鼎談 釧路政界 往時茫々 ( 5 )

 渡邊 源司
 角田 憲治
 長谷川 隆次

 社会主義体制を実現させるというイデオロギー丸出しの山口市政に失望し、釧路の将来に危機感を感じた多くの市民は渡部五郎先生を市長と仰ぐべく、色々なグループや団体を結成し、激しい選挙戦を繰り広げました。それが昭和 44 年 10 月の市長選挙です。リーダーの条件 「 品性 」 「 資格 」 「 包容力 」 「 意志 」 「識見 」 「 洞察力 」 、総てを兼ね備えた人間はそうザラにいるものではありません。渡部五郎先生はその条件を備えていた人でした。個人個人が五郎先生に薫陶を受け、慕い集まりました。あらゆる階層の人達、郷土釧路を想う熱き想いを抱く個人個人が結集し、釧路の将来を託するに値する人として五郎先生の運動を展開しましたが、結果は二期目の有利性と総評の上意下達の組織に敗れました。これも多数決の原理です。その結果 30 数年たった今、重く我々にのしかかろうとしています。
 昭和 38 年、山本武雄市長時代に発表された釧路市総合計画は五郎先生を中心に作成されたもので、五郎先生の心血注いだものとして残っています。
 各部門の現状を数字で裏打ちされ、そして将来あるべき姿も数字で表すという具体的なものでした。計画達成のための具体的方法、手段にまでまでおよび、実現性あるオリジナルなものでした。
 それ以後、出された総合計画は、法律に定められた以内のパターン化されたものでした。計画は計画であっても例えば「住み良い」とか「豊かさ」「やさしさ」とか「緑あふるる」等と抽象的な表現が多く、具体性に欠けたものの様に思われます。
 山口市政は五郎先生の計画を無視して、過去の歴史を否定する様に続いていきました。
  44 年の市長選挙では、渡邊さんは渡部五郎選挙対策本部長として指揮を執りました。角田さんは自治労連釧路市役所労働組合 ( 2 組 ) の結成に中心的役割を果たしました。長谷川は新風会事務局、選挙中は本隊車をまかされました。 33 年も前の事です。各々記憶も薄れましたが、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で感じた事を話して頂きました。
 あれだけ多くの人達が携わった事件ですから色々な事柄があったでしょう。各々の見方、考え方があるはずです。この時期に全体像を掴むことは不可能です。それらの事を掴みきれないまま、その断片の話になったのは致し方ないし、お許し願うとし、あくまでも私達 3 人が見た事、考えた事に留まらせて頂きました。

長谷川  今日は 43 年の市役所内部の話からうかがいたいと思います。先ず角田さん、昭和 43 年
    には工場誘致条例訴訟の第一審判決がありましたネ。その辺の所からお話し願いませんか。
角田   社会主義体制を実現させるというイデオロギー丸出しの山口市政に失望し、釧路の将来
    に危機感を感じた多くの市民は渡部五郎先生を市長と仰ぐべく、色々なグループや
    団体を成し、激しい選挙戦を繰り広げました。それが昭和 44 年 10 月の市長選挙
    です。
     リーダーの条件 「 品性 」 「 資格 」 「 包容力 」 「 意志 」 「 識見 」
    「 洞察力 」 、総てを兼ね備えた人間はそうザラにいるものではありません。渡部
    部五郎先生はその条件を備えていた人でした。個人個人が五郎先生に薫陶を受け、
    慕い集まりました。
     あらゆる階層の人達、郷土釧路を想う熱き想いを抱く個人個人が結集し、釧路の
    将来を託するに値する人として五郎先生の運動を展開しましたが、結果は二期目の
    有利性と総の上意下達の組織に敗れました。これも多数決の原理です。その結果 30
     数年たった今、重く我々にのしかかろうとしています。
     昭和 38 年、山本武雄市長時代に発表された釧路市総合計画は五郎先生を中心に
    作成されたもので、五郎先生の心血注いだものとして残っています。
     各部門の現状を数字で裏打ちされ、そして将来あるべき姿も数字で表すという具
