ヤマとマチを結んだ臨鉄旅客列車

清水 富士雄

 戦後の日本のエネルギーを支え、昭和 30 年代のエネルギー革命に、機械化・合理化に全力投球し、 『 ヤマの灯を消すな 』 を合言葉に頑張ってきた太平洋炭鉱が平成 14 年 1 月をもって閉山した。
 今、私の関心は、関連企業である 『 臨鉄 』 がどうなるのか、その動向に集中している。
 『 臨鉄 』 とは、現在の太平洋石炭販売輸送㈱の石炭輸送専用鉄道ですが、その前身である㈱釧路臨港鉄道の略称です。
 臨鉄は大正 12 年に設立され、春採から知人までの石炭輸送を目的に大正 14 年 2 月に営業を開始したとされている。
 私と臨鉄の係わりは、私の父が岩見沢の鉄道教習所を卒業し、国鉄機関車の見習助手として美唄 ~ 岩見沢 ~ 札幌を往復する毎日を送っているところを臨鉄から機関手としてスカウトされて、大正 13 年 23 才で釧路に来たことから始まります。
 父の自慢は 「 俺が臨鉄に来たから機関車が動いて石炭が運べるようになった 」 というもので、死ぬまでそれを誇りに思っていたようです。
 私が生まれたのは、昭和 13 年で、春採駅のごく近くの臨鉄の社宅です。
 小学校入学は、昭和 20 年で現在の湖畔小学校の前身である春採尋常小学校でした。
 臨鉄についての私の記憶は、この小学校入学前後からのものです。
 釧路空襲は、昭和 20 年 7 月 14 日で、その日は早朝 ( 5 時半か 6 時頃 ) 空襲警報が発令され、母に手を引かれて防空壕に避難しました。ここから空一面に B 29 が来襲するのを目にしました。その時、湖畔小学校の方で大きな爆発音を聞き、煙が上がるのを見ました。 B 29 は市街地の方へ去りましたが、引き続き警報発令中で子どもは外へ出ることは出来ませんでした。これは第一波の空襲でした。第二波は 9 時前でした。第一波以上の数の B 29 が来襲しました。春採駅近くに小型爆弾が落ち、ドーンという音と地響きが伝わってきました。 B 29 は市街地の方へ去っていきました。 11 時頃になって警報解除となりました。昼になって、父が安否を気遣って家に帰ってきました。父の話では湖畔小学校が大破、学校すぐ下の宮下町がやられ 1 人死亡、炭住数棟が焼けたことを知りました。第二波では、春採駅近くの商店 2 軒が大破し、春採駅は窓ガラスが破れ、壁などが壊れたとのことでした。それでも春採地区は軽傷で市街地は軒並み空襲で焼けているそうだ、臨鉄も当分線路状態もわからず危険で、当分運休するとのことでした。
 この空襲を機に、終戦の 8 月 15 日まで臨鉄の客車は運休が続き、空襲で南大通り、北大通り、城山の商店街がどうなったのか断片的な情報しかなく、買い物にも行けず、母が町の様子を気にしていたことを思い出します。
 春採に住む人々にとって運休は、市街地で物資を調達し、種々の情報を得て来ていただけに、臨鉄客車がなくなれば春採は陸の孤島になることを認識することになったと思います。
 終戦後は、日本復興のエネルギー源は石炭しかないという政府の重要施策として石炭増産が叫ばれました。
 太平洋炭鉱は従業員も増え、活気を帯びてきました。

