釧路における音楽鑑賞活動の中で ( その 2 )

徳田 廣

「 ラジオ放送とレコード 」

 戦後しばらくの間、音楽を聴けたのはラジオとレコードのみであった。ラジオはまだ民放はなく NHK 放送だけであったが、 5 球スーパー以上のラジオであればダイヤルを慎重に回して電波をうまくキャッチすれば進駐軍向けの放送が聴けた。 " NBC シンフォニーオーケストラ、コンダクテッド バイ アルトウロ・トスカニーニ " などのアナウンスを耳にすると興奮し歓喜した。バルトークやシェーンベルクなどの音楽も初めて耳にしたものである。だが放送の音楽は流れて消えてゆく。その点レコードは古今の名曲を優れた一流の演奏家 ( 悪いのもあったが ) で何度も繰り返し聴けたし、録音の良いものならその感銘度は増す。だがそのようなレコードはどこにでもあるものではなく、特にクラシックではそれに触れる機会は僅かであった。
  "何とかしてもっと多く聴きたい" と寄り集まったのが、渡辺靖仁、金谷憙憲さんと僕の 3 人 ( 資料 6 - A ) であり "もう少し多くの人で" と始めたのが公民館 = 旧公会堂資料 7 - A ) でのレコードコンサートである。当時はゼンマイをハンドルで巻いてゼンマイのもどる力を利用してターンテーブルを廻す方式と電動式のモーターで廻す方式 ( 資料 6 - A の 3 人の後方に見える ) の蓄音機があり、移動し易い小型の卓上型のものがあった。レコードコンサートで使ったのは初めゼンマイ式で、後に電動式の卓上型であった。使う針は鋼鉄カネ針と竹針があり、一般的にはカネ針が使われていた。五四年 ( 昭 29 ) ハイフェッツの札幌での演奏会を聴くことが出来、帰宅してハイフェッツのレコードをこの 2 種の針で聴いたら竹針の方が生の演奏に近い音に感じた。少し話が逸れるが竹針のことで面白い話がある。

公民館でレコードコンサートを始めた 3 人 ( 左から、渡辺靖仁、金谷憙憲、徳田廣 )

 宮沢賢治がある日、大工が一所懸命竹で針をつくり小糠でそれを炒っているのを見てピンと来た彼は近所の傘屋から竹切れを貰って来てそれを削り小糠で炒って作ってみたら日頃愛用していたビクターの竹針より遙かに遙かに質も堅く音も良いものが出来たという。それで弟の清六さんと竹針の製法などしっかり英文で認め見本と一緒にアメリカのビクター会社へ送った。 2 ヶ月ほどして製法についての卓越した創見と情報に対する感謝を書き連ねた返事が来たが、最後に 「 弊社としては竹針は encourage できない 」 という意味のことが書かれていたそうである。 "カネ針でバリバリとレコードを傷める方を会社として encourage したいのだろう" と賢治は冗談を言ったという。アメリカの企業感覚が見えるような話だ。
 さて話を戻して公民館でのレコードコンサートだが、例の蓄音機は北大通の早川レコード店 ( 時計店 ) から借り、その上運んでもらったり大変お世話 ( LP になってから試聴盤など南大通の西村レコード店 ) になった。解説者には戦時中文化人も多く疎開していたので美幌に居た音楽評論家の藁科雅美さんなど招いたこともある。渡辺靖仁さんは G ・ヒュッシュ来日の時などラジオを持ち込んで直接放送を通してシューベルトの 「 白鳥の歌 」 ( ピアノ伴奏 M ・グルリット ) で聴いたこともあると語っている。片面約 4 分少々の SP コードによるコンサートはレコードを裏返したり針を取り替えたり、ゼンマイを巻いたりしながら頃合いをみて解説をするという何とも気忙しいものでもあった。

第 50 回記念 「 音楽の泉 」 ピアノは荒谷宏さん、最前列左が岡島正義さんと新室内楽メンバー、など ( 資料 6 - B )

  50 回記念 「 音楽の泉 」 は、当時 NHK の人気番組 「 話の泉 」 にヒントを得て、例えばシューベルトの "未完成" の主題メロディを逆に弾いて "さてこの曲は誰の何という曲でしょう" と解答を迫るというもので、瀬戸山雪子先生や青木裕二釧路放送局長や岡島正義さんらが解答者であった。 「 資料 6 - B 」 はピアノ荒谷宏、最前列左は岡島正義さんと新室内楽団メンバー、企画は渡辺靖仁さんだった。当時レコード選択や楽曲解説に参考になったもは野村光一著 「 レコード音楽読本 」 ( 中央公論社 ) 「 名曲に聴く 」 ( 創元社 ) 、野村あらびす ( 野村胡堂 ) 「 楽聖物語 」 ( レコード音楽社 ) 「 紙上音楽会 」 ( 音楽之友社 ) 、堀内敬三 「 音楽の泉 」 ( 音楽之友社 ) 、村田武雄 「 音楽通史 」 ( 師範学校教科書株式会社 ) 、柿沼太郎 「 世界の名曲 」 ( 名曲堂 ) 、大木正興 「 名演奏家事典 」 ( 音楽之友社 ) は共に全 6 巻など。音楽の内面を考える点で小林秀雄 「 モーツアルト 」 は刺激的だった。


「 中山悌一バリトン独唱会 」

 その頃、感銘深い印象を残したのがこの独唱会であった。マルティーニ、トスティ、ジョダーニなどイタリア歌曲等を含み当夜の中心となったのがシューベルトの歌曲集 "白鳥の歌" からのセレナード・海辺にて・影法師などの 6 曲で、端正で求心的に、しかも堅固な構成感の上に淡々と表情をたたえたシューベルトは実に感動的であった。氏は木下保、ゲルハルト・ヒュッシュに師事しオペラには決して出演しないでリート系列の作品と宗教曲に限って活動した。ピアノの朝倉靖子の師はワルター・ギーゼキング、後に中山悌一夫人となった。当時のコンサートは札幌芸術協会がマネージメントし開かれたこともあってか、主催者名はこの時は釧路音楽協会となっている ( 資料 8 ) 。諏訪根自子ヴァイオリン独奏会では釧路音楽同好会。続く砂原、原、井口、辻の各演奏会ではプログラムに主催名はなく ( おそらく道内統一プロだったのではないか ) 五一年 ( 昭 26 ) F ・カサドップラノ独唱会では、僕の手許にあるポスターには音楽同好会、プログラムには音楽同好協会となっていて、安川加寿子ピアノ独奏会から以後は全て釧路音楽同好協会となっている ( 資料 9 - A ) 。従って名称こそ異なれ実質的には全て釧路音楽同好協会 ( 以下同好協会と記述 ) の輝かしい最初のコンサートとなったのである。また同好協会の創立はその準備段階も加えて四八年 ( 昭 23 ) と解して間違いなく 「 新修釧路市史第 3 巻 」 ) 昭 47 年版 ) P 276 記載部分を補足したい。

