蓮田善明と三島由紀夫

不二 一朗




 明治以降、日本の文学者で自裁した人はかなりいる。芥川や太宰の事は多くの人々の記憶にあると思うが、北村透谷、川上眉山、有島武郎、生田春月、田中英光、服部達、牧野信一、原口統三、久坂葉子、原民喜、久保栄、火野葦平、村上一郎、加藤道夫などの人達が自裁したのは一般の人達には忘れられている。そして同じ芸術家の中でも文学に携わった人に自裁が多く、美術家や音楽家で自裁した人は寡聞にして殆ど聞かない事は不思議である。
 たまたま久世光彦の著作を読んでいたら、国文学者蓮田善明の事が書かれており、蓮田善明が未だ学生であった三島由紀夫の文学的才能を見出したとあって、その時蓮田善明を初めて知った自分の浅学を恥じいた。
 前々から川端康成、三島由紀夫、江藤淳には何か繋がりがあるのではないかと自己流に考えていた。もちろんこの三人は自裁したのであるが、思想的に何か共通したものがあるというより、一本の川みたいのが流れているのではないかと考えていた。そしてこの三人の流れの川上に蓮田善明がおり、西郷隆盛が水源となっているのではないかと私の飛躍した考えが浮かんだ。
 蓮田善明が終戦時、昭和 20 年 8 月 19 日自裁した背景の事は小高根二郎の 「 蓮田善明とその死 」 に書かれており、江藤淳や久世光彦がそれから引いていると思われる。久世光彦の著作によると
  「 蓮田善明は、保田与重郎、伊東静雄、小高根二郎ら、古典精神を奉じるいわゆる 《 日本浪漫派 》 系列に連なる国文学者だったが、終戦直後の 8 月 19 日、陸軍中尉として赴任していたショホールバードで、直属の連隊長を射殺して、同じ銃で自裁した。連隊長が敗戦によって日本精神は滅亡し、その責任は天皇にあると訓示したことへの怒りと絶望がその動機だったと思われる」とある。
 日本浪漫派とは昭和 10 年 3 月、亀井勝一郎、保田与重郎、太宰治、檀一雄などが同人になり、新しいロマティシズムを打ち立てようとする意図のもとに、日本古典文学、古美術に結びつき、日本精神の回帰を図ったグループで、戦時下では 19 世紀ドイツロマン派の影響を受け、国学思想とマルクス主義を独特の形で折衷したもので、保田与重郎がその運動の精神面での指導者であった。文芸評論家江藤淳は 「 彼らは破壊 - 究極的には自己破壊を待望していた。また、感情の純粋性を重んじたが、何を持って純粋とするかは明確に定義しなかった。さらに彼らは、利己的な政党政治家や財閥指導者を追放することにより、国体の護持を提唱した。自己破壊は、天皇の慈愛と神秘のうちに結びつき、民族精神の顕現につながるという考え方だった。彼らは日本民族の優越性を信じていた。 」 と見ている。
また、江藤淳は 「 南州残影 」 で蓮田善明をこう記している。
  「 ところで田原坂の戦跡 ( 西南戦役 ) を訪ねたのは、去る平成 7 年 3 月 24 日のことであった。・・・・・・偶然にも前日に地下鉄サリン事件なるものが発生した。いったい何が起こったのかよくわからなかったが、この国が崩壊を続けていることだけは疑い得ないように思われた。その国は西郷が滅亡必死と見た国の成れの果てか、しからざるか。 」
 田原坂は西南戦役の激戦地であった。その田原坂の丘上に戦役記念碑が建ち、その近くに蓮田善明の小さな石柱の文学碑がある。その石碑は 「 蓮田善明先生文学碑 」 とあり、側面に一首の短歌が刻まれていた。その詩は
     ふるさとの 駅におりたち
     眺めたる  かの薄紅葉
     忘らえなくに
 長いが 「 南州残影 」 を続ける 「 学習院中等科の生徒だった三島由紀夫を見出し 《 花ざかりの森 》 を 『 文芸文化 』 に連載したのは蓮田善明である。その第一回が掲載された第 39 号 ( 昭和 16 ) 年の編集後記に、蓮田は記している。
  『 《 花ざかりの森 》 の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかということは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。・・・・・・この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少ないが、すでに成熟したものの誕生である 』 。ときに三島は 16 才、この後記は、作家三島由紀夫と日本浪漫派との絆の深さを物語るものとして、従来から重要な証言とされている。・・・・・・ところで、植木町が蓮田の 『 ふるさと 』 だとしても、何故この碑は田原坂の古戦場に建っているのだろう。 《 烈火の如き談論風発ぶり 》 を謳われた蓮田の文学が、何故 『 ふるさとの駅の かの薄紅葉 』 という表象によって要約されているのだろう。そう自問したとき、一種の戦慄が身内に走った。西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑に刻まれた三十一文字の調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは 《 ふるさとの駅 》 の 《 かの薄紅葉 》 のためだったのではないだろうか?
 滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが、滅亡を知りつつ滅びてゆく者たちの心を歌い得るからだ 」
と江藤淳は言う。




