釧路に於ける音楽鑑賞活動の流れの中で ( 7 )

徳田 廣

 戦後間もない 50 ( 昭 25 ) 年頃から音楽大学や一般大学の特設音楽科などへ進学し専門の学業を終え、地元に帰り教職に就く人達や、中央での活動を目指し、更には海外留学を志す人達も出始めようになり、 60 ( 昭 30 ) 年代半ばを過ぎる頃になると、地元での演奏活動を開始したり、わが国中央楽団や海外で活躍する人達が出始めた。前者についてはこれまでに記して来たので、今回は地元との関わりなど含めて眺めてみようと思う。

木内さんの 「ローマ大賞 」 受賞
  57 ( 昭 32 ) 年、ステファノ木内 ( 木内清治 ) ウンベルト・ジョルダーノ記念国際音楽コンクール第1位 「 ローマ大賞 」 受賞! のニュースは、戦後の停滞からようやく動き出した日本のオペラ界にとっての朗報であり、将来への期待を込め賞賛を持って迎えられた。
 木内さんは国立音楽大学卒業後、 52 ( 昭 27 ) 年、ノタルジャコモ先生の帰国に伴ってイタリアへ留学、同年 9 月ローマ国立サンタチェチリア音楽大学入学、研鑽を積み 55 ( 昭 30 ) 年、イタリアのティエネで 「 リゴレット 」 のスパラフチレ役でデビュー、57(昭32)年帰国し藤原歌劇団入団。オペラでは「ボエーム」 「 トスカ 」 「 仮面舞踏会 」 「 リゴレット 」 「 運命の力 」 「椿姫 」 「 カルメン 」 「 ニュルンベルグの名歌手 」 等に出演するほか 60 ( 昭 35 ) 年、東京労音 7 周年記念のショスタコーヴィッチのカンタータ、オラトリオ 「 森の歌 」 などにも出演している。リサイタルでは
58 ( 昭 33 ) 年、木内清治 帰釧リサイタル ( ピアノ宮原徳子 ) 60 ( 昭 35 ) 年、木内清治・宮原徳子ジョイントリサイタル ( ピアノ宮原徳子・渡辺靖仁 )  69 ( 昭 44 ) 年と 70 ( 昭 45 ) 年、木内・宮原ジョイントリサイタル ( ステファノ木内後援会 ) を釧路で行うほか
62 年には 「 オペラ談義と楽しい歌の夕べ 」 に藤原義江・戸田政子と出演 ( 釧路労音例会 本誌 9 号記載 ) 、東京では
61 ( 昭 36 ) 年、木内清治帰国第一回バスリサイタル ( ピアノ大島正泰 於第一生命ホール ) を行い、ドンカルロのアリア、蚤の歌などの他 「 シレトコ半島の漁夫の唄 」 ( 伊福部昭作曲 ) 、グノーのファウスト 「 金の子牛の歌 」 、ボイートのメフィスト 「 見よこの世界を 」 などを歌う。当夜は山根銀二、木村重雄、宮沢縦一、属啓成などの音楽評論家をはじめ藤原義江、長内美保、三枝喜美子夫妻、川内澄江、布施隆治などの歌手に加え伊福部昭夫妻、アルベルト・レオーネ夫妻、二期会、藤原歌劇団合唱団のメンバーなど客席の三分の一は第一線で活躍中の音楽関係者で埋まっていたという。
63 ( 昭 38 ) 年、ステファノ木内第二回リサイタル ― 伊福部昭作品とチマローザの宮廷楽士長 ― ( 於日比谷公会堂 ) 。
 伊福部作品では 「 サハリン島土蛮の三つの揺籃歌 」 ( ピアノ三石精一 ) 、 「 アイヌ語の叙事詩による対話体牧歌 」 ( ティンパニーのみの伴奏・塚田靖 ) 、チマローザのオペラ 「 宮廷楽士長 」 ( 三石精一指揮・東京モーツアルト合奏団 ) を歌い好評を得る。
 木内さんはその後自ら 「 ステファノ オペラ劇場 」 を創設し作曲も手がけ 「 陰人間 R 君の告白 」 「 雑種部落 」 「 焼かれる為の歌 」 などを発表し、 67 ( 昭 42 ) 年、芸術祭奨励賞を受賞した。他に詩集 「 鉛から滴る憂うつ 」 などもあり、前記のオペラ劇場を主宰しながら現在も奥さんの宮原徳子さんと共に後進の指導育成に力を注ぎ、稀にみる豊かな声量で自らもリサイタルを続けている。
 宮原徳子さんは東京都の出身、女子美術学校卒、ノタルジャコモ、福沢アクリヴィ等に声楽を学び、 53 ( 昭 28 ) 年、第 22 回毎日音楽コンクール第 1 位入賞、藤原歌劇団で 「 カルメン 」 「 オネーギン 」 「 ジャンニスキッキ 」 「 ファウスト 」 「 領事 」 などに出演するなど魅力ある優れたアルト歌手として活躍した。
 一方、釧路では木内夫妻の帰釧の時や夏休みを利用し上京して指導を受けた何人かの中学校の先生などがいて、 63 ( 昭 38 ) 年 11 月に 「 釧路オペラ研究会 」 を結成し木内夫妻も賛助出演し初めての発表会、 70 ( 昭 45 ) 年にはサマーコンサートを開いている。当時は 「 労音合唱団 」 「 釧路弦楽合奏団 」 「 市民吹奏交響楽団 」 ( 本誌 10 号参照 ) などの動きもあって、演奏会形式でもオペラの上演はできないものかと夢をふくらませていた時代であった。 ( 以上 「 資料 38 」 参照、 A は木内さんと伊福部さん。釧路で後進の指導にあたる B 木内さん C 宮原さん。Dオペラ研究会のプロ表紙)