釧路音楽協会主催の音楽会 1 ( 資料 8 )
釧路音楽協会主催の音楽会 2 ( 資料 9 - A )

「 活動に携わった人たち 」

 同好協会は大別して会員と賛助会員とで構成されていたが、活動運営に携わった人たちは、先ず高後勉先生と瀬戸山雪子先生を中心に勝見義雄、黒沢史郎、小林啓一郎、大道寺博さんら釧路管弦楽団 ( 昭 11 設立 ) のメンバー、池田正 ( 放送合唱団指揮者 ) 、坂部嬉誉 ( 日進小 ) 、佐野マス ( 庁立高女 ) 、三谷キワ ( 宮城会箏曲代表 ) 、丹葉節郎 ( 公民館長 ) 、岡島正義 ( 釧路市港湾部長 ) 、野口孝二 ( 釧路支庁 ) 、石井裕二 ( 北電釧路支店 ) 、渡辺靖仁 ( 東中 ) 、金谷憙憲 ( 春採中 ) 、徳田廣 ( 南中 ) 。賛助会員からは玉真俊雄 ( 市立釧路病院長 ) 夫妻、山中幸次 ( 日赤病院長 ) 光子夫妻、丸天渡辺家具店社長夫人、瀬戸山一夫 ( 瀬戸山病院長 ) さんなどであったと思う。瀬戸山雪子先生は楽科は異なるがピアニストの井口基成氏らと東京音楽学院 ( 現東京芸大 ) の同期で、クラシック音楽の専門家。勝見義雄さんは長く小樽でサイレント映画の楽士をつとめ、トーキー映画の登場で失職した仲間に "愛染かつら" の万城目正や NHK 「 世界の音楽 」 の指揮者前田環らがいたと言う。三一年 ( 昭 6 ) に来釧して新聞販売業を営みながら釧路管弦楽団を設立。黒沢史郎さんは北海中学卒、全道青年弁論大会に出場し、議会活動の雄といわれた太田益夫、椎熊三郎らと競って 3 位入賞、またコロンビアの札幌での歌謡コンクールに出場 ( 審査委員長は高橋掬太郎ー古賀メロディの "酒は涙か溜息か" ほか "雨に咲く花" ( 井上ひろし唄 ) などの作詞者で根室出身 ) 3 位に入賞、地元新聞に "郷土歌手、黒沢史郎コロンビア入りか" と書きたてられたという。昭 6 年釧路へ来て平和軒のパンを売り "黒沢のパン" と呼ばれて人気があった。小林啓一郎さんは釧中 ( 現湖陵高校 ) の 10 期生で釧中に初めて音楽部をつくり卒業後市内にマンドリンクラブを結成し北大のグループ等と共演した。大道寺博さんは釧中 15 期、上関敏夫 ( 道新取締役 ) 、田中正己 ( 釧教大教授、釧路短大学長 ) と同期、戦時中を通して満州鉄道勤務、満鉄合唱団やハルピン交響楽団定期の音楽評などで活躍、帰国して釧路管弦楽団のチェロ奏者、市役所勤務、市開基百年事業事務局長など勤めた。野口孝二、石井裕二さん等は会計面を担当し、渡辺靖仁、金谷憙憲さんと僕は時には予定されている音楽会の事前 PR を兼ねたレコードコンサートや音楽会プログラムの解説を担当した。 「 資料 6 - C 」 は原智恵子来釧のときのもので、最前列向かって左から玉真婦人、原智恵子、小島旧海軍ドイツ駐在武官、高後先生、小島氏副官、 2 列目左から黒沢、 2 人おいて大道寺、渡辺、高後先生令嬢美智子さん、 3 列目左から勝見、玉真先生、 1 人おいて池田、徳田、玉真先生令嬢靖子さん ( 顔がかくれ見えない ) 。小島氏は終戦時海軍少将であったかと思う。ピアニストの原智恵子さんは国際的に評価されたピアニストの草分け的存在で、インターナショナルな社交の出来る方だったそうで児島氏と親交もあり、高後先生も小島氏とは知己となったこともあり、小島氏の紹介もあって原智恵子ピアノ独奏会が実現した。原さんはその後スペインのチェロの名手ガスパール・カサド夫人となった。

釧路における原智恵子ピアノリサイタル開催時の写真 ( 資料 6 - C )
最前列左から、玉真夫人、原智恵子、小島旧海軍ドイツ駐在武官、高後先生、小島氏の副官、
後列左から、黒沢、 2 人おいて、大道寺、渡辺、高後先生令嬢美智子さん、勝見、玉真先生、
1 人おいて、池田、)徳田、玉真先生令嬢靖子さん ( 顔が隠れて見えない )

「 LP によるコンサート 」

 五二年 ( 昭 27 ) 頃から LP レコード ( SP は 1 分間 78 回転だったが LP は 33 と 1/3 回転である ) が出現、プレーヤーも針も SP とは異なっている。先ずプレーヤーを購入し、ラジオの真空管に接続すると LP が聴けた。やがてスピーカーも改造されて LP 専用の再生装置 ( 今度は蓄音機とは言わない ) が喫茶店などに置かれ、市内で最初にこの装置が置かれたのは喫茶ポルカ ( 今の北大通 KOM の裏口の所 ) であった。片面約 25 分で音質も非常に良いということもあり、ポルカの石田栄一夫妻の協力を得て、会員制のディスククラブとして新スタートし ( 資料 10 - A ) 、レコードは東京のハルモニア、十字屋などから海外盤を取り寄せ、金谷憙憲さんが熱心に取り組んだ。一枚三千円程度で当時としては高価だった。五五年 ( 昭 30 ) 前後は海外からも、ウィーンフィル、イタリア歌劇団、オイストラッフ、オボーリンといった巨匠が来日した中、五四年 ( 昭 29 ) 巨匠トスカニーニが率いた NBC 響が巨匠の引退で "シンフォニー オブ ジ エアー" と改名し来日した。この時のフィルムがアメリカ文化センターにあるという情報を得た渡辺靖仁さんが早速取り寄せ、ディスククラブのコンサートの一つに加え、産業会館 ( 今の道東経済センター ) で上映した。開演初頭の重厚流麗な "君が代" 演奏は今まで聴いたことがなく驚きであり、 "ダッタン人の踊り" は強烈であった。 LP と再生装置の出現で新しい鮮明な音を求める人も次第に増え、しかもこの頃になると映画もシネマスコープのワイドスクリーンから流れ出るサウンドに魅せられ、 NHK 放送も受信機二つを適当な間隔に置いて聴くと立体音響を楽しめる立体放送を始めた。