 蓮田善明は明治 37 年熊本市の金蓮寺という浄土真宗の寺で三男として生まれた。広島高師を卒業、旧制中学の教師をやり、その後広島文理科大学を卒業、旧制の成城高校で教鞭をとったが、昭和 13 年招集を受け、中支に派遣された。昭和 15 年負傷のため一時帰還、昭和 18 年陸軍中尉として再度南方に派遣されたが、昭和 20 年 8 月マレー半島ジョホールバールで終戦の 4 日後 41 才で自裁した。
 昭和 13 年 7 月広島高師時代の友人と国文学を主とした同人誌 「 文芸文化 」 を 70 号まで刊行したが、蓮田は殆ど毎号、論考、随想、小説、短歌、詩などを寄稿している。著作は 「 鴎外の方法 」 「 予言と回想 」 「 古事記学抄 」 「 本居宣長 」 「 鴨長明 」 「 神韻の文学 」 「 花のひもとき 」 などがある。この同人文芸誌は文献学的、マルクシズム的方法論を斥け、文芸学的、唯美主義的研究方法を確立しようとした。
 蓮田善明は昭和 13 年 10 月 19 日熊本第 13 連隊に入営した。入営に先立ち、病臥の母に挨拶したとき、母は善明にこう言った。
  「 おまえの招集はうれしい。誰か出てくれなければならないと思っていたが、これはうれしい涙バイ。もし生きて帰れたら、また会いたいが、それもどうなるか分からぬが、覚悟している。国のため身体を惜しまずはたらいてくれ。これがわたしの願い 」 と母は静かに、しかも明るくいわれたと 「 応召日記 」 に書いてある。また、こうも記している。
  「 自分は応召して、戦争と文学を犇々ボンボン尊むにいたった。戦争は唯人を殺し合うのではない、文学は唯人を頽廃せしめるのではない。両方ともに人生に対して苛酷なる経験なり。而して-恐らくこんな死と頽廃とを通して精神の理想を建設しうるとの信念と経験とを有するは日本人のみなるか - 精神の帝国を築く、この芳醇なる経験に 『 死ねよ 』 と我が意志は我に命ず。 『 死ねよ 』 とは大いなる意志の我に生き及ぶ刹那の声なり。
 妻よ、子よ、希くは我がこの心を - この日本の心をしれかし 」
 この蓮田善明の死生観あるいは思想的なるものを松本建一は 「 蓮田善明日本伝説 」 でこう解釈する。
  「 蓮田はすでに応召したときから、それを賜死と捉え、従軍して戦うことを死に赴く生というふうに考えていた。・・・・いよいよ戦地への出動が決まったときでも、それに興奮することがなかった。つまり、いよいよ死に赴く生が具体的に身に迫った、というふうに感じたもののようである 」 。

