釧路における音楽鑑賞活動の中で

徳田 廣

 本誌五号の巻頭言で長谷川隆次さんが書いているように 「 釧路音楽同好協会 」の活動について書くように依頼を受け、 "ええ" と引き受けたものの、同協会は釧路での音楽鑑賞活動の面での重要な一面を担ってきただけに、果たしてどこまで正確に書けるか判らないが、当時の頃にいろいろ思いを巡らせながら筆を運んでみることにする。一九四五年 ( 昭 20 ) ― ( 以下・部分を略し年号記述 ) ― は敗戦の年。以後数年の生活は 「 戦中 」 と 「 戦後 」 が混迷していた時代であったように思う。
 僕は三〇年 ( 昭 5 ) 生まれだから敗戦の時は 15 歳の中学 3 年であった。現在 80 歳前後以上の人々は、二つの世界大戦を通して、男女を問わず全て戦時下にあり、特に太平洋戦争の悲痛な体験をされた。現在 65 歳前後の人々は当時は 10 歳前後で、戦時中のことは僅かに記憶に残っているいるだろうが、それ以下になると全く希薄になっていくのであろう。そこで、戦時中の事から始めてその後の動きを書き留めておくのも必要かと考え、大きくまわり道をしてみることにした。


"勝ってくるぞと勇ましく・・・"

 の歌詞で始まる 「 露営の歌 」 は、三七年 ( 昭 12 ) の軍歌で、数多くの人達が出征し、当時小学生だった僕たちは日の丸の小旗をふりながらこの歌を唱って出征兵士を見送った。戦争の熾烈さが増してくる四一年 ( 昭 16 ) 以後になると、 「 敵は幾万 」 ( 敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆なるぞ・・・ ) ・ 「 愛国行進曲 」 ( 見よ東海の空明けて・・・ ) ・ 「 ラバウル海軍航空隊 」 ( 銀翼連ねて南の戦線・・・ ) ・ 「 轟沈 」 ( 轟沈轟沈凱歌が上がりゃ・・・ ) ・ 「 月々火水木金々 」 ・ 「 空の神兵 ( 落下傘部隊 ) 」 等々、人前で大きな声で唱えるのは殆ど軍歌であって、三一年 ( 昭 6 ) 頃の古賀メロディー 「 酒は涙か溜息か 」 、 「 影を慕いて 」 などの他、淡谷のり子らの唄うブルース調のものは姿を消されていった ( これらは戦後復活する ) 。
 当時は中学生、女学生は映画館にも許可なく入場することは出来なかった。僅かに許されたものの中に 「 無法松の一生 」 ( 稲垣浩監督 ) や 「 姿三四郎 」 ( 黒沢明監督 ) などがあったが、殆どは 「 ハワイ・マレー沖海戦 」 、 「 加藤隼戦闘隊 」 ( 共に山本嘉次郎監督 ) などの戦記ものが殆どで、スクリーンに日本帝国連合艦隊が映し出されるバックには必ず 「 軍艦マーチ 」 ( 明 33 年、海軍軍楽隊長・瀬戸口藤吉作曲。当初は海軍の儀礼用の行進曲とされていたが、太平洋戦争中は大本営発表のテーマ曲となり、戦後しばらくして連合司令部の対日政策がゆるむ頃、今度はパチンコ屋のスピーカーから景気づけに流れ出した。原曲には・守るも攻めるもくろがねの・・・ ・ と歌詞がついていたが、後に軍楽隊演奏のものに変わっていった ) が流れ、戦場で散っていった将兵に対しては日の丸が写り、 「 海ゆかば 」 ( 信時潔作曲 ) ( 海ゆかば水づく屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせじ ) で鎮魂と戦意高揚とが高められ、八紘一宇・盡忠報告・献身奉公・鬼畜米英・撃ちてし止まむ ・ ぜいたくは敵だ ・ 一億玉砕 ・ などのスローガンが叫ばれ続けた。しかし、四三年 ( 昭 18 ) 二月 ガダルカナル撤退、五月 連合艦隊司令長官 ・ 山本五十六元帥が戦死し、敗戦の色濃くなっていく頃、 「 若鷲の歌 」 ( 若い血潮の予科練の・・・ ) や 「 同期の桜 」 ( 貴様と俺とは同期の桜・・・ ) が唱われ、戦勝を信じ忠誠献身の気概のかげに、まだ童顔の残る十代後半の若者たちの苦悩と悲壮さが漂い、胸が締め付けられるような軍歌に変わっていった。
 学校では音感教育と称して日本軍の 「 零戦 」 や 「 隼 」 は勿論のこと、特に米軍機の 「 グラマン F 6 F 」 や 「 ボーイング B 29 」 などの爆音を録音したレコードで、機種や機数を判断し正しく答える訓練がなされた。戦中・戦後は、食糧増産などのため主として農閑期を除く勤労作業に動員され、殆ど学校にいることはなかったから、音楽の授業は無いに等しく、楽典も合唱も鑑賞の場も皆無に近かった。そのような音楽環境の中で育ったにもかかわらず彼等は 『 資料 1 - A 』 及び 『 資料 1 - B 』 のような音楽会や芸能発表会を創り上げて行くのである。
 資料 1 - A は旧制釧路中学校が釧路高等学校 ( 現湖陵高校 ) に、また資料 1 - B は庁立釧路高等女学校が釧路女子高等学校 ( 現江南高校 ) に、四八年 ( 昭 23 ) に新制高校へに転換したときの記念おんがっかいのプログラムである。前者には管弦楽 ( オーケストラ ) やハワイアンバンドあり、後者には先輩後輩で新しい高校への門出を祝う息づかいが聞こえ、新校歌 ( 風巻景次郎・北大教授作詞、伊福部昭作曲 ) 発表に加え、作詞者の講演会など含め四日間にわたる祝賀行事が開かれた。