木内清治と釧路オペラ研究会 ( 資料 38 )
A 木内清治 ( 右上と左上 ) と 木内清治と伊福部昭 ( 左中央 )  B 釧路で後進の指導に当たる木内清治 ( 右下 ) と C 宮原徳子 ( 左下 )

東フィル入団の佐藤さん

 ステファノ木内さんがオペラでの活動の道を歩み始めた頃、佐藤昌之さんは 54 ( 昭 29 ) 年、東京フィルハーモニー交響楽団のホルン奏者として入団した。佐藤さんは高校時代から吹奏楽や映画研究グループのリーダー的存在で、 53 ( 昭 28 ) 年、北大教育学部音楽科を卒業、在学中から札幌放送管弦楽団でも活動していた。東フィル入団後も当時 NHK 交響楽団の首席奏者であったクラウス・マンスフェルトに指導を受け、その後 10 年近く中央の楽壇で活動を続けた。 "オーケストラの一員として初めてオペラの練習に参加したのは 「 ニュルンベルグの名歌手 」 で、 5 時間もかかるこのオペラのホルンのパート楽譜は譜面台に乗っからない分厚いもので、超人ワグナーの根底に触れる思いがし、指揮者のマンフレッド・グルリットさんの偉大さに感動した" そうである。身体的事情で東フィルを退団、
  64 ( 昭 39 ) 年、北海道教育大学講師、
  66 ( 昭 41 ) 年、北海道教育大学釧路校助教授
となり、その後、西ドイツ・デットモルトムジーカアカデミーやヘルフフォルトの北西ドイツフィルハーモニーなどで研鑽を積みながら後進の音楽教育や地元の吹奏楽団の育成に力を注ぐ。佐藤さんの教育を受けた数多くの学生は現在、教育の現場を通して活躍している。小・中・高・一般社会人に今日最も普及し活動が広まっているのは吹奏楽ではなかろうか。時代の流れもあろうが佐藤さんの吹奏楽演奏と普及への尽力によるところ大なのではなかろうか。佐藤さんは 73 ( 昭 48 ) 年、自ら 「 釧路吹奏楽団 」 を創立し、現在は同団々長、音楽監督を務める。同吹奏楽団は現在までコンクールの全道大会で 4 年連続の金賞・アンサンブルコンクールでは北海道代表として 2 回全国大会出場の実績を残している。 01 ( 平 13 ) 年、第 33 回定期演奏会ではムソルグスキーの大曲 「 展覧会の絵 」 が演奏されたが、高校生・大学生・一般社会人を含むこの種のアマチュアバンドでは卒業・転勤などメンバーが変わったり、各人の演奏技術の差、年齢差等による音楽の内容把握や心のふまえ方の違いなど多々あるのだろうけれど、そうした難点も佐藤さんの指導で上手にコントロールされた熱演であった。 02 ( 平 14 ) 年は第 34 回定期 ( 創立 30 周年記念 ) 演奏会を迎えたが、 " 30 年もの長い間棒を振っている佐藤さんを見ていると、大阪フィルを育て上げた朝比奈隆さんのように見えてきましたよ" と伝えたら "現役でもう少し頑張ってみるつもりです。" と答えが戻ってきた。 74 ( 昭 49 ) 年 釧新郷土芸術賞、 76 ( 昭 51 ) 年 釧路市文化奨励賞、 00 ( 平12 ) 年 釧路市文化賞が贈られている。現在、北海道教育大学釧路校名誉教授。 ( 以上 「 資料 39 」 参照)。現在は釧路地区の殆どの小学校から大学までと一般社会人の間に多数の吹奏楽団があり、総数は確認していないが A は釧路地区吹奏連盟発足記念演奏会のプログラムの表紙の一部と内容であり、団体数は少ないが新しい意欲を感じ取れる。現在、同地区吹奏楽連盟理事長には、佐藤さんのあとを受けて中野国韻 ( 北陽高校 ) 先生があたり、着実な活動と継続に大きな期待が寄せられている。