蓮田 善明
蓮田善明

  「 興国百首 」 という戦時下の短歌百選集の編集にあたって蓮田善明は元治一年の水戸天狗党の挙兵の際、部下千余人大将となった武田耕雲斉の和歌一首 ( 越の白雪 ) の採用に多くの囲りが選めたに拘わらず頑として採らなかった。採らない理由を推測するに、耕雲斉の天狗党が加賀藩に降伏した事に不満があったと思われる。松本建一の解釈によれば、 「 尊皇攘夷 」 の初志を貫徹するために全員が斬り死にか、凍死かで最後の一兵になるまで戦い抜くべきである。 「 政治 」 的な判断で降伏する事は蓮田は嫌ったからである。そしてそれは終戦時ジョホールバールにおいて蓮田の見る連隊長の行為も同じであるという。
 終戦に際して出来るだけ混乱を少なくし、将兵の生命を救おうとした連隊長の 「 政治 」 を蓮田は悪んだのである。しかし連隊長は所属する方面軍の命令で終戦処理と将兵の本土帰還という 「 政治 」 に従った事であるが、蓮田の目からは敗戦のあとでも最後の一兵まで戦う事が正しいのであり、それが最初から戦争の目的であると信じていた。つまり耕雲斉の 「 政治 」 を悪んだと同じく連隊長の 「 政治 」 を悪んだのである。




 小高根二郎の 「 蓮田善明とその死 」 は昭和 43 年に刊行されたものだが、それによると
 終戦時ショホールバールに布陣していた蓮田の部隊は満州事変時の関東軍高級参謀で、陸軍大臣を経験した板垣征四郎が軍司令官であった。蓮田の連隊は強兵で知られた熊本県出身者で固められ、意気盛んで一兵なりとも戦う空気があった。終戦時には青年将校を中心に極秘裏に抵抗部隊が編成されつつあり、蓮田はその部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な空気を察知した連隊長は 8 月 19 日軍旗告別式を行い、その場で敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いたという。蓮田は連隊長の職業軍人らしからぬあまりにも見事な豹変と変節ぶりに心中煮えくりかえるものを感じていたと小高根二郎はいう。
 連隊長は日本国家を滅亡させる国賊であると蓮田は断じ、信従を超克してこれを倒し、また自らも死んで護国の鬼となろうと決意したとの小高根の説に松本建一は
 連隊長は職業軍人として性格的にも訓練においても厳格なところがありながら部下には信頼されていた事は帰還兵の言からも推察できる。兵隊を無駄死にさせたりはしない、戦争は味方がいかに少ない損害で敵を負かすかという技術的な問題として捉えていた。故に敗戦になったら、いかに混乱を少なくし、兵隊達の命を守って早く日本へ帰そうとしたのが連隊長の考えであり、行為であった。それに対し蓮田善明は戦争とはみずから死なしめる、大きな文化として捉えていた。戦争によって生じる死そのものが文化であって、一兵になるまで死の文化を創るべきと考えていたという。しかも国文学者であった蓮田にはしによって創られるこの文化には千五百年の伝統を持った誇るべきものがあると考えていたと思われる。




 蓮田善明に見出され、蓮田が編集していた 「 文芸文化 」 に初めての文学作品 「 花ざかりの森 」 が掲載された三島由紀夫は、昭和 21 年 ( 一九四六年 ) 「 蓮田善明を偲ぶ会 」 に出席した。出席者の感懐として組まれた冊子 「 おもかげ 」 は表紙とカットは棟方志功が携わり、三島は次のような誅詞を墨書している。

     古代の雲を愛でし  君はその身に古代
     を現じて雲隠れ玉  へしに われ近代
     に遺されて空しく  靉靆の雲を慕ひ
     その身は漠々たる  塵土に埋れとす

