釧路における音楽鑑賞活動の中で ( 5 )

徳田 廣


 これまで音楽同好協会や労音の音楽鑑賞活動などについて記してきたが、この辺りで少し視野を広げ、戦後まもない 45 ( 昭 20 ) 年代前半頃からの地元の人々の演奏活動に目を転じてみたい。

① 室内楽や合唱団の発表会などの分野について、先ず最初にあげなければならないのは、 36 ( 昭 11 ) 年の釧路管弦楽団 ( 勝見義雄代表 ) 創立であろう。戦災で楽譜や楽器などが消失し、戦後一時期活動を中断せざるを得なかったが、 55 ( 昭 30 ) 年 6 月映画館の東宝劇場で創立 20 周年の演奏を行い、その秋、市文化賞を受賞した。釧路管弦楽団に対し、戦時中は釧路ハーモニーアンサンブル、戦争が激化すると銃後アンサンブルなど名称を変えながら活動していた団体が 47 ( 昭 22 ) 年釧路新響管弦楽団 ( 山口正衛代表 ) となり新発足した。以下
 48 ( 昭 23 ) 年 釧路 PG 合唱団 ( 釧路放送合唱団 ) 活動開始 ( 池田正指揮 )
 49 ( 昭 24 ) 年 北海道学芸大学釧路分校 ( 現教育大 ) 開校
 50 ( 昭 25 ) 年  PG 放唱の夕べ 「 資料 25-A 」


第 3 回 放唱の夕
釧路放送合唱団

後援
釧路市公民館  釧路放送局  釧路音楽同好会

日時 昭和 25 年 10 月 20 日 ( 金 ) 午後 6 時 30 分

場所  釧路公民館

釧路放送合唱団

合唱指揮   池 田  正
ピアノ伴奏   渡 辺  清二
        坪 田  保 

          ソプラノ          アルト           テノール            バス

         黒川千恵子         矢島 俊子         上原喜久雄           山田 ■■
         斉藤 禎子         忠  郁子          石井 忠雄          小川 澄郎
         須廣 迪子         川島世津子          廣川 佳塩          森   正
         岡田  瞳         山田 節子          今野 和正          石井  裕
         野坂 道子         早川みつえ          澤士  均          千葉 一夫
         浜野布躬子         島森 せち          矢部  泰          吉田 嘉雄
         米田美代子         近江 明子          齋藤 光雄          工藤 賢悦
         渡辺 信子         ■■ 俊江          多田 幸一          安部 則良
         小林富美子         佐々木礼子
         佐々木圭子         大島 サヨ
         鈴木トシ子         五十嵐つる子
         坪田 芳子         金沢 スミ
         三浦 通子         松田 文子
         廣川 幸子         紺野 信子
         佐野万理子

 51 ( 昭 26 ) 年  PG 児童合唱団活動開始 ( 渡辺清二、山田達雄指揮 )
 54 ( 昭 29 ) 年 うたごえ運動=釧路うたう会活動開始 ( 三国達雄、泉陽一他 )
 55 ( 昭 30 ) 年 市民合唱団 ( 瀬戸山雪子、橋本道博 ) → 瀬戸山雪子先生離釧に
     ともない 64 ( 昭 39 ) 年 "雪の子合唱会" となる ( 橋本道博代表 )
 56 ( 昭 31 ) 年 内川美谷子第 2 回発表会=教育大音楽研究室の研修発表会のはじ
     まりとなり
 57 ( 昭 32 ) 年 釧教大男声合唱団を組織し、
 58 ( 昭 33 ) 年 教育大学グリークラブの名で以後活動を続ける。一方

② 門下生の試演会や発表会では

 47 ( 昭 22 ) 年 瀬戸山雪子門下生第 1 回試演会
 55 ( 昭 30 ) 年 内川美谷子門下生第 1 回発表会、共に声楽とピアノ。
 56 ( 昭 31 ) 年 第 1 回児童ヴァイオリン試演会 ( 瞳会、白鳩会 ) 。60 ( 昭 35 )
  年 才能教育鈴木慎一氏講演会 ( 労音、瞳会主催 ) が行われ、 61 ( 昭 36 ) 年 
  才能教育研究会釧路支部が、医師であった札木照一郎さんらの協力で創立され、菅野
  次男さんらがヴァイオリンの指導に当たり、同年 9 月創立記念演奏会が開かれた。
   「 資料 25- B 」
 58 ( 昭 33 ) 年 矢野恒バレエ研究所開設。 ( のち、釧路バレーアカデミー ( 昭55 ) 
  と改称 ) 、続く 59 ( 昭 34 ) 年には きみよバレー研究所 ( 木戸公代代表 ) が開設
  され、釧路バレエ界の発展をつくった。
 59 ( 昭 34 ) 年 荒谷宏門下生第 1 回発表会に続き、 60 ( 昭 35 ) 年 長谷川道子、
  渡辺靖仁 ( 木琴 ) 、以後カワイ音楽教室、種村佳子、原口春子、長野正美、佐野マス、
  等々の門下生や釧路音楽院ピアノおさらい会など昭 40 年代前半まで続き、昭 46 年デ
  ィスクール・シュル・ピアノ第 1 回発表会では連弾などアンサンブルに主眼をおいた
  試みがなされた。