釧路出身の東京フィルハーモニー交響楽団ホルン奏者で、帰郷後北海道教育大学教官となって釧路の音楽文化向上に多大の寄与をした佐藤昌之さん ( 資料 39 )
    上の写真は指揮をする佐藤昌之さんと釧路吹奏楽団演奏会、 下左の写真は木内清治氏と佐藤昌之さんのスナップ写真、 右下は釧路オペラ
研究会発表会プログラムの表紙
佐藤昌之氏が釧路で立ち上げた釧路地区吹奏楽連名発足記念演奏会のプログラム ( 資料 39 - A )

「 ドイツ・リート 」 の川村英司さん

 ステファノ木内さんが 「 ローマ大賞 」 を受賞した 2 年後の 59 ( 昭 34 ) 年 5 月、川村さんが、戦後再開した第 1 回国際ハイドン・シューベルトコンクールで第 1 位優勝したニュースが伝えられた。日本の声楽会は輝き、期待が膨らんだ。
 53 ( 昭 28 ) 年、武蔵野音楽大学を卒業
 57 ( 昭 32 ) 年、ウィーン国立音楽院に留学
し、 E ・ヴェルバと F ・グロスマン両教授に師事し研鑽を重ねた。川村さんの音楽研究や活動は国際的かつ多彩であるので 「 資料 40 」 を参照されたい。 68 ( 昭 43 ) 年 "日本の音楽家" ( 音楽の友 別冊 ) では 「 この両教授は何度か日本に来て公開講座その他を行っているが、川村はいつもその招へいに努力している。派手な存在ではないがドイツ歌曲の紹介、教育面での功績は認められるべきであろう。 」 ( 横溝亮一 ) とあり、川村さんの抱負として 「 今までは勉強第一に考えてきたが、今年からは演奏することを第一にしようと思っています。そして心から心へ伝わる歌をもっと歌いたいです。 」 と紹介されている。
  99 ( 平 11 ) 年録音の CD 「 冬の旅 」 ( 僕にはドイツ語のことはよく分からないが ) は、詩と歌の内容を吟味しながら川村さんのこうした心が味わい深く伝わってくるように思える。 ( コジマ・ ALCD 9013 )
 川村さんの釧路でのリサイタルは一度だけ行われた 「 資料 40- A 」。川村さんの演奏会は当時の釧路労音が例会として何度か企画したが、川村さんが全国的にもスケジュールが多忙で、全道の労音が全体で取り組んでも実現できなかったので、少し時間をおいてからの釧路音楽協会の好企画であったと思う。

川村英司バリトン独唱会 ( 資料 40 - A )