 昭和 20 年代の春採駅周辺は、商店等も増えてヤマの街の様相を呈していました。
 雑貨店 2 軒、鮮魚店 1 軒、太平洋配給所 ( 米・味噌・醤油・酒・タバコなど ) 、理髪店、写真館、映画館、郵便局、太平洋病院、公衆浴場などがありました。
 当時の炭鉱住宅は、春採駅の南側が元町、北側が宮下町、汐見町、臨鉄軌道を渡って左手が東本町、永住町には炭鉱の管理職クラスの人たちの住宅でした。
 永住町を左に見ながら進むと、左側に湖畔小学校、右が緑町、東仲町、曙町、昭栄町で、ここにも炭住群が配置されていました。炭鉱が増産体制に入った昭和 23 年には、炭鉱従事者 5 千人といわれ、住宅もどんどん建てられました。
 今の桜ヶ岡、益浦、興津に炭住が建ち始めたのは興津に鉱口が設けられた昭和 20 年代後半からです。
 元町、汐見、昭栄、曙の人達は日常的な買い物や用事は、ヤマの街で用が足りました。
 確か、炭鉱の月給日は毎月 15 日だったと思いますが、 15 日以降 10 日間位は客車は満員状態でした。
 私達子供は親の買物について行き、菓子やおもちゃを買ってもらうことが大きな楽しみでしたが、その代わり買物を両手に持たされたものです。
 親達は目的の買物をどこでするかで城山行き、入舟行きを決めていたようです。城山駅を下りて買物をして入舟駅から春採駅に帰ってくるコースは殆どなかったように思います。
 昭和 28 年に永住町停留場が設置されましたが、これは炭鉱の管理職の皆さんが自分達の利便を考えて臨鉄に設置させたのではないかと推察できます。炭鉱の人達は、炭住街一帯をヤマと呼び、市街地をマチと呼びました。
 ヤマの人達は生活用品調達のためマチに出かけましたが、逆にマチの人達でヤマに入ってきたのは炭住建設に従事する大工、左官屋、とび職、屋根職人などの人達でしたが、入舟、臨鉄、知人、米町の各駅から乗車し、大半の職人さん達は観月園駅で下車し、桜ヶ岡方面の炭住建設現場まで歩いたそうです。臨鉄の客車は正にヤマの人達専用の買物列車であったと言っても過言ではないと思います。
 臨鉄の旅客輸送の廃止は昭和 38 年 10 月ですが、廃止時の春採を取り巻く状況は大きく変化していました。一つは現在の市役所春採支所周辺に洋服店、金物店、家具店などが開店し、太平洋生協の品揃えの充実により春採域内で必要品の調達が可能となったこと、二つは東邦交通の路線拡大で春採までバスが乗り入れてきたこと、三つは炭鉱も採炭の機械化が進み、出炭量も大幅に増大し、石炭輸送体制 1 日 1 万トン体制が確立したことが挙げられます。
 臨鉄首脳が、乗客が年々減少する旅客輸送と増大する石炭輸送を天秤にかけるまでもなく、臨鉄存命とリスク軽減のためには石炭輸送専用会社となることを選択するのは当然のことと思います。
 それでも旅客輸送の継続に向けて臨鉄の努力も伺えます。例えば、廃止 2 年前の昭和 36 年にはマチとヤマを通勤する人達も増え、また材木町周辺に工場が立地し、特に日東化学、北海製罐、釧路製作所、太平洋関連などの工場立地もあり、材木町、緑ヶ岡の各停留所が新設されています。
 昭和 40 年代に入ると、太平洋炭鉱の持家制度が生まれ、太平洋興発 ( 株 ) が発足して社有地を利用して若草団地、あけぼの団地、晴海団地、はまなす団地などが造成され、車社会の出現で道路も整備され、ヤマ独特の雰囲気も薄れ、かって臨鉄が客車を運行していたことが忘れ去られ、これを利用してヤマとマチを行き来した経験を持つ人も少なくなった今、懐かしさだけがこみ上げてきます。

 以上、臨鉄の旅客輸送に焦点を当ててその果たしてきた役割などを幼少時からの思い出を基に記しましたが、釧路港が現在の南埠頭中心だった戦前から戦後の昭和 20 年代まで、国鉄と接する東釧路駅から臨鉄駅まで石炭以外の輸出入物資の輸送に多大な役割を果たし、広く釧路市の経済発展に貢献したことは忘れてはならないものと考えます。
 最後に夢を一つ、観光ブームの現代に入舟駅から城山駅まで臨鉄客車が復元できたとすれば、コンパクトに魅力溢れる風景を沿線に満載した列車として、観光振興に一役も二役も貢献するのではないでしょうか。
 例を挙げれば、入舟駅から知人駅まではポートサイド、知人から沼尻まではシーサイド、沼尻から春採まではレークサイド、春採から永住まではコールタウン、東釧路から城山まではリバーサイドと、わずか 11 km 余の鉄路に港、海、湖、川、炭鉱跡が詰め込まれている。これに今、人気抜群の蒸気機関車を配すれば鬼に金棒と思うが、いかがでしょうか? 観光資源を埋没させておくのはモッタイない。
 なお、永住町から東釧路までの区間で、現在の貝塚とおりの緑ヶ丘 5 ~ 6 丁目、太平洋ゴルフ練習場などがある武佐側低地を含め、かっては別保原野といわれ、臨鉄軌道一本は知っているだけで、他は一面の湿地で現緑陵中学校の南東斜面にはガケがあり、イワツバメの大群が営巣繁殖しているなど自然豊かな地帯でした。現在は住宅やスーパーが軒を連ね、フック玄は絶望だがウェットランドサイドもあったことを記しておきたい。
 現在、軌道が撤去さえた入舟駅から知人駅まで、春採駅から城山駅までの跡地は既に多目的に使用されているが、雑草が生い茂り放題常態になっている部分も多く見られます。中には "農耕を禁じます" と書いた立て札が立っているところもあります。
 努力すれば昔を再現することは可能と思われますが・・・

清水富士男氏のプロフィール

昭和 13 年 8 月 20 日 生まれ
昭和 32 年      釧路湖陵航行卒
昭和 36 年      北大水産学部卒
   同年      釧路市役所経済部水産課勤務
昭和 52 年 12 月   水産課水産振興係長
昭和 55 年      釧路市東京事務所長
昭和 63 年      水産部次長
平成元年       水産部長
平成 11 年 10 年   株式会社ドーコン釧路事務所長
Updated 18 March , 2021