キリスト教寸感 ( 十一 )

死を憶えよ! ( メメント・モリー )

不二 一朗


 人類が最初に 「 死の芸術 」 を生み出したのは旧石器時代後期 BC 50 万年から 20 万年前といわれる。それは墓であって墓穴を掘ったり、骸骨の上に小石や骨を積み上げ、死者を埋葬し祭った痕跡が残っているからである。死者と一緒に埋められた貝殻や石で出来た装身具や工具は、死者が死後も生き続けるとの考えを現す儀礼であった。
  14 世紀から 16 世紀の中世の時代ほど、西欧の人々の心に死の思想が重くのしかかり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。死はいたる所で待ち伏せていて、何時いかなる瞬間に命を落としても少しも不思議ではなく、 「 死を憶えよ 」 の声が民衆の生活のあらゆる面に途切れることなく響き渡っていた。
 一三四七年 10 月初旬にジェノーバアのガレー船がイタリア、シチリア島のメッシーナ港に入った。船員達のほとんどはペスト菌の保持者で、船員に接触した市民達は瞬く間に感染し、高熱を出し黒褐色の発疹が現れ、患者は錯乱し 3 日間の激しい出血の後、死に至った。感染は患者との接触だけでなく、患者の所持品に触れただけでも発病した。このペスト菌は激しい勢いでシチリア島全域に広がり、西ヨーロッパ全土に拡散した。ペスト菌の患者は死に至るとき、身体が黒くなることから黒死病とも言い、 BC 30 年代中国新彊省あたりでけっ歯類から蚤を媒介して人間に感染し発病したものであるが、当時は発病原因は皆目わからなかった。この伝染病は当時の通称ルートを辿り、インド、イラン、近東地方を経て海路よりイタリアに侵入してきた。ペストは 17 世紀に至るまで何回も流行を繰り返し、流行が終息したしたかに見えても、どこかに潜伏し続け数年おきに猛威を振るった。
  14 世紀ローマ教皇クレメンス 6 世が調べさせた統計によれば、ペストによる死者の数はヨーロッパ全土で四千二百八十万人を数えると言うし、またヨーロッパの人口が 40 % ~ 60 % 減少したとも言われる。 20 万の町や村が無人となり、屍体で一杯になった家々は野生動物の棲家となった。都市の生活秩序も完全に崩壊し、すべての人間関係は乱れきったものになった。ある者は外界との交渉を断って家に閉じこもり、ある者は官能の享楽に耽って恐怖に打ち勝とうとし、ある者はすべてを捨てて町を立ち去った。親子、夫婦、兄弟の間さえ愛情、信頼、献身の心は一片も持たなくなった。
 こうして中世の西欧社会は 14 世紀から 17 世紀に至るまでペスト菌の黒い影に絶えず脅かされ、社会生活、精神生活に大きな影響を及ぼした。ペストの与えた心理的衝撃は今までの社会秩序や死をめぐっての慣習を根本的に破壊してしまい、死者を扱う典礼-死者の身支度を整えること、通夜、納棺、埋葬-は恐怖と無秩序で放棄してしまった。
  「 転がる死骸をいくつか目にすることなしに通りを一本抜けることは不可能だった。都市や町村で大切なのは一刻も早く死骸を撤去することであった。人々は死骸を大急ぎで家の外に放り出したり、窓から投げ降ろした。 「 死体運搬人 」 たちが鉤の着いた長い棒でそれを引っかけ、二輪荷車に積み込み、鈴を鳴らして郊外に捨てに行った 」 とある生き延びた修道士が書き残している。
 当時は病気になっても科学的医学療法はなく、出産時に死亡する女性も多く、また幼児の生存率も低かった。慢性の食糧不足などで中世の人々の寿命は平均で 30 才であった。
 中世の人々は自分の背後に常に死の足音を聞き、いつ死の順番が来るか心の安んじることは無かった。 14 世紀から 17 世紀までの西欧の社会現象はペストによる一種の異常な雰囲気と共に 14 世紀から見え始めた封建制の崩壊、農民戦争などによって、人々の信仰も神秘主義的要素を深めた狂信的なものになるか、物質的快楽追求的になるか分裂していった。それに加えキリスト教聖職者の腐敗、堕落が顕著になった。教会では聖職の売買が聖職間で多いに広がり、修道院の中で地位が金で手に入れることが出来た。側妾を置く者、賭け勝負に耽る司祭もいた。しかし、死はすべての人間に平等に間違いなく訪れることで庶民にとっては少しの慰めでもあった。王侯も貴族も聖職者も富を持つ者、持たぬ者、農民も死から逃れられないからである。
  15 世紀フランスの詩人ヴィヨンは死をこう歌った。

     知っている死という奴は容赦なく
     貧乏人でも 金持ちでも
     利口も馬鹿も 坊主もただの人間も
     貴族も 庶民も 吝嗇も 気前のいい奴も
     小人でも 大男でも 綺麗な方も
     醜い奴も 折り返しの衿の着物の贅沢な奥様も
     身分はどんな夫人でも 高貴な冠の貴婦人でも
     大黒帽の女房でも 誰でも彼でも ってゆく

