Kataro ホームページ 「 河太郎 」 13 号 平成 15 年 ( 2003 年 ) 9 月1日

釧路に於ける音楽鑑賞活動の流れの中で ( 8 )

徳田 廣

 確か 2000 ( 平 12 ) 年の初夏だった思う。友人からの電話で "柳 兼子という声楽家を知ってるか" と聞かれ、咄嗟に返答しかねたが、 "日本でのドイツ・リートの先覚者で、戦前、ヴェルディの 「 鎮魂ミサ曲 」 の独唱で、当時の指揮者ローゼンシュトック ( 現 N 響の発展の功労者 ) を感動させ、合唱団員に涙を催させたというエピソードを聞いたことがあるけれど、名前だけ知っている程度で実際の演奏やレコードも聞いていないから殆ど知らないに等しいよ" と答えた。それから数ヶ月ほどして " これは栗村英二様からのご依頼でお届けします " と著者の松橋佳子さんからの文面が添えられて 「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」 ( A5 版・ 420 ページ・水曜社刊 ) が送られてきた。栗村英二さん ( 市内の現栗村医院長さんは実兄 ) は獨協大学教授で前号でも書いた日本を代表するドイツ・リート界の第一人者の川村英司さんとも親交があり、そのリサイタルは欠かさず聴き、その折々に電話や便りをくれた。昨 02 ( 平 14 ) 年の初秋、残念ながら病に倒れ他界された。興味深く得るもの多かった本書を、温厚だった人柄とさりげない気配りに感謝しつつ精読した。

「 柳 兼子 」の周辺

 時代が流れ去ってしまったためか、明治・大正・昭和の時代を唱い続け、日本の音楽界に大きな功績を残したにも拘わらず 「 柳 兼子 」 の名前を知る人は多くないようである。それで 「 柳 兼子 」 を知ることは松橋さんの仕事を判る上で大事ではないかと考え、同書掲載の 「 柳 兼子 」 の略歴 「 資料-44 」 と、これを補う程度に同書から所々拝借して参考に供したいと思う。

柳 兼子 の略歴 ( 資料 - 44 )

 柳 兼子 ( 旧姓中島かね ) の実家は、父隆道が中島鉄工場を営み、祖父成道 ( 兼吉 ) は、榎本武揚 ( 機関学 ) 、西 あまね ( 法律学 ) らと共に職方、鋳物師 ( 大砲の鋳造 ) として一八六二 ( 文久 2 ) 年、 幕府のオランダ留学生 15 名の一人として留学し、兼子の兼は謙吉の一字をもらったという。母寿は ( 父宮垣秀次郎・硝子師で江戸切籠の腕利き職人だった)兼子 6 才の頃から長唄を学ばせ、師の杵屋千代は宮家や福沢諭吉宅などで藤間勘翁の踊りに必ず演奏をした三味線の名手であったという。このことは兼子が後年とりくむ日本歌曲の演奏に重要な意味をもつようになったと言われる。
 柳 宗悦むねよしは父なら悦の三男。父は海軍少将で貴族院議員に勅任されたが、一八九一 ( 明 24 ) 年、宗悦 1 才 10 ヶ月のとき 58 才で死去するが、広大な敷地 ( 今のサントリーホールの辺り ) を残す。母勝子は ( 嘉納家の 4 女で、柔道の講道館初代館長の嘉納治五郎は末弟 ) この地に貸家を建てたり、貸地して生計を維持して行く。
 一九一四 ( 大正 3 ) 年、宗悦は兼子と結婚するが、その頃、東京麻布にあった柳家は家を整理し、童謡 "七つの子、赤い靴、青い目の人形" などを作曲した本居長世の家を買い、赤坂区青山原宿に移ることになる。宗悦はその時、本居のフルコンサート用グランドピアノを譲り受け、兼子への結婚の贈り物にしたという。原宿での二人の生活は七ヶ月ほどであったが、嘉納治五郎の農園と別荘があった千葉県我孫子町 ( 天神山 ) へ転居した。景勝にめぐまれていたが、当時の我孫子は駅の側に乾物店、豆腐店、菓子店などが僅かにある程度で、兼子の実生活は、水をくみ、薪を割り、風呂焚きをする自給自足の農村地帯の典型的なもので、音楽の勉強も東京から離れていて何かと不便であったという。
 宗悦も含めて学習院出身者による結成された 「 白樺派 」 の武者小路実篤、志賀直哉夫妻もこの頃我孫子に転居し、白樺派の同人的存在であったイギリスの陶芸家バーナードリーチも柳家の裏庭に窯と仕事場を作り、互いに家族的交流を深めながら 一九一〇 ~ 二〇 年代、我孫子は白樺派文学運動の拠点となっていった。後日、兼子と "あの頃は楽しかったわネ" と志賀直哉夫人康子さんは語っていたそうである。

