 」 に鐘を撞く図があり、また徒然草に大阪四天王寺の六時堂の鐘の話がある。六時堂は日出、日中、日没、初夜、中夜、後夜の六時の勤行を修めるための堂のことで、定まった時間の勤行を知らせる合図の鐘で、時報の役目をした。舒明天皇六三六年に朝臣の参内時刻を規定した詔勅が出されたと書かれている。これが公式に時刻を示した最初で、 12 支に区分されている。天智天皇六七一年 刻を置いて鉦と鼓によって時刻を報じたのが時鐘の初めとされるが、 刻であるとの遺跡は未だ発見されていない。
 奈良時代に 「 養老令 」 が制定され、その中の 「 職員令 」 では二人の漏刻博士がおり、 20 人の  を使って時刻を監視し、鐘、鼓を打って時刻を知らせたと有る。
 平安朝前期に制定された 「 延喜式 」 によれば、一年の各季節ごとの太陽の出入り時刻、それに伴う宮中の諸門の開閉時刻が 50 組書かれている。一日を 12 等分に分け、 12 支の名で呼び、時報は太鼓と鐘を用いて打つ回数によって時刻を知らせた。まら、室町から戦国時代にはいると鐘は軍隊の集団的、組織的行動の指図用具、つまり陣鐘としても使われた。時鐘の鐘鏤は一六〇〇年、和歌山に浅野幸 が入府した時、本町に設けたのが最初ではないかといわれる。


 江戸時代の時鐘は寺院の梵鐘、明六つ、昼九つ、暮六つの 3 回の鐘の音と、 12 回時刻を知らせる鐘鏤の鐘と、登城を知らせる城鐘の 3 種類があった。最初の時鐘は寛永 3 ( 一六二六 )年、日本橋本石町に鐘塔を建て、江戸の標準時の性格を持たせた。ほかに浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市ヶ谷八幡、目白不動、赤坂町成萬寺、四谷天竜寺の 9 ヶ所に鐘鏤があり、江戸全域をカバーした。
 時刻を知らせる時には、まず捨て鐘といって 3 回撞いた後、その時刻の数だけ撞いた。回数は家康時代には朝晩の六つに 2 回撞かれたが、 2 代目秀忠の頃から一日 12 回撞かれるようになった。当時は不定時法で、日の出より 35 分前を明六つ、日没より 35 分後を暮六つと定め、それぞれ六等分した長さを一時間とした。当然一時間の長さは夏と冬とでは異なった。
 時鐘の維持管理の費用は本石町では町人からひと月四文づつ徴収し、本所の場合は武家は禄高に応じ、寺社、町人は小間一間につき三銭を徴収し、あてたと言う。
 江戸の人口が 100 万を超え、各藩の江戸屋敷が置かれるようになると、登城や各藩との交渉、また庶民も共同生活や団体行動の機会や集まりが増えてくれば、共通で簡単で正確に知る事のできる時刻の施設が必要となってくる。しかも個人用の時計の無かった時代であるから、鐘鏤の鐘は欠かせなくなった。 17 世紀、全国の梵鐘の数は一千八十五個あったが、江戸時代に鋳造された鐘の数は三万個に達した。
 近世になって都会化された城下町は時刻で生活するようになり、時鐘の需要は増えた。また、中世末期まで日本の人口が一千万人から一千百万人であったのが、吉宗の享保 6 ( 一七二一 )年の調査では二千六百万人と急激に増えている。柳田国男は日本の農村集落の三分の二以上は室町時代以後に成立したという事から、農漁村の寺院もその頃から急激に増えたと推測される。
  「 鐘一つ 売れぬ日もなし 江戸の春 」
の句はあながち誇張されたものではない。


 日本の梵鐘の原型は中国にあると考えられるが、我が国の現存する年代の明らかな在銘の古いものは奈良国立博物館蔵の中国鐘で、中国南北朝の大建 7 ( 五七五 ) 年の銘がある。朝鮮鐘では開元 13 ( 七二五 ) 年銘のが上院寺にある。初期の梵鐘は中国や朝鮮からの渡来品がおおいが、日本での鋳造の歴史も古く、京都妙心寺の梵鐘は文武天皇六九八年筑前国の住人が奉納したとの銘がある。梵鐘は日本に仏教伝来の初期から寺院で使用されたと思われる。
 寺院に寄贈された鐘の多くは寄進者の名や月日が刻まれていたが、平安時代になると文人や書家の銘文が刻まれ、鎌倉時代には 「 平家物語 」 の巻頭文 「 諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、寂滅為楽 」 の銘文がよく引かれた。これは初夜の鐘をつくと諸行無常、後夜 ( 夜中から明け方 ) の鐘は是生滅法、晨朝 ( 早朝 ) の鐘は生滅滅巳、入相 ( 日暮れ ) の鐘は寂滅為楽と響くと言われた。また、鐘を打つことに宗教的意義を持つようになり、鐘の音が人間の持つ百八の煩悩の夢を破るという習わしから除夜に百八回打つようになった。また、無間の鐘といって、是を打つと来世では地獄に落ちるが、現世では富裕を欲しいままになるとの信仰もあった。


