Kataro ホームページ 「 河太郎 」 13 号 平成 15 年 ( 2003年 ) 9 月1日

釧路政界 往時茫々 ( 七 )

渡邊 源司
横澤 一夫
角田 憲治
長谷川 隆次

長谷川  今回は元釧路新聞社常務の横沢一夫さんをまじえて昭和 46 年の知事・道議会議員選挙の事をお話し
    願いたいと思いますが、それより先、昭和44年の市長選挙の時は横澤さんは釧路新聞社の編集局次長として第
    一線でご活躍されていましたヨネ。先ずその昭和 44 年の市長選挙の総括とでも言いますか、どの様に見ていた
    のでしょうか。
横澤   もう 30 年も前の事で、記憶も薄らいで来ましたが、私個人としては非常に残念、悔しい想いでいっ
    ぱいでした。記事を書くのも嫌でしたヨ。
     角田さんが心ならずも山口市政の仕事をし、個人としては五郎さんの為、と言っていた事、痛いほど解りま
    す。それはともかく、結果は五郎さんの敗北に終わりましたが保守の選挙対策も革新に劣らない大規模なもの
    で、まるで死闘と言っても良いほどの運動が繰り広げられました。しかし保守には革新の組織に対抗する決め
    手がなく、表面のムード作りは成功して互角に持っていったものの、それを有権者に密着させる事が出来なか
    ったんだと思いますヨ。丁度この一年、市議会では社会党議員団と社会党釧路支部の足並みが乱れ、分裂するな
    ど巻き返しのいいチャンスを作りながら、市長選で勝てなかったのは一口で言って、結束できない 「 釧路保
    守 」の体質だったんでしょうネ。それにしても現職 2 期目は強かった。
長谷川  この昭和 44 年の市長選後の市役所労組を中心とした動きは前回角田さんから聞きましたが、渡邊さ
    ん、経済界とか一般市民はどうだったんでしょうか。
渡邊   私は前にも言ったように 44 年の市長選の本部長でした。敗北の責任者です。ですから謹慎の意味も
    含めて選挙関係の場にはほとんどでませんでしたが、これからどうするとか、五郎さんをどうするとかいう議
    論は聞こえてきませんでした。虚脱状態に陥っていて、そういう事を考える核もなかったんだと思いますヨ。
    ただ、角田さんが言った様に、市役所労組の市政奪還のスローガンは一般にはこの時は浸透していなかったも
    の、市政奪還への想いは前にも増して激しくなっていったと思いますヨ。
     実際この 46 年の道議選には直接関わりは持ちませんでしたが、 45 年の暮れ、当時の知事町村さんに呼ば
    れ、堂垣内知事候補選対の青年部の構築を命ぜられました。一緒に札幌の勝木郁郎さんも呼ばれていました。
    勝木さんは JC の先輩で私が昭和 42 年、日本青年会議所北海道地区協議会会長、勝木さんは昭和 36 年に会
    長を務めた方です。町村知事から勝木さんに話があり、勝木さんが渡邊を呼ぶ様に話したとの事でした。議論
    したり考えたりする時間はありません。 46 年 2 月、 「 堂青会 」 会長勝木さん、私が幹事長で発足しました。
    私はほとんど札幌づめ、主に道内青年会議所を回りました。
横澤   この 46 年の知事選は 3 期 12 年続いた町村知事の後継者として堂垣内元北海道開発庁事務次官が
    指名され、前回 42 年に町村知事と戦った社会党塚田庄平さんとの事実上一騎打ちの戦いでした。結果は一万
    三千票という薄氷を踏む様な僅差で堂垣内さんの勝利で終わりました。
長谷川  角田さん、この道議選で五郎さんは三万一千票という驚異的な得票を得ましたネ。その背景は。
角田   三万一千票は全道一の得票でした。先ず五郎さんを市長選で落としてしまった責任を多くの市民は感
    じていたと思います。それに、これだけの逸材を無冠にしておくのは勿体ないという声が沢山ありました。そ
    してまた今まで五郎さんを熱心に応援していた企業が一夜にして滝沢さんに走ってしまったという事での悲愴
    感、そして反発がバネになったと思います。
     話は前後しますが、五郎さんの道議立起は五郎さん自身の意志で決めた事で、それに対して異論も聞きませ
    んでしたし一般市民はごく当然の事と受け止めていました。その陰には町村知事の説得もあったと聞きます。
    町村知事は五郎さんを高く評価していました。 「 堂垣内知事の片腕として道議会で堂垣内道政を支える 」
    と期待されていました。
     一寸話がそれますが、 「 選挙をしない組合 」 というキャッチフレーズの市役所労組も、前にも言った色
    々な試練を乗り越えて各方面から認知されるようになりました。あくまでも選挙をしない組合ですから有志を
    集めての後援会活動です。当時、浪花町 5 丁目にあった小松鋼機の倉庫の 2 階を借りての名簿整理が主な仕
    事でした。退庁後毎晩のように 10 名くらい集まり 9 時半頃までもくもくと作業は続きます。受け持ち区分ご
    とに殆ど無口でどんどん作業が進み、名簿を完成させていく有様を見て、当時の青年会議所の幹部はその直向
    きな情熱に驚いていました。私は組合の建前もあるので大袈裟には出来ず、昼間は人集めに走り回りました。
    この時の名簿が知事選・道議選に役立ったのは勿論、後日の鰐淵選挙にも活用されたと思います。
長谷川  横沢さん、この選挙のまとめを一つ。
横澤   知事選は前にも言ったように僅差で堂垣内さんの勝利で終わりましたが、あれだけ追い上げられると
    は思いませんでした。残票数で決まったんではないだろうか。道
    議選は角田さんの分析どおりです。
渡邊   私は堂垣内さんの勝利を疑った事は一度もありませんでした。その開票の時は釧路へ帰るべく丘珠空港
    に居たんですが、なかなか当選確実が出ないので段々不安にかられ、帰るどころではありませんでした。一便
    遅らせて当選確実を確認して飛行機に乗る事が出来ました。うれしさも一入でしたが、一つの事を全身全霊を
    傾け成し遂げた時の満足感と、と同時に虚脱感、寂しさは格別のものでした。
     蛇足ながら釧路市での道議選は、昭和 22 年に定員 1 名で、社会党の太田益夫さんの当選、有権者は二万八
    千五百六人、 26 年には四万六千六百六十二人、定員 2 名になり、前回の太田益夫さんと民主党の菊地三之助
    さん、自由党から立起した阿部英一さんは次点。
     昭和 30 年には社会党太田益夫さん、自由党の阿部英一さん。民主党の現職菊地三之助さんは次点、この選
    挙で菊地三之助さんは政界引退しました。
     昭和 34 年には現職の阿部英一さん、太田益夫さん、この年はじめて立起した武藤正春さんは次点でした。
     昭和 38 年には有権者八万八千二百二十六人で、定員 3 名、自民党阿部英一さん、社会党太田益夫さんに同
    じく武藤正春さん、次点は自民党清野栄治さん。この道議選がそれから永く続く保守低迷の火種を作りました。
    そして昭和 42 年には有権者十万三千七百七十七人、定員 4 名になり、前回トップ当選を果たした阿部英一さ
    んは、道議選後の 38 年 11 月に行われた衆議院選に立起、落選した後、政界引退を表明しました。社会党の
    太田益夫さんは昭和 22 年から 20 年勤め上げ、この年、浜村仙三郎さんにバトンタッチ、現職の武藤正春さ
    んと共に当選、自民党は渡部五郎さん、滝沢勉さんが当選。清野栄治さんは次点に終わりました。
     そして、昭和 46 年の道議選は自民党渡部五郎さん、滝沢勉さん、社会党は武藤正春さん、浜村仙三郎さん
    の後を受けた桜井勝広さんが当選しました。次点は公明党の細野重利さんでしたが、この選挙で注目される事
    は、釧路での道議選で初めて公明党が候補を立て、滝沢さんに二千票の差まで迫ったという事です。この事が
    それからの釧路政界を大きく左右するきっかけとなる訳です。
     知事・道議選挙の結果は