 ピアノを中心とした発表会が多いのに気付くが 、60 ( 昭 35 ) 年以降の演奏活動や音楽活動を概略整理してみると別表のようになり、次第に今までにない変化と充実化の傾向を伺うことが出来るのではなかろうか。


主な演奏会・活動の動き  年・月の ( )内は昭和年数

     1961 ( 36 )  10    渡辺靖仁さよなら木琴演奏会
      62 ( 37 )  6    伊藤功俊・村上俊子ジョイント・リサイタル
      63 ( 38 )  5    小畑恵一  ( 筝 ) リサイタル
            3    釧路市民吹奏交響楽団設立発起人会発足
            3    釧路オペラ研究会代一回発表会
            11    釧路地区吹奏楽連盟発足記念演奏会
      64 ( 39 )  4    釧路弦楽合奏団演奏会
      65 ( 40 )      青少年のための音楽の夕べ ( 主催・釧路青年会議所 )
      66 ( 41 )  5    釧路音楽協会 ( 会長 高後勉 ) 主催による第一回ジュニア・コンサート
            8    釧路室内楽団・北大交響楽団合同演奏会
            12    釧路混声合唱団演奏会
      67 ( 42 )  10    中谷弘ピアノリサイタル
      68 ( 43 )  3    伊藤功俊・荒谷宏ジョイントリサイタル
            3    第一回ギターコンサート ( 釧路クラシックギター協会 )
      69 ( 44 )      期待される新人の夕べ
      70 ( 45 )  7    原田礼子・菅野絹子ジョイントリサイタル
      71 ( 46 )  7    釧路混声合唱団・藤女子大合唱団ジョイントリサイタル
            8    ディスクールシュル・ピアノ結成
      72 ( 47 )  4    佐藤優子マリンバ・リサイタル
            6    第一回道東 4 市交歓音楽会
      73 ( 48 )  1    荒谷宏・小畑恵一 ピアノと筝による新春例会 ( 労音 )
      74 ( 49 )  11    第一回合唱祭 ( 釧路合唱連盟主催 )
            11    釧路吹奏楽団第一回定期演奏会
      75 ( 50 )  1    釧路音楽協会創立 10 周年記念 荒谷宏ピアノリサイタル
            2    ソプラノ 4 人の会
            5    釧路ゾリステン第一回演奏会
            10    ソリストの夕べ
            11    アンサンブルの夕べ
      76 ( 51 )  3    伊藤功俊バリトンの夕べ
      77 ( 52 )  8    玉川博子・沢村智子ジョイントリサイタル
            12    池田啓子ソプラノリサイタル
      78 ( 53 )  7    釧路交響楽団第一回演奏会
            11    ベートーベン 「 第九 」 演奏会 = 渡辺暁雄指揮・日本フィルハーモニー交響楽団・合唱 「 第九を歌う会 」
                主催 「 くしろ音楽の会 」 他
      79 ( 54 )  11    釧路市民文化会館会館記念 「 第九 」 演奏会。山岡重信 指揮、札幌交響楽団・釧路第合唱団。
      80 ( 55 )      桃井 ( 現進藤 ) 信子ピアにリサイタル


「 渡辺 靖仁 」 さよなら木琴演奏会

 表題には "さよなら" とあるが、これは 「 渡辺靖仁 ( 旧清二 ) 」 「 資料 26 - A 」 の実質的な木琴リサイタルであった。木琴の親しみやすい音色と機能を十分に生かした演奏会で、満員の公民館には演奏者と聴く人達の間に温かい惜別の情が満ちあふれ、渡辺靖仁さんの釧路での音楽活動に想いを寄せて聴く人も多かった。

渡辺靖仁 ( 清二 ) 木琴リサイタル ( 資料 26 - A )

 渡辺さんは 28 ( 昭 3 ) 年、釧路で生まれ、世界的な木琴演奏家であった平岡養一に師事した。釧路新響 ( 前述 ) には中学生時代から演奏に加わり、戦後は釧路市立東中学校の音楽教師を勤めるほか、釧路放送合唱団、 PG 児童合唱団等の指導にあたる一方、釧路ディスクラブ、公民館火曜コンサート等でのレコードコンサートの解説など戦後の釧路の音楽活動での多方面にわたる活動は誠に大きなもので、この人がいなかったら戦後釧路での音楽文化の高揚はもっと遅れていたに違いない。札幌へ転居後は東芝 EMI に入社、札幌マリンバ協会主宰、北電ファミリーコンサート等に出演、現在も札幌各区民センターの成人学校、成人大学などの講師などで活躍している。内外の西洋音楽については古典から現代音楽まではもちろん、歌舞伎など日本の伝統芸能一般、映画音楽、歌謡曲など含めて誠にその視野は広く、レコード、書籍資料等の莫大なコレクションを通じて、映画監督の久世光彦氏や大阪フィルハーモニーの我が国指揮者の巨匠朝比奈隆氏とも親交がある。また、東響芸大出身で日本の第 1 回打楽器コンクールに 1 位入賞し、日フィルのパーカッション首席をつとめている中谷孝哉、国立音大出身で在学中に宮中 ( 美智子妃殿下など ) の御前演奏を行い、現在フリーで東フィル、日フィルなどのプロのオーケストラやアンサンブルで活躍している佐藤優子 ( 別表参照 ) など優れた釧路出身の奏者を輩出している。