「 宗悦の民芸運動と兼子の音楽活動 」

 民俗学の柳田国男 ( 一八七五 ~ 一九六二年 ) は知識人階層に対し、民間伝承を保持している階層を常人 ( 常民 ) と呼び、その生活の変遷を通じて民衆文化を明らかにしようとした。柳 宗悦は日本各地の民窯や李朝の陶磁器などに注目し再評価しようと、 「 民 」 は民衆の民、「 芸 」 は工芸の芸、つまり民衆的工芸の略称が 「 民芸 」 であり、民芸運動の先駆者となった。民芸運動は一九二六 ( 大正 15 ) 年、「 日本民芸美術館 」 設立の趣意書を発表し、やがて駒場に 「 日本民芸館 」 を開設する ( 一九三六 = 昭11年)。
 宗悦は 16 ) 大 5 ) 年、朝鮮・中国の初めての旅行で 「 朝鮮陶磁器 」 に惹かれ 「 石仏寺の彫刻 」 に感銘するが、10 ( 明治 43 ) 年、日本の 「 韓国併合 」 によって植民地化された朝鮮民衆は二〇〇万人にものぼる一大抗日運動 ( 19 = 大正 8 年の三・一運動 ) がおきた。翌 20 ( 大 9 ) 年、宗悦・兼子は朝鮮に捧げる音楽会を朝鮮と日本で開催する。その時の趣意書には 「 人種的に、また地理的に近い血縁の間にある日本と朝鮮とはもっと心からの友であっていいと思うのです。此の世に真の平和や友情を内側から持ち来すものは宗教や芸術の道だと信じます。・・・・ 」 。とある。
 兼子の朝鮮での初めての独唱会は朝鮮洋楽音楽史上での初めてのリサイタルであり、後日の評価では発展途上にあった朝鮮の楽壇にもよい示唆と刺激を与えたとのことである。
  39 ( 昭 14 ) 年、宗悦と兼子は民芸関係者と沖縄へ渡る。宗悦は沖縄の民芸に改めて驚嘆し、兼子は初めて見る沖縄の美しさに目を見張った。兼子はここで 「 荒城の月 」 や信時潔の 「 鴉 」 などを唱い、那覇市では五回の独唱会を行った。その頃、沖縄県庁は皇民化政策を強化し、演劇など伝統的な風俗習慣を否定し、標準語の励行と方言撲滅の運動を推進していた。 40 ( 昭 15 ) 年、宗悦はこれらの動きに対し 「 国家の単位は地方である。 ( 中略 ) 地方から生まれた言語を尊ぶことなくして一国の如実な表現を見出し得ようや。県民よ、公用語としては標準語を勤めて勉強されよ 」 。この年、大政翼賛会が発足、内閣情報局設置など戦時色を強めていく中での宗悦の思い切った発言は驚嘆すべきものである。翌年、日本は太平洋戦争 ( 日米開戦 ) に突入するが、音楽の面でも翼賛会文化部 ( 部長・岸田国士 ) は 「 日本音楽文化協会 」 ( 会長・山田耕筰 ) を発足させ楽壇は軍事体制に組み込まれていった。
 兼子は、この団体に名を連ねることはなかったので必然的に楽壇の第一線から遠のくようになるのである。戦中、大人から子供まで口ずさんだ国民歌謡 「 歩く歌 」 ( あるけ、あるけ、あるけ、あるけ、・・・・高村光太郎詩・飯田信夫曲 ) は JOAK = 今のNHK = のラジオ放送を通じて兼子は独唱と歌唱指導で行われたが、 「 暗すぎる、発音がドイツ的だ 」 と新聞各紙は批判した。しかし兼子は 「 私にはああ歌うよりないのだ。何だか知らないけれども歩いていかなければならない。重いものを背負い我慢をし、首を垂れて歩く・・・・ 」 と語り、軍歌は歌わなかったという。
 柳 兼子の末の子である四男の柳 宗民 ( 園芸研究家で NHK の TV 番組 "趣味の園芸" などに出演 ) さんは 「 柳 兼子伝 」 の出版記念祝賀会の席で 「 戦中 ~ 戦後にかけて駒場の家の裏に母は広い野菜畑を作った。母はすごい花好きで、植物の名や育て方などいろいろ教えてくれた。食糧増産一色の当時、花を作ることは国賊と言われる中、母は必ず畑の片隅に花を作った。駒場の家の近くには軍隊があり、駒場の家は兵隊さんが代々木の練兵場へ行く通り道にあり、ここで小休止をとった。そうすると兵隊さんたちが鉄条網越しに 「 花がある。花がある。 」と 言って、とても喜んだそうである。母は、 "あの頃たった一つだけいいことをしたことがある" と言って私にこう話してくれたことがある 」 と語っている。
 心安らぐとてもいいお話しだと思う。

「理想の愛」をめぐって

  「 共に勉励して何ものかをこの世に残す 」 ことは二人の 「 理想の愛 」 であり、朝鮮・沖縄での音楽会をはじめ、兼子は宗悦の民芸運動に献身的に協力した。 28 ( 昭 3 ) 年、兼子 36 才のとき、宿願のドイツ留学を果たすが、その頃のことを 「ポケットマネーが三千円貯まったらドイツへ行こうと思っていた。三千円貯まりかけると柳は "丸善への支払いが足りないとか、木喰 ( 全国遍歴して千体の仏像を彫った遊行僧の木喰行道 ) 研究会や民芸品などのためにお金が要る" といっては持っていってしまうんです 。」 と兼子は語っている。
 ドイツでの独唱会は "ブラームスを唱ったが、正直言ってドイツの歌手たちの中でもこの日本人ほどにしっかりした表現で唱う人は一流の中へ行かなければ求められない。ドイツ語で唱った歌詞の意味と内容理解は完全であり、暗色な流れるようなアルトがそれを助けた。 "完成された声楽芸術と歌曲内容に同化されている彼女の如きは、吾々の国でさえ稀である。" など新聞批評は絶賛し、あと半年ほども滞在し活動すれば国際的活動の機会を得られようとまで言われていたのに、宗悦の意向でやむなく帰国せざるを得なくなった。第一次大戦後の経済変動の中、宗悦の父が残した遺産は銀行の取付騒ぎで皆無となり、その打撃は大きく、兼子は音楽活動で家計を支える費用や宗悦の民芸活動への支援の費用などを捻出していたのである。当時は社会的、家庭的にもまだ女性の地位的環境は低く、子育てなど含め、それに宗悦にはやや亭主関白的なところもあって 「 理想の愛 」 は現実の経済生活の中で幾度か崩れかけたが、兼子の生活はこれらとの斗いでもあった。