 川村さんは旭川生まれだが 5 才の時来釧し、日進小学校・釧路中学校 ( 現湖陵高校 ) の一年生の 9 月まで在釧していたので、特に小学校時代にスキーなど一緒に遊んだ親しい友人も多く "やはり釧路は忘れられない 「 懐かしい故郷 」" だそうで、小学校に入る少し前から当時の富士見町 71 番地 ( 中学校のすぐ近く ) に住んでいたとのことである。

川村清一先生と 「 釧路高女 」

 川村清一先生 ( 以下川村先生 ) は川村英司さんのお父さんである。函館師範学校を卒業して旭川の市立小学校へ奉職したとき、同校にピアノが購入され、師範学校での音楽の成績が優秀であったという理由でピアノ係を命じられたのがたまたま契機となり、音楽の勉強を専門にしたいと小学校を退職し、創立間もない武蔵野音楽学校 ( 現武蔵野音楽大学 ) に入学し、在学中に高等文検試験に合格、中等教員音楽免許証を取得する。昭和恐慌の真っ只中、妻子もあり学業・生活面など真に大変なことだったと想像される。
  37 ( 昭 7 ) 年から 40 ( 昭 10 ) 年 3 月まで庁立根室高等女学校に奉職し、同年 4 月から 48 ( 昭 18 ) 年 9 月まで庁立釧路高等女学校 ( 以下釧路高女 ) の音楽の先生として勤務する。釧路高女は現江南高校の前身で、教育大学釧路校の今のテニスコートになっているところに校舎があった。
 川村先生が赴任して間もない 42 ( 昭 12 ) 年頃、生徒数 450 名でオルガンが 17 台ほどあったという。 「 殆どが故障したり壊れたりして使えなかったのを川村先生は夏休みを返上して一つ一つ手をかけ、全てを修理調整して、各教室にオルガンがおかれるようになり、先生のおかげで生徒達が音楽に親しめるようになったのです。 "音楽は唱ったりするだけでなく弾く楽しみも必要である。" と先生は全員にオルガンの弾き方を教え、楽譜は白いボール紙に謄写してオルガンの側面にかけておき練習を課しました。先生はそういうことをコツコツと進められる方で、音楽に対する心の向け方や楽譜の読み方も誠意を込めて教えてくださいました。 」 と結城 ( 坪田 ) 貞子さん ( 第 17 回生、昭和 15 年補習科卒 ) は語り、また川村さんからの音信では
  「 年輩の卒業生が父のところへ来て "釧路高女ではピアノやオルガンを弾けるのは当たり前だったので、何処の女学校でも卒業生はピアノが弾けるものと思っていたが、他の女学校の卒業生と話していてそうでない事に気がついた" という話をしているのを聞いたことがある 」 とのことである。
 同校の校史記述にふれた資料などを見ると、 38 ( 昭 13 ) 年、生徒数の増加に伴って当時の茅野満明釧路市長が学級増加期成会の会長となっての道庁への誓願も実り、同年 6 月、音楽室・裁縫室・割烹室、 10 月には体育館・玄関が完成する。たまたまこの年、NHK 釧路放送局 ( JOPG ) が開局し、記念番組として釧路高女生による音楽放送が組まれ、ピアノ独奏や独唱の他に三部合唱で 「 ホフマンの舟歌 」 「 狩人の合唱 」 など川村先生指揮、阿部久美子、坪田貞子のピアノ伴奏で放送されている。
 時は少し移るが、戦後 50 年、この体育館で藤原歌劇団のプリマドンナ砂原美智子ソプラノ読誦会が開かれ、多くのファンが集まりなかなかの盛会であった。釧路放送局も 03 ( 平 15 ) 年、開局 65 周年を迎えた。
  「 資料41 」 は川村先生と授業、コーラスの風景 ( 昭 13 年当時 ) であるが、時代は日中戦争から太平洋戦争へと戦争拡大の気配が濃くなっていく頃で、この年、国家総動員法などが制定され、女学校にもこの資料のように戦意高揚のスローガンが掲げられるようになったが、 41 ( 昭 16 ) 年 = 太平洋戦争はじまる = の音楽界のプログラムでは、
○輪唱 「 春の小川 」 等 ○三部合唱 「 狩人の合唱 」 ○斉唱 「 野中のばら 」  ○二部合唱 「 うるわしき天然 」 ○四部合唱 「 ひばり ( メンデルスゾーン ) 」 「 森の鍛冶屋 ( ヴェルディ ) 」 ○ピアノ 「 乙女の祈り 」 などが組まれている。時節柄、学習内容にも規制が強められていた中、さすが米英の歌はないが良質な音楽的内容を求められていたと思われる川村先生の思考辛労のほどが伺われる選曲のように感じられる。
 川村先生が昭和 18 年に室蘭へ転勤された後には先生に音楽を教わった坪田貞子さんが武蔵野音楽大学を卒業し、同 18 年から 48 ( 昭 23 ) 年まで釧路高女に勤務された。坪田先生は前記した言葉に加えて "川村先生には音楽の最も本質的なものを教わったのです。" と語り、川村先生の教えを戦後初期の釧路高女で実践された。この二人の先生によって釧路高女生たちに心優しい情熱と音楽性が育まれたのではなかろうか。坪田 ( 現結城 ) 貞子先生は 80 歳をこえて健在 ( 札幌在住 ) である。
 川村・坪田両先生にピアノの基本を学び、その後、瀬戸山雪子先生に師事し、武蔵野音楽大学に進学した人に鈴木 ( 河野 ) 公江さんがいる。 92 ( 平 3 ) 年、幼児期・低学年の子供達は音域が狭く高い方の音を思うように発声できないことに留意し、移調を試みた 「 ぼくもわたしも歌えるよ 」 ― こどもの声域に合わせた愛唱歌集 ― を音楽之友社から出版、同書プロフィールによれば 55 ( 昭 30 ) 年、武蔵野音楽大学卒業、読売新人演奏会出演、 NHK 洋楽ピアノオーディション合格、フランス近代ものを数回放送、同大ピアノ専攻科在学中に品川区立荏原二中で合唱部を作り東京都大会で優勝。 NHK 合唱団特別公演をはじめ合唱コンクールなど専らピアノ伴奏の分野で活躍し、現在も用事から学生・音楽教師・一般人など広く後進の指導にも情熱を注いでいる活躍の様子が伺える。
  49 ( 昭 24 ) 年、同大学の福井直俊 ( 名ピアニストの A ・シュナーベルに師事 ) 教授が釧路で演奏会を開いた際、まだ高校生であった河野さんは 「 すぐ上京してもいいですよ 」 と才能を認められたほどの人で、ピアノをレオニード・コハンスキー( 中村紘子や館野泉などの師 )、宅孝二 ( 名ピアニスト A ・コルトーに師事 ) 、和声を岩間稔等に師事し、修めた音楽の領域も ( ジャズ音楽も含め ) 厚いようである。
 高校生の頃、ぼくはワルター・ギーゼキングもモーツアルトの 「 トルコ行進曲 」 のレコードをよく聴いていたが、その頃河野さんの 「 トルコ行進曲 」 を "綺麗に弾く人だな" と思って聞いた印象が今も残っている。