      知事  堂垣内尚弘 一、二九三、六九〇
          塚田庄平  一、二八〇、四七九
          坂本和      三四、〇九二

      道議  渡部五郎(自) 三一、七九五
          桜井勝広(社) 一六、二八三
          武藤正春(社) 一五、五九九
          滝沢勉 (自) 一四、〇二七
      ( 次 )  網野重利(公) 一二、一七五

      有権者 一二五一七八
      投票率 七八・七九 %

長谷川  この知事・道議選の後、渡邊さんは商工会議所副会頭に就任されましたネ。
渡邊   昭和 46 年 10 月、それまで 16 年間会頭職にあった吉田利和さんが年齢のこともあって勇退され、
    栗林定四朗が再度会頭に就任、副会頭に金井俊一さん、小船井武次郎さん、そして私が指名されました。さら
    に昭和 51 年、栗林会頭が 65 才で逝去された後、私が会頭に指名されたわけです。その経緯についてはこの
    後昭和 52 年の市長選に関わる事ですのでその時にお話ししたいと思います。
長谷川  昭和 48 年の市長選の話に入る前に、私が浅川さんから直接聞いた話をさせていただきます。
     浅川さんは山口市政下の昭和 4 3年 10 月に市議会議長に選任されました。その経過は前に渡邊さんが言っ
    ている様に教育長人事で議会がもめにもめ、牧野議長始め与党社会党が一切の役職を返上してしまったのです。
    社会党の役職返上で、はからずも社会党の尻ぬぐいをさせられるはめになったけれど、自分の思うように成ら
    ないからといって総てを放り出してしまう、そういうガキの集団、無責任社会党に任せておいては結果的に市
    民が迷惑する事だとあえて引き受けたと浅川さんは言う。
    そして昭和 44 年の市長選後も議長に留まりました。
     そんなある時、山口市長の兄貴分に当たる吉村帯広市長が来て 「 浅川さん、なんとか哲の面倒を見てやっ
    てほしい 」 そして間もなく山口市長も来て 「 工場誘致条例の訴訟問題をなんとかしてほしい 」 と吉村市
    長共々頭を下げられたものの、二つ返事で引き受けるわけにはいかない。そっぽを向かれて身動きが取れない
    山口市長が吉村市長に仲介を頼んだ事でした。
     山口市政二期目の初頭、「 経済界との対話 」 を強調し経済界との窓口として田島常治さんを助役にされま
    した。浅川さん、田島さん共に原告側の十條製紙、本州製紙、雪印乳業に訴訟を取り下げる様に説得、原告側
    は 「 今さらここまでやられて取り下げろとは 」 。この 44 年 10 月に釧路市と漁業者側との間で西港漁業
    補償が調印されました。これは前年、社会党の議長、副議長の斡旋が不調に終わり、社会党の役職返上にまで
    発展した一つの要因です。
     この交渉を進展させたのは、十條、本州、三ツ輪などの建設協力の姿勢でしたから 「 釧路市の立場もこの
    ままでいい訳もないし、企業もいい訳がない、何とか行政に協力して欲しい 」 と説得、結局 45 年 3 月 26 日、
    最高裁で和解の調印が行われました。浅川さんから聞いた話です。
渡邊   私も浅川さんから聞いた話、そして後日私自身経験したことです。
     予算獲得の陳情は市長、議長、会頭のそろい踏みが普通です。山口市長を岡田代議士のところに待たせてお
    いて吉田会頭と淺川議長とで各省を回ったとの事、山口市長が一緒ではぶちこわしになるので、吉田会頭はほ
    とほと嫌気がさしたんでしょうネ。私も中央陳情をした時も同じでした。こんな事を目の当たりにして、前にも
    増して一層市政奪還をしなければならないと強く思いました。
長谷川  昭和 48 年の市長選に先立って 「 釧路を愛する会 」 という市民団体が出来ました。角田さんは始
    めからそれに参画されていたと聞きます。角田さんにその 「 釧路を愛する会 」 から。
角田   昭和 40 年、 44 年と 2 度の市長選で五郎さんを立てて敗れた反省から山口市政を倒すには政党色
    を出さないで公明党をも巻き込まなければならない。誰かの呼びかけで今まで政治とか選挙に関係のない人達
    が釧正館に集まりました。私もその一人です。毎晩のように集まり、侃々諤々政党色を出さないで公明党をも
    巻き込むという大命題の元、議論はすれどもなかなかまとまりませんでした。しかし受け皿となる組織が必要
    だという事では一致、市民各層を網羅した市民団体の組織を作らなければと 「 釧路を愛する会 」 が出来た
    わけです。昭和 47 年の年末の事でした。
     会長に原口保さん、副会長に清水幸彦さん、美原梅子さん、清水闊さん、近藤呉夫さん、の 4 名、幹事長に
    は鳥居塚昇さん、副幹事長に米内禎一さん、八町良三さん、事務局長に佐渡保正さんという顔ぶれで 「 郷土
    釧路をすばらしい街として子孫に残すための正しい批判の上に立って市政全般の課題に市民の声を反映させよ
    う 」 というスローガンを掲げ、まず会員増強運動に入り、昭和 48 年 2 月、正式に集会を開きました。そし
    てその集会で 「 釧路を愛する会 」 として市長候補を選ぶべきだと決議、市長候補の本格的選考に入ってい
    きました。話は前後しますが、「 釧路を愛する会 」 は保守系の市長ばかりでなく、副会長の清水闊さんは釧
    路地区同盟議長、同盟傘下の市役所労組、北電労釧路分会等の組合員が参加しました。「 釧路を愛する会 」
    の役職幹部は候補選び、我々同盟系の連中は同時に市民教宣の必要性を訴えました。当時の山口さんの教宣活
    動は凄いものでした。例によって市民受けする宣伝をどんどんやっていました。それに対抗しなければなりま
    せん。 「 愛する会 」 の幹部に進言しても君達でやってくれと言われるし、仲間と相談してビラを作って各
    戸配布をしようという事になり、退庁後原稿にし、夜中印刷、早朝各戸配布、それが何回続いたでしょうかネ。
    これは選挙運動ではなく教宣活動なのだからといって組合員を動員し配布したけれど、内容が過激でないので
    配る方は力が入らない様でした。印刷は教育大学の学生がやってくれました。その中に現市長の伊東良孝さん
    もおりました、先日市長に確かめました。印刷後の折りたたみ作業にも色々な人に手伝っていただきました。
    元助役の古谷達也さんの母堂千代さんなどは、歌人会から大勢の人達を参加させていただきました。私はこう
    いった仕事が主だったものですから、市長候補の人選については深入りしませんでした。