会員制のディスククラブ新スタート ( 資料 10 - A )

 ディスククラブ会員に、学芸大の梶井、泉、勝俣先生らがいて、前回記述した村上祥一さんなど技術専門家の勝俣先生を中心に、スピーカーの改良組み合わせに執着研究を重ね、その成果や如何にと市民綜合芸術祭に、釧路 LP クラブ発起人の名で参加した ( 資料 11 - A・B ) 。当夜最も反響の大きかったのはアヅマ歌舞伎舞踊団による "お祭り囃" であった。五四年 ( 昭 29 ) 同舞踊団は世界的マネージャーのヒューロックの協力もあって戦後初めて渡米し、ニューヨークのセンチュリーホールで日本の伝統的古楽や歌舞伎舞踊音楽を公演した。三味線の名手杵屋勝東治、舞踊音楽の確立に貢献した藤舎呂船等の名演奏を Hi - Fi ( High Fidelity = 高忠実度 ) 録音したもので量感ある音質と充実した伝統音楽の名演に驚いたのだろう。一座には勝東治の令息若山富三郎も三味線演奏に、弟の勝新太郎は世話役で加わっている。このレコードは 15 世市村羽左衛門、 7 世松本幸四郎、 12 代片岡仁左衛門による歌舞伎 「 勧進帳 」 や長唄芳村伊十郎、三味線杵屋栄蔵らによる長唄 「 勧進帳 」 などと共に後世に残る名盤の一つであろう。やがて LP の普及と共に職場でもレコードコンサートが開かれ、この頃発売になったオペラ 「 夕鶴 」 は人気を集めた。新公民館 ( 資料 7 - B ) が出来てビクターの最新装置が入ると公民館での "火曜コンサート" が始まり、 2 階 ( の方が音が良い ) に座席を限って大ホールで音楽を楽しむようになり、多いときは一〇〇人以上、高校生なども聴きに来るようになった。

市民綜合芸術祭に、釧路 LP クラブ名で参加した行事資料 1 ( 資料 11 - A )
市民綜合芸術祭に、釧路 LP クラブ名で参加した行事資料 2 ( 資料 11 - B )
新設なった 「 新公民館 」 ( 右 ) と 「 旧公民館 」 ( 左 ) ( 資料 7 - A および B )
新旧公民館

「 映画と音楽 」

 四〇年代末 「 昭 28 シベリア物語 」 ( ソ連 ) で歌われたロシア民謡 "バイカル湖のほとり" の合唱は印象深かったが内容はシベリア開拓を鼓舞するものだった。戦後ショスタコービッチの 「 森の歌 」 は感動を与えながら日本各地で歌われ、多くの人々に親しまれ、 LP でもムラビンスキー指揮の名演を楽しむことも出来たが、これも結局ソ連の国策に沿ったもので今では耳にすることはない。というのも当時スターリンの独裁下で "ジュダーノフ批判" というのがあって自由主義的 ( 西ヨーロッパ的 ) 芸術活動を禁じ、音楽では特に才能豊かなショスタコービッチへの批判は強かった。スターリン亡き後彼の作曲活動は盛んとなり高い評価が世界から寄せられるようになった。
 毎年七月には約一ヶ月にわたって 「 東京の夏 」 音楽祭が催され今年は十六年目に当たり、今年のテーマは 「 映画と音楽 」 。二九年 ( 昭 4 ) 無声映画 「 新バビロン 」 のテーマはショスタコービッチが担当しており去る六日 「 新バビロン 」 のオーケストラ演奏付きで音楽祭の幕が上がったという。無声映画の時代でも音楽との結びつきは深かったのだ。少し横道にそれてしまったが、五一年 ( 昭 26 ) 「 夜明け 」 ( ソ連 ) というムソルグスキーの伝記映画は重量感があり、同年のカンヌ映画祭で大賞、五三年 ( 昭 28 ) 「 カーネギーホール 」 ( アメリカ ) も壮観であった。 「 資料 9 - B 」 は映画を観ながら撮ったもので、一回目に内容を見定め、二回目にレンズを覗見し、流れる音楽のリズムに合わせてパチリ ( 観てからでは遅い ) 。ワルターの勇姿は熱い感動を呼んだ。五四年 ( 昭 29 ) 「 大音楽会 」 ( ソ連 ) 、これは五一年 ( 昭 26 ) ボリショイ劇場創立一七五周年記念祭の作品で 「 オネーギン 」 「 イゴーリ公 」 「 白鳥の湖 」 などミハイロフ、ゴズロフスキー、レイゼンなどの名歌手、ウラノワ、レペシンスカヤなどの名バレリーナが出演し多彩。多少前後するがバレー映画では 「 赤い靴 」 ( モイラシャーラー出演 ) 、 「 ホフマン物語 」 ( 同上にトマス・ビーチャム指揮のロイヤルフィル ) 、 「 ロミオとジュリエット 」 ( プロコフィエフ曲、ウラノワ等出演 ) その他音楽映画では、戦前の作品だが 「 われらに音楽を 」 ( ハイフェッツ出演 ) 、新しいものでは 「 ファンタジア 」 ( ストコフスキー指揮とフィラデルフィア ) 。ポピュラー系では 「 グレンミラー物語 」 「 ベニーグッドマン物語 」、 「 サッチモは行く 」 ( ドキュメント風だがルイス・アームストロングが魅力たっぷり ) 。

映画から盗撮した(?)音楽家たち ( 資料 9 - B )