    体的なものでした。計画達成のための具体的方法、手段にまでまでおよび、実現性
    あるオリナルなものでした。
     それ以後、出された総合計画は、法律に定められた以内のパターン化されたもの
    でした。計画は計画であっても例えば 「 住み良い 」 とか 「 豊かさ 」 「 やさ
    しさ 」 か 「 緑あふるる 」 等と抽象的な表現が多く、具体性に欠けたものの様
    に思われます。
     山口市政は五郎先生の計画を無視して、過去の歴史を否定する様に続いていきま
    した。
      44 年の市長選挙では、渡邊さんは渡部五郎選挙対策本部長として指揮を執りま
    した。
     角田さんは自治労連釧路市役所労働組合 ( 2 組 ) の結成に中心的役割を果たし
    ました。
     長谷川は新風会事務局、選挙中は本隊車をまかされました。 33 年も前の事です。
    各々記憶も薄れましたが、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で感じた事を
    話して頂きました。
     あれだけ多くの人達が携わった事件ですから色々な事柄があったでしょう。各々
    の見方、考え方があるはずです。この時期に全体像を掴むことは不可能です。それ
    らの事を掴みきれないまま、その断片の話になったのは致し方ないし、お許し願う
    とし、あくまでも私達 3 人が見た事、考えた事に留まらせて頂きました。
長谷川  今日は 43 年の市役所内部の話からうかがいたいと思います。先ず角田さ
    ん、昭和 43 年には工場誘致条例訴訟の第一審判決がありましたネ。その辺の所から
    お話し願いませんか。
角田    43 年 3 月 19 日、第一審判決言い渡しが釧路地裁で行われました。内
    容はおおまかに言えば行政訴訟は却下、民事訴訟は棄却といったことで、釧路市側
    の全面的な勝利に終わりました。これに対して十條、本州、雪印は即 3 月 30 日、
     4 月 1 日に札幌高裁に控訴しました。
渡邊   この判決に我々市民は驚きと同時に大きなショックを受けました。人間が守
    らなければならない約束事よりもイデオロギーが優先するんですから、これからの釧
    路
    はイデオロギー丸出しの独裁行政が行われるんではないかと暗澹たる気持ちでした。
長谷川  角田さん、この判決について市側はどうでした?
角田   判決の日は予算議会の最中であり、新聞紙上で雲行きが記載されていた、
    ので、<第一回口頭弁論の時の様に大騒ぎにはなりませんでした。弁護団は勝訴間違
    いないと判断し、判決の前の日に集まり弁護団としてどの様にコメントするか議論を
    しました。
    ①社会党の主張を PR する。②山口市政を持ち上げる。③弁護団は法律上のコメン
    トにどめ、控訴することは無意味だと主張する。等と意見は分かれましたが結局は
    イデオロギー的なものになってしまいました。当時私は前にも言いましたが総務係
    長で、市側弁護団の事務局長でしたから、事務局として聞くだけ聞いてコメントの
    作成をしました。仕事とはいえ残念でしたね。弁護団事務局長の仕事として、市議
    会の都度山口市長を含む社会党議員団に訴訟の進行状況、両者の主張を説明させら
    れました。当時、社会党議員団は最大会派の17名で、議員さんはイデオロギー的に
    勝つか負けるか、労働側の主張は 「 正 」 で会社側の主張は 「 悪 」 であると
    して、この考えだけで相手の主張を理解しようとせず、一から教えなければならな
    いもどかしさを感じながら、議員の程度もこの程度かと思うと同時にこの程度の人
    達がこの釧路を左右するのかと愕然とし、能力よりも数という事だけで大きな力に
    なるのだなアと感じました。
長谷川  この裁判に対して議会はどんな立場でした?