  14 世紀後半から西欧の多くの人々は悪寒を持って受け入れられた、 13 世紀にフランスで生まれた 「 3 人の死者と 3 人の生者 」 - 死者が生者に 「 死を憶えよ! 」 と警告する 4 篇の短い教訓詩がある。 15 世紀の有名な 「 ペリー公の祈祷書 」 にも書かれており、ペリー公が自分の墓地としたパリの 「 イノサン墓地付教会 」 の門にもこれを主題とした彫刻を飾らせた。この 「 3 人の死者と 3 人の生者の話 」 は 16 世紀半ばまで絵画や彫刻の主題として多くつくられた。その内容は
 ある春の日、 3 人の青年は鷹狩りに出かけた。
 一人は王子、一人は侯爵、一人は伯爵の、身分高い若者であった。彼らは青春の喜びに溢れ、ひたすら地上の快楽を追い求めることにすべてを忘れていた。帰る道すがら 3 人は野辺の墓地の門で 3 人の死者に出会った。 3 人の死者は蛆虫に食われて身体は朽ち崩れかけていており、まとっている屍衣の間から骨が露わに見えていた。若者は「ああ、何たるおぞましき姿、これぞ神が送り給うた我が鑑、神の憐れみ、背も腹もなく、あるは骨ばかりの己を映す鏡 」 と言うと、 3 人の死者は骨ばかりになった指を上げ、一本の歯も残らぬ口から重々しい声で話し始めた。 「 我らはかって汝らのごとくあれど、今となってはご覧のとおり。いずれも驕り高ぶりし者であったが万事はかくの如し。悪しき悲しき確かな死は、我らが祖父アダムより出し罪、エヴァの悪しき誘惑による重き拷問と地獄の死なり。死なくして生あらず、明日をも知れぬ生のなりわい、富、権勢もはやなく、汝ら我らの如くなりゆかん。我らが父に善き最期をもたらさんことを祈りたき 」 。こうして 3 人の死者は若者達の死後の姿を映す鏡として登場し、驕りを戒め、改悛を促し、善き死を迎えられるよう神に祈ることを勧めた。 3 人の若者はあの世から聞こえてくると思われる恐ろしい声に強く心打たれ、神が死者の口を通して彼らを戒めたものと信じた。
  15 世紀西欧社会に広く普及した通俗的で、現実の信仰生活に結びついた 「 往生術 」 という小冊子がある。木版画で挿絵が多いため理解しやすいもので、内容は悪魔が臨終に近い信者に仕掛ける罠がテーマで、信者が臨終の時誘惑と苦悩について心得ておくべき事を教えている。悪魔の誘惑とは信仰への疑惑、おのれの罪を想っての絶望、この世の財貨への執着、魂の救いについての懐疑、おのれをもって徳高しとする傲慢の五つである。
 第一の誘惑は悪魔はこう言う
  「 おまえは自分で見たこともなく、誰も見ないであろうものを信じているのだ・・・・。死んだ人間が信仰の証拠をあの世から持ち帰ってきたという話を誰が聞 いたことがあるのか 」
  「 第二の誘惑は
 臨終の病人が地上で犯したあらゆる罪の一覧表を掲げ、その情景を現す。殺した男の血の流れている屍体、彼の門で飢えに苦しむ乞食、邪淫の相手となった女、悪魔は言う 『 おまえは神の子であった。しかし今は悪魔の子になっているのではないか 』 」
 第三の誘惑は
 悪魔は信者に臨終の後の家や家族のことを考えさせる。幼い子供の手を引く妻、悪い召使いはもう樽に穴をあけ葡萄酒を盗み飲みしている。内庭に泥棒が入り込み馬を盗もうとしている。悪魔が病人から心の救霊の事を外らせ自分の財産に執着させようとする。
 第四の誘惑は
 臨終の病人に自分の病苦のことばかり考えさせ、神を呪い神を責めるようにさせる。
  「 神は正義ではない。おまえを取り巻いている連中を見ろ! 奴らはお前の苦しみに同情しているように見せかけているけれど、心の底ではおまえの財産のことしか考えていないのだぞ! 」 と悪魔は病人の魂に神に対する怨み、人に対する憎しみが満たされるようにする。
 第五の誘惑は
 人間が死に行く魂に最後まで残る感情は傲慢である。悪魔は寝床の上に冠を置いて彼の傲慢な心を誘うとする。 「 おまえは信徳も、望徳も、愛徳もみんな備わっている。おまえは聖人だ。おまえは天国の冠を受けるに値する 」 と言う。傲慢の心で一杯になった状態で息を引き取らせようとする。

「 往生術 」 の挿絵 1
「 往生術 」 の挿絵 2

「 3 人の死者と 3 人の生者 」 ( ブラバントのマラの詩篇集 」 から。 13 世紀末 ) ― 3 人の良家の若者が森で狩りをしていて、 3 人の醜悪な死者に出会う。彼らが若者達に語るには、 「 かっての私は今のお前 / 今の私は未来のお前…。情け容赦ない教訓を与えるこの 「 3 人の死者と 3 人の生者 」 の話を、 14 ~ 15 世紀のフランス、イタリアの図像群は、手をかえ品をかえ際限もなく潤色した。