長谷川  さて、この市長候補人選については仕事上、横沢さんが一番詳しく知っていらっしゃると思いますが。
横澤   私は事実を客観的に見る習慣がついているものだから、実は結果としての出来事しか知らない事の方
    が多いんです。そしてまた、出来事として結果を知らされる事がほとんどです。ですからこの人選の事につい
    ても意見を求められれば言いましたが、知っている事といえば表面に現れた事柄がほとんどです。
      48 年 2 月末、 「 釧路を愛する会 」 の集会直後から本格的に市長候補人選に乗り出したようです。当初
    有力候補としてクローズアップされたのが永尾慶吉さんでした。永尾さんはそれまで財政部長、総務部長、保
    健衛生部長を歴任され、この時教育委員会次長、在職 24 年の大ベテランです。
     山口さんは教育行政にまでイデオロギーを持ち込み、何回ももめた経緯があります。この永尾次長の時も教
    育長交代劇があり、山口市長のイデオロギー丸出しの人事に反発した大滝重美教育委員長は辞表をたたきつけ、
    「 永尾次長こそ教育長にふさわしい人材 」 と言わさしめた人物です。
     山口色の強い役所の中でも反主流派、その山口市政への反骨振りは保守陣営の受けが良く、頼もしい存在で、
    高く評価されていました。先に山口市長に教育長の席を追われた青山一二さんも、永尾さんに強く出馬を要請
    した形跡があります。 「 愛する会 」 の幹部は再三永尾さんを説得すると共に、各団体、同盟、公明党等へ
    の支持取り付けの根回しをやっていました。肝心の永尾さんは 「 私は事務屋であって政治屋ではない 」 と
    一貫して固辞し続けました。その永尾さんに私は古武士の風格さえ感じました。一方当時の山本幸造自民党支
    部長は、市議会議員の張江悌治さんに立起を打診したものの、結果的に断られるという一幕もあったり、 3 月
    末には 「 愛する会 」 も永尾さんの説得を断念、混沌としていました。これを見ても全市一本化する様なシナ
    リオもなく、またそのシナリオを書く人もいなかったという事でしょうネ。
     それはそれとして、角田さん貴方も候補者として名前が上がっていましたよネ。
角田   確かにありました。「 釧路を愛する会 」 としては、まず行政の中からという考えがあった様です。
    ですから永尾さんと私に話があったんでしょうネ。 「 相談する人に相談して答えろ 」 と言われましたが相談
    する様な話ではありません。親戚で日頃何かと付き合いのあった国松祥三さんに自分の気持ちを話しました、
    相談ではなくお話しです。
     それより随分前の事になりますが五郎さんに、「 市長職は政治屋なのか行政屋なのか 」 という事をお聞き
    した事が有りました。市長は基本的には行政屋であるけれど、政治屋の一面を持たなければならない。行政に
    対して政治が優位な立場にある事を明確にし、政治と行政の性質の違いとして日常繰り返される権限が行政で、
    それ以外の変化を伴う権限が政治である。また、技術性、専門性に徹するのが行政屋であって、権力そのもの
    ではない等と、政治と行政との性質が違う事等を教えられました。そんな事もあって私は政治を志した事もなく、
    また私の性格は政治屋向きでない事は知っているつもりでした。ですから 「 私は行政屋です 」 と答えまし
    た。とても五郎さんに相談する以前の問題でした。後日、鰐淵さんが市長に立起する時、栗山さんが確認に来ました。
横澤   永尾さん、角田さんの擁立を断念した 「 愛する会 」は代わりの候補を物色しなければならなくな
    りましたが、なかなか適任者が見つからず、連日連夜の幹部会も苦渋の末、愛する会内部から選考せざるを得
    ないという結論に達し、原口会長、八町副会長と佐渡事務局長の名前が上がりましたが、この中から昭和 47 年
     5 月に釧路商工会議所専務に就任、会議所に新風を吹き込んだ八町良三さんに白羽の矢が立った訳です。
     八町良三さんは昭和 5 年釧路生まれ、東北大学を卒業、昭和 44 年には釧路青年会議所の理事長を務めた若
    手経済人です。永尾さん、角田さん擁立に失敗し意気消沈していた 「 愛する会 」 は色めき立ち、 20 万市
    民の中立的な市政を推進できる有能なフレッシュマンと的を絞り、愛する会の会員始め役員は八町さん本人と
    栗林釧路商工会議所会頭に正式に申し入れました。結果的には八町さんの不出馬という形で終わってしまいま
    したが、渡邊さん、そのあたりの経緯は。
渡邊   八町さんは 「 愛する会 」 の副会長という立場もあり、責任感の強い男だけに立起の方向へ模索し
    始めましたが、私は栗林会頭に、八町専務が名指しされた以上、会議所議員の意向を聞くべく臨時議員総会を
    開くべきと考え、開催を要請しました。商工会議所臨時議員総会での発言者 7 人中 5 人が支持せず、賛成し
    た 2 人は自民党関係者でした。「 八町さんを選挙の犠牲にするな 」 とか 「 商工会議所専務が立起すれば
    経済界と市との対立がもっと激しくなる 」 「 選挙態勢も山口さんより遅れているのでなかなか難しい、無理
    することはない 」 等と発言があったり、一部経済界には勝てないのなら山口市長でも仕方がないではないか
    という空気もあり、栗林会頭も出馬要請を断る事に決断、八町さんも不出馬を明らかにしました。
横澤   土壇場で八町さんの不出馬が告げられ、 「 愛する会 」 はお手上げ、舞台は自民党釧路支部へと移
    っていきます。ここでようやく鰐淵俊之さんの名前が出てきます。しかし 「 若い鰐淵さんでは市長選はまだ
    早い 」 という声が一部にあったり、五郎さんにもう一度立起してもらう、とここでまた五郎さんの名前が出
    て来ました。私はどうしてこの段階で五郎さんの名前が出て来たのか不思議に思いました。一番最初に五郎さん
    の名前が出ていれば、その後今とは違う展開があったんではないかと思うんです。昭和 40 年から 46 年まで市
    長選で 2 回、道議選で 2 回、この 7 年間で 4 回も戦った五郎さんです。心ある市民の方は五郎さんに対し
    て慚愧に耐えない気持ちで一杯であったと思います。この昭和 48 年の市長選挙を五郎さん自身どの様に想い、
    考えていたのだろうと想いを馳せた事もありました。 6 月になって五郎さんは、市長候補には若くて使命感に
    燃える鰐淵さんが適任と態度を示し、鰐淵さん出馬の体勢作りに動き出し、そのまま選挙に突入して行きまし
    た。