 西洋の鐘はカップを伏せた末広がりの形を持ち、中の空洞に吊した舌を紐や針金で引いて鳴らす。西暦三千年前にバビロン近くで世界最古の鐘が発掘され、これが近東の舌付き鐘の発祥であると言われる。
 キリスト教の鐘は天界と地界を結び最高神を招くもので、初期キリスト教ではキリストの呼びかけであると共にキリストのしるしであった。また、鐘は信徒の礼拝への参加を促し、修道院の各時 を知らせるものであった。中世では鐘を吊す横木はキリストの十字架を、鐘楼に吊された鐘は天を象徴した。また、教会の聖堂での典礼に用いる祭鐘は祭儀の場にキリストの臨在を告げるものであり、鐘の音は悪魔を払うと信じられていた。
 カトリック教会では教会と礼拝堂に鐘を付ける事が法で定められている。教会の鐘は国の祝日や時刻を報せる定時的なもの以外、敵襲とか、火災、洪水などの非常の場合、教区司教の許可を得て鐘を鳴らした。
 古代から中世にかけて不幸や災難の原因は悪魔がもたらすものと考えられていた。悪魔の仕業である天災や病気や不幸から逃れるには悪魔に打ち勝つ事である。聖書は悪魔をうち払う力があると信じられていた。特に新約聖書の 「 ヨハネ伝 」 第一章一 - 十四が呪文として読まれるのが仕 りであった。また、それと共に十字架やろうそくと鐘には特別の霊力が潜んでいると信じられており、十字架を捧げ持ち、ろうそくを灯し、鐘を打ち鳴らして祈った。この時は教会の鐘ばかりでなく、町や村にあるあらゆる鐘も打ち鳴らされた。


 古代有史以前の人類が最初に金属に触れたのは砂金、自然銀、それから自然銅、自然錫などである。自然銅の産出は少なく、また銅を含む鉱石 ( 黄銅鉱、黒鉱 ) から銅を取り出すには高度の製錬技術が必要であった。銅を含む鉱石から銅を得るには還元反応の製錬方法を用いるが、それには高い温度 ( 一〇八四 ℃ ) を得るのが必要であり、また銅を含む鉱石の見分ける技術も必要であった。
 前 55 世紀、太古のプルミヤに於いてたまたま偶然に孔雀石を焼いて柔らかい銅の固まりを得たのが最初と言われる。やがて銅を含む鉱石アズライト、キュプライトなどから製錬して銅を得る事を見つけた。しかし銅の性質は、柔らかく伸銅出来ることから容器や装飾品には向いているが物を切る鋭い硬い刃を必要とする道具、農具や武器には向いていなかった。
 青銅の発見は前 36 世紀頃、南メソポタミアのシュメール人であったとされている。それは銅と錫を意図的に合金したのではなく、たまたま銅の鉱石と錫の鉱石が偶然交わったものを製錬した結果、発見されたと言われる。この青銅の発見は人類初めての合金の誕生であり、硬さと強靱さを具えた 「 硬い金属 」 は青銅時代の誕生でもあり、人類が文明社会への第一歩でもあった。最初に青銅合金を製錬した所は、チグリス、ユーフラテス川口に近いエラム地方の東バルチスタンであると今日では有力な説となっている。
 日本における青銅の起源は弥生時代と思われる。一九七三 ( 昭和 48 ) 年、茨木市の東奈良遺跡から銅鐸用鋳型の石片が出土、島根県斐川町荒神谷遺跡から一九八四年、三百五十八本の銅剣と六個の銅鐸、十六本の銅矛が発見されたが、これらは弥生中期から後期の製品と見られる。一九八八年、佐賀県吉野ヶ里遺跡は世界一の規模と見られるが、そこから十字型把頭飾の刀剣や巴型の銅器の石鋳型、四面鋳型が出土した。青銅の十字刀は朝鮮半島製らしいことから、弥生人は渡来人から製錬や鍛冶の技術を受け入れて製作したと思われる。
 弥生時代の特色を現す我が国しか出土しない銅鐸は、最初は祭の場で鳴らすベルであったが後に祭壇の飾りになったものと考えられ、全国で四百は出土している。最初に発見されたものは 7 世紀後半、大津市の崇福寺で創建するため地ならしした時に発見されたと言う。また、和銅六 ( 七一三 ) 年、大和の国長岡野地で大型の銅鐸が発見され、その使用方法が論議され、楽器らしいと鑑定したと 「 続日本紀 」 にある。
 日本の梵鐘、時鐘の材料は殆ど青銅で、銅が 86 % 、錫が 14 % の合金である。 17 世紀後半から 17 世紀末にかけて大量の鐘の製造が行われたが、当時日本における銅の産出は約六千トンで世界最高であった。銅は主として銅銭に使用されたが、外に仏像、梵鐘、特に梵鐘に用いられ、ヨーロッパと違って大砲など軍事用に用いられるのは少なかった。

参考文献

   日本大百科事典          小学館
   大百科事典            平凡社
   時計の社会史           中公新
   銅の文化史            新潮社
   時間の歴史            原書房
   中世ヨーロッパの生活       白水社
   時と時計の百科事典        グリーンアロー社
   大江戸生活体験事情        講談社
Updated 24 August , 2019