釧路中学校が釧路高等学校 ( 現湖陵高等学校 ) へ変換した時の記念演奏会プログラム ( 資料 1 - A )


― 第 1 部 ―

1 開会の辞  …………  音楽部代表 高 3  千葉 一夫
 2 吹奏楽   …………         KHS ブラスバンド
 3 独唱 ハワイ民謡 アロハ・オエ … 高 3   鉄野 洋二
 4 合唱 … 浦のあけくれ マジンギ曲     中 3 E クラス
  5 軽音楽  ……………………  KHS ミュージカル・フレンド
     イ. 郭公ワルツ
          ロ. ラ・クンパルシーター
      ハ. 山の人気者
     ニ. 谷間の灯
  6 独唱  からたちの花  山田耕作作曲 高 3  多胡 省三
   7 ピアの独奏 … 嵐の曲 ヘンリー・ウエーバー  小路 新六
   8 軽音楽   …………      S.K ハワイアン・バンド
     イ. ブンガワンソロ   ジャワ民謡
        ロ. 峠の我が家     アメリカ西部民謡
  ハ. マリヒニミレ      
      ニ. アロハ・オエ    ハワイ民謡
   9 斉唱  …………              中 3 B クラス
          浜辺のうた  成田為三作曲
          のばら    シューベルト曲
  10 独唱  …………           高 3  中川 恒夫
  11 ギター独奏  …………        高 3  千葉 一夫
       スパニッシュ・フアタンゴ
         落ち葉の精  武井 守茂作曲
  12 吹奏楽  …………  行進曲 カール大帝        
             C. Lvnrath 曲  KHS ブラス店バンド