「 伊藤功俊、村上俊子ジョイント 」

  60 ( 昭 35 ) 年 8 月、釧路出身の 「 大野国夫バスリサイタル 」 が瀬戸山雪子先生のピアノ伴奏で行われているが、武蔵野音大卒業の帰釧リサイタルで、その後すぐ上京し、近郊の高校教師となった。釧路に在住し活動する人々の中で 「 ジョイントリサイタル 」 と名を打っての表題の演奏会は初めてのことであった。当時、釧路で音楽の指導にあたっている人々の中では、門下生の指導や職場の仕事が多忙、まだまだ不勉強などとの理由でこの種の演奏会はなかなか実現しなかったが、 59 ( 昭 34 ) 年に発足した釧路労音の活動が活発化してくると会員の中には "地元で活動している人達の演奏による例会を企画しては" とか "労音の会員で合唱団などつくっては" などの声が高まりつつあった。その様な中で開かれたこのジョイントリサイタルは沢山の人々の期待をもって迎えられた。労音でも後日 2 人囲む座談会を開き、瀬戸山雪子先生も労音の機関誌に感想を寄せられた 「 資料 26 - B ・ C 」。ほぼ満席の公民館で幾分かの緊張感の中で始まったこのリサイタルは新鮮で瑞々しい感じに溢れたコンサートであった印象が残っている。それまでの門下生の発表会等ではプログラムの最後の方に指導者である先生が若干の演奏披露をする程度であったが、このリサイタルはその辺りを脱する新しい姿勢を示すものであったと言えるのではなかろうか。伊藤さんは山形大学卒業で、声楽を藤井典明 ( 木下保、橋本国彦に師事し、戦後中山悌一など日本を代表するバリトン歌手の一人 ) に師事し、教育大に赴任して間もなくのリサイタルで、以後は釧路の音楽界、特に合唱界でのリーダーの代表として活動を拡げることになる ( 後述 )

伊藤功俊 と 村上俊子 ( 資料 26 - B )

― ジョイントリサイタルを聞く ―           瀬戸山 雪子 ( 資料 26 - C )
 六月二十九日待望の伊藤村上両氏のジョイントリサイタルが開かれた。若い地元の音楽家のかいは、市民の一人として誠に喜びにたえない。
 いまや釧路は道東最果ての年などとは言えず本道の最も発展性のあるホープとして工業、商業、産業にめざましい発展を見せているが、これに伴うべき文化方面は、もっともっと活発さが欲しいところで、この点一人でも多くの音楽科、指導者が必要であって、日増しに増える、音楽を勉強したい人、させたい人々の要求を充たし、そのなかから優れた人々が産み出されてほしいものである。
 会場等も、オーケストラでもバレエでもまごつかないような市民会館を十六万市民の熱意で実現したいものである。こんな意味からいっても』春のシーズンのトップを飾った有意義な会であった。伊藤功俊氏はポピュラーなリードであり、よく行き届いた練習の後が見えて良かった。
 欲をいえば口の中で響いている声をもtt外に出してほしい。特に f の要求されているところ等では物足りないし全体にもっと清涼がほしいと思った。伴奏の中谷氏は誠に控えめなそして歌手を生かそうという細かい心遣いの程が見えてなかなかの好演であった。村上俊子氏は可憐な歌手である。越えそのものが可憐である。発表された曲は、みなよく勉強が行き届き謳いこまれていて良かった。さらに孤影幅が増し、ふくらみが加えられたらさらに良くなることであろう。
 伴奏の長野市も仲々翌日いておられた。今後も是非有意義な会を続けて頂きたく、さらに良い発表会を催されるよう期待する次第である。

「 釧路市民吹奏交響楽団設立の動き 」

 北大を卒業して凡そ 10 年ほど、東京フィルハーモニーのホルン奏者として活躍した佐藤昌之 ( 現釧教大名誉教授 ) さんが札幌学芸大講師に就任したのを機に、 63 ( 昭 38 ) 年、市民の手による本格的な吹奏交響楽団をつくろうと 「 資料 27 - A 、 B 」 のように設立発起人会を設立し、山本武雄釧路市長をはじめ、中川久平教育委員長 ( 次期委員長 長内丑衛門 ) 、山本幸造市議会議長、大野雄一郎学芸大分校主事、菊地源次郎連 P 会長、菊地三之助防犯協会長、その他経済界、音楽界、報道関係では栗林定四郎、両角克治、金井俊一、高後勉、瀬戸山雪子、勝見義雄、長谷川道子、菅野次男、伊東敞道新支社長、片山睦三釧新社長、若菜 NHK 支局長などに設立委員の折衝をし、ほぼ全員の趣意賛同を得た。楽団結成に伴う団員募集、練習方法や場所、予算など具体的検討に入ったが、種々難問が見えるようになり、特に予算面では 40 名編成に伴う楽器代など当初分百五十万円と経常費百二十万円を算定したが、財界その他からはすぐにでも拠出するとの動きも出て誠に嬉しいことであったが、長期的な展望に立ってみると、見通しの曖昧のまま現時点でこれを頂くことは却って問題を生じ、失礼とも成り得るのでここは一応辞退して慎重をつくし検討を深めることになったが、展望が開けず、誠に残念ながらこの計画は断念せざるを得なかった。渡辺源司さんの積極的な姿勢を思うにつけ誠に残念であった。渡辺さんや丹葉公民館長さんに同行して、委員折衝に伺った際、栗林定四郎三ツ輪運輸社長さんは 「 渡辺さん、この計画感謝します 」 。長内丑衛門病院長さんは 「 君達、途中でくじけたら尻をヒッパクぞ! 長続きが大切なんでね、何事も 」 との言葉。この計画に "本当に大丈夫なのかな" というご心配と温かいお心遣いの励ましの意味が含まれていたのではなかろうかと今でも脳裏に浮かぶことがある。