「楷書の絶唱 」

  「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子 」 「 資料 - 45 」を手にした時 「 楷書の絶唱? 」 ってどういうことだろうと思った。 75 ( 昭 50 ) 年、柳 兼子 83 才の時のリサイタルのことを畑中良輔 ( 声楽家で二期会隆盛発展の大指導者で、新国立劇場の初代芸術監督 ) は 「 いずれも格調高い歌だ。それにはいささかの媚りもなく屹立した山頂のきびしさがどの歌をも貫いている。そしておどろくことは、その声の美しさ、ブレスのゆるみないことである。 ( 中略 ) 少しの構えもなく淡々とした歌いぶりは人生のゆるぎない足どりで一歩一歩完成していこうとするもののみが獲得できる自由さである。 」 と書き、教育研究者の山住正巳はこの評を取り上げ 「 これこそまさに楷書であり、きっちりした楷書に自由を見出すことの出来るのは嬉しい限りである。 」 と書いている。

「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」 松橋 佳子 著 ( 資料 - 45 )

 この書が出版された翌々年 = 01 ( 平 13 ) 年 = 、松橋さんらの監修で柳 兼子の 「 永遠のアルト 」 CD 三枚組、全 48 曲がグリーンドア音楽出版 ( GD2001 ~ 2003 ) 「 資料 - 46 」が世に出た。ぼくは前述の通り柳 兼子の歌は殆ど聞いてなかったので幾度かくり返し聞いて、とりわけ日本の歌曲 ( 48 曲中 22 曲 ) の特に高田三郎作曲の 「 啄木短歌集 」 に心惹かれた。 69 才の高齢で歌う青春の想いや憂いがしっとりと輝きをもって胸に迫って来るのを覚えた。名唱だと思う。

柳 兼子 「 永遠のアルト 」 CD 3 枚組出版される ( グリーンドア音楽出版 GD 2001 ~ 2003 )

  「 西洋のリートは叙情が多く、日本歌曲は叙景が多い。日本歌曲を歌う場合は叙景のイメージを自分で浮かべて聴衆に移って行くような歌い方をし、それがにじんで出るようにするのが一番理想的 」 「 日本のうたには言葉に心が入らなきゃいけないんですよ 」 と柳 兼子は語っている。 「 柳 兼子の歌い方は古い唱法だ 」 という人もいるが、最近の歌い手さん達にこのように叙景や心をしっかりと歌える人たちは殆ど見当たらなくなって来ているのではなかろうか。
 戦後、日本の作曲界は戦中の抑圧から脱却して活発な動きをみせるが、内面に自然体の音楽があり、日本的な独自の作風を求めた作曲家に清瀬保二 ( 後に武満徹などを輩出する ) がおり、 「 日本の味を西洋の基本で歌う 」 と日本歌曲の演奏の中に、日本の伝統音楽の唱法を取りこみながら洋楽と日本歌曲の唱法を統一させた柳 兼子は、後年、清瀬保二との接触が深まって行くことになり、松橋さんはこの二人の芸術家の音楽活動を丹念に記録して行く。一方、柳 宗悦は台湾、アイヌ文化への研究をすすめ、 57 ( 昭 32 ) 年に文化功労賞、 60 ( 昭 35 ) 年に朝日文化賞を受賞する。

「 活躍する松橋佳子さん 」

 松橋佳子さんは釧路市立旭小学校 ( 松橋さんの在学中は旭国民学校 ) の第 28 回 = 47 ( 昭 22 年 ) の卒業生である。 「 資料 - 47 」

釧路市立旭小学校昭和 22 年卒の松橋 桂子さん ( 資料 - 47 )