――― 休   憩 ―――

― 第 2 部 ―

   1 合唱  ……  水天のうた ドイツ民謡 高 2 E クラス
               啄木    橋木 邦彦 曲
   2 ピアの独奏  …………  エリーゼのために      
                   ベートーベン 高 1   荒谷 宏
   3 弦楽三部合奏 … 少年義勇兵 藤本 喜六編      
                     第一ヴァイオリン 戸田 英男
                     第ニヴァイオリン 山崎 鉄也
                     チェロ      小路 新六
   4 独唱 … 帰れソルレントへ ソルレント民謡       
                             中 3 田村 賢
   5 吹奏楽  ……………………      KHS ブラスバンド
             天国と地獄  オッフェンバッハ曲
   6 合唱       …………       高 2 A クラス
                      楽しき森  バルマー作曲
    7 ヴァイオリン独奏 …           高 2 戸田 英夫
                     ピアノ伴奏 小路 新六
                 トライエライ  シューマン作曲
                 セレナーデ   シューベルト曲
    8 管弦楽   …  ダニューブ河の漣  イヴァノヴィッチ曲
                            KHS オーケストラ
     9  合唱  …  菩提樹  シューベルト作曲        
             ローレライ  ジルヘル作曲  高 3 A クラス
       10 マンドリン独奏  …………         高 3  千葉 一夫
                 ギター伴奏        高 2  戸田 英夫
              七面鳥の踊り             
              スラブの子守唄 ネルダー作曲     
       11 吹奏楽  …  人形の兵隊 鈴木哲夫作曲            
                           KHS ブラスバンド
        12 閉会の辞  ……              音楽部員 佐藤 昌之



庁立釧路高等女学校が釧路女子高等学校 ( 現江南高等学校 ) へ変換した時の記念演奏会プログラム ( 資料 1 - B )


― 第 1 部 ―

     1 開会の辞  …………              伊勢 澄子
      2 舞踏  ……                  竹田 千恵子
                                 外 七名
     3 ダンス  ……   A 見てござる             
                 B 館のあけくれ        舞踏部員
     4 琴合奏  臼の声  ……              同窓生
                            三絃 横山 原代
                             琴 真廣 絹江
                               藤田 初音
                               谷口 冨士井
      5 劇    新しき門出               文芸部員
     6 独唱   A しぐれに寄す ( 佐藤春夫詩、平井保喜曲 )    
            B 野端のばら ( ウエーバ曲、近藤朔風訳 )     
                          同窓生 山下 すみ子
      7 舞踏   老松             踊り 黒江 美津子
                       三絃 同窓生 丸山 美津子
      8 劇    復活 ( 一、二幕 )            文芸部員

――― 休   憩 ―――

― 第 2 部 ―

      9 劇    復活 ( 一、二幕 )           文芸部員
     10 ダンス  円舞曲           同窓生 矢島 俊子
     11 和洋合奏   六段           同窓生在校生合同
     12 合唱   A 草競馬        釧女高 ホスター合唱団
            B 老犬トレイ                 
            C ケンタッキーの家              
     13 舞踏  秋の色草          同窓生 樋口 冨美子
     14 ダンス  A 夢うつつ              舞踏部員
            B 調子よい鍛冶屋               
            C ミュゼット                 
     15 劇   桐一葉                 文芸部員
     16 閉会の辞                   遠藤 律子



 当時、釧路では戦前から活躍していた勝見義雄さん達の釧路管弦楽団は釧路空襲で大切な楽器・楽譜が焼失し活動不能の状態で、四七年 ( 昭 22 ) 僅かに瀬戸山雪子先生の門下生の発表会、翌年には釧路放送局の PG 合唱団が活動し出す程度であったから、前述の両校の催しは戦後の新しい活動と若者達の時代への順応性を示したものであったのではなかろうか。