釧路市民吹奏交響楽団設立の動き ( 資料 27 - B )

資料 27 - A は、イメージデータで、判読が困難なので省略させて頂いた


  64 ( 昭 39 ) 年、佐藤昌之さんが釧教大に赴任後少し時間をおいて市から百五十万円ほどの補助金が出ることになるが、当初は 「 釧路管楽合奏団、その後 「 釧路吹奏楽団 」 の名称で活動を開始する。本格的な市民吹奏交響楽団をとの目的を前記設立発起人会は達し得なかったが、その動きは市政担当者、議会などに理解を拡げる効果があったとすれば幸いである。佐藤昌之さんは精力的に現在も活動を継続しているが、この吹奏楽団が発足する少し前の 65 ( 昭 40 ) 年には、レコードによる音楽史の講座を開始し、 「 フロインデ会 」 をつくり、 68 ( 昭 43 ) 年、映画 「 フルトヴェングラーと巨匠たち 」 を道新と共催し釧路劇場で上映した。この映画の数カットは今日 TV などで時々放映されることもあるが、戦後廃墟となったベルリンのハーモニーホールでの今は亡きチェルビダッケの若き日のベートーベンの 「 エグモント 」 序曲の指揮ぶりは強い印象を人々に与えた。録音、映像嫌いの彼を当時知る人は殆どいなかったはずである。 69 ( 昭 44 ) 年オペラコンサート  4 トラックステレオではモーツアルトの 「 魔笛 」 。 70 ( 昭 45 ) 年 「 フルトヴェングラーとベートーベン 」 を北海道でのオーケストラ演奏史上で功績を残した荒谷正雄氏によるレコードコンサート ( 音楽講座 ) など行っている。フロインデ会は現在は少人数になったが 「 まなぼっと 」 を会場にオペラを中心とした鑑賞会を、高木謙吾 ( 元市教育部長など歴任 ) さんなどが続けている。


新発足した 「 釧路音楽協会 」

 釧路での芸術音楽の充実と新人の演奏家の育成を願って 66 ( 昭 41 ) 年 「 釧路音楽協会 」 ( 高後勉会長 ) が新発足し、新人演奏家やジュニアコンサートが開かれた ( 別表参照 ) 。市内のピアノ、声楽の教室で学んでいる一般人、大学、高校と小中学生の出演によるものであったが、各教室の指導者と門下生にとって励ましとなる企画であり現在も継続して行われている。同協会の会員は市内の演奏者、指導者に加え、これを賛助する会員とで構成されているが、 67 ( 昭 42 ) 年の中谷弘 ( 当時釧教大助教授 ) ピアノリサイタルは同協会の会員研修発表リサイタルとして行われ、翌年には伊藤功俊、荒谷宏ジョイントリサイタル、その他新人演奏家などに出演し研修を重ねた人達による "期待される新人の夕べ"  "ソプラノ4人の会"  "ソリストの夕べ"  "アンサンブルの夕べ" などを催するほか中央からの優れた演奏家を招聘し、次のような催しを主催・主管している。主なものでは
  66 ( 昭 41 ) 年 7 月 川村英司バリトンリサイタル
  67 ( 昭 42 ) 年 7 月 小林 仁 ピアノリサイタルと公開レッスン。
  69 ( 昭 44 ) 年 10 月 小林道雄 ピアノリサイタルと公開レッスン。
  70 ( 昭 45 ) 年 12 月 ベートーベン生誕200年記念音楽会
  71 ( 昭 46 ) 年 4 月 深沢亮子ピアノ演奏会
  75 ( 昭 50 ) 年     2 台のチェロ、ソプラノ、ピアノによる音楽会
          8 月 チェコ九重奏団演奏会
          9 月 黛 敏郎と東京交響楽団
などがあげられ、その後も活発に演奏会を主催し続けている。今年 ( 平 13 ) は同協会の発足 35 周年にあたり、同協会の新人演奏会などにかかわりの深い人達の成長ぶりを示すだろうと思われる多彩なプログラムが用意された記念演奏会を 10 月に予定し期待されている。