角田   判決がでる前にそれぞれ市議会の代表質問があり、その中で公友クラブ
    代表の小船井武次郎議員は、 「 判決がでる前に市長は頭を下げて企業と和解すべ
    きである。でなければ懸案の西港建設もうまくいかない。判決が出てからでは経済
    界との間に深刻なシコリを残し市民が不幸になる。市民を代表する市長として動か
    なければならない 」。
     これに対し山口市長は 「 市議会の決定に従っているだけだ。市議会は市民の意
    志である。この市民の意志に従って訴えてきたのだから頭を下げることは出来ない 」
    とあくまでも平行線でしたヨ。判決が出てからは総務委員会の席上でも野党保守系は、
    なり係争が継続激化しないように市長は胸襟を開いて話し合うべくそのため市長が
    働きかけるべきだったという意見にも、山口市長はガンとして聞き入れず、 「 条
    例の全廃は今任期中ではやらない 」 という前年の古谷武一議員への答弁を再確認
    するにとどまりましたヨ。
渡邊   私は前にも言いましたが、判決を見て愕然としたと同時に激しい憤りを
    感じました。結果論ですが、そのイデオロギー丸出しの独裁行政の結果が今の釧路
    が引きずっているのではないでしょうか。
      JC の地区協議会の歴代会長が毎年 12 月に札幌で開かれますが、昭和 40 年の
    市長選で負けた後の会長会で札幌の勝木先輩から 「 渡邊君、釧路と苫小牧は発展
    の可能性をもった街だ。今度の市長選の結果、釧路は苫小牧に 10 年も 20 年もの
    差がついた。それが 2 期も 3 期も続いたとしたら、その差は大きいものになるヨ。
    札幌では一度も革新市長を出していないからネ。労働組合の強い企業を抱えている市
    は伸びないヨ。若い人達が頑張るしか打開の道はない。頑張ってくださいヨ 」 と言
    われ、札幌の経済人はそう見ているのだと思い、ショックを受けた事がありましたネ。
角田   革新は革新で山口市政を守るために総労働をメーデーなどに大動員し、
    公の立場で革新でなければ駄目だという守りの体制に入って行きました。このため
    に市長の公権力はフルに利用されたようでした。
渡邊   市民が二分されたと言ってもよい状態だったんですが、この年は翌年の
    選挙を意識してか議会も随分もめましたネ。
角田   大変でしたヨ。先ず、二月予算議会では 「 市長及び職員の市政執行態
    度是正に関する決議 」 の決議案が採択されました。
    その内容は
    ①偏向した職員研修
    ②市民会議 ( 市長の後援会 ) に関する助力
    ③未熟なる議案の提出
    ④庁内放送での宣伝
     などについてで、厳しいものでしたが賛成 18 反対 14 棄権 3 で、この時公明党
    が棄権に回り、決議案は議決され、公明党が社会党と同じ立場ではないことをはっ
    きりさせました。
     そして又、市税条例の改正案が議員提案され、標準税率化へ改正するものだが、
    これも一部修正て議決されました。市税条例の改正が議員提案され、それが議決さ
    れたのですよ!今の議会では考えられません。市役所は何をやっていたのでしょう
    かね。それでも山口市長は、工場誘致条例の勝訴と西港着工のメドを報告してトク
    トクとしていましたが、大変なことが野党から指摘されました。一つは社会党の工
    藤勝永議員が免許取得するため住民票を札幌に一時移し、また戻したというもので
    した。住民票を移すと言うことは被選挙権を失うと言うことになり、議員資格が無
    くなるのではないかというものでした。共産党の土屋祝郎議員から「資格審査特別
    委員会の設置の提案」が動議で出され、可決、土屋祝郎議員を委員長とする七名委
    員会が設置されました。
     もう一つは、古谷武一議員が、社会党の河原、石塚両議員が市工事請負業者の役
    員になっていると指摘しました。これは地方自治法の議員兼職禁止規定に抵触し議
    員資格を失うもので、調査すべきだとする要求書を提出し、花井秀松議員が第二資