 一方、直接音楽に関係ないが、チャップリンの 「 ライムライト 」 、全編を流れる "テリーのテーマ" 、 「 ショーボート 」 で素晴らしいバスを聴かせたポールロブスンの "オールマンリバー" 、西部劇 「 シェーン 」 の幕切れ "シェーン カムバック" の澄んだ少年の声に "遙かなる山の呼び声" ( ビクターヤング ) が続くシーンなど。
 日本映画では劇団民芸の島崎藤村の 「 夜明け前 」 ( 主演滝沢修 = つい先日他界 ) "木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり・・・一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。"  と正調・木曽節・が歌い流れる中、名優宇野重吉の朗読が続く冒頭のシーンは、まさに音楽的で抒情的かつ劇的感動を呼んだのではなかろうか。五一年 ( 昭 26 ) 黒沢明監督の 「 羅生門 」 は国際ベネチア映画祭でグランプリ。同じ頃新藤兼人監督 「 原爆の子 」 ( 滝沢修出演 ) 、今井正監督の 「 また逢う日まで 」 ( 岡田英次・久我美子出演 ) は共にカンヌ映画祭に出品したが、前者はアメリカ批判の趣あり、後者は原作が他国 ( 前回記述の通り、ロマン・ロラン作 ) のものであることから惜しくも選に漏れた。後者の恋人同士の窓ガラス越しのキスシーンに長い廊下の白いカーテンがそよ風に揺れる浄化された愛の表現は、前記した 「 ある夜の接吻 」 とは全く異質で遙かに芸術的であった。日本映画の世界的評価が高まっていった頃である。


「 宮城道雄最後の演奏会 」

 同好協会主催のものを後に回して他のものを挙げれば、太平洋炭坑 KK 文化部や労組主催によるコンサートが春採会館 ( 臨港鉄道春採駅の向かい側の小高い丘の上にあった ) で活発に、しかも充実した内容で開かれていた。 ( 以下表を参照 )  街中から会場が遠く交通の便も悪かったので出掛ける人は少なかったであろうと思われ残念だが、一企業が文化の普及向上に努力した姿勢は尊いものであった。
 邦楽関係では表中に載せてないが、五一年 ( 昭 26 ) 「 山田流箏曲大演奏会 」 が慶風会北海道支部主催で、今井久仁子、吾孫子松鳳、小島松染らが出演し旧公会堂で催され、五四年 ( 昭 29 ) 表にあるように 「 宮城道雄琴演奏会 」 が開かれている。当夜のプログラムには "ロンドンの雨" 、 "衛兵の交代" ( 何れも昭 28 ~ 29 年の新作 ) も含まれ三谷キワさんを中心とする地元宮城会の人々も参加している。宮城道雄は五六年 ( 昭 31 ) 列車から転落し亡くなられたので釧路での最後の演奏会となった。

表1 ( 音楽同好協会の動き )

    年月日        

  48 年 ( 昭 23 )              協会設立への動きが出る
  49 年 ( 昭 24 )
      8 月 26 日  中山悌一 バリトン独唱会 於 公民館 ( 以下 (公)と略記
  50 年 ( 昭 25 )
      5 月 16 日  諏訪根自子ヴァイオリン独奏会 日進小
      6 月 28 日  砂原美智子ソプラノ独唱会   江南高
      7 月 22 日  原千恵子ピアノ独奏会     学大講堂
      9 月     井口基成ピアノ独奏会     (公)
      11 月 23 日  辻久子バイオリン独奏会    (公)
  51 年 ( 昭 26 )
      7 月 3 日  F. カサド ソプラノ独唱会   (公)
      7 月 22 日  安川加寿子ピアノ独奏会    (公)
      8 月 15 日  巌本真理ヴァイオリン独奏会  (公)
      9 月 5 日  三宅春恵ソプラノ・栗本尊子アルト・柴田睦岸陸テノール・中山悌一バス ヴォーカルコンサート  (公)
      11 月 29 日  斉田愛子アルト独唱会     (公)
  52 年 ( 昭 27 )
      3 月 22 日  田村宏ピアノ独奏会      (公)
      4 月     谷桃子バレエ団公演      釧路劇場
      5 月 14 日  浅野千鶴子ソプラノ・野辺地爪丸ピアノ ジョイントコンサート   (公)
      9 月 8 日  L. クロイツァー ピアノリサイタル (公)
  53 年 ( 昭 28 )
      5 月 18 日  巌本真理 ヴァイオリン 井口基成 ピアノ 斉藤秀雄 チェロによるトリオ演奏会  (公)
      7 月 28 日  龍谷大学合唱団演奏会     (公)
      10 月 23 日  貝谷バレエ団小品公演     (公)
  54 年 ( 昭 29 )
      4 月 17 日  辻久子ヴァイオリンリサイタル (公)
      7 月 21 日  東北学院大学合唱団演奏会   (公)
      8 月 2 日  独唱と合唱の夕べ 二期会合唱団、大熊文子 ソプラノ 畑中良輔  
      9 月 15 日  川崎静子メゾソプラノ独唱会  (公)
      9 月 24 日  北大合奏団演奏会       (公)
      10 月 21 日  高英夫シャンソンリサイタル  (公)
  55 年 ( 昭 30 )
      4 月 16 日  巌本真理・井口基成グランドコンサート  (公)
      6 月 23 日  高野耀子ピアノリサイタル   (公)
      7 月 1 日  武蔵野音楽大学演奏会     (公)
      7 月 2 日  北村維章シンフォニエッタ タンゴオーケストラ 東宝劇場
      7 月 12 日  東北学院大学グリークラブ  十条娯楽館
      7 月 23 日  辻久子ヴァイオリン演奏会   (公)
      7 月 31 日  同志社大学演奏会       (公)
      8 月 10 日  砂原美智子独唱会       (公)
      9 月 2 日  関矢幸雄・花輪敏子創作舞踏の会 ピアノ 筒井秀武  (公)
      9 月 11 日  植野豊子 ヴァイオリン 江藤礼子 ピアノ ジョイントコンサート    (公)
  56 年 ( 昭 31 )
      1 月     労音 ( 勤労者音楽協議会 ) 運動の調査始める。金谷憙憲、徳田廣、関東労音 ( 全国労音 ) と連絡を取り、 8 月、徳田上京の折
             同事務局などを訪問、実情を聞く。
      11 月 7 日  シュタフォンハーゲン ヴァイオリンリサイタル ピアノ 田中園子   (公)
      11 月 26 日  筒井秀武ピアノリサイタル   (公)
  57 年 ( 昭 32 )
      8 月 6 日  ダークダックス演奏会   (公)
      11 月 7 日  木下保』独唱会 「 冬の旅 」 全曲 日進小
            ◎瀬戸山雪子先生 釧路市文化賞受賞
  58 年 ( 昭 33 )
      この年 新公民館落成する
      7 月 28 日  小樽商大グリークラブ演奏会   (公)
      11 月 11 日  ルテンデ・ベッシュ ソプラノ独唱会 ピアノ 外山雄三   (公)
     *この演奏会を最後として釧路音楽同好協会は 「 釧路労音 」に発展的に解散する。 ( 以下 「 労音 」 については後記する )
  66 年 ( 昭 41 )
      2 月     「 釧路音楽協会 」 発足し、クラッシック音楽分野の充実と地元新人演奏家の育成を目指す。 ( 会長に高後勉氏 ⇒ 昭和 48 年まで就任 )
      5 月 7 日  同協会主催により第 1 回釧路新人演奏会   (公)
      12 月 3 日  第 1 回ジュニアコンサート   (公)
             共に現在も継続中
  67 年 ( 昭 42 )
      7 月 1 日  小林仁 ピアノリサイタル   (公)