      昭和48年10月21日執行釧路市長選挙投票結果
          山口哲夫(社)    六一、一六四
          鰐淵俊之(無)    五二、七一六
          橋谷和男(無)       五二八

      有権者           一三一、〇七三
      投票率             八八・一七 %

長谷川  昭和 48 年、この市長選の選対本部長を務めた後、昭和 49 年 2 月 17 日、五郎さんが逝去される
    という大事件が起きました。渡邊さん、そのあたりのお話しを。
渡邊   市長選後の年末、五郎さんは道議会の視察団の一員としてブラジル、メキシコなど中南米の視察旅行
    で体調を崩し、帰国後 1 月 16 日、釧路労災病院に入院、 2 月になって堂垣内知事のすすめもあって札幌厚
    生病院に転院したもののなかなか好転せず、 2 月 15 日には病状悪化、私も面会しましたが五郎さんの声には
    力がありませんでした。そして 2 月 17 日午後 6 時 10 分、お亡くなりになりました。享年 50 才。
     悔やんでも悔やんでも猶余りある事でした。
長谷川  五郎先生が亡くなられて今年で丁度 30 年になります。私達も年々歳々年を重ね、五郎さんが亡くな
    った 50 才はもうとっくに過ぎてしまいましたが、まだ 50 才の五郎先生の足下にも及ばない私です。最後に
    五郎さんと特に関わりが深かった渡邊さんと角田さんのお話をお聞きして終わりにしたいと思います。まず
    角田さんから。
角田   五郎さんの逝去にあたって 2 度 「 ムシの知らせ 」 がありました。一度目は労災病院への見舞い
    です。私達の活動で五郎さんに頼りきり過ぎた後ろめたさのためか見舞いに行くのをためらっていましたが、
    あまりよい情報がないので、一人で見舞いに行きました。しかし、病室はカラで看護婦さんが後かたづけをし
    ていました。 20 分程前に札幌に向かったとのことでガックリし、スピード違反を重ねながら釧路空港へとば
    しました。やっと間に合って控室からベッド式の車で飛行機に向かう五郎さんに逢えました。顔は黄色で元気
    はありませんでした。私の顔をジット恐ろしいほど見て、はっきりと 「 鰐淵を頼むぞ 」 を 2 回言いました。
    手を握ろうとしましたが動いていて出来なかったのが残念でした。これが最後でした。誰からも連絡を受けず
    タッチの差で間に合った不思議さで身震いすると共に、この 「 鰐淵を頼むぞ 」 の一言は五郎さんの最後の
    気持ち、最後の叫びだったと思う。恐らく見舞いの人達にも同じ様に言ったはずです。その後は 「 鰐淵では
    勝てない 」 という声を消して、まとまって来たのはこの言葉が大きく作用していると思います。
      2 度目は亡くなった日です。
     昭和 49 年 2 月 17 日は確か日曜日だったと思います。札幌に見舞いに行った人から、肝臓が相当悪化してい
    ること、丸山ワクチンを求めて東京まで飛んだことなど聞いていましたが、その日はどうしても気になりジッ
    トしていられなくて 「 五郎事務所 」 を尋ねました。旭立体橋脇の中西ビルの中です。事務所の田中さんから
    色々聞いている時に訃報が電話で入りました。ムシの知らせでしょうかタイミング良く。その時、急ごしらえの
    事務局長として誰に知らせるかを選び、後援会に知らせ関係者に集まってもらいました。大忙しの日が続き、悲
    しんでいる暇はありませんでした。
     一週間完全に市役所を休み全力で葬儀のとりまとめに取り組みました。元助役ということで認めてもらいま
    した。葬儀にまつわる話は別の機会とします。
     お通夜にはみは雨の中、多くの名もない市民が行列して厚生年金体育館に続々参拝し、別れを惜しんでいまし
    た。後にも先にも釧路ではこんな葬儀はないだろうと思います。残念無念。これからの事を考えると目先が真
    っ暗になりました。後から考えると、色々な人達の気持ちを一つにするきっかけとなる出来事だったのではな
    いでしょうか。そしてこの事が市政奪還のエネルギーになった事は確かです。