「 古い上衣よ さようなら 」

 戦後、映画やラジオから受けた影響は誠に大きなものがあった。
 四六年 ( 昭 21 ) 明るいメロディーでヒットしたのは並木路子が唄った 「 リンゴの歌 」 ( 赤いリンゴに唇よせて・・・ ) や、ギター片手に海外引揚者の心情を切々と唄った田端義夫の 「 かえり船 」 ( 波の背の背に・・・ ) であったが、その頃悲しげなメロディーで流行はやったのが 「 悲しき竹笛 」 ( ひとり都のたそがれに・・・ ) であった。これは 「 ある夜の接吻 」 という映画の主題歌であったが、この 「 接吻 」 という文字がなかなか読めず仲間達の話題となり、辞書を引くと 「 セップン 」 と読み、相手の唇に自分のを重ねて愛情を示すこととあった。そんな行いははしたないものとされ、思ってもみない当時だから、唇を重ねてから "吹くのかそれとも吸うのか" "いや噛むのかも知れない" とにかく映画を観て確かめることになり、その場面を待ったが、ようやく最後のシーンで、雨の中、男女の唇がじれったいほどゆっくり近づき、いよいよと思ったら前面に傘が倒れてきて 「 終 」 の字幕 ― 。映画館を出て "なあーんだこれ" と笑ったが、性への目覚めであったのかも知れない。
 四七年 ( 昭 22 ) NHK 連続放送劇 「 鐘の鳴る丘 」 の主題歌 「 とんがり帽子 」 ( 緑の丘の赤い屋根・・・ ) が月 ~ 金の夕方五時過ぎに流れ、少年達の心をとらえ、四八年 ( 昭 23 ) 笠置シズコの 「 東京ブギウギ 」 が爆発し驚嘆する。 「 異国の丘 」 ( 今日も暮れ行く異国の丘に・・・ ) が作詞・作曲者不明で NHK 素人のど自慢で流れ、やがて作詞増田幸治、作曲吉田正と判明し ( 吉田正は以後 "有楽町で逢いましょう" など数多くのヒット曲をが、彼自身もまた肉親全部を艦砲射撃で失った苦悩の人でもあったという ) 竹山逸郎が唄い、不動の曲となった。南晴夫の唄った 「 憧れのハワイ航路 」 ( れた空そよぐ風、港出船のドラの音楽し・・・ ) も、その明るさで、ハワイ・ホノルルは行けぬ遠い所と知りながらも戦争のはけ口かのように唄われた。アメリカでは日本の真珠湾攻撃に対し "リメンバー・パールハーバー" と世論が高まっていたのに。
 スポーツ界では野球の川上哲治、大下弘、水泳では古橋広之進、橋詰四郎などが活躍、翌四九年 ( 昭 24 ) 被爆と死を故永井博士の書に得た 「 長崎の鐘 」 ( こよなく晴れた青空を・・・ ) が胸を打ち、 "丘のホテルの赤い灯も" と 「 悲しき口笛 」 を唄って 12 歳の少女 "美空ひばり" が登場する。二年前、朝日新聞に連載された石坂洋次郎作の 「 青い山脈 」 が、この年に映画化され服部良一作曲の主題歌 "若く明るい歌声に・・・" ではじまり "古い上衣よさようなら" 続くこの曲は大ヒットした。
 当時の釧高・釧高女の同窓会誌などをみると、邦画の "良い映画" のトップに 「 青い山脈 」 が上がり、 「 鐘の鳴る丘 」 、 「 我が青春に悔いなし 」 、 「 手をつなぐ子等 」 、 「 銀嶺の果て 」 などと続く。洋画では 「 石の花 」 ( 天然色カラー作品 ) に驚き、 「 ガス燈 」 、 「 心の旅路 」 、 「 美女と野獣 」 、 「 我が生涯の最良の年 」 などがあげられている。
  「 青い山脈 」 という映画と歌の中に、口で言うと難しくなりがちな男女共学、自由な学園、加えて何やら 「 民主主義 」 というようなものを 「 古い上衣よさようなら、さみしい夢よさようなら・・・ 」 の部分に身体を通して感じとったのではなかろうか。
 四九年 ( 昭 24 ) という年は、国際的には中華人民共和国の誕生、国内では下山、三鷹、松川などの事件、法隆寺金堂炎上、湯川博士のノーベル賞受賞、古橋の全米水上での新記録、身近な音楽の面では、この年の九月から 「 音楽の泉 」 が堀内敬三の名解説で NHK 放送で始まり、市内では釧路音楽同好協会が動き出す。