表 2 ( レコードコンサートほか )

    年月日        

  48 年 ( 昭 23 )までは
             前述した学生を中心としたレコードコンサや藤原義江・奥田良三・平岡養一・梶原完等の演奏会が行われた。
  49 年 ( 昭 24 )
              78 回転による SP レコードと、蓄音器 ( ゼンマイ式のものと電動式=電蓄とがあった ) を使用してレコードコンサート始まる。
  50 年 ( 昭 25 )
      12 月 22 日  第 30 回記念レコードコンサートとクリスマス音楽会、釧路放送合唱団参加。メサイアなどから
  51 年 ( 昭 26 )
      8 月 30 日  第 50 回記念レコードコンサート 「 音楽話の泉 」 と音楽会、釧路新室内学団参加  (公)
             * 4 月東京交響楽団 ( 上田仁指揮 ) 帯広・十勝会館までくる。
             *モギレフスキーヴァイオリン演奏会 道新主催 於 旧市立高女
             *メニューヒン ヴァイオリン演奏会 於 札幌松竹座
  52 年 ( 昭 27 )
             A・シュバイツァー 「 ノーベル平和賞受賞 」 記念レコードコンサート。 釧路キリスト教会。
  53 年 ( 昭 28 )
      10 月     釧路ディスククラブ発足
              LP レコードによるコンサートが始まり 57 年 ( 昭 32 ) 5 月まで 87 回喫茶ポルカを会場に行う。従来までの公民館でのコンサート
             はなくなる。
      8 月     鈴木共子 ヴァイオリン・伊達純 ピアノ ジョイントコンサート  (公)
  54 年 ( 昭 29 )
      7 月 27 日  宮城道雄琴演奏会 北海道宮城会主催  (公)
      9 月 6 日  貝谷バレエ団 「 白鳥の湖 」 泰へ用探鉱文化部 春採会館
  55 年 ( 昭 30 )
      10 月 19 日  立体音楽レコードコンサート 釧路市綜合文化祭参加  (公)
      11 月 15 日  ハープとアンサンブルの夕べ
             モルナール ハープ 奥好寛 フルート 北爪規世 ヴィオラ 桑原瑛子 ソプラノ   太平洋端子主催 春採会館
             釧路管弦楽団に釧路市文化賞。
  56 年 ( 昭 31 )
      1 月 10 日  第 29 回音楽コンクール受賞者発表会。 NHK ・毎日新聞共催 広瀬悦子 ヴァイオリン 水本雄三 ピアノ 小野崎純 チェロ 
             柴玲子 ソプラノ ら出演  (公)
  57 年 ( 昭 32 )
             春のジョイントコンサート
             井上頼豊 チェロ 池本純子 ピアノ 築地利三郎 バス 太平洋炭鉱と同労組、釧路うた鵜飼共催  春採会館
      6 月     釧路ディスククラブ、レコードコンサート 会場も喫茶ニュークロンボへ移す。昭 35 年まで、 145 回を重ねる。
      12 月     ディスククラブコンサート 100 回記念に 「 勧進帳 」
            ◎ 7 月木内清治ジョルダーノ記念国際コンクールでローマ大賞
            ○東京芸大管弦楽団演奏会 北海道音楽協会主催  (公)
            ○長門美保独唱会 ピアノ 三浦洋一 全日本移動教室連名主催
  58 年 ( 昭 33 )
      9 月     映画音楽の夕べ 音楽同好協会
      10 月     木内清治帰国リサイタル ピアノ 宮原徳子 道新店 HBC 共催  (公)
      11 月 11 日  公民館火曜コンサート始まる。以後 150 回の回数を重ねる。渡辺靖仁・金谷憙憲・徳田廣が常任解説者に。
  59 年 ( 昭 34 )
      7 月 18 日  明治大学交響楽団 明大校友会釧路支部主催 (公)
      12 月 6 日  川村英司 ( バリトン ) ハイドン・シューベルト記念コンクール入賞 ( 旭川市生まれ、中 1 まで釧路市在住 )

*以上の表は、釧路音楽協会事務局長の金谷憙憲さんが同協会 20 周年に "戦後初期の活動" と題して創られたものを参考に、手元の資料等点検の上、若干の追加修正をし作製した。

 注目したいのは毎日新聞社、 NHK 主催による毎日コンクール入賞者発表会である。毎日コンクールは日本の音楽家の登竜門と言われているが、果たして入賞者とはどの程度のものなのか、こういう発表会にジカに触れると地方で学んでいる人には大変勉強になるのだ。最近は TV でも観れるが生の演奏とは異なる。こうした催しにこそ主催者側は意を配し継続してほしいと思った。
 釧路でのバレエ初公演は谷桃子バレエ団によるものであった。映画館の釧路劇場の狭い部隊で少人数ではあったが " レ・シルフィード " 一幕、 " 白鳥の湖 " 第二幕のほか " 牧神の午後 " など、舞台背景は猪熊弦一郎、演奏は高田新一指揮の東京フィル ( テープ使用 ) 。初めてのバレーを食い入るように観客は見つめていた。貝谷八百子バレー団は小品集や " 白鳥の湖 " を公演 ( 表参照 ) した。