 古代の神を愛した君は神ながらの国に雲隠れてしまった。遺された吾はその雲を慕いながらさむざむとした塵土に埋れんとする。蓮田が自裁した戦争下は 「 死が一つの狂ほしい祝福であり、祭典 」 であったが、戦後はその可能性を奮はれた塵土であると三島は考えたのではないか。
 三島由紀夫は昭和 45 年 ( 一九七〇年 ) 小高根二郎の 「 蓮田善明とその死 」 の単行本が発刊する際その序に次のようにしたためている。
  「 《 予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思う。・・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知っている 》 。この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考えの、或る時代の青年の心を襲った稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのように 『 文化 』 を創る人間になり得なかったという千年のウラみに拠る。
  氏が二度目の応召で・・・・ 『 賜死 』 の旅へ旅立ったとき、のこる私に何か大事なものを託
 して行った筈だが、不明の私は永いこと何を託されたかがわからなかった。・・・・それがわかっ
 てきたのは、 40 才に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対してあんなに怒ってゐたか
 がわかってきた。あれは日本の知識人に対する怒りだった。最大の 《 内部の敵 》 に対する
 怒りだった。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、
 その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根無し草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、
 その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言 - 徐々に蓮田氏の怒りは
 私のものになった 」 。
  「 死が一つの狂ほしい祝福であり祭典である 」との三島由紀夫の認識は蓮田の 「 死ぬ事が文化だ」といふ観念に通じている。
  「 予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・・然うして死ぬ事が今日の自分の文化だと知ってゐる 」 と蓮田善明の理念を三島は自らの心に確かめつつ、自分が 「 文化 」 を創る人間にならうとしたのではないか。昭和 45 年自裁へと急いでいった、その意味で三島は蓮田善明という先行者の跡を追っていったといえると山本建一は語る。
 それまで蓮田を通じて日本浪漫派との接触はあったと思うが、昭和 17 年頃三島は保田与重郎などの日本浪漫派の本を集めだし、同人の詩人伊東静雄と文通するようになった。また、昭和 18 年には保田に会いに行っているが、死と破壊を賛美するロマン派の思想に三島は惹かれるものを感じていたらしい。
 三島由紀夫は小高根二郎の 「 蓮田善明とその死 」 の連載完結昭和 43 年にあたって小高根二郎にこう書き送っている。
  「 この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確かめられ、固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐることが恥ずかしくなりました。・・・・今では小生は嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むよりほかに、なす術を知りません 」 。
 そして三島由紀夫はこの手紙の二年後、自衛隊市ヶ谷で自裁したのである。




 三島由紀夫は昭和 41 年 6 に 「 英霊の声 」 「 憂国 」 「 十日の菊 」 を 「 2.26 事件三部作 」 として発表した。私にはこの中に三島の自裁した何かが、三島の思いがあるのではないかと考える。 「 英霊の声 」 の略筋は 2.26 事件の将校たちは、天皇への至純の心により事を起こしたにも拘わらず陛下は叛徒とした。また、神風特別攻撃隊の英霊は、神である天皇との一体化を夢見て出撃したが、天皇は人間宣言をしたと恨む、裏切られた霊たちは、 《 などてすめらぎは人間となりたまひし 》 と繰り返し歌った。
 また、 「 憂国 」 は 2.26 事件の時、新婚のため反乱軍に加えられなかった一青年中尉が、天皇に帰一する至情のうちに新妻ともども切腹して果てる筋である。
 天皇を神として二〇〇〇年の独自の誇るべき文化をつくり上げた日本民族、その民族は護国のためには死もいとわず、死後は神となりて天皇に仕える古代からの伝えが消滅した無念の詩である。