「 学生達の新しい動き 」

 四七年 ( 昭 22 ) 市内の高校 = 釧高、釧工高、釧女高、市立高女 ( 現教大のところにあって、のち東中、学芸大の校舎となる ) の生徒達有志が文芸、演劇、音楽などを通して文化的教養を高め、交流を深めようと 「 学生文化会 」 を結成 ( 60 名以上 ) したが、田畑充 ( のち道新論説委員 ) 、大笹怜子 ( 高怜子の名で舞踊界で活躍 ) 等がおり、翌年、後藤史郎 ( 医師で在札 ) 、高橋映司 ( ロイヤル銃砲店主 ) らが 「 葦クラブ 」 を結成する。学生文化会は機関誌 「 OASIS 」 『 資料 2 』 、後者は 「 葦 」 を発行、ともに自分たちの手によるガリ版印刷であった。学生文化会ではレコード・コンサートが盛んに行われ、一年足らずでバッハからラヴェルあたりまで、時に重い作品もあったが各作曲家の代表的ポピュラーなものは殆ど聴いた。

学生文化会の機関紙 「 OASIS 」 の表紙 ( 資料 2 )

 夏には帰省する 「 在京釧路学生会 」 ( 当時は故中村隆さんが会長だった ) 人達と組んで 「 ショパンの夕べ 」 など、コルトー、ギーゼキング、ルビンシュタインなどの名盤を集めてコンサートを組み、故渡辺幸三さん ( 後述 ) と共に解説を試みた。
 葦クラブとの合同で行った歌劇 「 カルメン 」 全曲のコンサートに百人を超える多くの人達が集まった。その中に故岡島正義さん ( 指揮者の金子登と親交があり、後に釧路市の経済部長 ) が居られて、ぼうず頭の我々は "有り難う、こういう時によくやってくれたネ" と激励を受けた。
 すでに四六年 ( 昭 21 ) には庁立高女と市立高女は 「 新憲法発布記念 」 と銘打って音楽会を行っていたが、四八 ( 昭 23 ) 、学生文化会は 「 新憲法施行一周年記念 」 として、ベートーベンの 「 第九 」 をワインガルトナー指揮による名盤でコンサートを開いたが、当時はこのレコードを持っている人は皆無に近かったから非常に多くの人が集まり感動した。
 戦時中は西洋音楽は敵性のものとされ、外に音が聞こえることを恐れて自宅の押入で布団を被って聴いたという人達もいたので尚更の事であったに違いない。僕も同じように押入の中で、更に蓄音機の中に聴診器を入れてボンボンと響いてくる低音に魅了された体験があったが、まだ青二才の高校生が主催するコンサートに多くの人が集まってくれたのは、誠に感激的であった。
 何もなかった時代だったからレコードを探すのも大変だったが、北大通の 「 喫茶リリー 」 の先々代ご主人や大町の 「 村上物産 」 の取締役の村上祥一さんのお二人 ( 既に故人となられたが ) ら貴重で大切にされていたレコードをお借りして前述のようなコンサートを開くことが出来たのである。
 村上さんの自室八畳間の二面には天井まである棚にびっしりとクラシックのアルバムが整理され、置かれていたのには全く驚嘆し、多くのご好意に感謝したものである。