「 演奏家・音楽会の情景 」

 同好協会主催のコンサートには当代日本の代表的演奏家が出演し、中でもピアノの園田高弘は現在も日本ピアノ界の巨匠として国際的評価の高い活動を続けている。当時の公民館でのコンサートの様子を宮村弘文さん ( 元北陽高校教諭 ) は同人誌 「 かばりあ 」 ( 一〇一号 ) に次のように回想している。


 中学二年のの頃だったと思う。木造の古い公民館で名前は忘れたが、 N 響のコンサート・マスターのリサイタルがあった。 N 響は今はほとんど全員日本人だが、当時はかなりの外国人がいた。首席奏者はほとんどそうであったし、勿論コンサート・マスターも例外ではなかった。演奏が始まって二曲目位だったと思う。バッハの無伴奏の中から、シャコンヌの演奏が正に始まろうとした時、柱時計の打つ音がした。弓をかざした瞬間だっただけに、間の抜けた、のんびりした柱時計の音はいかにも場違いであった。驚き顔の奏者も、それと知ると笑った。皆も笑った。私は何故か恥ずかしいような気持ちになった。柱時計の音が終るのを待って演奏が始まった。
 その頃の釧路では年に数回のリサイタルがあった。高後病院の先生が会長をしていた音楽協会が主催するものばかりであった。その中にピアノ・トリオの夕べがあった。巌本真理、井口基成、斉藤秀雄のトリオであった。斉藤秀雄の名前を私は知らなかった。ベートーベンの大公トリオの演奏があり、それぞれの独奏があった。開園の一時間以上も前から行って、一番前の席に座って興奮していた。前述の古い公民館である。井口基成がワルドシュタインを演奏した。一楽章の途中でピアノの弦を切ってしまった。二楽章に入る前に、ピアノの中に手をつっこんでその切った弦を引っ張っている姿を今も思い出す。それが、又一層私の興奮をつのらせた。斉藤秀雄は、ベートーベンの 3 番ソナタを演奏した。飄々とした学者タイプの感じであった。今聴けるものなら聴いてみたいリサイタルの一つであった。
 来釧する演奏会はほとんど行ったような気がするが、記憶に残るリサイタルがもう一つある。園田高弘のそれである。現在の公民館だから高校生になっていたのかもしれないシューマンの謝肉祭の演奏であった。それは何か自分にも分からないが、心をつきあげてくるような感動があった。謝肉祭を聞いたのがこれが最初だったのかもしれない。その年の暮れに園田高弘は謝肉祭の演奏で、何か大きな賞を貰った。新聞でそれを見た記憶がある。その他では、鈴木恭子のヴァイオリン・リサイタルで、ハチャトリアンなど現代曲を聴いた。巌本真理と違って、ニコニコしていて小母さん然とした人だった。

 また次のようなこともあった。井口基成の演奏会の時だったと思うが、突然会場が停電してローソクを灯し、ベートーヴェンの " 月光 " だったか " 悲愴 " だったか記憶が薄いが、一世紀前に戻ったかのような雰囲気の中で悠然とスケールの大きい演奏が続き、感銘を深めた。
 クロイツァーは世界的ピアニスト。当夜の " カンパネラ " が印象に残る。井内澄子、江藤玲子、伊達純、田中希代子、そして現役で大フィルを指揮している巨匠朝比奈隆を輩出した。安川加寿子は三七年 ( 昭 12 ) パリ国立音大卒、原智恵子と同じ R ・レヴィに師事し、少壮期をフランスに過ごし音楽性を磨き、日本のフランス派の代表的存在で、その演奏は高い品性と美しい抒情に満ちていた。池本純子、高野耀子、館野泉らの師であった。
 ヴァイオリンの諏訪根自子、巖本真理は小野アンナを師とし早くから天才少女と言われた。諏訪は天才少女と言われるのを嫌って渡仏し技を磨いた。細やかな美しい音色が魅力であった。巖本は四六年 ( 昭 21 ) 20 才で東京音大 ( 芸大 ) の教授に迎えられ官学に新風を吹き込んだ。釧路での演奏会で僕と一緒した美術の先生が容姿の美しさにスケッチを始めた。演奏会が終わって彼はサインを求めたら逆に " あら素敵だワ、スケッチされたの初めて、記念にサインいただけない? " と言ってスケッチを持ち帰ってしまった。温かくふくらみのある豊かな音色はこうした人間性を表していたのだろうか。彼女の片親はアメリカ人であったので戦争中は苦悩も多かったようだ。 " 私は日本人である " と主張し、サインは決して横文字を使わなかった ( 資料 12 - A ) 。その後、彼女の音楽は真摯さを増し、 「 巖本真理弦楽四重奏団 」 を結成し深みのある音楽を求めて活動を続けた。

巌本真理 ( 資料 12 - A )

 辻久子は父吉之助の指導を得て初め関西方面で活動していたが、音楽を全身で受けとめ、表現する演奏は情熱的、精力的で長く活動を続けた。諏訪は巖本と辻の二人のかげにいつしか姿が消えていった。植野 → 服部豊子はモギレフスキー門下、桐朋音大教授で理性と感性のバランスのとれた過度の表現のない知的な演奏家であった。圧巻だったのは斉藤、井口、巖本のトリオである。井口は戦後日本の音楽教育の改革を進め桐朋学園大学長として桐朋イズムを確立、斉藤はチェロを名手フォイアマンに学び桐朋大では指揮法とチェロを教え、自ら桐朋大オーケストラを結成し、数多くの優れた演奏家を輩出した。サイトウキネンオーケストラのメンバーがそれであることは周知の通りである。巖本もまた斉藤に学んだ。この日のプログラムは "大公トリオ" をはじめとして充分に濃い内容で構成され、忘れられないコンサートとなった ( 資料 10 - B 写真が不鮮明のため、掲載割愛させていただく ) 。  声楽の砂原美智子は日本の代表的プリマドンナ、ステージの可憐な姿の中に気強い男性的側面をうかがえる人だった。川崎静子はカルメン歌手として艶麗かつ豊かな声量、情熱的表現を支える温かい人間性はスペイン歌曲に示された。 " 私ネ健康優良児になったことがあるの、だから体力あるのヨ "  などお話好きで開放的な人だった。友人と二人で東京青山の自宅を訪ねたことがある。浅野千鶴子はフランス近代歌曲と日本歌曲に極めて美しい味わいと、しっとりと細部まで心の眼の届いた唱法が素晴らしい。伊藤京子、常森寿子の師であった。斉田愛子はトロント生まれの二世でイタリアへ留学、本場仕込みの発音発声の正確さが評価されて NBC 放送に日本人として初めて出演したアルト歌手。木下保独唱会は諏訪根自子演奏会の時と同じく日進小学校屋体館で行われた。 ( 公民館が改築中だったと思う ) 晩秋の冷たい雨のしょぼ降る中、ゴザに座ってのコンサート。喫煙場所の設置、傘を入れるバケツ等の用意など神経を使った。木下保は三四年 ( 昭 9 ) ベルリン音楽学校卒、ドイツ・リートの日本での定着は氏の功績によるところが大きく、 "冬の旅" 全曲を通して厳粛で風格ある演奏だった。ドイツ・リートは中山悌一によって引き継がれ充実していった。