「 再び川村先生について 」
  「 父の音楽好きは意までも変わらず、夜中に目が覚めても寝よう寝ようとはせずに少し音楽を聴いて眠くなったらまた寝るという、父の自然に逆らわない生き方が、父の音楽教育に現れているのではないでしょうか。綺麗な歌は何処の国の作曲家であれ、美しい曲は美しいとして教えたかったのだと思います。釧路での父の教員生活は若い時期であり、音楽教育に燃えており、実りが大きかったのでしょう。
 父は今 94 歳で健在ですが、今でもかっての教え子さん達が尋ねてくれています。有難いことだと思います。よい音楽を聴くのがとても好きで、家にはヨーロッパの SP ( Victor 赤盤というヤツです ) でかなりの量がありました。 ( 最近はカセットでダビングしたテープで現代ものを聴いていますが・・・・ )
 高後病院の院長さんなどと語り合って 『 釧路音楽愛好会 』 など作って、釧路での音楽普及にも努め、中央から演奏家を呼び、生の演奏が聴けるようになったのです 」 。
 以上は 「 資料 41 」 の戦意高揚のスローガンが掲げられていた時代に、 ( 個人的になるが ) 姉 ( 故人 ) と友人達が 「 聴け聴け雲雀 ( シューベルト ) 」 などの歌を口遊んでいたのを思いだして "川村先生の音楽についてのお考えや音楽を通してどの様に生徒に接しておられたのでしょうか" と川村さんに幾つかのお尋ねしたことへの返信の一部なのだが、川村先生の音楽観や音楽への心の寄せ方や想い、広い音楽活動への情熱など温かく優れた人柄が伝わって来て感慨深い。