 この五つの誘惑に信者の病人が負け、悪魔に魂を取られようとする時、天使や聖人が救いに現れ、悪魔に打ち勝ち、病人の霊魂は天使に抱かれて天に昇って行く筋書きである。
 中世の人々は絶えず死を想い、臨終の到来を恐れていたから 「 往生術 」 は広く読まれた。また、 15 世紀に印刷術が発明された事も容易に庶民の手にその活版本が手に入った。
  15 世紀の最も著名な説教師であったフランチェスコ会修道士ジョヴァンニ・デ・カピストラーは死に関して
  「 見よ、汝らをかくも喜ばせし美しき頭髪はいずこにありや、芳香を吸いしは鼻は、他人を悪口せし舌は、それらすべては蛆虫の喰い尽くせしところならざるや 」 。とライプチッヒで説教した折り、感動した大学の教員、学生の中で 70 名の者が世を捨てたという。
  14 世紀頃までは人間は死後、霊魂は幼児の姿で天使に抱かれて天国に連れて行かれると考え、残った肉体-屍体-にはあまり関心は無かった。15世紀に入ると屍体の腐敗に関心を持ちはじめ、強調するようになり、墓碑にもそれを詠ずるような詩文が多く現れてくる。
  「 わが今ある姿は、汝のならんとするところのもの、われもかっては汝の今あるごとくなりき 」
  「 今日、我らと共にある者は、明日、彼方にあり、今日、友として抱き合う者は、明日、哀れにも我らから遠ざけられる。今日、生ける者は、明日、墓の中にあり、今日、称賛されし者は、明日、蛆虫の餌食となる。今日、芳香で満たされし者は、明日、悪臭を放ち、今日、客を迎えし者は、明日、咎められる 」
  14 世紀後半ローマとフランス・アヴィニヨンに分裂したキリスト教会でアヴィニヨン教会の枢機卿ラグランジュは生前、サン・マルシャル修道院に自分の墓を指定した。その墓碑にはこう記されている。
  「 我ら、世のために見せ場をばつくらせたり。老若あげて我らを見、行く末に思いを致すべく。官位、男女の別、齢を問わず、何人も 『 死を 』 逃げることあたわず。しからば哀れなる者よ、何故驕り高ぶるのか。汝、これ灰燼、我らと同じく汚らしき屍、蛆虫の餌食、灰に帰すものなり 」
 中世の人々はより善き死を迎えるため生前の悪行を悔いて、悪行の証である肉体の腐敗を吐露することにより浄化された霊的存在に生まれ変わろうとした。王侯、貴族、高位聖職者は生きている中に、死後の墓像を決め、画家に図案を描いてもらい、彫り師に依頼した。幾種もの暮像の見本帳があり、腐敗した屍体が描かれ、蛆虫や蛇、蛙といった邪悪を現す生物や、救済の願いを象る帆立貝などが描き込まれていた。腐敗は罪の証である。哀れな姿を見せることは罪の告解であり、改悛の度合いを示すものであった。墓参する人々に哀れみを誘い、祈りを願った。死者のため祈る人が多いほど、死後の魂は救われると信じた。
  16 世紀になると墓石に現される屍姿は、よりグロテスクなものになる。 15 世紀では乾からびた、半ばミイラ化、半ば白骨化したものと表現されたが、 16 世紀では腐り果てたもの、縮み上がったもの、手足が痙攣したように硬直したもの、口をぽっかり開けたもの、むきだしの内蔵に蛆虫が絡み合ったものなどがある。この時代、死の思想は恐怖のイメージに捕らわれていた。
 蛆虫を主役にした詩もある。       「 そはおぞましき蛆虫と呼ばれ
       鎖骨は針より鋭い。
       まずは墓穴の中に入り込み、舌をバラバラ引き裂き、
       歯のあいだを突き抜ける。
       上からは、頭から入って両目を喰い抜き、
       仲間の蛆虫らの餌食となるよう、精出して働く、
       仲間の豪勢な宴会のために!」
 しかし腐敗の過程にあるもの、蛆虫や蛇や蛙が死体を食い破っている図などが墓石に多くある事は 16 世紀の中世の人々には逆に、怖れながらも死を身近に置いていたかも知れない。
 ノルマンディーの家庭では暖炉に肋骨を組み合わせた上に頭蓋骨を載せてある風景を多く見られる。その頭蓋骨には次のような銘がある。
       死を憶え! 死を招じ入れ
       いささかはそれを思い起こせば
       命ながらうることも多からん
 一家の人々が常に集まり、団欒を楽しむ部屋に頭蓋骨の彫刻を置く風習は稀ではなかった。

 参考文献

     死の舞踏        木間瀬精三
     死の歴史        ミシエル・ヴォヴェル
     死者のいる中世     小池寿子
     死を見つめる美術史   小池寿子
     絵画で読む死の哲学   佐渡谷重信
     中世の秋        ホイジンガー
     死の文化史       フィリップ・アリエス

Updated 19 March, 2020