    格審査委員会の設置の提案をして可決されました。
     この間、この二つの問題で議案審議どころでなかったと記憶しています。第二資
    格審査委員会 ( 兼職禁止規定 ) 浅川正敏委員長は二人の社会党議員の資格を失う
    ものとの<報告をしましたが、本会議において 22 票対 14 票となり、資格を失わし
    めるには出席議員の 3 分の 2 が必要です。 3 分の 2 は 24 票ですから、二票差
    でせっかくの委員会調査結果も否決されてしまった訳です。ここで保守系の野党は
     3 人の社会党議員に対し議員辞職要求決議案を提案し、賛成 19 、反対 13 で可決
    されました。以後 3 人<の社会党議員は市議選に立起出来なくなったのもこの時の
    決議があったからだろうと思いますヨ。
長谷川  この 43 年 9 月議会で多数派の社会党の議長、副議長が降りて、突然浅
    川さんが議長に、竹野内さんが副議長に就任していますネ。ちょっと異常に思いま
    すが。
角田   実はその前の 6 月議会が終了する直前に古谷武一議員が突然発言を求
    め、牧野議長の議会運営のまずさをあらゆる面でとらえ、苦言を呈しました。そし
    て 9 月議会が 9 月 27 日招集、普通は一週間か 10 日位で終わるのですが、予定
    された最終日の 10 月 4 日に教育委員に鈴木一男さん、柏村静子さんを選任すると
    いう、言ってみれば教育長の青山一二さんの更迭解任を図った議案が提案されまし
    た。いずれも 23 対 19 、 23 対 18 で否決、普通、人事提案は全会一致が常であ
    ったのに数の力で押しまくろうとしたのでしょう。結局両先生はさらしものになっ
    ただけでした。山口市長の神経を疑いましたヨ。自分の考えを通すためには他人がさ
    らしものになろうと、迷惑がかかっても平気なんですネ。結局議会は延長に延長を重
    ね、 10 月 21 日山本武雄 ( 前市長 ) さんと青山一二 ( 現教育長 ) さんが再提
    案されてやっと可決されました。しかしここで牧野議長が辞表を出し、浅川正敏議
    員が 21 票で議長に就任した訳です。この票を見れば公明党の票が入っていること
    が分かります。続いて竹野内正義議員が副議長に就任、社会党議員が占めていた各
    常任委員長も一斉に辞任し、保守系の議員に入れ代わりました。
渡邊   浅川正敏先生から直接聞いた話ですが、山口市長は自らのイデオロギー
    に教育をも<巻き込もうとする社会党市政に肌寒さを感じたと言っていました。
     そして牧野議長はじめ与党である社会党が一切の役職を返上したのは議会混乱の
    責任をとったというが、それは表向きの理由で、例えば西港の漁業補償問題で正副
    議長の斡旋も不調、山口市政与党社会党もろとも立ち往生、山口市政そのものが経
    済界との不信から色々な問題の解決に壁に突き当たった。結局やぶれかぶれ、無責
    任にも総てを投げだし、議長ポストを浅川さんが引き受けざるを得ない羽目になり、
    心ならずも社会党の尻ぬぐいをさせられる形になった。事態収拾のためやむを得な
    かったがそれに共産党の土屋祝郎議員に 「 浅川君、議長をやってくれ、ほかに議
    会をまとめる人間がいるか 」 と声涙下る説得があったという。
     そして保守系から 「 なぜ山口市長を助けなければならないのか 」 と言われな
    がら、このまま無責任・身勝手で何時でも放り出してしまう、それはそれでその
     程度の無責任集団だから致し方ないとして、その社会党に任せておいては尽きると
    ころ市民が迷惑する事だと敢えて引き受けたと、浅川さんから聞きました。
角田   硬直した山口市長に与党社会党について行けない実態をさらけ出したと
    思います。
    その後の 12 月議会は浅川議長のもとスムーズに進んだ事は言うまでもありません。
     「 さすが 」 ですよネ。
長谷川  所で角田さん、市役所内部では自治労釧路市職員労働組合 ( 市職労 ) が山
    口市政の継続のため色々な事をやりましたが、それに反対する連中は?