 当時、旭小には池田 正先生 ( 札幌師範卒・ 39 ( 昭 14 ) ~51 ( 昭 26 ) 年まで在任、のち教育大札幌校付属中学校へ ) がいて、合唱指導に熱心であった。旭小学校は篤志家の援助もあって小学校では初めて器楽部が編成され、歌の面でも女子の児童合唱団が作られ、放送やコンクールに出場するなど、音楽の面での旭小学校は特異な存在であった。
 松橋さんはこのような中、五年生の時に池田先生が組織した女子の児童合唱団に入った。 「 声がとても良いのでソリストのパートをやってもらった。 」 と池田先生は語る。
 敗戦の翌年 ( 昭 21 ) 、第一回の全道児童合唱コンクールで旭小学校は池田先生指揮の下で全道優勝を果たした。
 当時の教育界も戦中 ~ 戦後の混乱期で、47 ( 昭 22 ) 年、学習指導要領試案の中で、今までの 「 芸能科音楽 」 から 「 音楽 」 と変わり、 "平和と自由に生きる国民の目標として、児童、生徒の能力・地域・学校の実情によって教師の自主的活動を展開せよ" とあるが、指導書も参考書もなかった。そういう中、音楽教師は音楽サークルを作り合唱練習を始め、中央から講師を招き、初めての器楽講習会を開いた。敗戦の翌年、食糧難、住宅難の中、 "子供たちに明るさと元気を" と池田先生らは丸三ツルヤ ( 今の丸井今井 ) 前で街頭音楽会を催し、 49 ( 昭 24 ) 年には釧路市こども祭大会に旭小器楽部が参加する。ハーモニカ 15 ・卓上木琴 6 ・拍子木 1 ・カスタネット 4 ・トライアングル 2 ・ヴァイオリン 1 ・小太鼓 2 ・大太鼓 1 で、曲は "しょうじょうじの狸ばやし" などであったという。一方、 48 ( 昭 23 ) 年には釧路放送局 PG 合唱団が結成され活動を開始するが、池田先生はこれら活動のリーダーであり、 PG 合唱団の指揮者をつとめ、学校内だけでなく社会的側面での音楽活動にも大きな影響を残した。その後、 PG 合唱団・ PG 児童合唱団などでは坂部嬉誉 ( 故人 ) 、渡辺靖仁、山田達雄 ( 故人 ) の先生達が活動を続ける。 57 ( 昭 32 ) 年には木下 保、翌年には石桁真礼雄、畑中良輔など錚々たる演奏家を、夏期講習会に招聘している。
 松橋さんは 53 ( 昭 28 ) 年、江南高校を卒業後、翌年上京し専門学校に通学しながら東大音感合唱研究会に入り混声合唱を通して、当時全盛期にあった 「 歌声運動 」 のサークル指導などを経て 66 ( 昭 41 ) 年から 15 年間、清瀬保二 ( 一九〇〇 ~ 八一 ) に師事し作曲を学び、後年の師の日常生活を支え続けた。師は 81 ( 昭 56 ) 年に没したが、師との 15 年間を通して観た師の音楽活動を詳細にまとめたのが 「 清瀬保二音楽活動年譜 」 であり、清瀬保二を通じて柳 兼子と出会うことになった松橋さんは 「 柳 兼子音楽活動年譜 」 もまとめあげる。柳 兼子は生前 「 自伝 」 をまとめたいと言う意向もあり、その長い音楽活動を日本民芸協会の 「 民芸 」 編集部からの依頼をうけ十数年かけて前記 「 活動年譜 」 をもとに書き上げられたのが今回出版された 「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」 である。松橋さんは本書の冒頭で 「 柳 兼子先生は "日本の声楽の母" "我が国声楽界の至宝" "生涯そのものが明治・大正・昭和の音楽史」と紹介し、 "このように素晴らしい歌を歌われる方はどのような人生を歩まれたのだろうか。" と思い、この伝記を書きはじめた 」 と記している。
  「 本書は柳 兼子の歌だけでなく、その生き方などを 「 希有のうたびと柳女史のすべてを写し得た名著であり、是非一読を薦めたい。 」 と畑中良輔は CD 「 永遠のアルト 」 の解説の中で書いている。
 松橋さんは作曲家であり合唱指導者として活躍しており、昨 02 ( 平 14 ) 年の暮れ、かって柳夫妻が新婚の頃 「 白樺派文学 」の人達と過ごした 「 我孫子 」 に白樺教育館が開館し、その開館記念に松橋さんが招かれ 「 柳 兼子と我孫子 」 と題して記念講演を行った。
 白樺教育館長の武田康弘 ( 哲学者 ) は、作曲家清瀬保二に造詣が深く、清瀬作品の紹介に熱心で清瀬保二 CD 生誕 一〇〇 年記念演奏会など企画し、松橋さんも音源提供などで尽力。他方では 「 柳 兼子伝 」 をもとにしたドキュメント化の計画も進行中で多忙と聞いている。
 松橋さん ( 釧路蒲鉾工業協同組合理事の実さんは実兄 ) は上京後、一時期体調を崩し療養生活を送るが、その時 「 何ものかを作らなければ生きて行けない気持ちに迫られ、清瀬保二師のもとへ飛び込んだ 。」 という。
  「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」 には、明解な文体の中に、こうした松橋さんのあふれるような気概が示されているようにも思う。

 労作 「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」は、何故か市立図書館の 3F 資料コーナーに置かれている。松橋さんが釧路出身ということからなのだろうか。一般貸出しの書架にも置いて欲しい本である。

夭折の音楽ジャーナリスト ― 渡辺幸三君 ― 

 戦後間もない頃、音楽が好きで自ら望んで音楽ジャーナリズムの世界にとび込み、情熱を注ぎながら志半ばにして夭折した俊才がいた。本名渡辺幸三 ( 太宰治と芥川龍之介が好きだったので、太宰の本名 "津島" と龍之介の名の一字を自分の名に変え 「 津島孝之助 」 をペンネームとし活動した ) 。  渡辺君 ( 釧中 = 現湖陵高校時代からの友人だったので以下渡辺君と呼ぶ。 ) とはクラスが一緒になったことは一度もなく、隣のクラスに昼休みなど遊びに行っている中に音楽が共通の趣味であることが判り、レコードが沢山あるというので黒金町の彼の家の倉庫の二階へ出かけた。中 4 の春、校内で最初のレコードコンサートなど企画実施した。確かウェーバーの 「 魔弾の射手 」 序曲やズッペの 「 軽騎兵 」 などであったと思う。彼は旧制中 4 で大学へ進学した。 《 長兄は源司さん ( 元釧商会頭 ) 、次兄清仁さん ( 戦後釧路の音楽関係で活躍 ― 本誌 10 号に記載 ) 、実弟の廣志さんは本誌で多才な文筆をふるっている。》  渡辺君のその後は
   47   ( 昭 2 )  年 國學院大學予科入学
   52   ( 昭 27 ) 年 同大学文学部史学科卒業
              錦城学園高校講師となり、 6 月 「 音楽芸術 」誌に投稿、
              "音楽と政治" の小論文が読者評論として 9 月号に掲載。
   53   ( 昭 28 ) 年 音楽之友社へ入社。出版部で 「 名曲解説辞典 」 「 演奏
              家大辞典」「年鑑」などの作成作業。
   55   ( 昭 30 ) 年 編集部へ移り、「音楽の友」編集、9月「音楽芸術」編集担当
   57   ( 昭 32 ) 年 「 レコード芸術 」 編集担当
               7 月 12 日 鎌倉にて肝硬変のため死去。 享年 27 歳
  79 ( 昭 54 ) 年 れい子夫人が渡辺君の遺稿集として 「 津島孝之助音楽評論ノート 」 「 資料 - 48 」 をまとめられたが、中 3 ~ 大学 ( 15 才 ~ 22 才 ) までの日記大小 7 冊、原稿用紙・便箋などに書かれた論文・創作など 160 枚、大学から友社時代までの大学ノートに書かれた 「 音楽評論ノート 」 や 「 日比谷公会堂ニュース 」 に書いた演奏会の解説 ( 53 年 ~ 57 年 ) などが収められている。その中には現在にもつながるのではないかと思われる渡辺君の日本の音楽界への洞察が垣間見られるようで、それは松平頼則作曲の「ピアノと管弦楽の主題と変奏を中心に」「資料・49」の日比谷公会堂ニュースにも伺える。
 渡辺君の記述には大学で史学を専攻した歴史的視点から日本の音楽文化や取り組みについて思考、展望している傾向が見える。松平頼則の音楽についても遺稿集の中では
 "その音の美しさの故郷は遠く平安朝の貴族社会にあり ( 中略 ) 現実にうごめいてあくせく生活している大衆とは無縁である。混沌とした国際情勢、日本自体もいろんな意味で変革し、古い殻をぬぎすてなければならない時に、平安貴族的な情緒がどこまで現代の世相の荒波を乗り切って行けるか、松平氏にそれだけの強さがあるのか疑問に思う。大衆に対する深い愛情と現実に対する正確な認識を・・・・"
 と書いている。この辺に渡辺君の音楽ジャーナリストとして追い求めたテーマが潜んでいたのではなかろうか。