川村精一先生と戦意高揚のスローガンを掲げていた時代の 「 釧路高女 」 ( 資料 41 )

 戦中から戦後へかけての時代、釧路での音楽活動には一部空白の部分があるのではと思っていたが、前記の如く 「 釧路音楽愛好会 」 があったという。これが確かなものであれば戦後 49 ( 昭 24 ) 年、高後勉先生や瀬戸山雪子先生などを中心に発足の 「 釧路音楽同好協会 」 ( 本誌 7 号記載 ) の活動につながっていたのかも知れない。もしそうだとすれば釧路に於ける音楽活動の空白部分も埋まり、新たな一ページを書き加えねばならないだろう。
 高後先生は昭 13 ~ 14 年と昭 16 ~ 23 年に釧路高女の校医を勤められたので、川村先生との接触は十分に考えられることである。活動の具体的なことはまだ把握していないが、この時代先生が学校教育だけでなく広く釧路での音楽の普及振興に尽くされたことは誠に貴重であったと言えるのではなかろうか。

「 海外で活躍の二人のソプラノ歌手 」
  70 年代頃から市内在住者の演奏活動が活況を見せ、その後育ち始めた若い人達の中から優れた才能を示す人が現れるようになった。
 その中から現在ヨーロッパなどを中心に活躍目覚ましい次の二人を挙げねばならないだろう。

①中嶋彰子さん。 「 資料 42 」

中嶋彰子 ( 資料 42 )

 中嶋さんは城山小学校に在学していたが、お父さん ( 太平洋炭鉱 KK ) の勤務の都合で上京し中学校卒業後、 15 才でオーストラリアに移住するが、両親の帰国後も同国に残り、ニューサウスウェルズ州立音楽院声楽科で研鑽をつみ、 90 ( 平 2 )年 8 月、全豪オペラコンクールで優勝 ( 日本人初 ) 、同年シドニーオペラハウス・メルボルンオペラハウスと契約デビュー、ヨーロッパでは 92 ( 平 4 ) 年、イタリア ナポリのサンカルロ劇場で 「 ラ・ボエーム 」 のムゼッタ役でデビュー。同年インスブルックの国際バロック音楽祭にヘンデルのオペラ 「 アルチーナ 」 のタイトル、ロールを歌いヨーロッパ放送連合から最優秀賞を受賞、 97 ( 平 7) 年、ドイツ・ダルムシュタット州立歌劇場と契約 、99 ( 平 11 ) 年 3 月、 「 ランメルモーアのルチア 」 で大成功を収めて話題を呼び、同年 9 月から新生ウィーン・フォゥクスオーパーの専属歌手となり同年 11 月、 「 ロシア皇太子 」 ( レハール ) のソーニャ役、その後 「 愛の妙薬 」 「 ドン・パスクワーレ 」 ( ドニゼッティ ) 「 放蕩者のなりゆき 」 ( ストラヴィンスキー ) の主役、 「 魔笛 」 ( モーツアルト ) のパミーナ役など、その他ゲヴァントハウスのクリスマスコンサート・シュトゥットガルトの SWR 放送管弦楽団のニューイヤーコンサートなどに参加。
 日本では 99 年 12 月、 NHK 交響楽団とのセミステージ上演による 「 レクイエム 」 ( フォーレ ) 、同楽団のサントリー名曲シリーズで 「 椿姫 」 ( ヴェルディ ) のヴィオレッタ、 01 ( 平 12 ) 年 4 月、同楽団の定期演奏会に 「交響曲第 4 番 」 ( マーラー ) のソリストとして参加し日本での活動も多くなってきている。
 釧路では昨年、ウィーン・シュトラウスフェスティヴァル・オーケストラとの 「 ニューイヤーコンサート 2002 」 と共演、小柄だが抜群の迫力ある歌唱力を披露した。
  "専らウィーンを舞台にフォルクスオパーとの共演は人気上昇中" ( 02 年 12 月 15 日 NHK 海外音楽情報による ) との事である。