     昭和 52 年の市長選挙では鰐淵さんが当選しました。五郎さんの弔い合戦の勝利です。
      2 回も五郎さんに呼ばれるなんて、ふがいない後輩だと思っておられることでしょう。
渡邊   この稿は、五郎さんが亡くなるまでということで一応お話しを終える事ですので、病状が悪化し、葬儀
    に至るまでの事について、お話ししたいと思います。
     病状の経緯
    については前にも触れましたが、前年 ( 昭 48 年 ) 12 月に、道議会の視察団の一員として中南米各国を旅行
    し、途中体調を崩し、帰国後 1 月 16 日に労災病院に入院しました。病院には自ら車を運転して行かれたそう
    です。検査の結果、肝臓障害と診断され、治療を受けられました。
     2 月に入って
    からも思うよ
    うに恢復の兆しが見えず、その頃堂垣内知事さんのおすすめにより、札幌厚生病院に転院することになりました。
      2 月 11 日、飛行機で札幌に行かれ、そのまま厚生病院で治療を受けられました。 13 日、お見舞いのため、
    小船井さん、大滝さん、鰐淵さんと札幌へ行きました。ご家族はもとより市役所労組の人達もすでに札幌に入
    っておりました。 14 日も引き続き病院に詰めてましたが、顔に黄疸が出てぐったりしており、これはただな
    ぬことになったと胸が痛くなりました。病院からの説明では肝臓癌で、容態は極めてきびしく最悪の事態を覚
    悟してください、との事でした。 15 日、一層病状が悪化、奥様から、五郎さんに声をかけて下さいと言われ、
    何度も五郎さんしっかり、五郎さん頑張ってと声をかけましたが、五郎さんの声に力がなく、暗然としました。
     小船井さん、
    大滝さんと相談し、葬儀の準備のため、大滝さんと私は先に釧路に帰ることになりました。
     釧路に帰ってからまず最初に各地域の後援会、職域の後援会、各グループの後援会の代表者に集まっていた
    だき、五郎さんの病状をお知らせした方がよいと考え、 17 日 7 時 30 分に釧正館ビルの 3 階にご案内しまし
    た。総勢 50 人でした。大滝さんと私から、労災病院、厚生病院に入院してからの経緯や病状について説明致
    しました。会場からは 「 そんなら五郎さんは死んでしまうということか、そんなバカな事はない。五郎さん
    は死なない、絶対に死なない 」 「 そうだ、そうだ、五郎さんが死ぬ筈がない。何かの間違いだ 」 。会場の
    あちこちからこのような怒鳴る声が飛び交った。会が始まって約 1 時間、札幌から電話が入った。鰐淵さから
    だ。 「 6 時 10 分、亡くなられた。 18 日札幌斎場で仮通夜、 19 日密葬お骨にして空路釧路に帰る 」 と
    の電話であった。そのことを会場の皆さんに知ら せた。満場声なし、そしてすすり泣く声がだんだん大きく
    なってきた。 「 巨星墜つ 」 私はそっと胸の中に言い聞かせた。
     五郎さんの地域、職域後援会は 21 あったが、その他に個人や仲間が集まり後援会を組織したものが 10 あ
    った。何れも五郎さんを慕い、尊敬する人達のグループである。「 あけぼの会 」 「 いちい会 」 「 ゴーゴ
    ー会 」 「 五青会 」 「 こぶしの会 」 「 桃園会 」 「 ななかまど会 」 「 松の実会 」 「 百千会 」
    「 八日会 」 である。この日も、この会の役員の方々は出席していた。これらの会はそれぞれに横の関係はな
    く、すべて五郎さんに直結しているという意識があり、また自分達の会が一番五郎さんに近いんだという自負
    があったようだ。熱心に支援していただけに、その悲しみと落胆は大きなものがあった。
      18 日、葬儀の準備にかかる。多くの関係者に集まってもらい、大筋は次のように決まった。日程は、 2 月
     20 日通夜、 21 日告別式。会場は厚生年金体育館。施主は渡部五郎後援会。葬儀委員は奥様の要望により、
    委員長小船井武次郎、副委員長大滝重美、渡邊源司。会場設営、壇上の写真、パンフレット等は市役所労組の
    皆さん。尊師は西端寺福田住職。
     当日は堂垣内知事はじめ各界より三千人を超える、市はじまって以来の大きな胸を打つ葬儀であった。