「 新鮮な感動の数々 」

 戦後、大きな感動と夢を与えてくれた一つに音楽映画がある。代表的だったのはシューベルトの若き時代を描いた 「 未完成交響楽 」 。一少女が、不況で失業している楽士達を奮い立たせる新鮮で感情豊かな 「 オーケストラの少女 」 。主演ディアナ・ダービンが歌うモーツアルトの 「 アレルヤ 」 、名指揮者ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団の奏するバッハの 「 トッカータとフーガ 」 、リストの 「 ハンガリー狂詩曲第二 」 は質的にも高い印象を残し、少し遅れてガーシュインの伝記を描いた 「 アメリカ交響楽 」 、オスカー・レヴァントのピアノ、ポール・ホワイトマン指揮の 「 ヘ調の協奏曲 」 や 「 ラプソディー・イン・ブルー 」 に加えてアルジョルスンの 「 スワニー 」 など新しい反響を呼び、 「 うたかたの恋 」 ( シャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリュー主演 ) に流れるウィンナワルツは、上品な官能と哀愁を漂わせていた。
 時間的には少し遅れるが、五〇年代初頭、 「 栄光への序曲 」 で少年ロベルト・ベンツィが主役でリストの 「 レ・プレリュード 」 の演奏は、当時の青少年に大きな感動を与え、近年還暦を過ぎたばかりの人の中に、今でもこの時の感動を忘れず 「 レ・プレリュード 」 を愛し続けている人もいる。 N 響の指揮者シャルル・デュトワも亦この映画を観て指揮者への道を歩み出したという。
 日本を代表する故武満徹は、この頃、道を歩いていてピアノの音が聞こえて来ると、その家の人に頼み、ピアノを拝借しながら音楽の道を求めて苦学していたことだろう。
 再び前に戻って四八年 ( 昭 23 ) 教科書の内容も変わった。高三の国語の教科書には、いきなり宮沢賢治の 「 農民芸術論 」 が飛び出し、島木健作の 「 赤蛙 」 、寺田寅彦の 「 柿の種 」 の一部もあった。 「 農民芸術論 」 は難解であり、その後賢治作品に触れる機会が多くなるが、賢治の詩・音楽・科学・哲学の広がりと深さを求める人が今日非常に増えつつあるのではなかろうか。


「 流れの変わる中で 」

 学校の図書部に籍をおいていたので、当時、次のような傾向のあることを感じていた。戦中、ラジオから流れていた徳川夢声の名調子の 「 宮本武蔵 」 ( 吉川英治作 ) と前記した映画 「 姿三四郎 」 ( 富田常雄原作 ) は、大衆小説の代表として愛読され、後者は一度に五冊ほど購入しなければならないほどの人気だったが、一方では四〇年代初頭 ( 昭 12 頃 ) 発行されていた河合栄治郎編の 「 学生叢書 」 ( 日本評論社 ) は、 「 学生と読書 」 、 「 学生と科学 」 、 「 学生と哲学 」 、 「 学生と芸術 」 など全十巻ほどからなっているが、旧制高校の学生をはじめ、学生一般の必読書とされていたものが再読され始めた。各分野の専門家、作家など誠にアカデミックな内容に満ちた記述によるものであり、他に 「 何を読むべきか 」 ( 加田哲二、慶応出版 ) では各分野にわたる名書を紹介して読書のガイドブックとして読まれていた。
 新しいものでは、湯川秀樹博士の 「 目に見えないもの 」 ― 中性子研究の重くなく分かり易い随筆風 ― や、戦争を否定して生きる道を求める青年を中心に描いたマルタン・デュガールの 「 チボー家の人々 」 はベストセラーとなり読む人も多く、後に今井正監督で映画化された 「 また逢う日まで 」 の 「 ピエールとリュース 」 の原作者、ロマン・ロラン 「 ジャン・クリストフ 」 など読まれ出した。
 当時は図書館関係でしかみられなかったアメリカの 「 ライフ 」 誌に驚き、街の書店には 「 リーダーズ・ダイジェスト 」 を求めて行列が出来ていた。
 戦争中の心の圧迫への反動、精神的生活の解放と高揚、戦争の反省、広い視野に立つ思考、強く明るい未来と平和への希求など、新憲法前文にもこれらを感じとっていた時代であったのではなかろうか。