故渡辺幸三氏のれい子夫人がまとめた 「 津島孝之介音楽評論ノート 」
 津島孝之介音楽評論 の一例 松平頼則作曲 「 ピアノと管弦楽のための主題と変奏 」 を中心に ( 資料 - 49 )


戦後の混乱期の中で

 前述した 「 柳 兼子伝 」 のところでも触れたが、戦時中殆どの作曲家、演奏家は 「 日本音楽文化協会 」 のもと軍事体制にのみ込まれて行った。 45 ( 昭 20 ) 年の末頃、同協会での山田耕筰の活動に対し音楽評論家の山根銀二に戦争犯罪人にあたらないのかと指摘され、山田は反発応酬し結果は両者の痛み分けとなったいわゆる 「 楽壇戦犯論 」 があった。
  「 いざ来いニミッツ、マッカーサー、出て来りゃ地獄へ逆落とし 」 を作曲した古関裕而も占領軍司令官を侮辱した罪で戦犯になるという噂までとんだ。戦後しばらくは音楽家は戦争責任が問われ、過去の過ちをふり返り、特に作曲者は虚脱、懺悔の中にあり、平和、労働者、大衆とのつながりを求められる時期が続いて行くことになる。

渡辺幸三とその時代をふり返る

  50 ( 昭 25 ) 年前後の時期、日本の作曲界の代表的な動きとして

(イ) 46 ( 昭 21 ) 年 西欧派・技術派でペンタトニーク ( 五音音階 ) を好まないといわれ
  る 「 新声会 」 が入野義郎、柴田南雄、諸井三郎、団伊玖磨らによって結成
(ロ) 48 ( 昭 23 ) 年、民族派・生活派でペンタトニークを好み、在野派といわれる 「 新作
  曲派協会 」 が、清瀬保二、松平頼則、早坂文雄、伊福部昭、塚谷晃弘ら 9 人で
  結成される ( 後に武満徹が加わる ) 。ここには音楽学校出身者はいない。 イ と ロ は対
  立的であったが
(ハ)   48 ( 昭 23 ) 年、その中間派に立つ 「 地人会 」 が結成され、フランス近
  代風と日本情緒を湛えた繊細な作風の平尾貴四男を代表に高田三郎、安部幸明、
  池内友次郎の弟子貴島清彦らがメンバーであった。


 しかしこのような分別があっても、それぞれの派では進取か保守か。単に東洋的でいいか民謡旋律を重んじるか。アメリカ的かロシア的か、解釈や取り組みなど種々複雑な考えがあった。そんな中、ストラビンスキー、伊福部昭に傾倒したり、ジャズ、 12 音音楽、電子音楽、加えて仏教の声明や梵鐘の響きに注目した黛敏郎など、どこにもあてはまらない作曲家もいた。渡辺君が大学在学中から音楽之友社入社の頃はこのような時期であった。

「 三人の会 」 の結成

 渡辺君が音楽之友社に入社した 53 ( 昭 28 ) 年、東京音楽学校 ( 現芸大 ) 出身の三井財閥の大番頭の息子の団伊玖磨、女優桂木洋子と結婚し派手な存在だった黛敏郎、鬼才芥川龍之介の末っ子・芥川也寸志が 「 三人の会 」 を結成した。団は山田耕筰にロシアと中国音楽風な、黛は伊福部昭にジャズ、前衛音楽、芥川は橋本国彦・伊福部昭にソビエト音楽といったふうに師に学んだ作曲技法の上に、それぞれの個性を表現し、音楽の赴きも異なっていたが、共通して表現の媒体としてオーケストラに注目し、その資金集めを当時盛んに取り組んだ映画音楽で稼ぎ出していたといわれる ( 一般の作曲家は資金不足で、せいぜい室内楽作品で精一杯だったという ) 。 「 三人の会 」 を作ったとき "三人が集まって球体になること。これは一見求心的なことである。三人が集まって求心的物体状況の中に球になる。その球は音楽を発表するということについては非常に力強いものを持つだろう ( 中略 ) が、もっとその奥にあるものは実は求心的ではなく遠心なのである。三人寄れば三人が反発しあうのだ。そして三人が集まって相反発することによって一人一人の個性は磨かれ、そして存在は三人が一つになった以上の、もっと大きな存在になり得るのだということを僕たちは話し合ったのだ。" と団伊玖磨は語っている。渡辺君はこれから何かが変わり、新しいものが生まれるのではないかと 「 三人の会 」 に注目し始めていた。