「 釧路混声合唱団と釧路合唱連盟 」

 ①釧路混声合唱団は前述の通り戦後まもなく活動を展開した釧路放送合唱団を母体として 65 ( 昭 40 ) 年に結成 ( 団員約 50 名 ) され、佐々木晴美さんを中心に定期的な演奏活動を展開する。中でも 68 ( 昭 43 ) 年 「 市民憲章の歌 」 ( 星寿次作曲 ) 、 69 ( 昭 44 ) 年 7 月 「 釧路開基百年賛歌 」 ( 永井浩作詞、佐藤昌之作曲 ) 、次いで 12 月 「 釧路風物誌 」 ( 沖口三郎作詞、星寿次作曲 ) 、 70 ( 昭 45 ) 年 「 釧路湿原賛歌 」 ( 荒沢勝太郎作詞、桐林正治作曲 ) 、続いて同じ作詞者作曲者によって 72 ( 昭 47 ) 年 「 日舞と合唱のための幻想曲 ( 丹頂 ) 」 、 75 ( 昭 50 ) 年 合唱のための物語詩 「 海を向いて少女が一人佇っていた 」 など釧路在住の作詞、作曲者による創作曲などに取り組み、釧路合唱史に残る意欲的な演奏活動を拡げて行く。

②釧路合唱連盟の結成

  73 ( 昭 48 ) 年 11 月、市芸術祭における 「 合唱の夕べ 」 を契機として、百合の花合唱団・釧路クラインコール・アンラコロ・コールカンパニーレ・鶴ヶ岱マミーコール・釧路混声合唱団・教育大グリークラブの 7 合唱団の代表らによって連盟組織設立の協議会が行われ、 74 ( 昭 49 ) 年、釧路合唱連盟設立総会が開かれ、伊藤功俊 ( 釧教大教授 ) さんを理事長に選出し、同年 11 月第 1 回の合唱祭が開かれ、以後の釧路の音楽活動の中で存在の重要性を次第に増して行くことになる。


「 釧路交響楽団の結成 」

  97 ( 平 9 ) 年、創立 20 周年記念定期演奏会のプログラムに創立当時の 78 ( 昭 53 ) 年のころを振り返ってコンサートミストレスの直江はるみさんは "カルテットのような人数で練習したシンフォニー・・・・ " と述べ、初代指揮者の長野正美さんは "それより以前、私は 9 年間 「 釧路室内管弦楽団 」 をしていましたから、それ以上の力をつけなければならないとの思いが強かった。吹雪の日などは、すきまから雪が入り、凍える手でヴァイオリンを弾くような練習・・・・" と回顧している。第 1 回の定期のプログラムは、アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ( モーツアルト ) 、ピアノ協奏曲第 24 番 ( モーツアルト ) 、ピアノ中谷弘、交響曲第 94 番 「 驚愕 」 ( ハイドン ) であった。
 それから 20 年後のプログラムは、常任指揮者の泉史夫 ( 当時市立弥生中学校教諭 ) さんの指揮で 「 ニュルンベルグのマイスタジンガー 」 第一幕への前奏曲 ( ワーグナー ) とベートーベンの 「 第九交響曲 」 と非常に重厚なものになっていた。最近は定期演奏会のほかに青少年や家族で楽しめるサマーコンサートを開いたり、管楽器のアンサンブルコンサートを試みたり演奏内容の向上に努力し、市民との結びつきも強くなってきているようである。今年 ( 平 13 ) 9 月、ディスクール・シュル・ピアノ ( 後述 ) の 30 周年記念演奏会では地元若手のピアニストや歌手と協演し、多くの人々の好感を呼んだ。


「 箏とピアノによるジョイントの例会 」

 これは以前から 「 地元演奏者による演奏会 」 を目標にしていた釧路労音の企画が実現を見た 73 ( 昭 48 ) 年の新春例会、 「 小畑恵一 ( 箏 ) 、荒谷宏 ( ピアノ ) によるジョイントコンサート 」 で、この種のコンサートは初めてであった。箏の小畑恵一さんは三谷キワ ( 故人―昭 46 年度市文化賞受賞 ) さんの釧路宮城会の 1 人として既に 54 ( 昭 29 ) 年、宮城道雄の釧路での演奏会で宮城道雄作・編曲による 「 八千代獅子 」 や 「 道灌 」 など宮城道雄と共に演奏を行っている 「 資料 28 - A 」 ( 資料は省略させて頂いた ) 。早くから豊かな才能を発揮し、東京芸大に学び、その後も宮城道雄の指導を受けるほか国内外でも研鑽を積んだ。このジョイントの翌年には労音例会 2 度目の 「 小畑恵一リサイタル 」 ( 釧路のクラインコール賛助出演 ) を行っている。荒谷宏さんは、武蔵野音大卒業後は、釧路湖陵高校、教育大学で音楽指導の傍ら札響などとの協演のほか小林道雄とのピアノ連弾、砂原美智子、ステファーノ木内、常森寿子、小松英典など日本の代表的な歌手の伴奏など広く演奏活動を行い、 71 ( 昭 46 ) 年、 5 人のメンバーで 「 ディスクール・シュル・ピアノ 」 を結成し、翌年の第 1 回の演奏会は "連弾" などを主としたアンサンブルを基調においたものであり当時としては全国的にも数少ない画期的なものであったと思われる。前述した創立 30 周年記念演奏会でも東京や札幌などからのプロの弦楽器奏者を含めた釧路交響楽団との共演にもこうした趣意が伺われ、共感を覚えた人たちも多かったのではなかろうか。