     戒名は 政照院五蘊貫道居士
        ( 政治を照らす、深い学識、道を貫く )

     福田住職から、五郎さんに最もふさわしい立派な戒名を贈っていただいた。私はそう思っている。
     告別式では釧路短大女生徒による、五郎さんの大好きな 「 母さんの歌 」の合唱を捧げていただいた。遺
    族は奥様と長女敦子さん ( 札幌藤女子大 ) 、長男港吾さん ( 新川小 5 年 ) が壇上に上がられた。
     奥さんの挨拶のあと、港吾君が 「 前に買ってくれると言った望遠鏡はいらないから、生きていて欲しかった。
    おねえちゃんと力を合わせて頑張ります 」 とお別れの言葉を述べた。満場、涙、涙、涙につつまれた。
     祭壇の、大きな五郎さんの写真が今も忘れられない。

     思えば五郎さんという得難い逸材を失ったショックは、本当に大きかった。多くの市民が、五郎さんの豊か
    な人間性、奥知れぬ教養の深さに魅了され、敬愛し、頼りにしてきました。その五郎さんが 49 年 2 月 17 日
    に亡くなられて、来年で 30 年になります。 30 年の風雪の中に、社会も、市政も、人の生き方も、大きく変貌
    を遂げました。しかし、五郎さんが遺された多くの教えは、我々の心の中に今も生き続けています。 「 死者
    と共に生きる感覚 」 が日本文化の根源にあると私は思っています。そして、それを抜きにして宗教はないと
    思っています。
     生前の五郎さんには、我々市民は多くの御苦労を強い、ご迷惑をかけてきました。市長選挙に二度も挑んで
    いただき、我々の力のなさで目的を果たすことが出来ず申し訳なく、慚愧に堪えません。当時 40 年代は、全国
    的に革新の強い背景があったとは言え、時代が味方せず、あたら有能な人材がポストを得られず、その後の釧
    路に及ぼした衰退の波は、30 年経た今に表れてます。時代が必要と考えながら 「 時 」を得なかった五郎さ
    んに、ただ申し訳なく思うこと頻りです。