②森川栄子さん。 「 資料 43 - A および B 」
森川栄子さん ( 資料 43 - A )

 森川さんは高校在学中から合唱活動に加わり、声質・声量・歌唱力で注目されていた。東京芸術大学声楽科卒業後、同大学院修了、 93 ( 平 5 ) 年には釧路音楽同好協会第 17 回高後賞を受け、同年ベルリン芸術大学へ留学、現代声楽曲をアルベルト・ライマン教授に、声楽をエルンスト・ G ・シュラム教授に学び、 94 ( 平 6 ) 年、ダルムシュタット現代音楽講習でクラーニヒシュタイン音楽賞受賞、 96 ( 平 8 ) 年、ガウデアムス現代音楽コンクール総合 2 位、同年第 65 回日本音楽コンクール第 1 位及び増沢賞受賞、 97 ( 平 9 ) 年、釧路市で森川栄子リサイタル。 98 ( 平 10 ) 年、 「 月に憑かれたピエロ 」 ( シェーンベルグ、於東京 ) 、オペラ 「 リアの物語 」 ( 細川俊夫・ミュンヘン・ビエンナーレで世界初演 ) 、 99 ( 平 11 ) 年、 「 戦争と平和 」 ( 新日本フィルロシア公演・ロストロポービッチ・小沢征爾指揮 ) 、 「 生命と愛の歌・広島の橋の上で 」 ( ノーノ・東響オペラシティシリーズ ) 「 グレの歌 」 ( シェーンベルグ・東京サントリー音楽財団サマーフェスティヴァル ) 、 00 ( 平 12 ) 年、 「 マッチ売りの少女 」 ( ラツヘルマン・日本初演 ) その他 「 クリスマス・オラトリオ 」 ( バッハ ) 、 「 レクイエム 」 ( フォーレ ) 、交響曲 「 第 8 番 」 ( マーラー ) などに出演しているが、中でも数多くの現代作品をとりあげ内外で高い評価を得て、ヨーロッパを中心に活躍している。昨年 02 ( 平 14 ) 年 11 月 14 日、オペラ 「 羅生門 」 ( 久保摩耶子作曲 ) の日本初演が日生劇場で行われ話題を呼んだので 「 資料 43 ― C 」 ( 朝日新聞 11 月 21 日付 ) を参考とされたい。この批評は主に演出等について述べているが、 「 音楽の友 03 年 1 月号 」 では 「 独唱陣の中ではとりわけ森川がしなやかさを備えた凛とした声で時に鋭利な音形を交えた振幅の大きい旋律進行に応えて、このオペラならではの真砂像を印象付けた 」 ( 楢崎洋子評 ) とある。

オペラ 「 羅生門 」 ( 久保麻耶子作曲 ) 日本初演
朝日新聞掲載の 歌劇 「 羅生門 」 の評論 ( 音楽評論家 白石 美雪 ) ( 資料 43 - C )

  50 年代後半に木内さんや川村さんが国際コンクールで優勝し、着実な活動が始まった 60 年代初頭から数えて 30 年後、今度は中嶋さん、森川さんのように海外の舞台を中心に ( 最近では日本国内でも ) 活躍する優れた演奏家が出現するようになった。同郷の誼というか釧路人として誠に喜ばしい限りであり、釧路の誇りとも云えよう。今日までの労苦に一層の研鑽を積まれての活躍を期待し、大きな声援をおくり続けたい。

( 注 ) 今回の記述には
     演奏会プログラム・音楽人名辞典・音楽之友社・日生劇場・東京コン
     サーツ通信等の資料の一部を引用または参考とした。
Updated 24 August , 2019