「森の歌」のこと

 ショスタコーヴィチのオラトリオ・カンタータ 「 森の歌 」 は 48 ( 昭 23 ) 年、ソ連共産党中央委員会の "作曲家批判" 以後、ロシア民謡が伝統的に培った合唱曲の様式を通じて、スターリンの "わかり易さ・大衆性、人生肯定的な歌詞による" 音楽の大衆化が強調された時期の 49 ( 昭 24 ) 年に作曲された。
  48 年に発表されたスターリンの自然改造計画は、夏季、ヨーロッパ・ロシアの南部を襲う乾燥した熱風を防止し、農業収穫の安定を期するため、ボルガ東岸、中央アジアの砂漠地帯、ヨーロッパ・ロシアの主要農業地帯に、国家の手で長さ一〇〇〇キロにおよぶ 8 本の大森林ベルトを設けるという。日本列島を 2 往復する距離に匹敵するほどの大計画であった。
 ショスタコーヴィチは北ロシアのペテルブルグ生まれであったので、北部の独特な大森林の景勝に深い愛着があった。彼はこの壮大な緑化計画を知り、詩人ドルマトフスキーに作詞を依頼し、第二次大戦の荒廃から復興に立ちあがろうとするソビエト国民の建設的な姿を 「 森の歌 」 に唱いあげようとして作曲された。全 7 曲のうち 1 ・ 5 ・ 7 曲は共産主義・スターリン賛美の色が濃く、スターリンは満足して 50 ( 昭 25 ) 年、スターリン賞第一席を与えた。 「 森の歌 」 は体制に迎合した作品といわれた。しかし 53 ( 昭 28 ) 年、スターリンが死亡し、マカレンコ、ブルガーニン、フルシチョフと指導者が変わるとスターリン独裁の批判が高まり、 「 森の歌 」 の第一曲 "我らの指導者は輝かしき大地" に、第5曲 "愛するスターリンに栄光あれは我らが党に栄光あれ" 、第7曲 "愛すべきスターリングラードは我らの英雄の街" などに変わり、かって日本各地の合唱団や労音などで芥川也寸志等の指揮などで演奏されたが、今日では日本でも世界的にも演奏されることはなくなった。そして 91 ( 平 3 ) 年、ソビエト連邦は崩壊した。
 一方、ヨーロッパ・ロシア・中央アジアの砂漠地帯を農地に変える自然改造計画で、大量の水がシルダリア川、アムダリア川等の中流域で灌漑用水が取水され、川口の水位が下がり魚もいなくなったという。この二つの河川が注ぐアラル海は九州と四国とをあわせた位の面積があり、世界第 4 位の湖であったが、現在は面積は半分に縮小し水位は 15 メートルも下がってしまったという、 20 世紀最大の環境破壊をもたらしたと言われている。
 渡辺君と同じように 「 森の歌 」 を初めて聴いたのはムラビンスキー指揮・レニングラード交響楽団・独唱ペトロフ ( バス ) による LP ( ヴァンガード盤 ) であった。壮大な迫力に圧倒され感動もした。確か 55 ( 昭 30 ) 年の夏であったと思う。北浦和・針ヶ谷の彼の家の側を通り抜ける旧中山道を 2 人で散歩しながら
"「森の歌」は壮大で感動的だなー"
"ベートーヴェンの 「 第九 」 のような精神的な感動として心に残る永く残るだろうか"
"「 第 4 曲 "ピオニール ( 子供たちの植林隊のこと ) は木を植えているはいいなあー、すーっと素直に音楽の中に入っていけて、自然に歌いたくなる明るいメロディだ。日本でも日本の民謡を生かしたこういう種の音楽は出来ないのか。" などと話したことがある。第 4 曲は作曲者自身がアイディアを提供し作詞されたといわれ、政治色は薄い。
 その時、渡辺君が胸に描いているテーマは 「 三人の会 」 の動きに見られるような日本の音楽の将来的展望と、大衆のものとしての日本の音楽がどうあるべきなのか、ということではないのかと思った。このようなことは前述の松平頼則のことや日比谷公会堂ニュースに書いている団伊玖磨や清水脩のオペラなどの解説にも見受けられる。しかし渡辺君は彼が思っていた新しいきざしが見えはじめていることを彼の目や耳で確かめることなしにこの世を去ってしまった。そして不思議なことに彼が逝った直後から 「 三人の会 」 をはじめ日本の音楽界の更に新しい歩みが速度を増したのである。