角田   市役所の中は、社会党員協が幹部職員となり、市長応援者を昇格させる
    という偏向人事が横行していました。その中心が自治労市職労幹部でした。そんな
    市職労の中<にも市長の 「 社会党員こそが ・・・ 」 という発言に反発し、市職労
    の露骨な活動に反対する真面目に市政を行う職員の組合を作るべきだという声が日
    増しに増えていく様でしたが、具体的な動きにはなかなかなりませんでした。私は
    渡辺五郎さんの仲人で結婚し、 40 年の五郎さんの市長選挙にも関わっていたとい
    う事で安心感もあったのでしょう色々な人達が接近して来ました。しかし総務部で
    は仕事の関係上オオッピラに活動出来ず、一匹狼で動きました。あとになって組合
    を作ってから同志が近くに沢山いたのが分かり、力強く思いました。はっきり態度
    を表したのが経済部の係長クラスと企画財政部の鰐淵俊之さん、栗山久策さん等の
    連中で、鰐淵さんは市議に立起する事を五郎さんに要請され、すでに市役所を退職
    され、自民党釧路支部の事務局長としていました。一方、税務課を中心に当時の大
    衆飲食店 「 灘万 」 に集まり 「 ナダマン会 」 を作り、具体的に動き出してい
    ました。
     昭和 40 年の市長選の時、市職労に反対した連中はこの 3 年間の間、課長補佐に
    なったり寝返ったりしてほとんど形はなくなっていた様に思います。
     その 40 年に活動した反組合職員は 1 人 1 人市職労の査問委員会に呼び出され、
    人権侵害される様な言葉の 「 シゴキ 」 にあい、気力をなくして行った事を見て
    いるで皆、慎重だったし、誰が見方で誰が敵なのか分からなくなってきていました。
    当時米町にあった高野旅館 ( 元遊郭太陽 ) 、ユースホステルとして利用されてい
    た一室を借り、有志が夜 8 時頃から三々五々集まり、 2 ~ 3 時頃まで協議を重ね
    ました。まるで明治維新の池田屋騒動を思わせる緊張でしたヨ。中には役所での役職
    に不満がある人が大きな事をいい、大きな変革を望む我々とすれ違いがあったり、
    そのうち単に不満分子であった連中は脱落して行ったようです。この連中がアジト
    である高野旅館や集まっている人達の名前を社会党理事者に注進されていた事があ
    とで分かり驚きました。まるでスターリンの密告政治を真似た様なものです。
     私自身は昼間は仕事をして山口市長のため全力を使い、夜はこの体制を壊す活動に力
    を注ぎ、だんだんのめりこんで行く矛盾に悩みましたヨ。
     一方、自治労出身の社会党員理事者は市の六園荘に定期的に集まり、作戦を立て
     「 六友会 」 なる組織がある事が分かり、大体の構成員も分かりましたが、どの様な
    内容かは知る術もありませんでした。
渡邊   所で、 「 イレブン 」 というのが語りぐさになっているけれども。
角田   イレブンというのは先ほど説明しました経済部の係長クラスと企画財政、それ
    に私のような者が加わった 11 人のサムライの事で、市政推進の中心を自負する連中
    で、特に五郎さんの総合計画策定に力を発揮したと言ったら良いのか、五郎さんの
    薫陶を受けた職員であったことは間違いありません。市民の中の動きに、このまま
    ではいられないと自発的に集まったグループです。渡部五郎さんを市長にと鰐淵市
    議をどうやって実現しようかという目的で十一人だったのでイレブンと呼んだので
    す。始めは選挙にどう関わるかの論議でしたが、どうしても市職労の統制が邪魔で、
    組合脱退も考えていました。そのとき 「 ナダマン会 」 から組合づくりの話が来
    て、真剣に取り組むことになったのです。十一人しかいないのですから、市長選、
    市議選、組合づくりと分担し
    ました。私は組合づくりの方にまわり、
    先ほどお話ししました高野旅館へイレブン代表で参画しました。