「 もはや戦後ではない 」

 歌謡、ポップス系の分野では、五三年 ( 昭 28 ) NHK 連続ドラマ " 君の名は " が人気を呼び、放送時間 ( 木曜日の午後 8 時 30 分から 30 分間 ) 前後は銭湯の女湯が空っぽになるという伝説が生まれ、映画化されて岸恵子演ずるヒロイン真知子の " 真知子巻 " スタイルが流行し、翌五四年 ( 昭 29 ) 「 お富さん 」 ( 粋な黒塀見越しの松に・・・・ ) がヒット。映画 「 ローマの休日 」 で " ヘップバーン・スタイル" が流行、五五年 ( 昭 30 ) 「 この世の花 」 ( あかく咲く花青い花・・・・ ) で島倉千代子デビュー。一方でペレスプラードのマンボ、五六年 ( 昭 31 ) " ハートブレイクホテル " で E ・プレスリーが話題となり、マンボスタイル ( 股引のような細身のスラックス ) にリーゼントの髪型が流行る。加えて石原慎太郎作品に弟裕次郎が出演し、 「 狂った果実 」 、 「 太陽の季節 」 が映画化、ロックンロール、ウェスタンに続いてサングラス、アロハシャツ、外車、ヨットといった ( 湘南の金持ち族 ) 太陽族の出現、世の中は大きく変わりだした。前年比実質経済成長率 9 % 、経済企画庁は "もはや戦後ではない" と発表。五七年 ( 昭 32 ) 「 有楽町で逢いましょう 」 ( あなたを待てば雨が降る・・・・ ) フランク永井が登場すれば一方ではハリーベラフォンテの "バナナボート" 、原田康子の 「 挽歌 」、少年物で 「 赤胴鈴之助 」 ブーム。五八年 ( 昭 33 ) ロカビリー旋風、五九年 ( 昭 34 ) 「 黒い花びら 」 ( 水原弘 ) 、 「 南国土佐を後にして 」 ( ペギー葉山 ) 、そして皇太子・美智子さんの成婚、 TV の普及加速、六〇年 ( 昭 35 ) 日米安保条約改定 ( 安保闘争 ) 、うたごえ喫茶。六一年 ( 昭 36 ) 「 上を向いて歩こう 」 ( 永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九の唄 ) と続いて行く。音楽の風俗化と多様化が始まる。


「 企画にも工夫と変化 」

 こうした中で、同好協会のコンサートにも五四年 ( 昭 29 ) 頃からそれまでにない傾向と変化が出始めている。 ( 表参照 ) 今までのクラシックだけの企画にポップス系のものや大学合唱団などが入り、五六年 ( 昭 31 ) 以降はコンサートの回数が減少する。時代的な変化の影響と財政事情がはいけいにあったように考えられる。 「 資料 13 」 の二期合唱団のプログラムは曲名と広告のみで解説が省かれている。大学合唱団のギャラはプロよりは安く済む。

二期会合唱団公演 "獨唱と合唱" のプログラム

 木下保独唱会のとき、高後先生と瀬戸山先生がポスターをどうしようかと考え込んでおられたので " 美術の先生に頼んでみましょうか " と提案して早速あの巖本真理独奏会の時の先生に事情を話したら " よしッ何枚でも描くよ " との返事を頂いた。その後 " 冬の旅 " の何曲かを聴いてもらい、そのイメージをもとにポスターが出来上がった。立派なものだったので高後、瀬戸山両先生は大喜びだった。 20 枚ほどのポスターを描いてくれた美術の先生は現在帯広在住の二科会員の園田郁夫さんである。
 音楽会の企画運営には特に財政面での苦労がつきものであるが、この事を通して種々考えさせられた。会計担当の石井裕二さん等のご苦労も大きかったのではなかろうか。


「 音楽堂は是非ほしい 」

 瀬戸山一夫先生は東大医学部卒で外科が専門、二八年 ( 昭 3 ) 市立病院に赴任、三〇年 ( 昭 5 ) 開業 ( 今のキャッスルホテルの所 ) 、先生は絵画に造詣深く中央画壇の画家が来釧すると先生の所へ立ち寄ることも多かったと聞く。夫人の雪子先生の音楽活動の良き理解者でもあった。瀬戸山雪子先生は旭川出身だが東京音大卒業後札幌市立高女 ( 現東高校 ) 、札幌合唱団などで指導され、自らも声楽とピアノ研究発表会を札幌で開き、来釧すると八千代座 ( 今の丸井今井の新館裏口付近にあった ) でリサイタルを開き、洋楽に触れることの少なかった市民を驚かせ、その後声楽とピアノの指導にあたり "試演会 " ( 発表会 ) を催した。終戦間もない頃の門下生にはピアノでは河野公江、玉真靖子、高後美智子、山下玲子、舟木和子、栗林喩香子、荒谷宏らがおり、現在後進・合唱の指導に当たっている人も少なくない。雪子先生は五三年 ( 昭 28 ) 三月七日の 「 北海タイムス 」 夕刊の " 奥様談義 " というコラムで子育てと音楽活動の仕事について語りながら

" 情操教育としての音楽や絵画は絶対必要で、そのためには、釧路の音楽ファンはまだ限られているが、純音楽を大衆に溶け込ませる方法として音楽堂は是非ほしい。一年に一度くらいは無料でナマの音楽を響きの良い音楽堂で聴きたいものです "