「 経済復興とともに 」

  56 ( 昭 31 ) 年度の経済白書に 「 もはや戦後ではない。 」 という言葉が使われ、経済復興は文化的活動にも反映していった。外国からはシンフォニー・オブ・ジ・エア ( 旧NBC 交響楽団 ) 、イタリア・オペラ、ベルリンフィルなど来日する中、 56 年ウィーンフィル初来日のとき、渡辺君にチケットを依頼していたので、神田鍛治町の 「 音楽之友社 」 へ直行した。近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら 「 これ一寸モダンだろう 」 と言って渡してくれたのが 「 資料 - 50 」 の名刺で、全体が中央よりやや左下に配置されていて、当時としては斬新なもので 「 音楽芸術 」 の編集担当になった彼の喜びと気合いを感じたものである。 「 音楽芸術 」 は日本の音楽界の中核的な雑誌であるから、日本の代表的な音楽家や評論家などとの取材編集には相当な気を遣い仕事は甚だ多忙のようで、仕事を終わってからの原稿整理に加えて、自分自身の勉強やらで午前 2 時 ~ 3 時頃の就寝が常時のようであった。
  「 三人の会 」 はその後 62 ( 昭 37 ) 年まで 5 回の演奏会を催したが、そのハイライトは何といっても 58 ( 昭 33 ) 年の第 3 回の演奏会であり、芥川の 「 エローラ交響曲 」、団の 「 アラビア紀行 」 、そして黛の 「 涅槃交響曲 」 が発表された。芥川、黛の作品は共に彼等の代表作であり、特に 「 涅槃交響曲 」は黛が "もはや西欧に学ぶものなし" と言い放ち、東大寺、平等院、法然院など七つの寺院の鐘の音を NHK 技術研究所を通じて音響分析し、その結果の近似値を平均律のピッチに直し、これを基本的な和音として鐘の響きを模してオーケストレーションし、合唱には声明が用いられ、西欧と日本の響きの対立融合を計ったもので世界的評価も高く注目され、日本作曲家の嚆矢となったとされている。この演奏会は渡辺君が逝った翌年のことであった。

渡辺幸三君の名刺 ( 資料 - 50 )

 同じ頃、日本フィルハーモニーは 71 ( 昭 46 ) 年まで現代の作曲家にオーケストラ曲の委嘱を行った。これは 「 日フィル・シリーズ 」 と呼ばれ優れたオーケストラ作品を生みだし、その功績は 「 東京交響楽団 」 とともに大きなものであったと言える。
 その後 「 20 世紀音楽研究所 」 ( 57 年 ~ 65 年 ) の主催で軽井沢で開かれた 「 現代音楽祭 」 の役割 ) によれば、参加者三五二名中一般一一四、音楽学生一〇四、その他の学生八〇、音職五四名であったという。作曲家のグループではなく現代音楽の啓蒙活動と音楽祭を主とした今までにない見られない動きを示したものであった。
 一方、同じ 57 年に 「 邦楽四人の会 」 が、北原篁山 ( 尺八 ) 、後藤すみ子 ( 箏 )、矢崎明子 ( 三弦・箏 )、菊地悌子 ( 十七弦 ) によって結成され、洋楽界の作曲家に邦楽器による現代作品を委嘱した初のグループであったが、真に邦楽器を生かした作品が生まれるのはおよそ 10 年後の 66 ( 昭 41 ) 年の頃であった。

「 音楽界戦後 50 年の歩み 」

 渡辺君が亡くなった翌年の夏、彼と旭小学校時代からの友人でもあった浜野幸一 ( 東大卒後、日本石炭協会、日本エネルギー経済研究所主任研究員、のち米英独仏露語翻訳家 ) 君と渡辺君の音楽の友社での仕事ぶりなど伺いに編集部長をなされていた中曽根松衛さんにお会いしたことがある。低めの声で堂々たる体躯の温厚な人柄という印象が残っている。その中曽根さんが多年の活動を通して取材された貴重な資料などをもとに近年 「 音楽界戦後 50 年の歩み ~ 事件史と音楽家列伝 」 ( B5 判・三三五ページ・芸術現代社 ) を出版された。 「 資料 - 52 」

音楽界戦後 50 年の歩み ~ 事件史と音楽家列伝 ( 資料 - 52 )

  「 音楽界戦後の事件史 」 では "戦犯戦争をめぐって = 山根 vs 山田" "新制音楽大学の問題点 = 邦楽科廃止論争" "サンデー毎日事件 = 音楽家クラブ・日本演奏家連盟の結成" "音楽教育の革新 = 芸大と桐朋音大の方向" "交響楽運動・戦後の歴史 = ある楽団長の死"
  「 戦後音楽家列伝 」では
作曲家 ( 山田耕筰他 9 ) 、指揮者 ( 山田一夫他 4 ) 、声楽 ( 柳 兼子他 7 )、ピアノ ( 井口基成他 3 ) 、弦楽 ( 巖本真理他 3 ) 、箏 ( 宮城道雄 ) 、評論家 ( 堀内敬三他 7 )、実業家・後援者 ( 徳川頼真他 2 ) など計 43 名について文筆をふるわれ、日本戦後の楽壇史として誠に興味深い貴重な内容が記されている。中曽根さんは 「 芸術現代社 」 代表取締役の重責にあり現在もご活躍中である。
 この書を読み終えて感想を述べ、初めてお会いした時頂いた中曽根さんの名刺 「 資料 ― 52」 をそえ、かって部下だった渡辺君の印象や思い出をお願いしたところ、今年の一月末頃、中曽根さんから丁寧なお便りが届いた。