       などてすめらぎは人間となりたまいし
                      《英霊の声》より

        「 陛下がただ人間と仰せ出されしとき
        神のために死したる霊は名を剥奪せられ 祭らるべき社もなく
        今もなおうつろなる胸より血潮を流し 神界にありながら安らいはあらず 」
        「 日本の敗れたるはよし 農地の改革せられたるはよし
        社会主義的改革も行わるるがよし 我が祖国は敗れたれば
        敗れたる負い目を悉く肩に荷なうはよし わが国民はよく負荷に耐え
        試煉をくぐりてなお力あり 屈辱を嘗めしはよし、
        抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし されど、ただ一つ、ただ一つ、
        いかなる強制、いかなる弾圧、 いかなる死の脅迫ありとても、
        陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。
        世のそしり、人の侮りを受けつつ、 ただ陛下御一人、
        神として御身を保たせ玉い、そを架空、そをいつわりとはゆめ宣はず、
         ( たといみ心の裡深く、さなりと思すとも )
        祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに 宮中賢所のなお奥深く
        皇祖皇宗おんみたまの前にぬかづき、
        神のおんために死したる者らの霊を祭りて
        ただ斉き、ただ祈りてましまさば 何ほどか尊かりしならん。
        などてすめらぎは人間となりたまいし。
          などてすめらぎは人間となりたまいし。
            などてすめらぎは人間となりたまいし。 」

三島由紀夫 1
三島由紀夫 1

 この 「 英霊の声 」 が出来上がる時、三島は母親に向かって 2.26 事件の頃の農村の疲弊ぶりを、熱心に話した。娘を売らなくては暮らして行けず、そのような家族たちを残して兵役につかなければならなかったことなど、うっすらと涙さえ浮かべて話した。それから二・三日後 「 昨夜一気に書き上げた。出来上がってしまったのだ 」 といって母親に渡した。
 一読して血が凍るような想いをした母がどういう気持ちから書いたか聞くと、
  「 手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ云う声が聞こえる。大勢の声らしい。耳をすますと、 2.26 事件で死んだ兵隊達の言葉だということが分かった 」 と答えた。
 怨霊と云う言葉は知っていたが、現実に、公威 ( 三島由紀夫 ) に何かが憑いている様な気がして、寒気を覚えたと母親は後で語っている。
 三島由紀夫の天皇観は、天皇はなによりまず 「 みやび 」 の源流であり、 「 みやび 」 とは 「 文 」 と 「 武 」 のあらゆる局面を包摂するものでなければならない。民衆詩を 「 みやび 」 で統括した万葉集以来の文化共同体の存在は 「 文 」 の領域であり、それが顕著に現れたものである。 「 みやび 」 はまた 「 武 」 の精華でもあり、場合によっては、 「 テロリズムの形態さへ 」 とることがある。
  2.26 事件の青年将校たちが重臣たちを倒した後に、通常のクーデターのように権力を簒奪しようとはせず、ひたすら 「 大御心に待つ 」 ことに重点を置いていた。この 「 待つ 」 ことにこそ、日本的な通義的革命の本質があり、それをつきつめれば結局 「 自刃の思想 」 に行きつく。 「 永遠の現実否定 」 としての変革運動は、その倫理的根拠は常に天皇であると云う。三島にとって理想の天皇像を求めつつ死ぬことによってのみ、彼自身の個人的救済と民族 ( 日本 ) の文化の救済とが結合できることになる。
 昭和の歴史において二度だけ天皇は神でなければならぬ時があった。一度目は 2.26 事件の際であり、二度目は昭和 20 年の敗戦時である。もし 2.26 事件の蹶蹶起が成功し、昭和維新が断行されていれば、占領軍の手を借りずに、農地改革は実行され、その後の戦争も防げたはずだ。敗戦時に 「 人間宣言 」 が発せられず、占領軍の検閲による洗脳がどんなに猖獗をきわめいても、今日に至るまでのこれほどの 「 虚しい幸福 」 の到来だけは防げたはずだ。天皇は 「 一度は軍の魂を失わせ玉ひ、二度目は国の魂を失わせ玉うた 」 と三島由紀夫は云う。