「 伝統芸能の充実を求めて 」

  73 ( 昭 48 ) 年、釧路宝生会によって 「 能と狂言の鑑賞会 」 が公民館で催された。
  「 新修釧路市史 」 ( 平 8 年版 ) の記述を参考に若干言及し概観すると、釧路宝生会は 23 ( 大 12 ) 年に創立されていたが戦時中は思わしい活動も出来ず、戦後昭和 30 年代、復興と振興を計って島森忠義 ( 昭 35 年宝生流職分取立の北海道第 1 号といわれる ) さんらを中心に、次いで昭和 40 年代には高橋三郎、中沢悟郎さんらに山中光子、佐々木静子さんら女性による演能も加わるようになった。昭和 47 年、高橋三郎さんは職分 ( 能楽師 ) 位を受け、自宅に能楽堂をつくり、昭和 50 年代には高橋義雄、秀一さんらが 「 釧路光調会 」 を発足させ小鼓の稽古、研修に努め普及に尽力し、この頃小中学校の音楽教師を集い研修の場を持っている。
 今日、小・中学校の音楽教育の中で日本の伝統音楽を重視する新しいカリキュラムと音楽担当者の技術の研修が叫ばれているが、当時既に行われていたのである。誠に先見性のある試みであり、西洋音楽のみを音楽と思いこんでいた音楽教師も大きく目を開かれたのであった。
 邦楽の方では 52 ( 昭 27 ) 年 「釧路邦楽邦舞協会 」 が出来、長唄 杵屋小三子・杵屋三知代、鳴物 田中吉佐久らが始動、 58 ( 昭 33 ) 年、三味線・箏曲・尺八界の指導者らによって 「 釧路三曲協会 」 が結成される。
 日本舞踊の方では花柳徳保、花柳寿登芳、花柳徳伸さんらが活発な動きを見せ始め、昭和 20 年代の後半、徳保さんは "まりも" を湖に戻す運動に協賛した 「 マリモ踊り 」 のほか 「 丹頂の舞 」 「 釧路魚河岸音頭 」 など地元に縁ある題材のものを、寿登芳さんは 70 ( 昭 45 ) 年、大阪万博の日本の芸能や沖縄海洋博などにも出演するほか、釧路に東音会など招き、リサイタルを開いている。
 徳伸さんは同じ頃・地唄舞・に新生面を求めて人間国宝の吉村雄輝 ( 故人、俳優池畑慎之介=ピーターの父 ) の門下生に入り研鑽を積み東京国立劇場などで発表会を開き 、81 ( 昭 56 ) 年、花柳流から独立して 「 花邑流 」 を創設し、市民文化会館で師吉村雄輝特別出演によるリサイタルを開くなど日本舞踊の研修、伝承に尽力している 「 資料 28 - B 」

長唄 「 時雨西行 」  特別出演・四世家元 吉村雄輝師 樹立記念東京公演 昭和 57 年 東京・芝 ABC 会館ホール

 高玲子さんは 「 青い笹の会 」 を主宰、 76 ( 昭 51 ) 年、泉流の泉徳右衛門に師事、古典、創作など個性的な異色ある舞踊に取り組み、フランスのパリなどでリサイタルを開いている。


「 第九 」 釧路に響く

  75 ( 昭 50 ) 年 「 釧路労音 」 から改称した 「 くしろ音楽の会 」 が釧路合唱連盟総会に 「 第九 」 公演の相談をもちかけたのは 77 ( 昭 52 ) 年の 11 月であった。翌年の 5 月 「 第九をうたう市民の会 」 が結成され、主婦、医師、公務員、会社員などの個人に加え、市内の 7 合唱団、高校生、大学生など含め三五〇名をこえる大合唱団が誕生した。練習は基本的に毎週水曜日。高い音域、発声、難しいドイツ語の発音などに加えての音楽的全体進行。合唱指揮者の伊藤功俊さんは "この夏は汗だくの大苦 ( 第九 ) が胸に" とその苦労を回顧している。 11 月 3 日、日進小学校体育館、指揮者の渡辺暁雄先生を迎えての練習 ― 「 第九のためならどこえでも行くとの言葉に心を打たれた 」 「 専門的な音楽用語を使わずに "神様が天上から手を差しのべて私達を抱擁して下さるように優しくひろい心で、しかも厳かに" とわかりやすく曲想を引き出して下さって・・・・ 」 と合唱する人達が語るように次第に先生の美しい指揮につつまれていった。その感動を胸にいよいよ 78 ( 昭 53 ) 年 11 月 16 日本番を迎える。

 ベートーベン作曲
    「 エグモント 」 序曲 作品 84
    「 交響曲第九番、ニ短調 」 ( 合唱付 )  作品 125
 指揮 渡辺暁雄
 演奏 日本フィルハーモニー交響楽団
 ソリスト、常森寿子 ( ソプラノ )  春日成子 ( アルト )
      田口興輔 ( テノール )  芳野靖夫 ( バリトン )
 合唱 第九をうたう会
     釧路混声合唱団、百合の花合唱団、コールカンパニーレ、釧路クラインコール、
     釧路マミーコール、アンラコロ・グリークラブ、教育大学釧路分校、湖陵高校、
     江南高校、北陽高校、星園高校、市民 ( 以上 354 名 )
 会場 釧路厚生年金体育館