     色々な人が集まりますが、具体的な動きは難しく、話をしても半信半疑の中で、最後
    は話している相手を信じることから具体化して行ったと思います。集まる場所、集
    める人も代わって行きました。男を信じることがスタートだったと思います。
     そして昭和44年の市長選一ヶ月前の 44 年 9 月、自治労連釧路市役所職員労働組合、
    いわゆる 2 組と呼ばれる同盟系の組合が結成された訳です。しかし、組合活動と選
    挙運動とは別だという立場をとり、山口選挙に毒されている自治労市職労の職員を
    一人一人引き離し、組合の強化を図って行きました。従って選挙後もつぶされるこ
    となしに強力な山口市政の批判団体として力を蓄えたと思います。
渡邊   大変な想いで組合を作った訳ですネ。この 44 年の選挙には時間もなく間に
    合わなかった部分が多かったと思いますが、このイレブンの行動が後日、花開く事
    になりましたネ。まさに勇気ある捨て石となった行動だったと今でも熱くなるものが
    あります。
長谷川  昭和 44 年 1 月、釧路青年会議所新年交礼会の席上、五郎先生は年頭の挨拶の
    中で、来るべき 10 月の市長選に立起する旨のべられました。
渡邊   五郎さんが市長選に立起するという事は既成の事実として皆がそれを望んで
    いた事でしたが、公式の集まりの中での正式な立起表明はこれが初めてだったはずで
    す。私は JC の OB だったし、その頃はまだ五郎後援会にもあまり深く関わってい
    なかったので、何故 JC で最初、立起表明をしたのだろうとおもいました。
長谷川  その昭和 44 年の JC 理事長は八町良三さん、東北大学法学部を出た優秀な
    人でした。後から商工会議所栗林定四郎会頭、渡辺源司会頭の専務理事を務めました。
    八町理事長は大変苦慮された様です。
     今は知りませんが当時の青年会議所は選挙に関与しないという不文律があったと記憶
    しています。渡邊先輩、どうだったんでしょうか?
渡邊   青年会議所は、経済の発展は自由経済を通して達成されるとし、政治に関与し
    ても一党一派に偏しないという考えがありました。この後同じ様な問題が商工会議所に
    もありましたが、これについては後ほど話す機会があると思うので、今は触れずにおき
    ます。
     結局 JC としては選挙に突入する訳にはいかない、しかし JC 綱領にある 「 明る
    い豊かな社会を築く 」 には、五郎さんが首長として最適任である。悩み抜いた八
    町良三理事長は小松欽平直前理事長と相談して 「 新風会 」 の発足となった訳です。
長谷川   「 新風会 」 は青年会議所とは別な組織でしたが、 JC メンバー有志の
    会として、会長小松欽平さん、副会長に北村藤一朗さん、栗林定徳さん、事務局長
    は砂山繁さんと私で、 3 月に富士銀行の富士銀行の裏にあった大藤斉藤さんの店舗
    を借りて発会式をやりました。全くの手弁当で、金額は忘れてしまいましたが会費
    を集めて運動資金に当てました。
渡邊    JCOB も結構呼び込まれましたなあ。
長谷川   JC 、 JCOB の連中が頻繁に出入りしました。時間割を作って、交代で五郎先
    生を自分の知っている会社とか知人宅に案内する先導を勤めました。そして又、選
    挙管理委員会へ行って選挙人名簿を写し取る仕事もしました。この 44 年の市長選
    では渡邊さんが本部長でしたよネ。
渡邊   本部長の人選はかなり難航した様でした。色々な人達、団体、グループが運動
    していた中、「 新風会 」 が割と組織だって動いている、その JC の先輩である
     ということでとりあえずだったのが栗林さんや五郎さん、浅川さんに説得され大権を
    引き受けることになりました。突然のことであり心の準備も出来ないまま無我夢中
    で突っ走りました。
     このままではムードだけの選挙になりはしないだろうかと重くのしかかって来ました。