「 芸術鑑賞活動のはじまり 」

 四六年 ( 昭 21 ) 藤原義江、三上孝子らの音楽会が市立高女講堂 ( 屋体 ) で、財団法人日本青年会館釧路市分区の主催で開かれたが、これに見える道徳高揚の言葉などはまさに今書いたような意気込みを示しているようで、音楽会のプログラムに載るのは誠に珍しい。 『 資料 3 』 。四七年 ( 昭 22 ) 奥田良三 ( 美声の名テノールで歌曲が定評 ) 、平岡養一 ( 木琴演奏では当代随一でアメリカなどで広く活躍 ) の音楽会が、四八年梶原完のピアノ、四九年福井直俊・直弘による演奏会 『 資料 4 』 が開かれるが、他方日本の伝統的芸術としては、四八年、能 「 船弁慶 」 他 ( 宝生流だったと思う ) が市立高女講堂で上演され、故岩清水尚先生に連れられて鑑賞したのを覚えている。

藤原義江一行音楽会プログラムとそれに掲載された道徳高揚のスローガン ( 資料 3 )
福井兄弟 ( 兄直俊 ピアノ、弟直弘 ヴァイオリン ) 音楽演奏会のプログラム ( 資料 4 )

 四九年には 『 資料 5 』 の通り歌舞伎の国宝的記録映画 「 勧進帳 」 が上映された。誠に名優揃いのもので歌舞伎ファンなら誰でも必見したいものだろう。 「 勧進帳 」 は忠義を鼓舞する面もあるので敗戦後の占領下では上演禁止となっていたが、四六年 ( 昭 21 ) 歌舞伎好きのホービン・パワーズという軍人が着任し、上演禁止が解除になったということもあってか故六代目菊五郎の追悼を兼ね公開されたものではあるまいか。黒沢明は四〇年 ( 昭 20 ) 「 勧進帳 」 を題材として映画化し 「 虎の尾を踏む男達 」 ( 弁慶に大河内伝次郎、富樫に藤田進などを配し ) 完成していたが公開は五二年 ( 昭 27 ) となる。
 同じ頃、人形浄瑠璃の人間国宝吉田文五郎が来釧し 「 勧進帳 」 "延年の舞" と 「 蝶々夫人 」 を演じた。文五郎の 「 勧進帳 」 は人形の弁慶が本当に生きているように見えて感動した。

国宝的記録映画 「 勧進帳 」 の特別公開 ( 資料 5 )
六代目 尾上菊五郎 扮する 源源義經 ( 資料 5 - 2 )

 映画も人形も、木製の長椅子の下が土間であった釧路劇場での上演であった。これらの催し物は、新聞社、映画会社、一部の団体などの主催で行われ、地元市民の自らの手によるものではなかった。当時 「 現代日本文化の反省 」 ( 俳句の第二芸術論 ) で話題になった桑原武夫や 「 現代日本史 」 の井上清らの文化講演会の主催もまた然りであった。
 しかし、こうした中、四八 ~ 四九年にかけてようやく地元の人の手による音楽鑑賞の活動が始まるのである。一つは 「釧路音楽同好協会 」 による中央で活躍する演奏家を招聘し "直接生演奏に触れて音楽を聴く" 活動と、もう一つはレコードを通して "古今の名曲、名演奏に触れて音楽を鑑賞する" レコードコンサートである。

― 以下次回へ ―

お断り

 上記 徳田廣氏による著作の中で、 「 資料 3 」 と 「 資料 4 」 が使われています。 「 資料 3 」 は 『 藤原義江一行音楽会 演奏曲目 ( プログラム ) 』 ( 昭和 21 年 ) のイメージ ( 写真 ) 版 であり、 「 資料 4 」 は ピアノ 福井直俊、ヴァイオリン 福井直弘 によるジョイント・コンサート ( 昭和 24 年 ) の演奏者略歴と演奏曲目を含むプログラムの原寸大のイメージ版です。前者のプログラムの中には、 「 社会道徳公用運動 」 の宣伝文が麗々しく載っており、後者では、名刺大よりほんの少し大きいプログラムが実物大の大きさで印刷されいます。著者は、この二つのイメージ版資料によって、敗戦直後の当時の世相の一端を伝えたかったのではないかと思われますが、このウェブ版では 2 つの イメージ版資料をスキャナーで取り込んで掲載しました。判読し辛いと思いますが、ご了承下さい。
Updated 24 June , 2019