以上 「 資料 30 ― A 」

 翌 17 日の北海道新聞は 「 『 第九 』 釧路に響く 」 の見出しで " 3000 人を超える聴衆を集めた厚生年金体育館に、釧路で初めてのベートーベンの 「 第九 」 ( 歓喜の歌 ) が感動的に響き渡った" と報じている。また合唱に参加した湖陵高校生達は "第九をやるといわれて本当に歌えるのかな? 週 2 時間の必修クラブでの練習。音は高いし、ドイツ語の発音もなかなか出来ない、発音が出来ても音の速さについて行けない"  "不安をかかえながらも第 3 楽章の前に開き直って入場、履き慣れない革靴で足が痛かったが動けない。終楽章小さい失敗をやったが、終わった瞬間いてもたってもいられない気持ちをおさえるのに苦労した。私達のような高校生、父母と同年代、またそれ以上の年齢の人、 350 人が心一つに歌った歓喜! ( 湖陵高校 80 周年記念誌 )"  出演 102 名の湖陵高校生の指導にあたった藤原靖文さんは  "高校 3 年間の一つの思い出だけでなく生涯の貴重な思い出の一つとして心の奥深く生き続けることを確信して" と取り組みの姿勢を情熱的に述べている ( 同日プログラム ) 。

指揮者 渡辺暁雄 ( 左 ) と第九演奏会のポスター ( 右 )

 また実際に今回の 「 第九 」 実現のために奔走した 「 くしろ音楽の会 」 の今井千鶴子さんは  "私がステージに上がったとき会場がいっぱいになっているのでとても嬉しかった。その上念願の日本フィルとのステージ、一瞬感動の涙で全体がかすみました。今思い出してもあの時の感動が甦って来ます。その後何回か唱いましたがあの時ほどの喜びはありません。"  と後日語ってくれた。主催した側も唱った人達も、またそれを聴いた人達も感動の涙と拍手で胸が一杯になった歓喜あふれる演奏会となり、釧路に於ける音楽活動史上初めて成し得た記録すべき演奏会ともなった。


「 第九 」 の成功を導いたもの

 市内のこれまでの演奏活動は別表にまとめてみたように 60 ( 昭 35 ) 年代後半から市内在住の音楽の指導、演奏にたずさわる人々の積極的な活動が見え始め、指導者間、演奏者間でそれぞれの連携も深まってきた。
 ①釧路合唱連盟の結成。もしこの動きと連帯がなかったら、特に今回の 「 第九 」 公演にはもっともっと時間がかかり実現に至るまで難問が山積したのではなかろうか。それだけに伊藤功俊さんを代表とする合唱連盟の存在は大きかっただろうし、幾つもの労苦を超えての積極的な練習への取り組みがあって実現を見れたのではなかろうか。
 ②当時、他都市町村の 「 第九 」 ( 例えば十勝清水町 ) 公演の情報などに刺激され  "釧路でも 「 第九 」 を出来ないか、歓喜の歌を唱ってみたい" という市民の意欲や願望が高まりつつあったこと。
 ③主催の中核となった 「 くしろ音楽の会 」 会長の田中勝喜さんは  "合唱団の指導をされた伊藤先生はじめ指導者、合唱団のみなさん、市民の会とうたう会の役員の方々、更には公演に協力して下さった皆さんに心よりお礼申し上げます。"  と挨拶で述べているが、 「 くしろ音楽の会 」 は当時財政的にも非常な苦境の中にあったと思われる。長い間目標にしてきた 「 第九 」 公演にむけて多くの苦労を背負いながらも各団体などとの総合的な協力調整、運営を推進して来たこと。前述した今井さんの  "会場がいっぱいで嬉しくて・・・・云々"  の言葉の中にはこうした労苦の思いが含まれているのではなかろうか。
 ④一方、日本フィルも前年、前々年と 2 回にわたる釧路公演をし、延べ 6400 名をこえる聴衆が集まっており、演奏者と聴衆との間に強い感動と信頼感が伝わり、あの日本フィルも新しい出発 ( 前号で記述 ) の原点に立って 「 第九 」 公演に積極的姿勢をとったこと。
 ⑤公演に際し市及び町村管内教育委員会、釧路市文化団体連絡協議会、釧路音楽協会、大学教組、私学教組、北教組、商工会議所、各報道機関など 20 団体をこえる広範な後援ががあり、市民的にも盛り上がりがあったこと。
などが考えられるのではなかろうか。


「 第九 」 公演の広がり

 こうした盛り上がりの中、折しも新しく完成した 「 釧路市民文化会館 」 の開館記念として 「 第九 」 公演が企画され、初演での貴重な体験を生かして 「 釧路第九合唱団 」 ( 指揮・伊藤功俊 ) が結成され、再び 「 第九 」 公演に挑戦した。
 時     79 ( 昭 54 ) 年 11 月 3 日
 指揮   山岡重信
 演奏   札幌交響楽団
 ソリスト 常森寿子 ( ソプラノ )  辻宥子 ( アルト )  鈴木寛一 ( テノール )  芳野靖夫 ( バリトン )
 合唱   釧路第九合唱団
 前年同様感動的な演奏会となった。釧路音楽協会の金谷憙憲さんらは CD 録音にも取り組んでいる。 「 資料 30 - A 」 出来映えも良い。