     ここに五郎さんの文学と漢詩にまつわる教えの一端をご紹介し、筆を置きます。ある時、五郎さんが家に来
    られた時の話。五郎さんは 「 学生時代から手元に置いて愛読している本の中に、中島敦の短編集がある。彼
    の小説はどれも示唆に富んでいて人の心を感動させるものがあるが、中でも 『 山月記 』 は私の心を強く惹
    きつけてやまない。彼は東大文学部卒で、昭和 17 年、 33 才の若さで死去された。
    私の大学の先輩になる。好きな作家だったので、娘が生まれた時、迷わず 『 敦子 』と名を付けた 」。私が、
    読んでみたいと申し上げたら後日、中島敦の 「 山月記 」 を届けてくれた。今も私の書棚にある。
     もう一つ ―

     昭和 45 年 1 月、神奈川県の高校に在学中の私の次男が、卒業を前にして交通事故で亡くなった。傷心の私
    達夫婦に、ある日五郎さんが額を持って慰めに来てくれた。額は毛筆で 「 人生足別離 」 と書かれていた。
    五郎さんの筆になるものだ。私がその意味を問うと、さらさらと傍らの便箋に漢詩をペンで書いた。

      勧酒詩 干武陵

      勧君金屈巵  君にすすむきんくつのし
      万酌不須辞  まんしゃく辞するをもちいず
      花発多風雨  花開けば風雨多し
      人生足別離  人生別離たる

      井伏鱒二訳

      この盃を受けてくれ
      どうぞなみなみつがしておくれ
      花に嵐の喩えもあるぞ
      さよならだけが人生だ

     そう書くと五郎さんは、干武陵 ( うぶりょう ) は唐代の詩人。遠方より友が訪れ、酒をすすめる詩です。
     「 人生足別離 」 を井伏鱒二は 「 さよならだけが人生だ 」 と訳しましたが、私なら 「 この世は別れが
    いっぱいだ 」 と訳したいねと、はにかんでおられた。
     この額は佛間に掲げてあり、毎朝五郎さんを憶い出している。

     私は予予かねがね、五郎さんの行政官として数多い業績の一つに昭和 38 年に発表
    された釧路市総合計画が第一に上げる事が出来ると思っています。この総合計画は後にも先にもこれ以上の総
    合計画は出ていません。釧路市総合計画は、それより先昭和 35 年に完成した釧路市総合調査によるものです。
     元助役の坂本茂君は釧路中学の同期で、釧路市、鳥取町合併後、佐熊、山本、山口、鰐淵と 4 市長に仕え
    た優秀な行政官です。とりわけこの総合調査作成には五郎さんのテコとして五郎さんと一緒に取り組みました。
    その時の事を坂本君に書いてくれるようにお願いした所 「 五郎さんは高くて、深くて、とても俺には書けな
    い 」 と断られましたが、 「 五郎さんは君を信頼してテコにしたんだ。その信頼に今、答えてくれ 」 と言って、
    引き受けてもらいました。

 写真 左から 角田憲治、渡邊源司、長谷川隆次、横澤一夫 

     総合調査の 「 総括 」 は五郎さんのペンによるものと聞いています。今回、また読み返しました。五郎さ
    んの声が聞こえてきます。
     まだまだこれからの釧路のために参考になる部分が沢山あると思いますので、 「 総括 」 の全文を掲載し
    てもらう事にしました。
     それにしても五郎さんの総合計画は山口市政誕生と共に幻の計画になってしまいました。
     五郎さんの釧路市総合計画を誰か踏襲出来なかったものでしょうか。残念に思います。


合宿の思い出

坂本 茂

 昭和 32 年、五郎さんが秘書課長で来られて秘書課周辺は暖かい空気が流れた。隣の部屋には茫洋として大人の風格がある。野坂作五郎助役。来訪したアメリカの記者いわく、「 ここはゴロゴロで楽しいね 」。

 渡邊源司君から電話があった。「 来年は五郎さんの没後 30 年、お前は行政で五郎さんと一緒だったからその当時の思い出を書け 」と言う。
 私ももうすぐ 77 才、モノを書く力はないと遠慮したが、諸賢御承知のとおり、言い出したら曲げない源ちゃんのことである。やむなく承知した。

 五郎さんとは懐かしい色々な思い出があるが、ここでは五郎さんと一緒に川湯で合宿してまとめた釧路市総合調査について書くことにする。
 そのときの卓越した五郎さんの力に驚愕したことを紹介したいと思う。
 その前に背景となる当時の釧路の上京を思いだしてみたい。少し長くなるかもしれないが我慢してください、