と述べている。釧路での音楽の普及と音楽文化の向上が釧路音楽同好協会の目的であり、更にその上このような構想を抱かれていたのである。先生は芸術音楽の専門家としての立場からもこれが実現に向かうべく、地元で活動している勝見さんや三谷さんや山中幸次 ( 能楽に造詣深い ) さんや教職にある音楽の先生などを同好協会の活動役員のメンバーに加えて、高後先生とその運営を考えていたと思われる。
 新しい公民館が出来るとき先生は " 来釧する著名な演奏家に恥ずかしくないようなフルコンを是非購入して欲しい " と市議会に陳情した。その時関係者が " 新しい公民館になぜ古コンを入れるのか、中古品でなく新しいピアノを入れればいい " という笑い話が残っている。市政関係者は音楽に疎かったのだろうか。
 同好協会の打ち合わせは瀬戸山先生 ( 資料 14 - A ) のお宅で行われることが多く、打ち合わせが早く終わると "軽い合唱曲でも唄いませんか" と言って " 浦のあけくれ " などピアノ伴奏して楽しいひと時をつくってくれた。気さくで人柄の柔らかい先生だった。五七年 ( 昭 32 ) 市文化賞受賞、六三年 ( 昭 38 年 ) 離釧、九九年 ( 平 11 ・ 4 ・ 20 ) 九十歳で亡くなられた。もっと生きていてほしい先生だったと言う人が多い。

瀬戸雪子氏 ( 資料 4-A )

「 あの子らお手つきがいいね 」

 確か四九年 ( 昭 24 ) 第三回瀬戸山雪子門下生の試演会のときだったと思う。高後先生が何人かの門下生について " あの子らお手つきがいいね " 。初めその真意が解らなかったが、だから " いい音が出ている " という先生特有の言い回しであることに気づいた。そのように評された門下生から難関だった音楽大学にパスする生徒も出た。ある年の新年会の時だったと思う。 「 有楽町で逢いましょう 」 が流行ったとき何となく都会的なこの歌を聴いて " これで有楽町も変わるネ " と一言。その後有楽町から戦後の臭いが消えていった。こと短く語ることばの中に深い洞察力があふれ輝いていた。
 だが一方では 「 あの日の午前、北大通を大きなタラバガニをぶら下げて歩いて来る大柄の人がいた。 " どこのオジさんだろう " とよく見たら何と井口基成さんだった。あの人の音楽のスケールも大きいがスケールの大きい面白い人だねエ、僕はこんなに短躯で肥満体・・・・ 」 とユーモラスに語る先生でもあった。

高後勉氏 ( 資料 14 -B )

 先生は三二年 ( 昭 7 ) 北大医学部を卒業し、三三年 ( 昭 8 ) 市立釧路病院勤務、三五年 ( 昭 10 ) 内科医院を開業、その後釧路医師会会長、小中高学校医など歴任の傍ら釧路音楽同好協会会長、釧路音楽協会会長、釧路ロータリークラブ会長などを務めた。七二年 ( 昭 47 ) 音楽協会が釧路市文化奨励賞を受賞したが、実質は長年にわたる高後勉先生 ( 資料 14 - B ) の功績に対するものであろう。先生が亡くなられた年の十二月の 「 釧路医師会報 」 は先生の追悼号であるが、同好協会の実質的な運営と夫人の活動とを間近で感じとっていた瀬戸山一夫先生は " 音楽会開催の度ごとに入場料だけでは出演者の謝礼のギャラ代にも達せず、有志の寄付や会員の勧誘に方々奔走されたことが目に見えるようだ " と述べ、また栗林定四郎さん ( 三ツ輪運輸社長、のち釧商会頭も ) は "先生が天職としての医道とともに愛されたのは音楽であろう。同好協会の会長として、また音楽愛好家の長としてその敬愛を集めたのは余りにも有名である。先生はご自分では直接歌ったり演奏されたりはなさらなかったが、同好の士の集まりにあっては独断専行することなく、メンバーのための最大公約数的な適切な助言をあたえられ、つねに 「 音楽する心 」 を植え付けてくれた人である。・・・・ " と述べている。
 五九年 ( 昭 34 ) 同好協会が 「 労音 」 へ発展的解散し最初の労音例会が開かれた時、確か黒沢さんが " もう畳の上にコレ ( 何かものを突き刺すようなしぐさをして ) やられることもないでしょう " と言うと "そうだねエ、良かったねエ " と答えているのを覚えている。 ( ポップス系の質の良くないマネージャーはギャラ交渉などで脅しをかけることもある ) 先生の " 良かったねエ " には財政面での労苦 ( 口外することは殆どなかった ) からの解放と多くの会員が予想以上に参集した最初の例会の成功の喜びとが込められていたように思われてならない。先生は七八年 ( 昭 45 ) 八月の 「 検査センターだより 」 で

" 開業医は文字通り早朝より深更になるまで働き続け、運動は行わず、比較的短命で 60 歳をこえることは稀である。強制的な国民総保険の施行されている今日、医師も定年近くなったら年金恩給一時金とかの保証が国家によってなさるべきではないか。老後の保障が確立されないので身体に過重の負担をかけ、他の職業人より平均 10 年の短い寿命が開業医の宿命である。人間は年を老いたら精神的若さを保ち、肉体的には己の年齢相応に自重し、健康第一主義が必要である "

という意味のことを述べられている。
 僕も幼い頃から先生に診察してもらい、家族もまた同様であった。病人が出ると昼夜の別なく親切な往診を受けた。図らずも同好協会のお手伝いをするようになり、その活動を振り返りながら先生の文中、特に " 精神的若さを保ち・・・・ " 云々の一節にふれると、この心こそが音楽を愛好し、同好協会活動への執念にも近い情熱と尽力の支えになっていたのではないだろうか。六六年 ( 昭 41 ) 新たに釧路音楽協会を設立し、芸術音楽の充実と地元新人演奏家の育成を目指し、その将来に大きな期待を寄せられていたが、七五年 ( 昭 50 ) 十月、心不全で亡くなられた。まだ七十歳の短命であったことが口惜しい。
  " 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。・・・・しかし徳のある人の香りは風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。 " ( ブッダ " 真理のことば " 中村元訳 ) とある。
 二年後、先生の次の中沢悟郎同協会会長、金谷憙憲 ( 釧路音楽協会事務局長 ) さんらが尽力し、先生のお名前とご功績を讃え、七十三年 ( 昭 48 ) 高後先生が会長を退かれ、名誉会長になられた際のご芳志を " 高後賞 " として残すことになった。
 幾人もの若い人たちが 「 音楽する心 」 を励まされ、新しい花が開き続けている。

〈以下次号〉

Updated 18 May , 2020