長谷川    選対は北大通 6 丁目高橋肉店さんの 2 F 、 3 F でしたよネ。 「 新
    風会 」も 8 月になって 3 F の部屋に移りました。壁いっぱいに釧路の住宅地図を
    貼ってマジックで塗ったり、印を付けたりしました。この時初めて JC メンバーが
    班を作って戸別訪問をしました。
渡邊   投票日は 10 月 24 日。その 3 日前に自民党幹事長田中角栄さんが応
    援に来てくれました。当時全国的に革新市政県政の勢いが強く、北海道でも 33 市
    中 17 市が革<新または革新系でした。
     釧路市長選の後、旭川、帯広と市長選が続くので何としても党本部としては釧路
    市長選に勝っておきたかったのだと思います。
     現職の党幹事長が地方都市の市長選挙に応援に来ることは珍しいことでした。田
    中角栄さんは当時の東映ホテルで記者会見をした後、本体車に五郎さんと同乗、市
    内で数カ所街頭演説をし、厚生年金体育館では三千人を越える聴衆を熱狂させまし
    た。
     日帰りで東京へ帰りましたが、空港へ行く前に選対本部に立ち寄り運動員を激励
    してくれました。皆、目を輝かして角栄さんの話に聞き入りました。 「 俺が応援
    に行った選挙で負けた所ははない。この選挙も必ず勝つ。候補も立派だ。もう一息
    だ、力を緩めるな。所でこの選対の責任者は誰だ 」 、私は部屋の奥の方に居たん
    ですが、皆におされて前に進みました。そして角栄さんにお礼を申し上げた所、
     「 おお、君が本部長か、若いんだな。よし、この選挙が終わったら五郎君と一緒に
    俺の所に来い 」 といって握手をしてくれました。気取らない、人情味溢れる角栄
    さんにしびれ、感激しました。だが選挙はまた敗れてしまいました。その時思いま
    したヨ。角栄さんがもう数時間釧路にいてくれたら、太平洋炭砿の幹部に逢って貰っ
    ていればと悔いたものでしたが、どうしようもありませんでした。
長谷川  投票結果は
         投票率  八七・六七 %
         山口   五九九〇六票
         渡部   四七九六七票
     その差八三五九票で、現職山口哲夫さんが再選されました。
     今日はこのへんで、最後に渡邊さん。
渡邊   工場誘致条例を巡る裁判では、角田さんは市側弁護団の事務局長として立場上
    幾多の矛盾を抱え悩まれた事でしょう。五郎さんは五郎さんで再起に向け土曜公論
    を毎週こなし市民に訴えて続けました。
     浅川さんは市議会にあって、社会党の無責任な役職放棄のあと、議長として議会
    をまとめ上げ、また心ある一般市民も、この先どうなるのか展望が開かれるのか、
    不安と無力感が漂っていました。私もその一人でした。郷土釧路には発展のポテン
    シャルがあるのに、それを活かせないでいる。政府に反対し、左翼思想の市長を選
    んだばっかりにと思っていました。
     釧路発展の基盤となる港湾整備、西港建設、空港拡張、社会生活基盤事業等、課
    題が山積しているのに釧路発展期の大切な時期に可能性を失ってしまったのではな
    いかと残でたまりませんでした。
     話は飛ぶけれど、ある時五郎さんを囲んで話をしていた時、誰かが 「 釧路は市
    長も代議士もいないんだもなア 」 とささやいたところ 「 市長でも代議士でもい
    い、どちらか一つ取れれば、あとの一つも取れる 」 と五郎さんが言いましたヨ。同
    じ事を浅川さんからも聞きました。 「 市長でも代議士でも、一つ取れればもう一
    つも必ず取れる 」、
     浅川さんはその執念に燃え、昭和 52 年に鰐淵市長、昭和 55 年には北村代議士
    の実現を見ました。しかし五郎さんはそれを見ずして逝ってしまいましたが、五郎
    さんの思想は受け継がれていると私は信じています。

Updated 18 March , 2021