その頃の釧路

 山本市長が誕生した昭和 32 年頃の釧路は、すさまじい勢いで人口が増加していた。戦後、四つの島に閉じ込められた日本の中で、資源の豊富なこの地域は魅力溢れる大地だったからである。
 国勢調査によると、 25 年から 30 年までの人口増加率は 28 % 、人口 10 万人以上の都市では、武蔵野市についで全国二位、 31 年から 35 年までは 26 % 、同じく第五位、大都市の衛星都市郡に匹敵する増え方であった。
 人が増えるのは街の繁栄のバロメーター、しかし環境の整備が追いつかない。中でも児童生徒の増加による教室の不足は深刻だった。
 山本市政 8 年間で、新築は朝晙小、光陽小、青明小、新陽小、駒場小、白樺小 ( 未完 ) 、緑陵中、景雲中、北陽高、 9 高。その他に寿小、湖畔小の改築があった。
 いずれの学校も 4 年から 6 年でやっと完成したから、開校式は廊下で行ったそうだ。そして現在、平成 15 年 ( 昭和では 78 年 ) 、学校統合が実施されようとしている。時の流れに翻弄される街の姿を象徴しているようだ。
 道路もひどかった。市役所の玄関には馬の水のみ場のような水槽とタワシがあって、長靴を洗ったものだ。国道も今から見ると信じられないほど悪かった。
 五郎さんに随行して帯広に出張した帰り道のことだ、厚内あたりだったと思う、何処までも続く泥の海、真っ暗闇の中で車はとうとう立ち往生。そこで五郎さん、はだしになって車を押した。すごい力だ、車は動いた。心が優しく力持ち、正にジャンバルジャンだと驚いた。昭和何年だったろうか、しかし 5 月 5 日であることは覚えている。王選手が一試合 4 ホーマーを打った日だったから。

 市勢の急激な膨張に伴って、学校、道路を初め課題は山積していた。都市計画、上下水道計画、第二釧路港( 現西港 ) 計画等々である。なんとしても資金に裏打ちされた、トータルな計画が必要となった。計画行政の夜明けの時代だったのである。

釧路市総合調査・総合計画

 山本市長は就任早々、機構改革で総合企画室を設置した。行政の問題点を探り出し、対策の方向を見出す総合調査の実施、そして長期展望をした総合計画の作成である。
 更に縦割り行政の横断的調整機能を持たせたいと考えた。私は新設の企画係長に発令された、 31 才のときである。正直、右も左も全くわからなかった。
 市長は次々と手を打った。総合計画審議会条例の議会提案、一年後の 34 年には、菊池三之助委員長はじめ百三十六名の専門家、知識人で構成する審議会が発足した。この間、相当の論議があって難航したが、このあたりの経緯は山本市長の労作 「 航跡二十年 」 に詳述されている。
 体制は整ったが総合調査の作業は難しかった、時間もかかった。しかし、暗中模索で出発した作業も、教育大の諸先生の尽力、町内各部局の協力があって少しづつ形ができた。市民意識調査など、各種調査もまとまってきた。企画室発足から、ようやくまとめの段階に入ったのは 35 年秋である。
 最終作業は雑務を避け、時間も自由な合宿でやることにした。

川湯の合宿

 川湯の宿である。和室の大部屋では、スタッフが書いたり、消したり、張ったり、切ったりの編集作業で忙しい。
 五郎さんの役割は総括の記述だ。側にサントリーの角瓶とグラス、山済みの資料を読み始めた。吸殻の山が出来る。二日目、三日目、まだ動かない。皆が心配しはじめた、 「 部長、間に合うだろうか 」 、四日目、太い指の間から文章が流れ始めた、流れるとしか言いようがないスピードだ。苦吟する様子もない、ほとんど加筆も削りもしない、そして静かに擱筆した。
 冒頭、 「 人びとは生活するために都市に集り、良き生活をするために、そこに留まる 」= アリストテレス = 、に始まる四万三千字におよぶ論文である。
 びっくりした、まず時間をかけてしっかりした論理の構築をする、そして底が知れない深い知識、天性であろう表現能力、つくづくすごい人がいるものだと感嘆した。

 こうして総合調査は完成した。今の時点で読み返すと、時代にそぐわない点も多いが、当時は他の自治体からの評価も高かった。
 そして 2 年後、 36 回に及ぶ審議会の審議を経て総合計画が策定された。
 五郎さんの提言した近隣地域提携、広域経済圏論、そしてこよなく町と市民を愛した情熱は 40 数年を経た今も姿勢の底流となって続いていると信じている。

坂本 茂 氏
横澤 一夫氏 略歴

昭和 9 年    釧路市生まれ
昭和 28 年    釧路湖陵高校卒業
昭和 31 年    釧路新聞社入社、 記者、報道部長、営業局長、帯広支社長、本社企画室長を経て
平成 元 年    取締役編集局長
平成 4 年    常務取締役
平成 13 年    退社
現在 釧路短期大学講師 株式会社 サトービル 取締役


坂本 茂氏 略歴

大正 15 年 10 月 2 日 斜里町生まれ
昭和 8 年    鳥取小学校入学
昭和 19 年    庁立釧路中学校卒業
         日立技術員養成所入所
昭和 22 年    鳥取町役場就職
昭和 24 年    釧鳥合併により釧路市吏員
昭和 28 年 4 月  財政係長、次いで総合企画室長、市立病院事務長、企画財政部長、経済部長、
昭和 56 年    助役就任
昭和 60 年    助役退任
Updated 31 May , 2020