音楽の友社編集長中曽根松衛氏の名刺

  「 小生の記憶には、彼は物事に徹底しなければ納まらないような一途な精神の持ち主であり、それ故に真正直であり一途なところが誤解もされたが、また信頼と友情を持たれるような愛すべき男であったとの記憶があります。何しろ昔のことで充分なことは語り尽くせませんが、良き後輩としての思い出が今日もあります。 」 当時の友社の同僚や友人などに連絡をとって下さったそうで、故人となられた方も多い事も書き加えられ、末尾には
  「 君に問いつ朝道行けば寒椿 」
と一句が添えられていた。
 中曽根さんの 「 音楽界戦後 50 年の歩み 」 を読みながら、渡辺君が若し元気でいたら音楽史的側面から胸に追い続けていた "大衆のものとしての日本の音楽" と展望をしっかりとまとめあげていたのではなかろうかと思った。
 ふり返ってみると我々渡辺君と同じ年代に属する 30 ( 昭 5 ) 年代前後に生まれた作曲家だけでも
 団伊玖磨 ( 24 ) 、芥川也寸志 ( 25 ) 年をはじめ
 29 年 黛敏郎、村松禎三、間宮芳生、矢代秋雄、湯浅譲二
 30 年 武満徹、広瀬量平、福島和夫、三木稔、諸井誠
 31 年 松平頼暁、丹羽 明、外山雄三、林光、篠原真
 33 年 一柳慧、三善 晃
など現代日本の作曲界を代表する人達をあげることが出来る。同世代のメンバーがこのように多数輩出して活躍しているのは、日本音楽史上稀なことではないだろうか。
 戦後の混乱期から立ちあがり、現代日本の音楽の世界的飛躍の土台を築いた人達である。こうした作曲家達の活動を音楽ジャーナリストとしての側面から、その発展成長ぶりと今日的課題を渡辺君だったらどう把えていることだろうか。
 僅かしか残されていない渡辺君の遺稿からは真に彼が求めていたものを明確に把握することは出来ないが、時には次の二人の言葉を想い出すことがある。
 経済学者で作曲家であり自由な活動をした塚谷晃弘 ( 19 ~ 95 年 ) は
  "芸術が 「 民族的 」 だということは排他的だとか侵略的だとかいういわゆる 「 民族主義 」 「 帝国主義 」の意味するものとは全く異なる。ソビエトをはじめとしてフランスでも、ハンガリーでも、米英でもすぐれた現代音楽のすべては民族的色彩が顕著であり、それが現代と矛盾しないことを証明している。また幸いにも日本の民謡や古典音楽に基づいた作曲をする場合、もっとも現代的な方法論で処理することがもっともたやすいし適切なことを発見する。 ( 中略 )  社会経済史学の分野でも、郷土史研究から再出発して新しい科学的な見地から日本的な発展の 「 型 」 を追求しなければならないという動きが若い史学者たちの問題になっている。これと同じことが音楽でも真剣に考えていいのではないか。かっての国家主義的な浅薄な立場ではなく、現代的な科学的精神をもって日本の国土のもつ民衆の音楽が研究しなおされなければならないと思う。" と。 またウィーンフィル初来日のときの指揮者であり作曲家であるヒンデミットは、東京芸大講堂での特別講演 「 現代音楽をめぐって 」 では
  "西洋にはハーモニーの一〇〇〇年の歴史がある。これをどの民族にもあてはめることは出来ない。西洋の芸術は興奮とか情熱というものが基調になっているが、日本の場合は落ち着きや安らかさだと思われる。つまり興奮とか情熱を後者にどうあてはめるかだ。外国の技術をそのまま持って来てもはじまらないのである。" と言い、更に
  "西洋の人は日本の能のような音楽は絶対に作曲できない。能はわれわれの精神的なものとは全く違っている。これを賛美することは出来るがこれを創ることは出来ない。日本の大作曲家の仕事はこの国だけに生まれ、この国だけに育ったものをつくり出すことにある。"
 もう相当前の記述や講演であるが、共に洞察が深く現在にも通用する方向や理論を示しているのではなかろうか。 渡辺君が大衆という場合、生活と共に生きて来た民謡や邦楽などの伝統的な音楽のことと将来をを思い浮かべていたのかも知れない。
  「 レコード芸術 」 編集担当になってからのことは、当時、慶応大学教授で高名な音楽評論家であった 「 渡辺君は生きている 」 「 資料 ー 53 」 を参照されたい。

「 渡辺君は生きている 」 ( 音楽評論家 村田武雄 資料 - 53 )

 渡辺君の周りには村田武雄、藁科雅美、志鳥栄八郎といった日本の代表的なレコード音楽評論家がいて渡辺君は 「 レコード芸術 」 の仕事に実力を発揮しはじめていた。
 渡辺君が亡くなって初七日を迎える頃、鎌倉の材木座の彼の自宅で霊前に合唱したとき、お父上の幸作さまが背を丸くしてしょんぼりと仏壇の横に坐っていたのを覚えている。霊前に向かって 「 幸ちゃん! 」 と言ったきりあとの言葉は出てこなかったが、今なら "「 幸ちゃん 」 、日本の音楽も音楽界も君の思っていた方向に変わって来ているようだ。けれどもその根源的なところでまだ明確に見えてこない部分もあるようだ" 。と報告しているかも知れない。
 日本の音楽をめぐって、前述の松橋佳子さんもいろいろな活動の中でお考えもあるようだから "久々に旭小学校時代のことなど故郷での懐かしい話題から始めて、面白くいい対談が出来るのではないか、若し出来たら・・・・" と独りで勝手に想像してみたりもする。
 今回は、表題の 「 釧路に於ける・・・・ 」とはほど遠いものになったが、演奏家以外の二人の釧路出身者の中央での活躍について記述してみた。
 今までの記述をあわせ何かの参考になれば幸甚と思う。

= 完 =

 ※ 参考または引用文献

 「 楷書の絶唱 ― 柳 兼子伝 」          松橋佳子著
 「 旭小学校の歩み 」              旭小学校編
 「 釧路教育史 」                釧路市教育研究所編
 「 音楽芸術 」 「 レコード芸術 」        音楽之友社
 「 音楽界戦後50年の歩み 」           中曽根松衛編者
 「 日本の作曲 20 世紀 」            音楽之友社
 「 戦後の音楽 光と影 」            佐々木光著
 「 渡辺幸三遺稿集・津島孝之助音楽評論ノート 」 渡辺れい子編  「 渡辺幸三書簡 」 「 朝日新聞 」 ほか
Updated 12 September , 2018