 明治 9 年熊本で起きた神風連の乱、明治 10 年の西南事件は日本が西欧の植民地化から逃れるため、近代国家として統一国家を造る手段として西欧文化を取り入れなければならなかったための犠牲とも云える。しかし見方を変えれば、それは二千年の時間をかけて培った日本文化の毀釈に他ならない。アーノルド・トンビーは
  「 19 世紀のアジアには二つの選択しかなかった。西欧を受けいれ、西欧に全面降伏することによって生き延びるか、西欧に抵抗して滅びるかである 」
 それは広義の文化と云える社会風俗、倫理、社会構造、既存宗教の破壊であり、民族の神の喪失であった。神風連の乱は日本文化を守るため純粋に西欧文化 - 中央政府 - に抵抗して破滅したのである。 「 日本は滅びる 」 と西郷隆盛は云ったが、それは神風連と通じるものがある。西南事件が単なる征韓論に敗れて西郷隆盛たちが下野したのが原因ではなく、その底流には日本文化を破壊してまで西欧文化を取り入れ、近代国家に急ぐ大久保たちの姿勢に反対したからではないか。
 この民族は近代化の名の下に神を喪い続けた。人間が人間たらしめる倫理の象徴である唯一の神さえも神性の座から降り、喪いかけている。三島由紀夫は死ぬ少し前に次のように云っていた。
  「 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう 」
 三島由紀夫は 2.26 事件の挫折を 「 何か偉大な神 」 の死と感じた。 「 英霊の声 」 を書いて三島は 「 楯の会 」 をつくろうと決心したらしい。三島は或る週刊誌に答えて
  「 天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまった。戦後のあらゆる混乱は、それが原因です。なぜ天皇は人間であってはならぬか。少なくともわれわれ日本人にとって神の存在でなければならないのか・・・・・・近代国家はかっての農本主義から資本主義へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人間の絶望的状態である完全福祉国家とならざるを得ない趨勢だ。そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになる。こういう近代的共同体のなかに生きる人間にとって愛は不可能になってしまう・・・・近代的社会に於ける愛は相互間だけでは成立しない。 ― 愛し合う二人の他に、二人が共通にいだいている第三者 ( 媒体 ) のイメージ ― いわば三角形の頂点がなければ愛は永遠の懐疑に終わる。・・・・昔からわれわれ日本人には農本主義から生まれた 《 天皇 》と云う三角形の頂点 ( 神 ) のイメージが古くからあり、一人一人が孤独に陥らない愛の原理を持っていた。天皇はわれわれ日本人にとって絶対的な媒体だった。 」
 また、林房雄との対談で次のように述べている。
  「 明治憲法によって近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、 《 天皇神聖不可侵 》 は天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、 99 % の西欧化に対する 1 % の非西欧化の砦が 《 神聖 》 の名において宣言されていたと見るわけです 」 。
 神を捨てた日本民族はどこへ放浪するのだろうか、国を失って二千年も放浪したユダヤ人は神だけを守り続け、ついに祖国を造りあげた。




 また三島由紀夫の思想を知る手段の一つに、昭和 45 年 9 月の評論随筆の 「 革命の哲学としての陽明学 」 から汲み取れる。陽明学の能動的ニヒリズムが日本人の心に触れて、強烈な影響を与え、激しい行動で明治維新の革命状況を準備したという精神史的な事実は無視できない。
 大塩平八郎の著書を愛読した西郷隆盛、吉田松陰の行動哲学の裏にも、陽明学の血脈がある。陽明学の 《 知行合一 》 とは、認識と行動の問題であり、認識と行動は一致する。行動がなければ認識すらないし、行動に移らなければ認識は完成しない。陽明学は革命の哲学であり、革命に必要な認識と行動の極致を体現したのが大塩平八郎である。自分の意志を貫き通すのに急で、終わりを全うしなかった生涯こそ、陽明学が後世の信奉者に強く思想的な影響を及ぼしたのである。大塩の思想の核心は 《 身の死するを恨まず、心の死するを恨む 》 と主張した事であると云う。このほか葉隠の哲学、大乗仏教の唯識の宇宙論などが影響していると思われる。