1979 ( 昭 54 ) 年の釧路に於ける第九演奏会
札幌交響楽団 指揮 山岡 重信
 ソプラノ 常森 寿子 アルト 辻 宥子 テノール 鈴木 寛一 バリトン 芳野 靖夫
合唱 釧路第九合唱団


 市民文化会館の完成は市民の長年の願望であった。戦後に於ける旧公会堂、公民館、厚生年金体育館を経てここまで来るのに凡そ 35 年の年月が過ぎた。音楽活動について振り返って見ると

① 45 ( 昭 20 ) 年代後半から 55 ( 昭 30 ) 年代前半までは旧公会堂・旧公民館を中心としての戦後の混乱の中からの復興期であり、
② 60 ( 昭 35 ) 年代後半から 80 ( 昭 55 ) 年代前半までは音楽的にも設備、音響など決して十分とはいえない中でも全体的な活動期に入っていった。こうした見方に誤りがないとすれば 2 回にわたる 「 第九 」 の公演は個人、団体それぞれがこれまでに蓄積してきた力と音楽活動の画期的な集大成であったと言えるのではなかろうか。これらの 「 第九 」 公演を通して新しく混声合唱団 「 コールフロイデ 」 が誕生し、 80 ( 昭 55 ) 年以降は数多くの演奏会など市民文化会館を中心として活動の隆盛期に入り、内容、範囲を多様化して行く。
  「 第九 」 の公演でもう一つ付け加えなければならないのは 97 ( 平 9 年 12 月 14 日の釧路交響楽団創立 20 周年記念定期演奏会でのそれである。主催 釧路市文化振興財団、主管 釧路交響楽団で行われた 「 第九 」 は
  指揮   泉 史夫 ( 常任指揮者 )
  ソリスト 菊地 江 ( ソプラノ )  駒ヶ嶺ゆかり ( アルト )  高坂良修 ( テノール )  杉野正隆 ( バリトン )
  合唱   第九を歌う会
  合唱指揮 石窪 満
 これは釧路交響楽団・合唱団など殆どが地元市民の手による研修努力の結果、創りだした初めての 「 第九 」 であり、聴衆の新しい感動を呼び起こした。釧路交響楽団団長の桜井敬一さんは 「 ヴァイオリンがたったの 6 人で定期演奏会を開いてしまった冷や汗タラタラの思い。・・・・釧響も成人の時を迎えました。今日は大きな "音" に託して釧響は歓喜します。アマチュア魂を!お聞き下さい!歓喜の音を! 」 とこの日のプログラムで呼びかけ挨拶している。楽員は高校生位から定年退職を迎えたと思われる高年齢の人達まで。年代を越え抱擁しあうような演奏の姿勢はまさに歓喜の歌詞そのもののようであり、微笑ましい熱演でもあった。釧路交響楽団はこのほかに終楽章のみではあるが 「 第九 」 の演奏を標茶町や釧路町などで行っている。
 こうして釧路交響楽団だけでなく各分野の演奏活動を時の流れを追って見てくると
 "ああ、みんな音楽から力をもらっているんだなア。だから出来るんだ。素晴らしいことだなア" と深く感じ入る。

釧路の団体だけで行った第九演奏会 1997 ( 平成 9 ) 年 12 月 14 日
釧路交響楽団 指揮 泉 史夫 ( 常任指揮者 )
ソリスト
菊地 江 ( ソプラノ )   駒ヶ嶺 ゆかり ( アルト )   高坂 良修 ( テノール )   杉野 正隆 ( バリトン )

 更に技術的精度を高めて "よりよい音と音楽" を創りだし、音楽する心の喜びが聴衆や市民にも親密にふれあうようになれば、音楽不毛といわれて来た釧路も、 「 音楽の生きづく釧路 」 といわれるようになるだろう。その日の遠くないことを胸にふくらませていたい。
 かってチェロの巨匠カザルスがそうしたように ( 8 号に記述 ) 、演奏するものが動き出せば聴衆や市民も動き出す。そんな時代が来ているのではなかろうか。

― 以下次号 ―

*訂正

前 9 号の次の部分を
 ・  P5 上段 戸田敏子 → 戸田政子に
 ・  P11 中段  「 くしろ音楽 」 は 一〇〇〇〇名 → 一〇〇〇名に
訂正してお詫び致します。
* 「 注 」

 イ. 今回の記述は昨 ( 平 13 ) 年 9 月に脱稿しましたので、一部現況とあわない表現がありますが、ご了承下さい。
 ロ. 「 第九 」 演奏会について
    「 新修釧路市史 」 第 3 巻 ( 平成 8 年版 ) では、日フィルとの演奏会が昭 53 年 2 月、札響との演奏会が昭 53 年と記載され、正誤表の中にも訂正
    が見られないので、掲載の 「 資料29 - B・ 30 - A 」 の日付であることを付記しておきます。

Updated 18 May, 2020