 昭和 45 年 11 月 25 日 「楯の会 」 を主宰する三島由紀夫は同会学生長森田必勝、班長小賀正義、同小川正洋、副班長古賀浩靖と共に午前 11 時 5 分陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室を訪れ、益田兼利総監を人質にして、自衛官を中庭に集合させ演説をさせるよう要求した。正午過ぎ三島はバルコニーに出、 〈 憲法の私生児 〉 たる自衛隊が 〈 真の国軍 〉 の地位を回復するよう憲法改正の為の決起を呼びかけた。三島は数分後森田の介錯で自裁、森田も古賀の介錯で自裁、残る三人は 12 時 20 分、縛についた。
 昭和 4 6年 1 月 24 日葬儀が行われた。葬儀委員長は三島由紀夫の結婚の媒酌人であった川端康成で、参列者は八千二百人を数えた。川端康成はその 2 年後、昭和 47 年 4 月に自裁する。
 また、昭和 45 年 12 月 11 日 「 三島由紀夫氏追悼の夕べ 」 が豊島公会堂で開かれ、三千人が集まった。発起人総代は林房雄、司会は川内康範と藤島泰輔である。この催しが 「 憂国忌 」 の原型となり、翌年 11 月 25 日 「 第二回追悼の夕 」 が第一回憂国忌となり川端康成、小林秀雄が発起人となった。
 この事件について評論家磯田光一、いいだももの談話をのせてみる。
磯田光一
 三島は戦後の時代風潮に対する逆説的プロテストとして、また極限的な象徴的行為として、この不幸な行為をなしたといえる。もちろんナンセンスと見る批判を百も承知でだ。
いいだ・もも
 今度の極限的行為はこういうインチキな平和的、民主的秩序なるものの面皮をひっぱがそうとしたのではないか・・・・いわば犬死に、ムダ死にであることによって、逆に象徴的行為としては、完全に成功している。

三島由紀夫 2

 石原慎太郎は 「 最期の写真 」 というエッセイで三島由紀夫の最後の瞬間について述べている。
  「 それは、市ヶ谷での三島由紀夫の最後を撮った何葉かの写真である。・・・・何と云ったらいいのだろう。私は今まで三島のあのように美しい顔を、写真だけでなく直接にも見たことがない。というよりも、人間の顔の写真で、あのように美しく、澄んだ表情を見たことがないのだ。それらの写真を手にし、飽かずに見入りながら私は思った。・・・・寸刻後に割腹断首という死を控え、その代償に、氏はとうに自覚していたらう、万万万が一でしかない確率に賭けて自衛隊の決起を促す、いわば刹那的な行為の中で、それを行った一人の人間がこれほど清明に、端然と、美しく在られるのか、ということへの驚きだった。どの写真からも感じられる、かすかだが、優しく、澄んだ微笑みの影に私は心を打たれた。
 それは瞬間に近い時間の間でやっと、生と死を超えた人間の極限的な存在の表情、或いは陶酔をふっ切った真の行為者の顔ともいえるだろう・・・・ 」

参考文献

      南州残影      江藤 淳
      死のある風景    久世 光彦
      蓮田善明とその死  小高根 二郎
      蓮田善明日本伝説  松本 建一
      三島由紀夫     松本 徹
      三島由紀夫     佐藤 秀明
      三島由紀夫辞典   松本 徹、佐藤 秀明、井上 隆史
      文明の裁きをこえて 牛村 圭
      三島由紀夫生と死  ヘンリー・スコット=ストークス

Updated 18 March , 2021